第二話「魔術技師協会」
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 街はそろそろ夕暮れに沈みかけている。カリアラは小さな紙を握りしめ、みるみると橙色に染まっていく街並みを歩いていた。人の数は徐々にまばらになりつつあるが、それでも海まで続く大通りにはたくさんの人間がいる。家路を急ぐ黒髪の地元民、宿屋へ戻る異国の人々。彼らの足をひとときでも引きとめようと、商人たちは声を張って品物を売り込んでいる。
 賑やかな空気は好きだ。人がたくさんいるのは大好きだ。カリアラは自然とゆるむ口元で、紙に書かれた内容をぶつぶつと繰り返す。酒、小麦粉、酒、小麦粉、酒、小麦粉……。笑顔のまま呟くのはサフィギシルに頼まれたお使いの内容だった。昼間、魔術技師協会で渡されたものだ。今日はシラもピィスも二日酔いが酷すぎて、正午からの面会は諦めることになったらしい。だがカリアラは夕方から外出許可が下りていたので、晩ご飯はみんなで外へ食べにいくことになったのだ。
 カリアラは飽きることなくお使いの文句を呟く。酒、小麦粉、酒、小麦粉。サフィギシルは買い物に行く余裕すらないようで、とりあえずこれだけでもと頼まれた。手に持つ紙にはたくさんの食材の名が記されているが、カリアラが覚えているのは既にこの二つだけ。酒、小麦粉、酒、小麦粉。
 ジーナには無闇に外出するものではないと言われたが、それでもやはり人ごみの中を歩いて行くのは至福の時だ。自分と同じ生き物がたくさんいる。それを確認するだけで、カリアラの足取りはひたすらに軽くなった。にこにこと笑いながら歩いていけば、時おり出会う知り合いは笑顔で声をかけてくれる。カリアラも笑顔でそれに答える。酒、小麦粉、酒、小麦粉。
「ああっ、カリアラ君!」
 興奮にうわずる声が進む足を引きとめた。振り向くと、そこにいるのは熱帯魚をこよなく愛する五つ子の長男ロウレン。彼は随分と遠くから手を振り上げてやってきた。
「心配したんだよー! 崖から落ちてから全然見なくなったんだもの! 怪我はもう治ったの?」
「うん、直った。大丈夫だ」
 笑顔で言うとロウレンもまたほっと安堵に頬をゆるめる。そして最近の自分たちがいかに有意義な熱帯魚生活を送っているかを矢継ぎ早に語り始めた。新しく買ってもらった図鑑にはいろんな魚が載ってるんだ。店で新しく扱い始めた小魚はカリアラ君に今度食べさせてあげるよ。最近は近海の魚にも興味があって。ヘイダラっていう魚が。赤い魚が、海の魚が、川の魚が。
 カリアラはひとつひとつ丁寧に相づちを打っていたが、ふと日がかなり暮れつつあることに気付いて話を止める。
「ごめんな、おれ、買い物しなきゃいけないんだ。サフィに頼まれたんだ」
「ああっ、ごめんよ。お使いだったのかい? 何を買っていくの?」
 カリアラは一瞬きょとんとロウレンを見て、それから困ったように首をかしげる。買う物は何だっただろう。たしか、さっきまで何度も口にしていたはずで……。
「魚だ」
「そうなの。じゃあ、あそこの魚屋さんに行くといいよ。この時間帯は安売りなんだ!」
「そうか。ありがとう」
 カリアラは何ひとつ疑問を持たずうなずいた。ロウレンは嬉しそうに笑う。
「いやいや、君のためなら協力は惜しまないよ! それじゃあまたね!」
 彼はそう言って爽やかに去っていった。カリアラは手を振って、ふと握ったままの紙に気がついて開いてみる。並ぶのは色々な物の名前らしきもの。だがカリアラにはまだ読みとることはできなかった。そういえば、忘れたら店の人に見せろと言われていたような気がする。
 でも、まあ。
「魚だ。魚、魚、魚……」
 カリアラは足の向きを変えると、教えられた魚屋に向かって歩き始める。魚、魚、魚。もう閉店間際の店先では、値を下げられた売れ残りの商品にたくさんの女の人が群がっていた。
