第一話「彼の爪跡」
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 サフィギシルとジーナを待つ部屋の中には奇妙な世界が広がっていた。
「アリス、これなんだ? 絡まってるのか?」
 カリアラは不思議そうな顔をして、横に座ったアリスのお下げを軽く持つ。アリスはぼんやりとした無表情のままで答えた。
「違うわよー。これはみつあみって言って、引っぱると、この先のところから火が出てくるの」
「えっ、火が出るのか! すごいな!」
 カリアラはびくりとして彼女の髪から手を離す。アリスは顔色一つ変えず、眠たそうに間延びした口調で続けた。
「すごいわよー、熱いわよー。火炎放射だものー」
「アリスさん。本当に信じてしまうので、嘘をつくのもそのぐらいに……」
 先ほどやってきたばかりのペシフィロが、困ったようにたしなめる。だがアリスはそちらを見やりもせずに更に嘘を塗り固めた。
「あたしのこれは炎だけど、この世界にはまだ氷を放つみつあみと、水を吹きだすみつあみと、雷を飛ばすみつあみと、どろを吐くみつあみの人がいて、伝説の戦士として毎日特訓してるのよー」
「そうなのか!? すごいな、みつあみってすごいな!」
 疑いもせず素直に驚くカリアラと、淡々とホラを吹き続けるアリス。おかしな二人を眺めながら、ペシフィロは小さなため息をついた。サフィギシルとジーナはまだ奥の部屋から出てこない。彼らを待っている限り、この奇妙な会話は延々と続くのだろうか。
 カリアラは更に会話のきっかけを口にする。
「じゃあ、この点々はなんて言うんだ?」
「これはそばかすと言って、夜になるとこのひとつひとつから妖精さんが顔を出して、毎晩のようにお酒を呑んで騒ぐの。いつもいつもうるさくて大変なのよー」
「そうか、それは大変だな。おれもな、シラがな、いつも酒を呑みたがって困るんだ。酒を呑んだらへろへろになるし、変なことばっかりするから困るよな」
「そうよねえ、妖精さんも酒癖が悪いと暴れたりするわー」
「シラは暴れないんだけどな、すぐに飛びついてくるから、食われるのかと思ってびっくりするんだ」
「あなたも色々と大変ねえ」
「うん。大変なんだ」
 ふう、というため息はふたつの口から同時に吐かれる。もうこれはこのままにしておこうと、ペシフィロが諦めを覚えたその時。奥の部屋のドアが荒々しく開かれた。
「サフィギシル! 話はまだ……」
「もういい、これ以上聞きたくない!! 馬鹿にすんなよ、あんたの指図なしで乗り切ってやる」
 いつになく激怒したサフィギシルがこちらに飛び出してくる。彼は駆け寄りかけたジーナに向かって強く指を突きたてた。
「やってやろうじゃねえか、技師一級満点合格! それで問題ないんだろ!?」
 こちらの部屋にいる者は、話の流れが理解できずにただただぽかんと彼を見つめる。アリスだけが眠たそうにのんびりとあくびした。
「勝手に決めるな、話を聞け!」
 同じように飛び出してきたジーナには目もくれず、サフィギシルはずかずかと歩いていく。カリアラが慌ててソファから立ち上がり、触れれば弾かれそうなほどに憤る彼に、戸惑うように声をかけた。
「サフィ、どうしたんだ?」
 サフィギシルはそこで初めて足を止め、カリアラをじっと見つめる。何か様々なことを考えめぐらせているような目つき。思うところがあるような、策略を練っているような……。
 その視線がぴたりと静まる。サフィギシルはいやに落ち着いた表情で、カリアラに提案した。
「お前、しばらくここで暮らせ。それでこの人たちに色々と教えてもらえ」
 カリアラはきょとんとして彼を見つめ返す。後ろにいたジーナが驚きの声をあげた。
「は!? 何を言ってるんだ、そんな」
「俺には教育しきれないんだろ? じゃああんたがやってみろよ、大人なんだろ? 俺にはできなくてもあんたには出来るはずだよな、それだけ偉そうに言えるんだから。実際にやって見せてくれよ」
 サフィギシルは馬鹿にした喋り方でわざと相手を挑発する。ジーナの顔に瞬発的な怒りがよぎった。彼女は状況に乗せられるまま勢いで宣言する。
「ああ出来るさ、お前とは違うからな! 代わりにやってやろうじゃないか!」
「え。え、え、じゃあおれここにいるのか? 帰れないのか?」
「そういうことだ。シラには俺が言っとくから。荷物は明日届けてやるよ。じゃあな」
 カリアラはようやく自分の境遇に気がついて、おろおろとサフィギシルに尋ねる。まとわりつく眼差しから逃れるように、サフィギシルは背を向けると早足で部屋を出て行った。
