空になった料理の皿が机の上に並んでいる。サフィギシルはそれらをきれいに重ねつつ、ほとんど無意識のうちにどこかに運ぼうとした。 「兄さん。家事が身に染みついてんのは解るけどさ、ここお店だから」 「あっ!?」 ピィスに言われて初めて気付き、真っ赤な顔で机に戻す。自分自身も落ち着きなく席について、誤魔化すようにそっぽを向いた。ピィスはにやにや笑いながら、恥じる彼に絡み始める。 「いやー親切なお客さんですねー。洗ってくれるの? 洗ってくれるの?」 「う、うるさいな、黙れよ。しょうがないだろ店で食うのまだ二回目なんだから」 サフィギシルは食前の反撃とばかりにからかう彼女を手仕草で追い払う。向かい側ではシラがカリアラの頬を指で拭いてあげていた。彼女はぬぐい取った茶色のソースを舐めて言う。 「なかなか美味しかったですね。ペシフィロさんたち」 「そうだな。ペシフは旨いな」 カリアラが持参した昆布は店で調理してもらったのだ。あまりに大量だったせいで食卓は昆布だらけになっていたが、それでも料理人の腕と知恵が良かったのか飽きを感じることはなかった。 「でも生のペシフが一番旨かったな」 「私は生野菜と酢であえたペシフィロさんが好きですね」 「俺は薄味で煮込んだペシフさんが良かった」 「だからもうやめようよそれー。もー」 恥ずかしそうなピィスを見て三人は楽しく笑う。ペシフィロの名は彼らの間でささやかな流行となってしまい、料理が来るたび「ペシフさんが来た」口をつけるたび「このペシフィロさん、ちょっと甘酸っぱいですね」「きっと恥ずかしがってるんだよ」などというやり取りが交わされていたのである。 「そんなに怒るなって。せっかくのタダ飯なんだし」 サフィギシルはまだ笑いの引かない顔で、むくれたピィスの肩を叩いた。 「え、お金はいらないんですか?」 「うん。つけにしておけばジーナさんが払ってくれるって。ちゃんと話も通ってたよ」 「そうですか。つけ……」 言いながらシラの目はずらりと並んだ皿を見回す。特に大食いをする者はいないが、それでも量は結構なものになっている。料理の質もなかなか良いものに思えたが。 「あの人、そんなにお金持ちなんですか?」 「さあ。でも自分から出すって言いだしたぐらいだから、そこそこにあるんじゃないの」 「きっと爺さんから愛人手当てとか出てんだよ。遺産の一部を与えますー、とか」 下世話な言葉に眉を寄せるサフィギシルに、シラが何気なく尋ねる。 「サフィさん。遺産についてちゃんと把握してますか?」 「えっ」 サフィギシルは不意をつかれてしまったように、無防備に彼女を見た。視線の先でシラの顔がみるみると不穏に変わる。 「知らないんですか? どこに、どれだけ、何があるか。大事なことでしょう」 「え、え。あれ、そういえば……全然知らない」 「おおーい! しっかりしろよー!」 ピィスが本気で声をかけても、サフィギシルは困惑して頭を抱えるだけ。シラは静かに呟いた。 「……遺産、使い込まれてませんか。あの人に」 サフィギシルとピィスは揃って恐ろしげに息を呑む。状況を理解できていないカリアラがきょとんとして彼らを見つめた。ピィスはうつむいたサフィギシルの顔を覗き込む。 「これ、すごく大事なことだぞ。ちょっと爺さんの記憶だか知識だかで調べてみろよ」 「し、調べる…………ってどうやって」 「オレが知るかよー! ったくもう。まあ、親父に訊けば解るだろ」 焦る目をした彼を見つめ、ピィスは呆れたように言う。サフィギシルはそれでもまだ不安が拭い取れないようで、青ざめたまま視線をうつろわせていた。だが、その動きは唐突に響いたノックに止められる。 「お客さま。お迎えの方がいらっしゃいました」 「あ、はい。どうぞ」 開いたドアの向こう側には、物腰のいい店員と、静かに佇むひとりの男。