第二話「魔術技師協会」
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 暗く、静かな夜だった。十四課の執務室は奥に眠るための部屋があるが、宿泊者を監視する責任者の寝場所はない。ジーナは昨夜はソファの上で眠ったが、慣れない姿勢は体に馴染まず嫌な夢ばかり見た。部屋を移してもらった今夜はちゃんとしたベッドがある。小さいけれど窓もある。家に帰って身の回りに必要なものも取ってきた。
 これならばぐっすりと眠れるはずだと安心していたのだが、彼女の予想は意外な所で覆された。
 コンコンコン、といやにきれいなノックが響く。ジーナは閉じていた目をうんざりとした気持ちで開いた。これでもう何度目だろうと考えながらドアを見る。廊下に続くものではなく、奥の部屋、わけあって協会で預かることになった『作品』を泊まらせる場への入り口を。
 厚い木板の向こうから、カリアラの心細そうな声がする。
「ジーナ、いるか?」
 呼ばれた彼女は下ろした髪を苛立ちのままに撫ぜ、相手にきちんと届くように少し強めの声を出した。
「いるよ。さっきからずっといる」
「そうか」
 返る言葉は安堵の色に満ちていて、それがあまりに弱々しいので彼女は不審に眉を寄せる。昨夜はこんなことはなかった。彼はただ言われるがまま静かに眠りについたのだ。
 今ごろになって家が恋しくなったのか、と素直に思って嫌な違和感を感じた。彼が恋しく思う場所はどこなのだろう。サフィギシルと人魚のいるあの家か。
 その仮説は彼女の心を大きく乱す。苛立ちが嫌悪に塗りつぶされていく。
「おい」
 やり場のない感情を収めるように、ドアの向こうに声をかけた。
「今日はどうしたんだ。そんなに家が恋しいか」
 だがあの家はお前のものじゃない。そう主張したい気分だったが、ただのわがままにすぎないと気がついて口を閉じた。今、あの家に暮らしているのは彼らなのだ。もうビジスはそこにはいない。
 反応はすぐには返ってこなかった。だが言葉の意味を探るようなしばらくの間を置いて、相変わらずたどたどしい彼なりの返事が届く。
「昨日はな、声が聞こえたんだ。でも今日はすごく静かだから、いなくなったのかと思って」
「誰が」
「ジーナが」
 思わず小さな笑みがもれた。まだここで笑えるような優しさがあるのだな、と自嘲気味に考えながら呆れたような声を出す。
「いなくなるわけがないだろう。私はお前を預かる責任者だ」
 もっとも、アリスは時間外勤務は嫌だと言ってすぐに帰ってしまったが。もともとあの呑気な娘は置き場に困って押しつけられた人員なのだ、あまり多くを期待するのは初めから間違っている。
 硬い枕に頭を乗せて、今度こそ目を閉じようとしたところでおかしなことに気がついた。
「声が聞こえた? カリアラ、誰の声が聞こえたって?」
 昨夜は特に彼に向かって話し掛けた覚えはない。だがカリアラは当たり前のように答えた。
「ジーナのだ。なんかな、寝てるときに言う声だった。うーんとか、ううーとか」
 それは声ではなくうなり声だと言いかけて、昨夜はそこまでうなされていたのだろうかと思案に向かう。確かに嫌な夢は見た。苦しくて何度も目が覚めた。
「……何か、それ以外に言葉らしいものはなかったか?」
「うん。ちゃんとしたのはなかったな」
「そうか。それならいいんだ」
 無様な寝言を聞かれたのではないと解ってここぞとばかりにほっとした。
 しかし安堵のままに布団を掴んで寝返るが、どうも体が落ち着かない。もう一度眠る姿勢を逆にするが、それもまた違和感を覚えてしまう。まぶたを閉じる気になれない。枕に乗せた頭がどうにも安定しない。しばらくの間布団の上で身動きをしていると、また三回のノックが響いた。
「ジーナ。いるか?」
「いるよ」
 今まではいらつくだけだったそれが今度は嬉しく感じられて、なんだか少し悔しかった。
 眠れなくなったのは、うなされていたことを知らされたからだろうか。それとも単に目が冴えてしまったのか。ジーナは体を起こすと居心地の悪いベッドを下り、持参した部屋靴に足を通した。近くの台に手を伸ばし、置いてある上着を取って羽織る。さすがに冬が近いために空気は冷え込んでいた。