「あっ、待て! ……“ミドリ”、追え! 掴まえてこい!」
 焦りを含んだジーナの声が消えていく彼の背中を追う。ジーナは前方を指差したままペシフィロを睨みつけるが、状況を静観していた緑髪の魔術師は、穏やかなしぐさで彼女の腕を下ろさせた。
「落ち着きなさい。この建物にいる間は心配しなくても大丈夫でしょう。走っていけば追いつきます。ちゃんと家まで送り届けますよ」
「帰してどうするんだ! 何のためにわざわざ連れてきたと……あの馬鹿……!」
「いきなり連れてきて、今日からここに寝泊りしろというのも無理な話でしょう。あの家はまだ安全なんですから、そんなに急いで保護しなくても大丈夫ですよ」
 ペシフィロは腕にしがみつく彼女を支えながら、やんわりと言い聞かせる。兵士たちに協力を仰いだのも、厳重な警備でここまで連れ出したのも、サフィギシルの身を敵から守るためだった。現時点で少なくとも一組の刺客が彼を狙っている。だからこそ比較的安全であるこの場所で状況の改善を待つように、ときちんと彼に諭すのが本日の目標だったはずなのだが。
 まだ呑気に座ったままのアリスが遠く声をかけた。
「ペシフィロさーん、先輩ってば普通に連れて行けばいいものを、わざわざ強制的に引きずって来たんですよー。せっかくだから派手に脅して優位に立っておきたいとか言って」
「ああもう、いつもいつもそうやって話をややこしくして……どうせまた説明もし損ねたんでしょう」
 呆れきったペシフィロの言葉に、ジーナはまるで子どものように小さく口をとがらせる。今までの雰囲気とはうって変わった幼さが顔に浮かんだ。掴んでいた手を離し、拗ねてしまったように言う。
「……もういい。説教は後で聞く。ひとまず今日は家までの護衛を頼む」
「解りました。あの、カリアラ君はどうしますか」
 そこで、全員の目が呆然と立ち尽くすカリアラに向けられた。現状がまったく理解できなくて、どうすればいいか解らなくて、彼もまた三人の顔をひとつずつ見返していく。ジーナはいかにも頭の悪そうな彼の様子を目にすると、不機嫌そうに舌を打った。
「私が面倒を見る。いい機会だ、じっくりと調べてやる」
 彼女はぽかんと口を開いたままのカリアラに、力強く指をさす。
「いいか魚。こうなったらその頭の中身をキッチリと整えて、あの馬鹿人形が脱帽するほど立派にして見せつけてやるからな。明日からは厳しくいくぞ、覚悟しろ!」
 カリアラは何がなんだか解らないが、とりあえずこくりと頷いてみた。
「相変わらずの負けず嫌いで……」
「うるさい。さっさと追え」
 はいはい、と出された文句をあしらうと、ペシフィロはまだ建物の中にいるはずのサフィギシルを追いかける。焦るような足音はすぐに遠ざかっていった。
 急に静まり返ってしまった部屋の中に残されたのは、眠たそうにあくびをするホラ吹きが一人と、後に引けない負けず嫌いが一人。そしてきょとんと立ち尽くす頭の悪い魚だけ。
 カリアラは突然ハッと真剣な顔をしたかと思うと、みるみると青ざめて言った。
「あっ、おれ今すごく動いてたよな!? どうしよう!」
「そうねー、明日になればみつあみ戦士が助けに来てくれるんじゃない?」
 アリスはあくまでも自分の調子を崩さない。カリアラは納得したように、またひとつ頷いた。
「そうか。やっぱりすごいんだなみつあみは」
「すごいわよー。みつあみは世界を救ったり滅ぼしたりよー」
「…………」
 淡々と生み出されていく奇妙な会話を耳にして、ジーナは頭を抱えると力なくへたり込む。今更ながらに自分の置かれた状況を生々しく把握して、静かに血の気が引いていく。
「……しくじったかもしれない……」
 その声は張りつめていたものを全てほどいてしまったように、弱々しくゆるんでいた。

     ※ ※ ※

「ごめんなさい」
 サフィギシルはもう何度目かも解らない謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい、じゃなくて。もう一回ちゃんと説明してください」
 シラは柔らかく微笑んだまま彼の謝罪を横に流す。その口に浮かぶのは、薄紅色の花びらがふわりと開いたようなほほえみ。息を呑むほど美しいその奥で、どれだけの魑魅魍魎が息をひそめていることだろう。ピィスが「うわあ」と小さく呟く。表面的にはあくまでも穏やかに進む尋問に、サフィギシルを連れて戻ったペシフィロが口を挟んだ。
「シラさん。もう夜もふけて来ましたから、そろそろ……」
「あら本当。お二人とも、そろそろお帰りになった方がいいですね」