彼は小さく礼をして、二の腕につけた魔術技師教会の腕章をこちらに向けた。続けて、左手を掲げて中指にはまる指輪を見せる。 「魔術技師協会のジェイク・フロウです。お迎えに上がりました」 サフィギシルは渡されていた照合表を取り出して見定める。 ジェイク・フロウ。魔術技師国家資格準二級保持。資格証となる指輪の色は。 「今日は緑づいてますね」 呟くシラの言葉通り、ジェイクがしている指輪の色も、照合表に記されているのと同じく深い緑色だった。間違いなく迎えの人だと認知してサフィギシルは席を立つ。 「すみません、最初にこいつを技師協会まで送っていってもらえますか」 まだ座ったままのカリアラを示して言うと、ジェイクは深く頭を下げた。 「承知しております。行きは人手が足りなくてご迷惑をおかけしました」 「いえ、特に何もなかったみたいですし。こっちこそ忙しいときにすみません」 元々、カリアラがここに来るまでにも人をつけるはずだったのだ。だがここ数日、街のあたりで技師による騒ぎが相次いでいて、技師協会もリドーたちも急激に忙しくなっているらしい。 「じゃ、帰るか」 サフィギシルはドアを抜けて薄暗い通路に出る。店員は既に下がっているが、出口までは迷うこともないだろう。道のりに念を押すように、ジェイクが一歩前に出た。残された三人はのんびりと語らいながら後を追う。 「本当に美味しかったですね。ペシフィロさんたち」 「そうだな。ペシフは旨かったな」 「それはもういいって……」 うんざりとしたピィスの言葉に、前を行くサフィギシルでさえも小さな声を立てて笑った。 来る時は気がつかなかったが、通路は意外に長くうねっていたらしい。シラとピィスは薄暗い闇の中、足元に並ぶランプを頼りにしてのろのろと歩いていく。いくつか分かれ道もあるが、迷い込むほど複雑なものではなかった。道のりを長く感じるのは食べすぎて腹が重いからだろうか。お喋りをしながら歩く二人を置いて、男性陣は少し先を歩いている。 疲れ始めた足をかばいながら、シラがふと質問する。 「そういえば、あの指輪って階級ごとに色が違うんですか?」 「うん。ええと、確か三級が紫、準二級が緑、二級が青、一級が赤……だったはず」 「じゃあ、サフィさんが一級に合格したら、もらうのは赤色なんでしょうか」 「いや、そうじゃなくて特級の指輪になるんじゃないの? 爺さんのは黒だったから、あいつのも多分黒い指輪になると思うよ。まあ本当に合格するかどうかはわかんないけどねー。女の子を置いてさくさく歩いていくようなやつらじゃ分かんないよねー」 ピィスの足がぴたりと止まった。 「……何?」 ぼそりと口をついたのは恐ろしく不機嫌な声。シラはわけが解らずに、疑問の目を彼女に向ける。 「どうしたんですか? 何って?」 「いや、こっちの話。ごめん、ちょっと足止め……」 言いかけた口は驚きの形で凍る。ピィスは軽く背後を見やると、早口で異国の言葉を囁き始めた。誰かに話しかけているようだが暗がりに人はいない。何を言っているのか解らない。何が起こっているのかも。不審に思ったシラが口を開きかけたその時、ピィスがうつろに呟いた。 「あいつら、どこ行った?」 「え。ああ、もう見えなくなってしまいましたね。……どうしたの、大丈夫?」 こちらを向いたピィスの顔はみるみると青ざめていく。シラは心配してもう一度声を掛けようとしたが、それは聞き慣れた声に中断される。 「サフィ見なかったか?」 前方からカリアラが戻ってきたのだ。急いで走ってきたのだろう、表情にもあせりが見える。 「はぐれたんですか? この中で?」 「うん。歩くのが早くて、途中で見えなくなったんだ。色んな音と匂いがするからどこにいるのかわかんねえ。こっちにはいないのか? 出口にもいないんだ。ジェイクもいっしょにいなくなった」 「まさか」 嫌な予感に血の気が引いた。