第二話「魔術技師協会」
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 ジーナは悲しみの足取りで外に出て、家の壁に添って伸びる広くはない横庭を行く。
 足が止まったのは、またしても見慣れないものを見つけたからだ。小さな花壇が並んで三つ。そのうちの二つはきれいな丸い形をしている。だが左端の花壇は縁石ががたがたで、境界線の意味をなしていなかった。ささやかに耕された土は黒々と水を含んでいる。久方ぶりの強い日差しが表面を照らしていた。明るい光を浴びる中、緑色の小さな芽がぽつぽつと顔を出している。
(……太陽?)
 日光は封印の霧に閉ざされて届かないはずだった。見上げてみると、封印の壁にぽっかりと穴が開けられている。花壇に陽があたるよう計算してのことなのだろう、切り取られた隙間からは暖かい光が存分に差し込んでいた。
 なんて無防備な、と思う。天上の小さな穴から潜り込むような刺客がいるのかどうかは解らないが、わざわざ花壇のためだけに防壁を解いてしまうとは。不注意だ、緊張感に欠けている、と胸のうちで文句を呟いているとかすかな足音が聞こえた。
 ぎくりして目をやると、空の洗濯かごを持ったサフィギシルが立っている。驚いた表情はお互い様だっただろう。ジーナは慌ててこわばる顔を取り繕った。
「昨日の話を聞きに来た。事情聴取だ、答えろ」
 声が硬く尖るのはいつもの悪いくせだった。表情も自然とけわしく引き締められる。サフィギシルは怯えるような目をしたが、大人しくうなずいてこちらに歩み寄ってきた。一歩、また一歩。慎重な動きが緊張の糸を張りつめさせる。一歩、また一歩。心臓に悪い空気に背を向けて逃げ出したくなったその時、サフィギシルの目の色が大きく変わった。
「あ!」
 彼は途端に無邪気な子どもの顔になって花壇に駆け寄る。ジーナは思わず場所を譲ってしまった。サフィギシルは驚きと喜びの入り混じる表情で、小さな芽をじっと見つめる。
「それがどうかしたのか?」
「芽が出てる。さっき水やった時は何もなかったのに……」
 もう一度同じ質問を繰り返したい気分だったが、屈んで芽を見つめる顔があまりにも明るいので何も言えなくなってしまった。
 ふと、その場に漂う魔力に気づく。独特なそれは明らかにペシフィロのものだ。ただその場にいるだけで植物を伸ばしかねない力を持つ魔術師が、気を遣って何かしていったらしい。
「なんでこんなに早く……カリアラに教えないと。あいつ、絶対喜ぶ」
「カリアラが? ああ、そうか。そのガタガタなのはあいつのか」
 よくよく見直してみれば、歪みに歪んだ雑な花壇はカリアラの手つきを思い出させた。
「うん。こっちのが俺ので、もうひとつがシラの。カリアラが街で花の卵もらってきたから、みんなで土掘って、石置いて、わざわざ一から花壇作って植えたんだ。でも良かった。あいつ一回全滅させちゃって、今のは二回目の卵なんだ」
 あまりにもごく普通に喋るので聞き逃しそうになるが、あからさまに言葉がおかしい箇所がある。
「……卵?」
 怪訝に訊くと、サフィギシルはハッと恥ずかしそうな顔をした。
「いや、あいつがさ。カリアラが、種の意味を理解してなくて。子どもが生まれてくるんだから卵だろって、そう言うから。……カリアラカルスはオスが卵を守って、孵してやる本能があるんだって。だからあいつ子どもとか、卵とか、そういうのはしつこいぐらいに大事にするんだ。自分はもう父親にはなれないからって。だから、この植物の卵もものすごく大事にして。それで水やりはあいつの仕事になったんだ」
 初めて聞く習性だった。なるほど、カリアラが魚卵を食べられないのはそういう理由があったからか。
「でもあいつ初日から水やりすぎて、花壇が池になるぐらい大量に流したからいきなり卵が駄目になって。それでもう落ち込んで、落ち込んで。次は絶対失敗しない、今度こそ孵すんだって言うから水の量を教えたんだ。グラスに五杯。引いてやった線まで注いで全部じょうろの中に移す、って」
