ピィスとシラに酒を与えるべきではない。そう実感したのは昨夜遅くのことだった。 サフィギシルは思い出すと重く痛む頭を押さえる。まだ夜の浅いうちは良かった。さすがに飲酒も二日目になるのだから、とピィス共々呑みたがるシラをなだめていたのだ。だがそれなのに、夜がふけていけばいくほどピィスもまた酔っぱらいへと成り下がる。結局サフィギシルは泥酔した二人の面倒を見るはめになった。 それでもまだ二人で勝手に盛り上がってくれるだけましではある。酔いのままに絡んでくるシラの相手をひとりでするのは、精神的にも肉体的にも色々とつらいのだ。 (今も十分つらいけど) 体が重くて階段を上るだけでも大変だった。何か、ぬめり気のある液体が体の中を満たしているような気がする。それでも眠る二人を置いて、この部屋にやってきた。 前のサフィギシルの私室。主のいない質素な部屋は、薄白い魔術の光に照らされている。時刻としては昼に近いが、日の光は封印の霧にさえぎられて届かなかった。サフィギシルはいつものように部屋の真ん中に座る。何も敷いていない床はほこりでざらついていた。 (今度、掃除しとこう。あの本も片付けて、机の上のほこりも拭いて……) ほんの少し低い位置からぼんやりとあたりを見回す。閉じられたままの窓、布団を片付けられたベッド。壁に添った棚だけでは収納しきれず、床にまで置かれた本たち。大きな作業机には部品の見本がいくつか並んでいるだけで、ほこり色の広い空き地を見せている。いつも通り変わり映えのしない景色だ。多分、前のサフィギシルが失踪した日からずっと。 サフィギシルは正面の窓を見つめる。いつからか、考え事をする時はこの部屋に来るようになっていた。自分には足りないものがここにはあるような気がして、目に見えない探し物を求める時は、自然と足が向かうのだ。今日彼が求めているのはたったひとつの答えだった。 (……何なんだろうな、俺たちって) 昨日ジーナに問われたことだ。毎日の掃除、洗濯、料理から細かな修理や面倒まで見る。知識の足りないカリアラにはいろんなことを、シラには人間の生活に必要なことを、ひとつずつ教えてやる。そうしてずっと世話を焼いて暮らしているのか。おかしいとは思わないのか。そう、叱られるように言われた。 ――お前たちは何なんだ。そう訊かれても、答えることができなかった。 まだ出会って数ヶ月しか経っていない人外の生き物たちと、三人で暮らしている。 異常だと言われた。ありえない話だとも。確かに考えてみればおかしな状況だと思う。 だが、飼っているのか、とか、まだ子どものお前にちゃんと育てられるのか、などと言われるのは不本意だった。動物を飼育する気分でカリアラたちに接しているつもりはない。技師として作品の世話をしているのとも違う。 暮らしているのだ。三人で、一緒に。 (仲間か。それとも……家族か) だがその言葉はうまく馴染まず、落ち着かないような気がした。 自分たちは家族と言えるのだろうか。そうピィスに尋ねたのは昨夜のことだ。一足先にシラが眠り、その介抱をしている時につい口が滑ったのだ。ピィスは酔いに赤らむ顔で、そのまま話を促した。 ジーナの問いに答えることができなかった。繋がりのない自分たちは、家族と言えるものなのだろうか。静かな夜の空気に押されてぽつぽつと呟けば、彼女は黙って聞いてくれる。 そして、すべての話が終わるとおもむろに口を開いた。 「あのさあ。オレと親父もホントは他人なんだよね」 驚いて顔を上げるが目は合わない。ピィスは酒の入ったグラスを見つめて喋る。 「母さんのお兄さん……まあ要するに伯父さんだけど。オレ、今はその人の養女なんだ。だから親父は親権持ってなくて、書類上はただの他人で。血は繋がってるらしいけど、その証拠や証明だって、絶対に確実なものじゃないんだって」 「じゃあ、本当かどうかって……」 「一応、ほとんど間違いないらしいけどね。親父は変色者で、ありえない緑色してるだろ。オレも目と魔力の形に遺伝があるからって、それだけが証明なんだ。他には顔もあんまり似てないし、背が低いとかそういうのでしか繋がりなんて確認できない。でも一緒に暮らしてて、オレたちは間違いなく家族なんだって思ってる」 普通ならばありえない緑の瞳が伏せられる。ピィスは少しもつれる舌で、呟くように語り始めた。 「親父はさ、本当はオレがいない方が幸せなんだろうなって思う。母方のこわーい婆ちゃんを説得してさ、なんとかオレと一緒にこの国で暮らしてもいいってお許しもらって。でもさ、オレを育てている限り結婚しちゃいけないし、本気の恋人も作っちゃいけないんだって。作ってもいいけど、その時は、オレは婆ちゃんちか伯父さんちに戻されるんだ。……そんなのさあ、ひどいよな。時々監視までつくし。親父さ、ただでさえオレを引き取るために婚約解消までしてて。オレすごい邪魔者じゃねーか。だからさ、親父はこれでいいのかって前にいっぺん聞いたんだ。