 小さな窓から月明かりが薄く差し込む。おぼろなそれを頼りにして、そろそろと足を進めた。部屋は狭く、障害物となるようなものもほとんどない。これといった苦労もなくドアの前にたどり着いた。
 口を開いてみる前に、向こう側から声がかかる。
「どうした? 怖いのか?」
「それはお前だろう」
 物音を立てた覚えはないのに動きをぴたりと言い当てられて、驚くよりも意地の方が先に出た。それに、怖いのとは少し違う。もういい大人なのだ、こんなことで恐怖を感じるおめでたい性格ではない。
 ジーナはドアに背中を預けてどっかりと座り込んだ。向こう側に投げかけるように言う。
「寂しいんだろう?」
 肯定を待つ問いかけには、しばらくの間が空いた。
「……わかんねえ」
「いいや寂しいんだ。不安で、心細くて、だから声を掛けるんだ。私には解る」
 自信のない相手の言葉を埋めるように、一方的に決めつける。喋りながらそれはどちらの話だと、またもや自嘲が浮かび上がった。まったくもって言葉の通りだ。だから声を掛けるんだ。
「話し相手をしてやる。お前も来い。……開けるんじゃない、そばに座れ」
 扉にはこちら側から二重の錠が掛かっている。無理にこじ開けようとする音を言葉で止めさせた。カリアラは不思議そうに問いかけてくる。
「開けられないのか?」
「それが規則だからな」
 彼が今いる部屋の中を想像すると、申し訳ない気分になる。どんな建前があっても、これは結局牢獄の一種なのだ。地下にある罪人用のものよりは何倍もましではあるが、危険を冒しかねないものを閉じ込める場には違いない。
「そっちは暗いか」
「うん。まっくらだ」
 あちらには窓すらない。だがカリアラは怖れるでもなく昼間と同じように喋る。
「夜だな。すごく静かだ。へんだな。陸の上はすごく静かだ」
 彼の声は、改めて耳にすると不思議に静かな音に聞こえた。大雑把で不安定な体の動きが見えない分、元々の本性を味わうことが出来るのだろうか。
「川の中はな、いつもいろんな音がした。いろんな生き物がいた。水がずっと流れてた」
 この声は水の中を語るのにこれほどなく最適のように思えた。静かな音はひとつひとつが同じ調子で紡がれる。そのためか、淡々とした語りはいやに落ち着いているように聞こえた。
 だが静かに流れていく声に、わずかに不安な色が滲む。
「……何も聞こえないと、へんだな。へんだと、なんかざわざわするな」
 ジーナは背を向けたまま、ドアの端を軽く小突いた。コン、と小さな音がする。
「いるよ」
「うん」
 彼は笑ったような気がした。笑っていればいいな、と思った。
「すまないな。こんな場所に閉じ込めて」
 言いながら、あの人魚なら怒るだろうなと考えた。自分の中の性質が邪魔をして、ジーナは人型細工を人間として見ることができない。だがカリアラは木の塊である前に一匹の魚だった。その事実は初めこそ信じがたかったものの、数々の計測や本人の様子によって疑いは消えている。
 これは魚だ。長い間川の中で生きていた、本当の生き物だ。そう考えてしまうからこそ申し訳なく感じてしまう。戯れに掴まえた小魚を、グラスの中に閉じ込めているような気分だった。
「まあ、明日にはまた別の場所を探してやる。それまではここで我慢してくれ」
 本当になんとかしてやろうと思えたのは、疲れているせいだろうか。体ではなく心のほうが長い疲労に悲鳴を上げつつあるのだろうか。
 長い。そう、もう随分と長いあいだ心は疲れきっていた。ビジスが死した半年前からではない。三年前、前のサフィギシルが死んだと聞かされた時からずっと、嫌な疲れがまとわりついて離れない。
 ジーナは頭をドアに預けるがまま、そばにある窓を見た。ぼやけた月は今にも雲に隠れそうで、どことなく気弱に見える。同じぐらい自信のなさそうな声が、静まり返った部屋に響く。
「ジーナは、本当に敵なのか?」
 思わず怪訝な顔をすると、説明が後に続いた。
「敵だったら、食おうとしたり、邪魔しようとしたりする。でもジーナはしない。いいやつだ」