 女の人といえば、そういえばジーナから色々と教わっていたのだった。愛人は流される。愛人は溺れている。よし、ちゃんと覚えている。これでみんなの話に混じれる。カリアラは心の中で頷きながら、更に回想を深める。四角はわがはい、球はきむすめ、つみきは上につみ上げる、鉛筆は片手でもつ、むやみやたらに歌わない、アリスの言葉は信用しない、ペシフはこぶん。
 そこまで思い出したところで魚屋の前についた。若い店員が威勢よく呼び込みをしている。
「コンブも安いよーっ! さあ買わなきゃ損!」
 カリアラは雷に打たれたように立ち止まった。驚愕に目を見開いて、店先のそれを見つめる。
 ぐったりとしなびかけた緑の海藻。ざるの上には値引きを示す赤い札がかかっている。
「ペシフ……!」
 カリアラは信じられないものを見る目で凝視する。そんな彼の姿を見て、店員や奥様方が不気味そうに一歩下がった。

    ※ ※ ※

 すぐ近くに漁港を持つためだろう、この街にはたくさんの海鮮料理店がある。サフィギシルたちが夕食を食べにやって来たのも、そんな山ほどある食べ物屋のうちのひとつだった。店の中に入り込むと、すぐに案内の女性がやってくる。目の前はまっすぐに伸びる一本の廊下になっていて、座る席やお客らしき人の姿は見えなかった。人数を尋ねられて、サフィギシルはふと背後の兵士に目をやる。護衛としてついてきたリドーの部下だ。彼は手を横に振った。
「勤務中ですので。それに、すぐに交代の人が来ます」
「あ、じゃあ帰りはその人に?」
「ええ。技師協会の方だそうですから、名前と指輪を照合してくださいとのことです」
「解りました。じゃあ、四人。ひとりは後から来ます」
 カリアラはまだ到着していない。店員は客用の笑顔で了承すると、彼らを奥へと導いた。
 天井には魚の剥製が泳ぐ形で飾られている。足元には魚の網を被せられたランプが並び、色のついたガラス越しに赤い光をもらしていた。仄暗い通路の壁は黒。同色の縦に長い奇妙な扉がぽつりぽつりと並んでいる。奥からは酔っぱらった男たちの声が聞こえた。それに絡みつくような女の声も。サフィギシルは思わずぎくりと反応する。
 だが別の部屋からは子どもの騒ぐ声がした。静かすぎる扉もあるし、若者たちが賑やかに語らう部屋もあった。時刻はまだ夜には早い。客たちの顔ぶれもさまざまらしい。
「あ、よかった。一瞬ここやばい店かと思っちゃった」
 すぐ隣でピィスが囁くように言った。力強くうなずくと、シラがぷっと小さく吹きだす。
「どういうお店を想像したんですか」
「いや、まあ、いろいろと」
「なあ」
 二人揃って口ごもっているうちに、どうやら部屋に着いたらしい。丁寧な手つきでドアを開けられ、促されるまま身を縮めて入り込んだ。中は思ったよりも広くて明るい。六角形に囲まれた壁は薄い水の色をしていた。中央には丸いテーブル。椅子は六つで人間の数より多いが、完全に自分たちだけの個室になっているようだ。
「それでは、またご注文をお窺いに参ります」
 そう言って店の人が去ると同時に、ピィスが大きく息をついた。
「あー、もう喋ってもいい? なんか静かにしとくのって苦手でさー」
「別に、騒いでいる人もたくさんいたのに。緊張しなくてもいいでしょう」
 だがそう言うシラも店員が去ったことでいくらか身を緩めている。サフィギシルも肩のあたりの緊張が少しほぐれたような気がした。露店ではなくきちんとした店で何かを食べるのにはまだあまり慣れていない。ジーナには気軽にくつろげるような安い店を、と場所を教えてもらったのだが、大衆酒場は空気があまりよろしくないのでこういう店になったらしい。
「だって愛人様御用達の店で、まっくらで、個室ばっかりと来たらさあ……」
「い、言うなよ! ほら注文。酒は呑むなよ!」