そしたらさ」 ピィスは酔いの回る口で父の物真似をする。 「『もしいつか、あなたよりも大切にしたい人ができた時は、ちゃんと説明して、不自由も苦労もないように手を尽くします。そうしてお互い納得の行く状態になってから、別々に暮らしましょう』だって」 絶句するサフィギシルを見て彼女はいやに明るく笑った。 「すっげえよな。娘と女を天秤にかけて、重い方を取るんだって堂々と言いやがんの。じゃあオレあんたに女が出来たら捨てられるのかって、そんな感じのこと言ったら……それはそれであの馬鹿親父さあ。『あなたよりも大事に思える人なんて出てきませんよ』とか抜かして。なんっかもう…………なあ」 よそを向いてしまった顔がみるみる赤くなったのは、酒のせいではないだろう。 「のろけ話かよ」 「そうだよー。酔っぱらってのろけてんだよー。うらやましーかー」 ピィスはくたりと体を伏せて、照れ隠しのように笑う。 「だからオレ今のところ一位だけど、その座を誰にも渡さないよう頑張らなきゃなって思う。他の女になんか譲ってたまるかって。いつまでも娘一番でいさせてやるんだっつって。……だから親父に捨てられない限りはずっと家族。オレたちはそう思ってる」 「それは一緒に暮らしてるから? それとも、お互いに、なんかこう……大事に思ってるとか、そういうことから?」 「言わせんなよ恥ずかしい」 口をとがらせて言う彼女はそれでも確かに幸せそうで、羨ましく思うのと同時にひがみも湧いた。 「でも、俺、ジーナさんにはそんな風に思われてない気がする」 疑問を浮かべたピィスに向かって胸のうちの濁りを吐く。 「『まだ子どもなのに二人を養うのは無理だ。だからお前の世話は私が見てやる』って言われた。嫌だって言ったら怒られた」 「あー、そりゃまあ好意で言ったんだろうしなー」 「好意じゃない。ただ気に食わないだけだろ」 その他にも溜まっている嫌な思いをぶちまけてしまいたかった。だが堰を切ってしまう前に、ピィスが困った顔をする。 「……お前、ジーナさんのことなんか誤解してないか? あの人、あれでもお前のことすっげえ心配してんだぞ」 反論と拒否の心はすぐ表情に出たらしい。ピィスはこちらをじっと見つめ、優しい声で語り始めた。 「そりゃ物言いは厳しいけどさ、あれはああいう性格なだけで別に悪意はないんだよ。オレも最初は恐かったけど、慣れてみたらいい人だって解ったし。なんでもズバズバ言うから誤解されやすいけど、根は優しいんだから。お前がこの家に閉じこもってた時からずっと、お前のことを心配してる」 サフィギシルの中に言葉を染み込ませるように、ひとつひとつ、ゆっくりと言い聞かせる。 「オレも親父もジーナさんも、みんなお前のことを弟とか息子みたいに思ってるんだよ。ジーナさんは……魔術技師の作品とか、“前の”と同じ顔だとか、そういう普通じゃないことは受け入れにくい性格で。だから素直に優しくできなかったんじゃないかな。多分カリアラたちについてもそうでさ。オレと親父はお前がカリアラたちと上手くやってることも、そもそもふたりのおかげでお前が立ち直れたことも知ってるけど。ジーナさんはここにいなかったから、そこらへんが理解できないんだと思う。あいつは変な生き物にたぶらかされてるんだー、って親父に言ってたらしいから。でも、それだけお前を想ってるってことなんだよ」 彼女の瞳を見つめながらも意識は向きを変えていく。口だけがうつろに動いた。 「……嘘だ」 「嘘じゃないよ。でないとあれだけ手紙なんて送ってくるかよ」 ああ、そうか。思わずそう心で呟く。定期的に送られてきた山積みになるほどの手紙。分厚いもの、薄いもの。時々によってさまざまだったそれを読んだことはない。あの頃の自分は手紙の中から彼女が出てきて怒られるような気がして、怖くて一度も開くことができなかったのだ。 「でもお前、今はジーナさんとかオレとか親父とかよりも、カリアラとシラの方が大事なんだろ」 ほんの少し拗ねたようなピィスの言葉にハッとする。 「お前がさ、あいつらと一緒に暮らしたいと思ってるんだから、それはそれでいいんじゃねえの。俺たちは家族なんですー、だからこれでいいんですーって、はっきりと言っちゃえよ」 まっすぐに送られてくるこれは励ましなのだと気がついて、今更ながらにさっきの言葉が胸にしみる。心配している。弟のように思っている。確かに今の彼女はまるで姉のように見えた。 「お前がはっきりしないから、ジーナさんも納得しないんじゃないか? 勇気出して言ってみろよ」 背を押してくれるような言葉は随分と大人びていて、サフィギシルは自分がどれだけ幼いか、改めて思い知った。 |
