第二話「魔術技師協会」
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 冬の気配が嘘のように吹き飛んだ、日差しの強い午後だった。空気は冷たく澄んでいるが、張り切りすぎの太陽は歩く体を無情に焦がす。内外から湧く熱に苛立ちながら、ジーナはサフィギシルの家を訪れた。貧弱な一重の封印を抜け、合鍵を使って堂々と中に入る。呼び鈴すら鳴らさないのはいつも通りのことだった。少なくとも、ビジスがここにいた時にはそんなお行儀のいいことをした覚えはない。
 サフィギシルが刺客に襲われてから約半日。ジーナを始めとする技師協会の面々は協会内の処理作業に追われてろくに眠りも取れていない。彼女がこうして出向いたのも、事件に遭った当人に事情聴取をするためだった。少なくとも、協会側にはそういう風に言ってある。
 だが彼女はできる限りサフィギシルに出会わないよう気をつけて足を運んだ。庭の方に彼の背中が見えた時にはひやりとしたが、外にいるなら都合はいい。どうせ封印の中なのだ、自由に泳がせておいてその間に目的を果たしてしまおう。ジーナは作業室の中へと入り、迷いのない足取りで奥の小部屋のドアを開けた。中を見て、拍子抜けする。
「……元気そうじゃないか」
 後ろ手にドアを閉めながら言うと、カリアラはひょこりとこちらに顔を向けた。
「あ、ジーナ」
「声も出るのか。なんだ、本当に平気そうだな。もう痛みはないのか?」
「うん。サフィが直してくれたからな、もう痛くない。でもまだ動くなって言われた」
 カリアラはベッドから上半身を起こして座る。その動きにも苦しげなところはなく、傷を庇う様子も見えない。ジーナは安堵に頬を緩める。事情聴取は建前で、本当は彼の具合を見に来たのだ。
「それだけ喋ることができるのなら上等だ。なんだ、敵にやられたというからもっと死にそうなのかと……うろこもないな。証言では完全に魚の姿に戻っていたという話だが。それもサフィギシルが直したのか」
 呆れた調子で尋ねながら隅にある椅子を取り、ベッドの側に腰かける。カリアラは強く頷いた。ジーナは前置きもなく彼の服をめくり、傷口と肌を確かめる。大人しくされるがままの彼の表皮は間違いのない人のものだ。うろこどころか刺されたという傷口も見当たらない。全身を確かめるが、打撲の痕ひとつなくきれいに修復されていた。
「これを一晩で? それとも昼までかかったか」
「起きた時はな、まだ外が暗かった。でもすぐに朝になった」
「夜半から明け方か。……速いな」
 下手をすれば作業速度は晩年のビジスよりも上かもしれない。まだ若い分、休みなく行動できるからとも言える。だがジーナにはむしろサフィギシルの真剣さが作業を速めたように思えた。
 普通、人型細工をここまで一気に修理することはない。ある程度修復すれば『作品』の命は保証されるのだ。あとは無理をせず、数日かけてゆっくりと直していけばいい。大抵の技師はそうしている。
 例外を上げるとすれば、すぐにでも仕上げなければいけない事情があるか、そうしなければいられないほどその『作品』を大切に想っているか。この場合、状況からして後者としか思えなかった。
 ジーナはベッドに座るカリアラを見る。嫉妬心が目に浮かぶのを隠すことはできなかった。
「……どうしてサフィギシルを助けた? 危険なのは解っていたはずだろう」
「『どうして』?」
 カリアラは不思議そうな顔をした。眉を寄せるジーナを見つめ、当たり前のように言う。
「だって、助けなきゃだめだろ」
 ジーナはきつく口を結んだ。同じだ。この間の会話と何ひとつ変わらない。彼の目はまっすぐにこちらに差し込んでくる。疑いも歪みもない透明な動物の目。視線を合わせていられなくて、ジーナは弱く顔をそむけた。
「お前は言っていたな。あいつが敵に襲われたら守る。敵を倒す。その通りになったわけだ」