シラは仄暗い行く手を見つめる。迷うような道ではない。ごく普通に歩いていればすぐに出口に行き着くはずだ。だが、誰かが誤った方向へと導いていったとしたら? 「探そう! あいつ、危ない!」 悲鳴のようなピィスの声は既に怯えを含んでいた。カリアラが真っ先に走りだす。シラもまた追おうとして足の痛みに顔をしかめた。義足と肉の接合部分が悲鳴を上げかけている。だがそれ以上に悲痛な叫びに振り向いた。 「離せよ、なな! 行かなきゃ!」 駆け出そうとしているピィスの腕が誰かに引き止められていた。誰なのかは解らない、何なのかも解らない。ただ黒い闇の塊が彼女の手首を掴んでいる。今にも泣き出しそうな顔でピィスはシラに訴えた。 「ごめん先に行って! 早く!」 呆然と立ち止まっていた足が自然と動き出し、シラは自分の思わぬうちにその場を駆けだしていた。後ろ髪を引かれる背後でピィスが叫ぶように言う。 「オレは大丈夫だから、サフィを!」 シラは心でうなずきながら、暗い通路を走り始めた。 |
「あれ。こっちでいいの?」 気がつけば道は細くなっている。サフィギシルは歩きながら周囲を軽く見回した。定期的に並んでいた個室のドアが見当たらない。だがその代わり、進むうちに前方に粗末な扉が現れた。ジェイクは質問には答えないまま早足で先を行く。サフィギシルは不可解さを感じつつも、素直にその後に続いた。 リドーの部下によると、ここ数日の技師協会は本当に忙しいようだし、それで急いでいるのだろうか。そう思いつつ、ふと振り返るとカリアラの姿がない。シラも、ピィスも。あまりにも急ぎすぎて置いてきてしまったようだ。待たなければと考えるが、ジェイクは一足早く粗末な扉を抜けてしまう。向こう側から手招きされて、サフィギシルも慌ててそちらに駆けていった。 「……裏口? ここから出るの?」 「ええ。表通りに不審な影がありました。危険ですので、こちらから」 へえ、と答えて枠を抜ければそこは闇の中だった。今夜は月すら出ないらしい。サフィギシルは魔術で明かりを作り、自分のすぐ側に浮かべた。ぼんやりとした丸い光が二人を照らし、薄い影を長く伸ばす。 中庭の裏手なのだろうか、石塀に囲まれた中には刈り込まれた雑草が山のように積まれている。空気はやけに冷たかった。ジェイクは歩き出そうとはせず魔術の明かりを見つめて喋る。 「この店は厳重ですね。入り口でしっかりと指輪を調べられました」 サフィギシルは曖昧な相づちを打ちながら、まだ来ない三人のことを思う。ジェイクは彼らの到着を待っているのかもしれないが、違う場所から出て行くことを伝えてはいないのだから、みんなは普通の出口の方に行っているのではないだろうか。戻った方がいいかもしれない。だがジェイクは動かない。 「兵士たちも技師協会も敵の確定に忙しい。あちこちの怪しい闇を洗いざらいに探っている。国家が総力をあげてあなたを守ろうとしている――さすがは『国の護りの要』だ」 「国の、護り?」 聞き覚えのない言葉にふと疑問を投げかけるが、答えは返ってこなかった。 その代わりに向けられたのは昏い悪意を浮かべた視線。 「ですがね、どこにでも穴はあるものなんですよ」 取り出された抜き身の刃が明かりに照らされぎらりと光る。ジェイクは嘲笑うように短剣の刃先をこちらに向けた。闇の中に浮かぶ影は人殺しの顔をしている。 サフィギシルは悲鳴を上げようとした、逃げようとした、避けようとした。だが体はぴくりとも動かずどうしても逃げられない。 凍りついた視線を受けてジェイクの顔に残虐な笑みが張りつく。その不気味な笑いと鋭利な刃から目が離れない。震えすら起こらない、指先ひとつ動かせない。凶器が鋭く振り上げられる。 刺される、と思った瞬間体は横に突き飛ばされた。 サフィギシルは無防備なまま地に転がる。土に叩きつけられた頭と腕がひどく痛んだ。 