 食卓にあった五つのグラスを思い出す。サフィギシルはひどく優しい顔で続けた。
「そしたらあいつ、次の日から真剣な顔できっかり五杯数えるんだよ。数かぞえるの苦手なくせに、それだけは絶対に間違えないんだ。もう一滴でも間違えないぞって顔して、見てるこっちが胃が痛くなりそうなぐらいギリギリの表情で、毎日朝夕決まった時間に繰り返して。移した水がこぼれないように、慎重に、慎重に運んで、今度こそって期待をこめた顔で水やって。それを毎日繰り返すんだ。馬鹿だよな」
 喋り続けるサフィギシルの口元からは笑みが消えない。こんなにも穏やかに話す彼を見るのは初めてだった。意味のない、どうでもいい話を聞かされるのも。当たり前だ、今までは自分が彼に一方的に話すだけだったのだから。近寄るのが恐ろしくて、報告や命令ばかりを押し付けることしかできなかった。
「早く教えてやらなきゃ。あいつ、どれだけ喜ぶか」
 そう言う彼こそが誰よりも嬉しそうで、ジーナは自分の表情が弱まっていくのを感じる。
「そのためだけに封印に穴を開けたのか」
「え、うん……。少しぐらいならいいだろうし、このままだとまた枯れるから。あいつがいなくなってから水やりも何回か忘れてたし、あいつが動けない間は俺が当番だから。洗濯物は太陽がなくても時間をかければ乾くから、そっちには開けてないよ」
「全員分の洗濯をひとりでするのか」
「いや、普段はシラがやってくれてる。今日は怒らせちゃって、部屋から出てこないからさ。でも、いつもは色々と手伝ってくれるんだ。料理も少しずつ覚えてきてるし、後片付けはカリアラもやってくれる。あいついっつも食器割るから、やらないほうが助かるんだけど」
 言い訳のように続く語りに見つけたものを思い出す。台所器具の使い方を教える紙、割れた皿専用のごみ箱。ジーナは深く息をついた。ぐったりと額を押さえた。
 本当に、自分は今まで何をしてきたのだろう。一体どこを見てきたのか。
 突然にやってきた人外の生き物たちに、騙されていいように使われているのだと思っていた。生活の面倒を全て任せられ、幼い背中にたくさんのものを背負っているのだとばかり。
 そうやって決めつけて、計画や指示を一方的に押し付けようと考えていた。三人で暮らすのをやめろ。魚と人魚は協会で面倒を見る、お前の世話は私がしてやる。そう言ってことごとく反発された。今思えばあまりにも頭の悪い発言だ。そんなことをして上手くいくはずがないなど誰にでも解ることなのに。
「……馬鹿だ」
 苦言を伝えるのではなく、こちらの意見に従わせるのでもなく。
 今、彼がここでどんな暮らしをしているのか。それを見なければいけなかったのだ。
「うん、馬鹿だよな」
 呟きに答えられて驚いて目をやると、サフィギシルは小さな芽を見つめたまま穏やかに笑っている。
「冗談言っても真剣に受け取るし、何を言っても自分の中で変な風に解釈して、よく解らないことばっかりするし。自分がどれだけ痛い目に遭うか解ってるくせに、まっすぐに突っ込んで、大怪我して。それなのに目が覚めたら一番に人のこと心配してさ。自分が壊れかけてるくせに、馬鹿だよな」
 そこまで聞いて、ようやく誰のことを言っているのか理解できた。サフィギシルはしゃがみ込んで花壇を見つめたまま喋る。ジーナもその隣にしゃがんだ。目は合わない。二人とも、土の粒を頭に乗せた小さな芽を見つめている。
「……そんな馬鹿の世話は大変だろう」
 だが言葉は呆れと笑みを含んだ。冗談じみたジーナの言葉に、サフィギシルの口がゆるむ。
「もう大変も何も、毎日毎日疲れちゃって。でも……」
 物思いに沈むような沈黙の後、サフィギシルはゆっくりと語り始めた。
「最近、街の技師の人たちと話すことが増えたんだ。その人たちは猫型細工が暴れた時に戦ってくれてたらしくて、今でもまだあの猫は凄かった、強かった、大変だったってよく言うんだよ。それでその後に、猫を倒しに行ったカリアラはもっと凄かったって話になるんだ。あの時のカリアラは、強くて、迷いがなくて、格好よくてしびれたって。でもさ、その後に絶対こう続くんだ」