 カリアラはうなずいた。ジーナはベッドの端を見つめて語る。
「私にはお前たちが解らない。どうしてそこまでするんだ? 所詮は赤の他人じゃないか。生きてきた世界も違う、習性や常識も噛み合わないまったく別の生き物同士だ。確固とした繋がりがあるわけでもない、まだ出会って日も浅い。……それなのに、どうしてここまで」
 ピラニアと、人魚と、木人形の共同生活。そんなおかしな生き方などありえない、サフィギシルは一方的に使われているだけなのだ。そう疑いもなく思っていたのに、事実は違ったのだろうか。
 ジーナは回答を期待するわけでもなくひとりごちた。
「……お前たちは、何なんだ」
「群れだ」
 思いがけない即答に顔を上げる。カリアラは真顔で言った。
「おれたちは群れだ。おれはサフィがいないと困る。シラもサフィがいないと困る。ピィスもサフィがいないと困る。おれたちにはサフィが要る。だから守る」
 はっきりと耳を打つ迷いのない言葉たち。カリアラは落ちついた声で続けた。
「おれは、今は戦える。だから敵が来たら戦う。サフィはおれたちを直せる。シラの足が悪くなっても、おれが敵に噛みつかれても、絶対に直してくれる。だからおれたちはサフィを守る。そうすればみんな生きられる。みんながしあわせになれる。おれは、シラが笑うと嬉しい。サフィが笑うと嬉しい。ピィスが笑うと嬉しい。みんなが笑うと楽しくて、しあわせになる」
 ジーナはただ彼を見つめた。力強く流れる言葉が呆然とした胸を打つ。
 カリアラはまっすぐにこちらを見つめて言った。
「だから、守る」
 ジーナは言葉を失った。動くこともできなかった。
 簡単で、単純で、あまりにも当たり前のことだ。人の持つ御託をすべて取り払い、最後にぽつんと残ったような間違いのないひとつの理屈。どうして忘れていたのだろう。どうして気づけなかったのだろう。
 こんなにも、簡単なことなのに。
「……サフィギシルは笑うのか」
「うん。今はいっぱい笑う」
 だがジーナは彼が嬉しそうに笑うところを一度も見たことがない。見ようとしていなかった。笑わせようともしていなかった。それだけの余裕がなかったのだ。ぎこちなく触れることしかできず、穏やかに目を合わせることすらできない。そうやって、埋められない距離を抱えたまま何年も立ち尽していた。
 数えてみれば、三年にもなる。
 自分がそれだけかけても出来なかったことを、この男はたった二か月でやってのけたのだ。
「……そうか」
 呟く声はあまりにも弱かった。ただ、それだけしか言えなかった。
 彼女は力なく椅子を立ち、無意識に元の場所へと戻す。ゆるんだ目でカリアラを見下ろすが、すぐにじっと見つめられて耐え切れずに顔をそむけた。そのまま、彼の目から逃げるように部屋を出た。

 作業室の中は相変わらず散らかっていて、今にも崩れてしまいそうな本や木箱の塔が壁に添って並んでいた。小さな引き出しがたくさん並ぶ黒塗りの薬棚、乱雑に床に詰まれた工具箱や魔石の類。部屋の隅の大きな箱には作りかけの部品がまとめて放り込まれている。ビジス製ともなればどれを取っても失神するほど高価な値が付くものなのに、ビジスはいつまで経っても扱いを改めなかった。不思議なことに、どういうわけだか物をなくして困ることはなく、ビジスはいつも欲しいものの場所をぴたりと言い当ててみせた。サフィギシルにそれが出来るのだろうか。
 片付けていこうかと考えて、首を振る。余計なことはしない方がいいだろう。
 部屋を出て、居間に向かって廊下を進む。白い霧を映す窓、可動式の壁に囲まれた巨大な物置。対面には風呂場があるが、水気を厭う木製の住民たちには必要がないのだろう。そちらもなかば物置のようになっていた。何気なく中を確かめ、覗き込んだ首をかしげる。小さめのタオルが二つ、並んで壁に掛けられていた。タオル掛けはそれぞれ赤と青に塗られている。その上には、赤から青への移行を示す矢印を記した紙が貼られていた。