 サフィギシルは想像しかける自分を制して席に着く。にやにやと笑うピィスが隣に座った。シラは向かい側に着く。机に置かれたメニューは木の板でできていた。磨かれた表面に料理の名前が直接書き込まれている。
「カリアラさん、ちゃんとここが解るんでしょうか」
 不安そうなシラをよそに、ピィスは面白そうにメニューの裏表を確認している。
「ま、解んなかったら一旦協会に戻れって言ってあるし。大丈夫だろー」
 と彼女が言ったちょうどその時、廊下の奥から他の客が驚く声が聞こえた。
「お客さまっ! す、すみませんすみません」
「あ、ごめんな。間違えた。シラー、どこだー?」
「ご案内いたしますからっ! だから開けないでください!」
 だが店員の制止もむなしく、またしても驚く客の気配が届く。聞きなれた声と店員の謝罪はすぐ隣の部屋から聞こえる。
「……解ったみたいだな。いや、解ってないのか」
「むしろオレたちが解りすぎて泣けてくるよな」
 諦めにも似た何かをため息と共に吐き出すと、今度こそ間違いなくこの部屋のドアが開けられた。
「あ! いた!」
 カリアラは嬉しそうに三人を見つけて笑う。サフィギシルは疲れきった顔をしてぐったりとうなだれた。ピィスが呆れたように言う。
「いますともさっきから」
「そうか。もう大丈夫、見つけたぞ。ありがとう」
「どういたしましてお力になれず残念ですごゆっくり!」
 さんざん彼に引き回されたらしき店員はそう言い捨てて去っていった。営業用の笑顔すら忘れている。カリアラはわけも解らず「ゆっくりするぞー」と彼女に向かって手を振った。
「なんかもう今すぐここを去りたい気分になってきた」
「えっ、おれまだ来たばっかりだぞ。あ、そうだこれ!」
 カリアラは急いで席に近寄ると、抱えていた荷物を机に置いた。
「大変なんだ! 大変なもの見つけたんだ!!」
「なんだこれ」
 それは随分と古びた木箱だった。海水や風に何度もさらされてきたのだろう、黒々と変色した表面は既に歪みを見せている。カリアラは全員の視線が集まる中、勢いよくふたを開けた。
 現れたのは砂にまみれた生昆布。ほんのりと赤黒い緑の海藻。
「ペシフだ!」
 カリアラは間違いなく昆布を指差して言った。
 ピィスがメニューでその頭を強く叩く。カリアラは一度びくりと硬直し、キョトキョトと不思議そうに部屋中を見回した。困惑した目がようやくピィスにたどり着くと、驚いたように言う。
「なんで叩いたんだ?」
「自分の親を昆布呼ばわりされて怒らない娘がいるかー!」
「でもこれペシフなんだ! 魚屋で売られてたんだ!!」
 真剣な表情のカリアラにサフィギシルが引きつった口で訊く。
「なあ、お前どこまで本気か言ってみろ。冗談だろ? 全部冗談だって言えよ」
「どうしたんだ。顔色悪いぞ」
 冗談ではないのなら、こいつはどこまで馬鹿なのだろうと青ざめるサフィギシルをよそに、シラは優しく問いかけた。
「ペシフィロさんを魚屋さんで買ってきたんですね?」
「ペシフィロさん言うな! 違うから!」
「うん、全部買ってきた。すごく安かったんだ。すごく安かったんだ!」
「二回言うなー!」
 もう一度頭をメニューで叩かれて、カリアラはまたびくりと身を引き締める。
「違うのか? 昼はこうして店で売られてるんじゃないのか?」
「なんだその器用な設定! うちの親父は仕事にせりに大忙しか!」
「そうですよ。そんなはずがないでしょう」
 食いかかるピィスから逃がすようにカリアラの裾を引きながら、シラは静かに言い切った。
「これはペシフィロさんじゃないの。彼の髪の毛です」
「そうか。髪だったか」
「ち、違うだろ!? 親父のはもっときれいだろ!?」
「彼はこうして生活に困ったら、少しずつチョッキーン、チョッキーンと切っては売り、切っては売り……」
「こ、困ってないもん。ちゃんと生活できてるよー!」
「お前普通に女言葉になってるぞ」
 余裕のなさのあらわれか、声色すら可愛らしくなっている。混乱しつつあるようだった。