 続く声はわずかに震える。
「『さすがはサフィギシルの“作品”だ』って」
 サフィギシルは感情を抑えるように、大きく息を吸って吐いた。
「カリアラもそこにいるのにさ。本人を誉めないで俺のことばっかり誉めるんだ。こんな『作品』はそうそうつくれるもんじゃない、さすがビジスの力を継いだだけのことはあるって。なんか、全部俺がやったみたいな言い方で。……俺、何もしてないのに」
 視線は花壇に向いているが、見つめるものはまだ遠い。握る拳は震えていた。
「俺は猫が暴れてた時ずっとこの中にいて、外なんか見ないまま家の中に閉じこもって、あげくの果てにやられて死にそうにまでなって。何もしてないんだ。全然戦えてなかったんだ。街が大変なことになってたことだって、全部終わった後で知った。カリアラとピィスが敵と戦ってたことも知らなかったのに、それなのに、俺は街を救った英雄みたいになってるんだ」
 サフィギシルは泣きそうな声でたたみかける。
「違うだろ。だから俺、言おうとしたんだ。全部カリアラがやったんだ。凄いのはあいつなんだって」
 一度、速まる呼吸を静めるように、大きく大きく息を吸う。涙交じりの音がした。
 サフィギシルは震える口で、ゆっくりと言葉を吐いた。
「でも、そしたらあいつが。俺が言う前に、『うん。サフィはすごいんだ』って」
 強く固められた拳がますます強く握られる。
「『サフィはえらい。おれはサフィのおかげで人間になれて、群れになれてすごく嬉しい。おれはすごくしあわせだ。サフィはえらいな。すごいな』って。馬鹿みたいに、ほんと馬鹿みたいに笑うんだ。嬉しそうに笑って、俺のことを誉めるんだ」
 動揺が鎮まるのを待つ静かな沈黙。しばらく黙り込んだ後、呆れたように笑って言う。
「馬鹿だよな。ほんと、どうしようもない馬鹿だよ。まだろくに文字も読めないし、階段を下りるのも苦手だし、よく落ちるし。熱いもの食べたらしばらくは苦しむことになるし、手を洗わせたらずっと水に浸かってるし。人の暮らしにもまだまだ慣れないことが多い。だから、俺がなんとかしてやらないと」
 サフィギシルは花壇を見つめた。自らに言い聞かせるように語る。
「……もっとちゃんとした人間にしてやりたいんだ。ちゃんと、人間として生きていけるように。約束したんだ。絶対に、人間にしてやるって」
 強く握られた拳は、今度は己を制するものではない。サフィギシルはジーナを見つめる。びくりと揺れる彼女の瞳を強く見据え、はっきりと口を動かした。
「だからこの力は渡せない。敵にも、国にも、誰にも。もっと使いこなせるようになって、あいつらを人間にしてやるんだ。何年かかっても、何十年かかっても、絶対にやってみせる。だからこれは渡せないよ」
 ジーナは呆然と彼を見つめた。真剣な目がしっかりと見つめ返す。
 今の彼には揺るぎない意志がある。間違いのない一本の道筋がある。
 それは、何よりも大事なものだ。
「お前、生きたいか」
 ジーナは力ない声で尋ねる。サフィギシルは迷いもなくそれに答えた。
「うん。生きたい」


 ――いいじゃないか。殺してくれよ。

 耳の中に蘇るのは囁きかける“彼”の言葉。目の前にいる人型細工と同じ顔をしていた人間。
 君の中で死ねるのならこんなにも幸せなことはない。そう言って悲しげに笑った愚かな男だ。思い出すだけで様々な感情を揺り動かす憎らしい存在だ。このサフィギシルは、あの男と同じ姿をしている。
 だが生きたいと言うこの人型細工の表情は、あまりに強く、たくましい。
 同じ顔でも“彼”とは違う。
 あんな、脆い男とは違う。
「そうか……」
 ジーナは左手の指輪に触れた。そのまま、強く手を握りしめた。
 サフィギシルは様子のおかしいこちらを心配するように、窺うような顔をしている。
 ジーナは泣きそうな目で彼を見つめ、ひどく優しく微笑んだ。
「それなら、いい」


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