路地に面した空き地の中に、子どもの姿が二、四、六。ばらばらに広がる彼らに向けて、カリアラはボールを持った両腕を振り上げた。 「よーし、行くぞー」 彼の笑顔に合わせるように、きゃあきゃあと甲高い笑いが響く。子どもたちはすぐにボールを避けられるよう体を左右に動かした。逃げる彼らは泥棒で、カリアラは兵士の役だ。当てられた者は捕らえられて空き地の隅に立たされる。下手くそな魚の兵は盗人たちに逃げられてばかりだった。まだ捕まった者はいない。 「次は当てるからなー」 「絶対当たんないよー!」 不恰好なカリアラの姿勢を見て子どもたちは大笑い。カリアラは両腕をまっすぐに上げ、耳にぴたりとつけたままでボールを高く掲げていた。足の下まで直立不動だ、うまく当てられるはずがない。だが彼は彼なりに楽しそうにぶんぶんと腕を揺らすと、力いっぱいボールを投げた。 ボールは地面に強く叩きつけられて、空き地を抜けて路地に出る。どういう運の巡り合わせか、小走りに先を急ぐペシフィロがちょうどそこを通りかかった。やや小柄な魔術師は、飛んできたボールを踏んで見事なまでにすっ転ぶ。 同情よりも驚きよりも爆笑が先に起こる。カリアラは子どもたちの笑いを背にして駆け寄った。 「ごめんな、大丈夫か?」 「いえ、平気……カリアラ君?」 ペシフィロは屈み込んだ顔に気づくと勢いよく体を起こす。カリアラの腕を取って尋ねた。 「ひとりですか、サフィギシルは!?」 息せき切る彼の様子にカリアラはびくりと固まる。戸惑いながらもゆっくりと口を動かした。 「みんなベキーの店にいるぞ。ピィスも、シラも、リドーもいる」 「ああ、それなら……」 ペシフィロはそれを聞いてほっと安堵の息をつく。焦るように早口でまくし立てた。 「緊急事態です。すぐに戻ってサフィギシルに絶対に一人で動かないよう伝えてください。あなたを刺したジェイク・フロウの偽物が意識を取り戻して、証言が噛みあわなくなったんです。フィダーが吐いた刺客の数は、偽物が言ったものよりも少なく誤魔化してあって……ああ、とにかく!」 カリアラが理解出来ていないことに気づいてペシフィロは言葉を止めた。解りやすく言い直す。 「まだ、少なくともあと一人刺客が残っているんです。偽物の話によると、サフィギシルの家の近くで、まだ張り込んでいる可能性が高い。だから決してあなたたちだけで家に帰ってはいけません。絶対に誰かを供にしていなさい」 うなずいたカリアラに向けてペシフィロは更に念を押した。 「いいですか、ひとまず今はベキーの店から動かないでください。私は技師協会に報告して、その後ですぐにそちらに向かいます。それまで、絶対にリドーの側を離れないようにと伝えてください。あなたもです。すぐにみんなと合流しなさい」 「わかった。すぐ行く」 カリアラは真面目な顔で彼の言葉を受け入れる。ペシフィロは少し安心したように表情を緩めると、立ち上がって服についた砂を払った。転がっていたボールを拾い、カリアラの手に渡す。 「では、今すぐ彼らに伝えてください。くれぐれも気をつけて」 カリアラは強くうなずく。受け取ったボールを抱えると、早足で歩き始めたペシフィロに背を向けて、遊びの終わりを告げるため子どもたちの元へと急いだ。 体の疲労も回復していたのだろうか。サフィギシルの足取りはやけに早く、残されたピィスたちの視界からは既に影すら見えなかった。 「ねえ、やっぱ追いかけた方が……」 言いかけたピィスの言葉はシラの目つきに止められた。普段あれほど激情を中へと隠すひとなのに、今日ばかりは燃えるような憤りがだだもれになっている。細い指で力を込める机の端が、砕けそうに見るほど。 あまりにも居心地の悪い空気にピィスは目をうつろわせ、道の先にカリアラの姿を見つけて救われた気分になる。彼は随分と急いだ様子でこちらに駆け寄ってきた。 