「こいつ父親大好きだから刺激しない方がいいぞ」
「べっ、別に怒ってないし。昨日のだって全部本音じゃないからな!」
「はいはい。朝起きて我に返ったら恥ずかしくなったんだよなー、酒の上でののろけ話が」
 からかうと、ピィスは真っ赤な顔をしてサフィギシルをメニューで叩く。この弱みがあるからこそ、今日の彼女は父親の話には敏感になっていた。サフィギシルはおかしそうに珍しく声を上げて笑う。
「でもな、ジーナが言ってたんだ。ペシフはこんぶだって」
「そうなの? おかしいわねぇ。きっとあの人自身が少しおかしいんですよ」
 シラの言葉は柔らかいが手厳しい。ピィスの攻撃を避けていたサフィギシルが思いついたように言う。
「コンブって……もしかして、“子分”じゃないのか?」
「こっ」
 ピィスは絶句して彼を叩く手を止めた。
「子分って、いくらなんでも……」
「あ、それだ! そっちだった!」
 嬉しそうに声を上げるカリアラを見て、ピィスの顔はみるみると引きつっていく。サフィギシルは彼女の手からメニューを取りあげながら言った。
「自分の父親が若い娘に子分呼ばわりされている現状をどう思う?」
「最悪です。そりゃ親父もジーナさんとは仲がいいけどさ……」
「お二人はどういう関係なんですか?」
 思いもしていなかった組み合わせに、シラが疑問の声をかける。ピィスは言い訳のように説明した。
「昔同じ下宿屋に住んでて、部屋が隣同士だったの。オレがこの国に来るまでは、親父はそこでお世話になってて。ジーナさんは今もまだ残ってる。子分とかは知らないけど、だから仲がいいんだよ」
「それは男と女として?」
 ずばりと来るシラの問いに、ピィスはまたしても絶句した。
「いや、だって、それは。ない……と、思う」
 苦しそうに吐き出す言葉は、続けられたカリアラの発言にかき消される。
「ジーナはペシフのこと大好きだって言ってたぞ。いっしょに遊びたいって言ってた」
 全員がぎょっとして彼を見た。カリアラはなぜか腕を組み、深くうなずきながら言う。
「ジーナはな、溺れてるんだ。しかも岩の陰なんだ。あそこは水が暴れて動けなくなるからな。死にそうなぐらいずっと溺れ続けてるんだ。大変だ」
「いやそれは意味わかんない」
「もはや何の話かも解らない」
 切り捨てられて落ち込んだカリアラをシラが優しく抱きしめる。サフィギシルは結論を出すように言った。
「じゃあ、ジーナさんとペシフさんの関係には疑惑が残るってことで」
「残らない! そんな関係じゃないもん絶対」
「だってペシフさん、今朝ジーナさんのこと心配して訊いてきたし。解らないぞ結構」
「なんだよお前、単に爺さんとジーナさんの関係をなしにしたいだけだろ」
 そう言われてサフィギシルはぎくりと身をこわばらせた。図星だが焦点はビジスではない。ジーナと“前の”サフィギシルとの関係を勘違いにしたいから、こうして煽っているのだった。サフィギシルは気まずげに口をつぐむ。誤魔化すように、取りあげたメニューを机に戻した。
「まあ、いろんな疑惑があるってことで」
「でも、そうだとしたら、あの人って……何事ですか」
 呆れたようなシラの言葉に、カリアラ以外の全員は気まずい視線を交し合う。ビジスとの愛人疑惑、ペシフィロとの関係についての問題、そしてサフィギシルだけが胸に抱える“前の”に関する指輪の話。
「……まあ、大人の世界は未知の空間ってことで。とりあえず注文しよう」
 諦めたサフィギシルの発言に、シラもピィスもゆっくりとうなずいた。そして何を食べようか、とそれぞれに目を走らせる。カリアラだけが「だからな、岩の陰なんだ」といつまでも繰り返していたが、それを聞いてあげるのはもはやシラしかいなかった。


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