罵声のような悲鳴のようなジェイクの声に顔を上げて、息が止まる。 カリアラがジェイクに覆い被さっていた。相手に飛びついたのだろうか、短剣を持つジェイクの腕は驚愕に固まっている。凶器の刃はカリアラの腹の中に沈んでいた。 カリアラは捕らえられた魚のように体をびくりと痙攣させる。見る間に肌を銀のうろこが覆っていく、本性を現していく。見開いた眼が暴れる体と共に揺れた。 悲鳴を上げたのはどちらが先だっただろうか。それぞれに意味の違う叫びの中、カリアラは刺されたまま体を仰け反らせている。ジェイクが恐怖に歪む顔で剣を抜こうと腕を引いた。だが木組みの内部に引っかかってうまく抜けない。ジェイクは罵声を浴びせながらカリアラの腹を刃で乱暴にかき回した。カリアラはますます苦痛に暴れる。 どうしても抜けないことを悟って柄を離すが不気味な体は離れなかった。 カリアラが彼の腕を握っている。逃がさないよう骨が潰れるほどに強く。 「う、うわあああ!!」 見開かれたカリアラの目に見つめられ、彼は悲鳴を上げて握られた腕を振るがカリアラは離れない、離さない。ジェイクは恐慌状態のまま、再び掴んだ剣でカリアラの身を抉る。 サフィギシルはとっさに自分の短剣を取り出した。カリアラは深まる傷に更に体を痙攣させている。傷口からは濃い魔力の塊が水のように流れていた。止めなければ助けなければあの敵を倒さなければ。だが剣を抜いた途端、磨かれた刃が明かりを受けてぎらりと光った。眩しいそれに打たれたようにサフィギシルは恐怖心に凍りつく。これを持って敵に向かって人を刺して人を殺して。全身が震え上がる。手に力が入らない、無様に剣を取り落とす。 「くそ、化け物が!」 逃れようともがくジェイクの罵倒に合わせて木の軋む音がする。魔石と刃物が不気味な不協和音を奏でる。破滅の音を立てつつもカリアラは手を離さない。見開いた目は強く敵を捉えている。 恐怖心からジェイクの動きが緩んだ瞬間、カリアラが掴んでいた彼の腕を引いた。ジェイクは不意をつかれて前のめりに倒れる。無防備に空いた隙を奪うように、カリアラはジェイクの肩に食いついた。 強い顎で噛みしめれば響くのは骨の破砕音。鮮血がどっとあふれる。ジェイクは地面をのたうちまわり激痛に悲鳴をあげる。カリアラもまた力尽きて倒れこんだ。 サフィギシルはカリアラの側に寄り、生臭い命の臭いにぎくりと足を竦ませる。 カリアラは地に伏せたまま動かない。噛みしめた口の中には人の肉。返り血を浴びて顔は赤く濡れている。見開いた目が力を失っていく。早く手当てをしなければ、すぐになんとかしなければ。 だがサフィギシルは動くことができなかった。ジェイクの悲鳴がぷつりと途絶え、暴れる気配もしなくなり、薄暗い庭の中は静寂に包まれる。サフィギシルは動けない。壊れゆくカリアラを目の前にして一歩も近寄ることができない。 「――――!!」 甲高い人外の生き物の悲鳴がして、振り向くとシラが泣きそうな顔で立ち尽くしていた。サフィギシルは呆然と彼女を見つめる。騒ぎを聞きつけた店員や客たちがやってくる気配がした。石像にでもなったように硬直してそれを迎える。シラが側を通り抜けてカリアラへと駆け寄った。血にも肉にも戸惑うことなく彼の体を抱き寄せる。 「何してるの! 早く助けて!!」 シラの叫びにびくりと体が大きく揺れた。サフィギシルは我に返ってカリアラの側に膝をつく。まだ生きている、だがすぐに手を尽くさなければどうなるかは解らない。修理の過程を探ることで思考はようやく冷静さを取り戻した。 「何があったの、どうなってるの!!」 涙をはらむシラの叫びは狂気すら感じられた。駆けつけた人間たちが次々に悲鳴をあげる。女性、男性、老人、若者。さまざまな反応が押し寄せては逃げていく。 急激に熱を帯びる場に反し、ジェイクとカリアラだけが静かに気を失っていた。 |