「サフィは!?」 焦るような第一声がよりにもよって怒りの源だったため、シラの顔はみるみると不機嫌に歪んでいく。カリアラは思わずびくりと怯えながらも不安そうにシラに尋ねた。 「サフィ、どこに行ったんだ? なんでここにいないんだ?」 「帰ったわよ。もうここにはいたくないんですって」 「ひとりで帰ったのか!? なんでだ!?」 「知らないわ。あのひとがそうするって言ったからよ」 切り捨てるようなシラの言葉にカリアラは強く言い返す。 「なんでひとりで帰したんだ! サフィは守らなきゃだめだろ!?」 シラは鋭い目で睨みつけて反論しようと口を開く。だがカリアラの体は既に家へと向かっていた。シラは彼に飛びかかるようにしてその体を引き止める。 「どうしてそこまでするのよ! ほっときなさいよあんなやつ!」 今のシラにはサフィギシルは裏切り者のように思えた。 久しぶりに、本当に久しぶりに人に心を許したのだ。彼を仲間の一員と考えていた。その身が危険に晒されるなら助けるべきだと思っていた。だが、それはあくまでも彼自身が敵に立ち向かうならばの話だ。ひとりだけ助かろうと隠れるなんて、そんなことは許せなかった。そんな卑怯なひとではないと信じていたのに裏切られ、更にカリアラの発言で強い嫉妬が生まれていた。シラよりも、カリアラ自身よりも、何よりもまずサフィギシルを守る。その言葉がずっと胸を騒がしていた。 「行かないで。ここにいなさい!」 「だめだ、行くんだ! シラ、シラ、離してくれ。ひとりで行かせちゃだめなんだ!」 カリアラは逆らい難い彼女の指令に困ったように首を振る。何度も、何度も。だがシラは涙目で彼の体にしがみついて離れない。カリアラは顔中を困惑でいっぱいにして、悲しげにシラを見つめた。 「なんで止めるんだ!? なんでそんなことするんだ!」 「あなたこそどうしてそこまでするのよ! そんなにあのひとが大事なの!?」 「大事だ!」 迷いのない即答に、シラは殴られたような顔をする。固まっていた表情は、今にも泣いてしまいそうに赤く赤く拗ねていった。絶対に離すものかというように、カリアラの腰に回した腕を締める。 「行かせない。ちょっとぐらい怖い目に遭えばいいのよ、あんな奴」 「だめだ。だめなんだ、シラ。離してくれ。助けに行くんだ」 カリアラはシラの腕を振り払うことができず、困惑と悲しみの入り混じる顔で彼女を見つめる。何度も首を横に振った。だがシラは離さない。腕と同じく口までもぎゅうと結んで彼の体を引き止める。 カリアラは何事かを決意したように、ぐっと顔を引き締めた。まとわりつくシラの脇を両手で掴む。そのまま強く力を込めて、驚く彼女を抱き上げた。 「やだ、離して!」 「行くぞ。サフィを守るんだ」 じたばたと暴れるシラを抱きしめるように支え、カリアラは彼女の体を担ぎ上げる。 「いやよ、離して! もう!」 「ピィス、おれたちは先に行く。お前はペシフを呼んできてくれ。技師協会に行くって言ってた。おれたちだけじゃ敵を倒せないかもしれないから、すぐにペシフといっしょに来てくれ」 「え。なに、敵がいるの? どこに?」 「家の前にまだあと一匹いるんだ、サフィが危ない!」 ピィスもシラも一瞬で青ざめた。まさかまだ敵がいるとは、それもサフィギシルがひとりで向かった方向に潜んでいるとは思いもしていなかったのだ。シラは真顔になって叫ぶ。 「なんでそれを先に言わないの!」 悲鳴のような発言にカリアラは驚いて彼女を見つめる。シラはさっきの何倍も強い力で降りようと身をよじらせた。 「降ろして、私も行く! 敵がいるなら先にそれを言いなさいよ!」 カリアラは言われるがままに彼女を降ろし、一瞬ぽかんと呆けたが、すぐに我に返ったようでシラの手を引いて言う。 「そうだ、行くんだ!」 「急ぎましょう! ピィスさん、すぐに報告を!」 「わかった。すぐに連れてくから、気をつけて!」 ピィスは魔術技師協会に向かって駆け出す。カリアラとシラはサフィギシルの後を追って、それぞれが全力で走り始めた。 |