「少なくともお前の敵ではないからな」
 声と気分は共に呆れを含んでいく。だがジーナは続いた言葉に息をのんだ。
「でも、サフィの敵なんだろ? だったらおれの敵だ」
 信じられないものを見る目はただ虚空に向けられる。言葉だけは戸惑いによる間をおいて、ゆっくりと口を出た。
「……どうして?」
「『どうして』?」
 心の底から解らないとでも言うような返事だった。
「だって、そうしなきゃだめだろ?」
 それが当たり前だと信じきっている声だ。疑うことすら考えない、あまりにもまっすぐな言葉。自分にはないものを目の前に突き出されて、ジーナは言葉を失った。
「ジーナ?」
「……あいつの敵はお前の敵か。じゃあ、お前は、敵があいつを殺しに来たらどうするんだ。お前が敵を倒すのか」
「倒す」
「無理だ」
 即座に口をついた言葉は彼の主張を突き放す。ジーナは反論を恐れるように早口でまくしたてた。
「頭も悪い、ろくな動きもできないお前がどうやって敵を倒す? 武器を使う人間の戦い方を知っているのか? お前には無理だ。力不足だ。それどころか邪魔になっているじゃないか」
 体が熱くなるほどに口が滑り始めたのは、嫉妬していたからだろうか。知らないうちに仲間のような顔をして、家族のようにサフィギシルの側にいる彼らへの羨みか。
「生活の面倒まで見させて、養わせて。迷惑になっているじゃないか。あいつはお前たちを守っていかなくちゃいけない。自分の命だけじゃなく、お前たちも庇おうとしているからだ。今だけじゃない、これは下手をすれば一生続く。それがどんなに大変なことか解るか?」
 ジーナは拳を強く固めた。切々と語るほどに、閉じ込めてきた不安が姿を現していく。
「私はビジスがどんな生き方をしてきたか知っている。どれだけ狙われてきたか、どれだけ人を殺してきたか。それでも表沙汰にはせずにいくつも闇に葬ってきた。その業を押し付けられて、真っ当に生きていけるはずがない。今はまだ国々の情勢が穏やかだからこうして平和でいられるんだ。どこかで大きな戦争が起こったら、一番に狙われるのはビジスの遺した知識なんだ……それだけ、危険なものが詰まっている。……それを、ひとりで背負って、生きていかなきゃならないんだ」
 動かす口がわずかに震えたかと思うと、あっという間に声に嗚咽が混じり始めた。あふれるものをなんとかして抑えるように、強く歯を噛みしめる。ふと窓の外を見ると、ただでさえおぼろな月が輪郭を白く溶かした。にじむ涙を震える指で拭い取る。
「あんまりじゃないか……どうして、こんなことになったんだ」
 言葉だけは問いかけの形を持つが、答えは解りきっていた。
「ジーナ、大丈夫か? そっちに行こうか?」
 ドアを叩くかすかな音と、心配そうなカリアラの声が一緒になって背に響く。冗談じゃない、と胸のうちで吐き捨てた。冗談じゃない。今、こんな想いの時にお前の目に見られてしまえば。
「来るな。平気だ」
「だって泣いてるだろ。どうした、怖いのか? 何かあったのか?」
 向こう側で、彼はわけが解らずにおろおろとしているのだろう。本心から心配する真摯な言葉がドアごしに伝わってくる。顔を見せて問題ないと伝えてやりたいぐらいだ。だが今だけは、ふたりを阻む境界を開くわけにはいかなかった。
 ジーナは涙にぬれる声で言う。
「お前の目はまっすぐだから、見つめられると、つらい」
 自分の中に後ろめたいものをたくさん抱えている時は、向かってくる彼の目はまるで槍のように感じる。本人にその気がなくとも、何よりも重い攻撃へと変化するのだ。
「へんだな」
「人間にはそういう時があるんだ。……私は、もう二年以上もこうなんだ」
 喋りながら、その長さに改めて気が滅入る。何年もこんな不安定な状態で生き続けているような気がする。多分、サフィギシルを突き飛ばしてしまったあの時からずっと。
「謝らなくちゃいけないのに、それすら言えないままなんだ……」
 長い間胸に居座る罪悪感を持て余しつつ、ジーナは冷えた膝を抱いた。


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