 シラは彼らににっこりと笑いかける。部外者は黙っていろ、という気配があふれだす水のように盛大に湧き出していた。ペシフィロは彼女の外見と行動の違和感に恐怖を覚えながらも続ける。
「いえそうではなくて、もう説明も三回目ですし。本人も反省しているようですから、今日のところは許してあげてくれませんか」
「ええ、解りました」
 返答は、サフィギシルへの助け舟を受け入れたかのように聞こえた。だが彼女は整った笑みの形を維持したまま言い放つ。
「あともう一回。それで最後にしておきましょう。今度はちゃんと理由も詳しく教えてください」
「……はい」
 サフィギシルは消え入りそうな声で答えた。極限まで青ざめていて、すでに顔を上げることすらままならない。シラは美しく微笑みながら、彼の体にそっとしなだれかかっている。柔らかな仕草で添えられた腕の先には鉄のハサミ。確かな凶器はすでに彼の服の中へと潜り込み、ペシフィロとピィスの目につかない場所で無言の脅しをかけている。
 サフィギシルは観念したように喋りはじめた。
「つい勢いで、魔術技師第一級の試験を満点で通過しなければいけないことに……」
「そうじゃないでしょう? あなたのことはもういいのよ」
「……はい」
 ひんやりとした感触が、背中の上をするりと撫でる。じかに伝わる刃物の気配に、サフィギシルは涙をこらえて声を張った。
「カリアラはしばらく魔術技師協会に寝泊りして、一般的な教養を学ぶことになってしまいました。完全に俺の不注意です。こうなった理由は、ジーナさんが俺のことをさんざん子ども扱いして、お前にはふたりを養って育てていく力はないとか言われたので、それで腹が立って。人のことを馬鹿にする前に自分が結果を見せろよということで、あの人に教育係を押し付けました」
 三回目にしてようやく語られた事の理由に、ペシフィロがおずおずと口を出す。
「あの、大人とは言っても、彼女の仕事は『作品』の状態を調査して、計測した数値を書きとめたり、それを整理するのが中心で……あまり、教育には特化していないんですが」
 サフィギシルは恐怖心を一時忘れ、ほんの少し勝ち誇るような顔をした。
「できるって言ったんだからやらせればいいんだよ」
「まあ、できないことはないと思いますが。それが理由だったんですか」
「それだけが理由だったんですか」
 ほとんど同じく反復されるシラの声は、あくまでも穏やかで暖かい。サフィギシルはぶり返しの恐怖に襲われてがたがたと震え始めた。既に待ち疲れていたピィスがひとつ大きなあくびをする。
「あー、んじゃまあ理由も解ったところでオレたち帰るわ。シラ、ほどほどにしてあげてねー」
「ま、待て待て帰るな! もうちょっといてくれよ!」
 まさか凶器まで持ち出されているとは考えもしていないため、彼女は呑気に帰り支度などを始める。
「だってもう疲れたし、することないし。なあ?」
「そうですね。すみません、今日はこれで帰ります」
「ぺ、ペシフさ」
 言いかけた言葉は動いた鉄の刃先に呑まれる。サフィギシルは今にも死にそうな気分で口元を引きつらせた。
「……じゃあ、また」
「気をつけてくださいね、もう外も暗くなっていますから」
 帰宅の気配を決定付けてしまうように、シラは笑顔を崩さないまま左手を小さく振った。ハサミを持つ右手は恐喝の姿勢を維持したままだ。
「んじゃ、明日また遊びに来るから。できたらカリアラの所にも行こうねー」
「ありがとうございます。それではまた明日」
 水面下で行われる凶行には最後まで気がつかないまま、親子二人はのんびりと語らいながら家を出て行ってしまった。
 残されたのは、怯えるひとりの二歳児と、凶器を持つ恐喝者。
「さて」
 シラは何事もなかったかのように笑みを全て取り下げる。身を刺すほどに冷ややかな声で言った。
「呑みましょうか」
 サフィギシルに拒否権はない。
「……何本呑むつもりなのか今のうちに予告してほしいな」
「何を言っているんですか。何本、じゃなくて何瓶、ですよ」
「“かめ”って! うわああどれだけ呑むつもりだー!!」
「もちろんあなたも呑むんですよ。私の勧めを断るはずがありませんよね?」
 サフィギシルは横に振りかけた首をぐっと押さえ、涙目で非難の言葉を飲み込んだ。シラはどす黒い表情で彼の手首を握りしめる。
「今夜は寝かせませんよ……」
「カリアラー! 俺が悪かった、帰ってきてくれー!!」
 これ程なく情けない声を出しながら、サフィギシルは長い長い夜の世界へ引きずり落とされていった。


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→第二話「魔術技師協会」に続く。