サフィギシルは両腕に食材の袋を抱え、人気のない細い道をゆっくりと歩いていた。あの場から逃げたいばかりに初めは足を早めていたが、ここまで遠くなってしまうと急ぐのも馬鹿らしい。無意味な上に溜まった疲労も体を引くので、彼はひたすらのろのろと肩を落として帰路を行く。 みんなと共に戦いたい。それは決して嘘ではない。ましてや今の事態の原因は紛れもなく自分自身だ。シラの言葉は攻撃性を持ってはいるがもっともなことばかりだった。反論できるはずがない。 せめて一人歩きが出来たなら、少しは気分が晴れるだろうか。もう敵はいないから平気だという証明になるだろうか。ちょっと外を出歩くのにも護衛がいるのは面倒で、なによりも人見知りする彼にとっては窮屈で仕方がなかった。自分のせいで、カリアラが自由に街まで行きづらいのも心苦しい。本人は心配している様子はないが、何かが起こった後では遅い。ただでさえ、一度崖から突き落とされているのだから。 そういえば、カリアラを崖から落とした犯人も捕まっているのだろうか。そう考えたあたりでふと肌に寒気を感じた。風が吹いたわけではない。鳥肌が立つような悪寒がぞくりと身を震わせた。 途端にこの一人歩きが恐ろしく感じられ、サフィギシルは周囲を見回す。何もない山道だ。木がまばらに立つ林が側にあるだけの。山の麓にあたるため、濃い緑のシダ類がちらほらと伸びている。 家はすぐ目の前だ。何も不安に思うことはないはずなのに。 サフィギシルは荷物の袋を持ち替えて、隠していた短剣に手を伸ばす。指の先が柄に触れると心臓石が大きく揺れた。緊張が瞬時に身に降りかかる。鼓動がいやに速くなる。 (……せめて、家に帰るぐらい) 何かあってもこの距離ならまだ逃げ切れるかもしれない。無理に戦わなくてもいい。なんとかしてあらがって、敵の手から逃れることさえできたなら。 (大丈夫。大丈夫だ) 刺客は全員捕まっているはずだ。怯えるあまりに考えすぎているだけだ。そう自分に言い聞かせるが、足取りはみるみるうちに速くなってすぐに駆け足となる。家まであともう少し。全力で走り抜ければ家はどんどん近くなる。もうすぐだ、問題ない。 だが玄関のドアが見えて思わず足を緩めた瞬間、視界は闇に覆われた。 「サフィ!!」 その惨状を見つけたのは先を行くカリアラだった。叫びを受けて男がこちらに目を向ける。組み伏せた足元には横たわるサフィギシル。その肩には刃物が突き立てられていた。 顔には布が被せてある。サフィギシルは何事か叫んでいるが、言葉も音も全て布に消えていた。魔術的な紋様がそのたび布に浮き上がる。 暴れる体は押さえられて抵抗の意味をなしていない。 カリアラは全力で彼らに駆け寄る。男は忌々しげに舌を打ち、肩に刺した剣を抜いて心臓めがけて振り下ろす。 「やめろ!!」 木の砕ける音がした。 サフィギシルの左胸に、深々と剣が立てられる。声は布の中に消え、全身は痙攣するが地に縫い付けられてわずかにしか動けない。カリアラは足を止めずまっすぐに敵へと向かう。不気味な笑みを浮かべた男は新しい剣を出し、カリアラに向けて構えた。 その腕がふらりと垂れる。男の目は虚ろにとろけて茫洋と宙を舞った。 「……なにをするの」 夢見る目が見つめたのも、振り向いたカリアラが見るのもまったく同じひとりの女性。風上にいたのが良かった。シラは全身から香りの毒を放っている。嗅ぎ慣れたカリアラには効果がないが敵には上手く効いたようだ。うっとりとしたまなざしで、まるで女神をみつけたように口を開いてシラを見つめる。 シラは痛む腿を押さえ、息を切らしてこちらに駆け寄る。近づけば近づくほどに毒は敵の脳へと響いた。