 触ってみて合点がいく。赤色に掛けられているのは濡れタオル、青色に掛かるのは乾いた普通のタオルだった。汚れた肌を濡れタオルで拭いた後、すぐに乾いたタオルで水分を拭き取るのだろう。食前の手洗いや顔を拭くのに使っているのだろうか。
(……別に、そこまで水を避けなくても)
 いくら木製だからと言って、こんなにも厳密に注意することはないのに。ジーナは呆れた気分で廊下に戻った。歩いていくと二階に続く階段がある。嫌というほど通い慣れたそれに目をやって、ぴたりとその場に立ち止まる。
 階段を下りきったあたりの床一面に、分厚い布が敷かれていた。四辺は鋲で細かく固定されている。茶色のそれは床とほぼ同色だが目立たないはずがない。怪訝な顔で敷かれた布の上に立ち、階段を見上げて納得がいく。
 階段には目に鮮やかな赤色の滑り止めがつけられていた。金具で厳重に固定されたそれは、カリアラや人魚が階段から落ちないように工夫されたものなのだろう。この深い毛並みの布も、下まで落ちてしまった時に衝撃を和らげてくれるはずだ。
 ジーナはやわらかくて暖かい布を蹴った。よく見てみれば、ぶつかりそうなあちこちに同じ物が据えてある。もっと目を凝らしてみれば、誰かがぶつかってしまったらしき傷跡もいくつかあった。誰かというか、心当たりはひとりしかいないのだが。
 二階から人の声がして、ぎくりと身を竦ませる。どうやらピィスとシラは上の部屋にいるようだ。ジーナはふと思い立って、居間まで進むことにした。彼女たちがいないのならば気楽に踏み込むことができる。どちらにしろサフィギシルからは話を聞かなければいけないのだ、自分にとってやりやすい環境の方がいい。
 だが居間にサフィギシルの姿はなく、台所まで歩いてみてもはちあわせることはなかった。まだ庭にいるのかもしれない。土間に下りて裏口から外に出ることにする。
 そこまでにも奇妙なものがたくさんあった。食卓には赤い線を引いたグラスが五つ並んでいる。すぐ近くの壁にはまたしても赤青二色のタオル掛け。これは口を拭くためのものだろう、カリアラは丁寧な食べ方というものを知らない。食卓の椅子の背にはそれぞれの席を示すように、名前が刻み込まれていた。台所のあちこちには器具の使い方を説明する紙が貼られている。どういうわけだか割れた皿専用のごみ箱も常備されていた。表面にいやに達者な「割れた皿の絵」が描かれているが、今は中は空っぽだ。
 ジーナは改めて部屋を見回す。この、小さな一戸建てを眺める。
 見慣れた場所のはずだった。何年も、何年も、ビジスに逢うためだけに通った家だ。この中でビジスと、ペシフィロと、そして前のサフィギシルといつも一緒に過ごしていた。何度も笑った。泣くことや怒ることもたくさんあった。成功も失敗も、喜びも悲しみも苦しみも後悔も、何もかもここで起こった。それだけ通いつめた場所だ。目をつむっていても隅々まで歩ききれる自信があった。
 だが今は、目に馴染んだ風景がいやに遠く感じられた。細かな部分だけではない。部屋の中の雰囲気自体が一変している。当たり前だ、住人ががらりと変わっているのだから。もうここにビジスはいない。前のサフィギシルもいない。通ってくる人間でさえペシフィロからピィスに変わっている。
 ここはもう自分たちの場所ではない。彼らの暮らす家なのだ。
 不思議なことに嫉妬はなかった。ただ、ひどく寂しかった。体の中から何か大切なものを取り出してしまったような気がする。想いはひどくうつろで軽い。風が吹けば飛ばされてしまいそうだ。
 帰らなければ良かったのか、と思う。たった半年離れただけで、こんなにも居所を失うとは考えてもいなかった。だが帰国を選択したのは紛れもない自分自身だ。今更どうするわけにもいかなかった。


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