(……でもピィスとペシフさんはお互いに仲がいいし、多分血も繋がってるし。いいよな) 考えても仕方のないことを繰り返すのは悪い癖だとは思う。だが良くないとは解っていても落ち込んでしまう性格だった。自分にはもう親と言える人はいないし、それ以前に血液自体が流れていない。この体は誰とも繋がっていないと思うと途端に心細くなる。 シラも、カリアラも、ジーナに言われてしまった通り、知り合って日が浅い。それなのにこうやって三人で暮らしている。朝になれば彼らを起こす。三度の食事の前後には手伝いをしてもらい、カリアラが馬鹿なことをしでかしては怒り、笑う。何気なく同じ部屋に居合わせてどうでもいい話をしたり、かと思えば、ふと思い立った庭の手入れに全員で取りかかり、夜になるまで土まみれで大騒ぎしていたりする。 その中に、確証だとか、間違いのない繋がりが欲しいと思うのは、ただのわがままなのだろうか。 (何なんだろう、俺たちって) その答えをシラに訊くのも、カリアラに訊くのも怖かった。関係を否定されると嫌だから尋ねられない。それは要するに、肯定してもらえるだけの自信がないということだ。強い絆で結ばれたあのふたりを見ていると、サフィギシルは時々自分がひとりぼっちのような気がする。 (なんだよ俺。寂しがりやじゃないんだから) そう思うと顔が赤らむ。前は人に会いたくなくて、家に閉じこもっていたのに。 多分、カリアラの性格がうつってしまったのだと思った。 誰かが近くにいなければ心細くなってしまう、彼に影響されたのだ。 (“前の”はどうだったんだろう) ふと、そう思った。前のサフィギシルもビジスとは血の繋がりがなく、孤児施設から引き取ってきたらしい。ビジスとは仲が悪く、いつもけんかばかりしていた。という人もいれば、あれはただ、真面目な弟子がたちの悪い師匠にからかわれて食いかかっていただけだ。と解釈する人もいる。だが最終的に彼らの間に何かが起こり、結果として前のサフィギシルは失踪した。彼が屍となって戻ってきて幾月もしないうちに、ビジスは息子と同じ姿の人型細工を作り始めた。それだけは確かな事実だ。 (……爺さんに訊いておけばよかった) 本当は、ビジスが見た昔の記憶も自分の中に収められているのかもしれない。だがそれを読みとる手段も、探し出す方法でさえも解らないままだった。残念なような、どこかほっとしたような、複雑な気持ちを抱えて腰を上げる。そろそろ昼だ。リドーか別の迎えの人が外まで来ているかもしれない。 封印越しに確かめるため窓のそばに近づくが、何気なく目をやった先に気を取られて立ち止まる。背の高い本棚の隅に、一冊だけいやに薄い本があった。取り出してみると小さめの古びた画帳だ。表紙には何も書かれていなかった。中の紙は端が少し黄ばんでいる。ぱらぱらとめくってみると、中には人や動物の素描が無造作に連ねられていた。 作品を作る前に、対象物の外観をこうして把握したのだろう。魔術技師にはある程度の基礎画力が必要となる。ビジスもまた多くの絵を残していた。ただし、あくまでも物の形をとらえるための作業なので、芸術や抽象にいたるものではないそうだが。 画帳に描かれた絵は、生き物をそのまま紙に乗せているように見える精密なものもあれば、手早く走り書きをしただけの大雑把なものもあった。ひとつひとつ確かめながらページをめくる。だが、単調な動作はあるページでぴたりと止まった。 質の悪い紙の上に、大小さまざまな指輪が描かれている。形も模様もすべて違う。迷いながら描いていたのか、途中で大きくバツ印をつけられているものもあった。ところどころに矢印と注釈がついている。内容からして、これから作る指輪の意匠を考えていたのだろうか。 (……彫金もできたのか) 細かく記された言葉は制作上の注意点がほとんどだった。めくってみると次のページも指輪ばかりが並んでいる。次も、その次も。指輪は模様や形を変えつつ拡大や縮小を続ける。いくつかそれが続いたところで、ページをめくる手が止まった。食い入るようにそれを見つめる。丸印をつけられたひとつの指輪。やや幅広の台の上で、細い線が絡み合ってゆるやかな花を描いている。 その形には見覚えがあった。ジーナがつけていたものだ。 近くでよくよく注視したことなどない。どの指にあったのかすらうろ覚えだ。だが、この絵を見て彼女の指輪を即座に思い出したのは、それだけよく似ているということではないだろうか。 頭の中でどういうことだと問いかける声がある。それと同時にひとつの予測を認めている自分もいる。考えすぎかそれとも事実か、深い意味があるのかないのか。 体中が緊張にこわばっている。画帳を持つ手は石のようだ。そこに、何の前置きもなく封印が解ける気配がして、驚きのまま画帳を取り落とした。羽ばたきのような音を立てて床の上に紙が広がる。積もったほこりにまみれてしまう。 外からはペシフィロの呼び声がした。二枚目の封印は彼にもまだ解けないのだ、下に降りて迎え入れなければいけない。サフィギシルは震える手で画帳を拾い、そばにあるベッドに置くと早足で部屋を逃げ出した。心臓石に繋がる糸が、今更ながらに素早く脈打っていた。 |