立っていられなくなったようで、男は足を崩してしまう。そのまま地にうつぶせて知力のない笑みを浮かべた。 「サフィさん! サフィさん!!」 シラはサフィギシルの側に膝をつく。砕けた肩から煙のような魔力が外へと流れていた。刺された剣を抜こうとするが、地面にまで届いていて力を込めても外れない。闇色の布の下で痛みにあえいでいるのが解る。全身が痙攣している。はやくなんとかしなければ、はやく手当てをしなければ。 「誰が直すんだ!?」 カリアラの悲痛な叫びに息を呑む。 「サフィは誰が直すんだ!?」 冷水を浴びせられたような気がした。頭を殴られたようでもあった。 そうだ。カリアラは怪我をしてもサフィギシルに直してもらえる。シラもまた彼に修理をしてもらえる。 だが、彼の傷は一体誰が直すのだ? 気づいた途端に全身が震え始めた。サフィギシルは激痛にもがいている。いくら助けを求められても答えられる者はいない。彼を救える者はいない。 「ど、どうしよう、どうしよう……ねえ、死んじゃう」 「わかんねえ。どうすればいいんだ、どうすれば助かるんだ!?」 カリアラもシラも蒼白となっておろおろと顔を見合わせる。 愕然とするふたりの上に影がかかった。同時に見れば、目に映るのは立ち上がる敵の姿。その手には武器が構えられている。シラの毒が途絶えたことで若干意識が戻ったのだ。敵は刃物を振り上げる。動揺していたシラの毒は間に合わない。 どちらかが新たな餌食となりかけたその時。 「伏せなさい!」 鋭い叫びに動かされ、カリアラがシラの頭を押さえて伏せた。サフィギシルに覆い被さる二人の頭上を光の矢が飛んでいく。敵はそれに体を打たれて吹きとばされた。顔を上げればすぐ近くにペシフィロが立っている。呪文の言葉はなかったが、杖を突き出しているから彼が放ったのだろう。その隣にはピィスとジーナも並んでいる。転移の術で跳んできたのだ。 「“ミドリ”! あとは一人でやれるな!?」 「はい!」 ペシフィロは鋭く答えて倒れた敵へと向かっていく。地に転がる刺客は気絶しているようだった。 「サフィ!」 ピィスの声はほとんど悲鳴に近かった。すぐにこちらに駆け寄るが、それよりもジーナの方が速い。 「カリアラ、剣を抜け!」 カリアラは即座に刺された剣に取り付いた。体に深く刺さるそれを、全力を込めて抜く。外れると、拘束の取れたサフィギシルの体が何かに突き動かされるかのように、力強く跳ね上がった。 「安心しろ。すぐに楽にしてやる」 ジーナはサフィギシルに向けて呟き、どこからか黒い棒を取り出した。苦痛にもがく彼の側に膝をつき、棒を持つ手を振り上げる。 「眠れ」 酷薄な宣告の後、ジーナはためらいの見えない動きで傷に棒を突き刺した。 サフィギシルはびくりと一度大きく震え、そのまま全く動かなくなる。ピィスが小さな悲鳴を上げた。カリアラは呆然と立ち尽くし、シラはただ目を見開く。 ジーナは険しい表情で、刺していた棒と手を彼から離した。 「なにするの!」 「眠らせただけだ。どけ、邪魔だ」 ジーナはシラを突き放し、意識のないサフィギシルを抱きかかえる。 冷静な声で残る二人に指示を出した。 「ピィス、玄関を開けろ。中に運ぶ。カリアラ、手伝え」 「中に入れてどうするの、何ができるの!?」 シラは我を忘れて感情的に食いかかる。ジーナはうるさそうに眉を寄せ、ため息混じりに吐き捨てた。 「私は技師だ」 一瞬、シラも、ピィスも、カリアラもぽかんとして彼女を見つめる。 ジーナは襟に手を入れて、首から提げていたらしい細い鎖を取り出した。 その先にぶら下がるのは銀の指輪。幅広の台の上には赤色の紋様が細く彫りこまれている。 「魔術技師国家資格第一級保持。加えて……」 彼女は大きな息をつき、つまらなさそうに告げた。 「ビジス・ガートンの一番弟子だ」 |