第一話「彼の爪跡」
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「あ、愛人って」
 しばらくの硬直の後、なんとか動いたくちびるが紡いだのは当然の疑問だった。
「だって、歳の差……いくつですか」
「うん、オレも改めて今おかしいなーと思ったよ。ジーナさんが確か二十六だか二十七で、爺さんが九十近かったから……ありえないよな。離れすぎ」
 発言したピィスもまたシラの疑問に巻き込まれていくように、みるみると表情が疑いに染まっていく。彼女は自らの言葉をもう一度見直すように、困ったように首を傾げた。
 シラが穏やかに追い打ちをかける。
「そうですよ。まあ、ビジスさんなら不可能ではないのかもしれませんが……いくらなんでも、それは」
「うーん、そうだよな。でもさあ、みんなそう言ってるから今まで普通に『そうなのかー』と思ってたんだよ。ジーナさん昔からこの家に出入りしてるしさ、爺さんとも仲良かったし、妙に息が合ってたし。その分前のサフィとは仲悪かったみたいだけどさ」
 息があっていた、の部分でシラの目に納得が色濃く浮かんだ。
「今のサフィさんとも仲が悪いんですか?」
「というか、ジーナさんが一方的にいたぶってる感じ。あの人、人型細工とか作品関係嫌いだからさ。昔からあいつにめちゃくちゃ厳しくて、しょっちゅうバシバシ叩いてたよ。オレには結構優しいんだけどね」
「ああ、だからあんなに怖がっていたんですか」
 対面して青ざめただけでなく、彼女の名前が出ただけでも動揺を見せていた。あまりにも解りやすい怯え方と言えるだろう。いつもなにかと強がろうとする性格なのに、今回ばかりは恐怖心を隠す余裕もなかったらしい。
 シラはふと気づいたように問いかけた。
「あの人もサフィさんが人型細工だって知っているんですね」
「うん。爺さんも最初はオレと親父にしか会わせてなかったんだけど、後からジーナさんも紹介されたみたい。結局、シラたちが来るまであいつが会うことのできた人間は四人だけってことになるな。そりゃ考え方も隔たるよなあ、それだけ狭い世界で育ってきたんだから」
 この小さな家の中で、限られた人間しか知らずに生きてきた彼は、膨大な知識を手に入れた今でも世間の常識に慣れていないところがある。さすがにもう“人間は全員ビジスのように完璧なもの”などと考えることはないようだが。
「だから、あいつにとってはジーナさんほど恐ろしいものはなかったんだよ。昔なんて冗談で『あ、ジーナさんが来た』って言うだけで本気でびびって逃げようとするぐらいだったから。完全に恐怖対象なんだろうな。“世界で一番怖い人”だ」
「……じゃあ、今ごろはまさしく恐怖のどん底ということですね」
「うん。絶対がたがた震えてるよ」
 届けられた何十通もの手紙を、読むことも、目につく場所に置くことすらできないほどに恐ろしく思う相手。避け続けたその人に拉致されて、今ごろは一対一で尋問されているのだろうか。
「あいつあの人には逆らえないからな、何か変な約束させられなきゃいいけど」
「サフィさん……」
 シラは瞳を潤ませる。同情的にも見えたそれはすぐに向かう相手を変えた。
「何でもいいから、カリアラさんだけはすぐに返してくれますように」
「シラって結局それだよね」
 悪びれもせず本気で願う彼女を見つめ、ピィスは小さな息をついた。

      ※ ※ ※

 無意味にも思えるほど厳重に囲まれたまま、カリアラとサフィギシルは魔術技師協会の本部に連行された。一旦は気絶させられたサフィギシルも、道中ですぐに目を覚ましている。二人はリドー率いる街部警備八番隊に引きずられるようにして、ある部屋に通された。
 仕事用の机が二組並んだ奥に、ゆったりとした客用のソファが置かれている。カリアラは軽く突き放されるようにその上に座らされた。敷かれていた赤い布が勢いで大きくずれる。
「痛い痛い痛いって! 耳掴むなよ!」
「黙ってさくさく歩け、この木細工が!」
 サフィギシルはジーナに耳を掴まえられて、更に奥の部屋へと消えた。
 さっさと座れ。姿勢が悪い。ぴしゃりと叩きつけるような声がドア越しに聞こえてくる。カリアラはがたがたと震えながら、青ざめた顔でそちらを見つめた。
「サ、サフィが食われる……!」
「食べられない食べられない。あ、みなさんお疲れさまですー、今日はここで解散です」
 アリスは動じることもなく、のんびりと兵士たちに告げた。終始複雑な表情をしていた彼らは、まあいいかというようにそれぞれが帰る様子を見せ始める。一人気がかりそうに奥の部屋を見ていたリドーに、カリアラが必死の声をかけた。
「リドー、助けてくれ! サフィが巣に運び込まれた!」
「どうしてお前が助けにいかないんだ」
 カリアラは最初からほとんど動こうとしていない。今にしても、ソファの上で必要以上にじっと構えているだけだ。硬直にも似た不自然な姿勢がリドーとアリスの注目を集める。カリアラは曇りのないまっすぐな目で言い切った。
「助けたいけどだめなんだ。おれ、今日は動くなって言われたんだ」
「リドーさん、この子頭悪いんですか」
「……性格はいいんだが」
「うわあ、何ひとつごまかしきれてないわー」
 アリスはぼんやりとした表情のままどうでもよさそうに言う。それとは逆に、カリアラは真剣な顔でおろおろと悩んでいる。
「ああでも大変だ、食われるんなら助けないと。どうしようおれ動いてもいいのか?」
「だから食べないって」
「でも、今にもかぶりつきそうだったぞ!」
 あまりにも真顔で言うのでリドーが小さく吹きだした。わざとらしい咳払いが後に続く。アリスは構わず無責任なことを言う。
「あー、確かに今日は恐い顔してるしー、一人や二人ぐらいはぺろりと行くかもねえ」
「サフィ逃げろー! 岩の陰とか狭いところに隠れるんだー!」
 カリアラはそれでも体を小さく固め、声だけは大きく伸ばしてサフィギシルに呼びかけた。
「まあこんな感じでとっても平和なので、本当に帰っちゃってもいいです」
「わかった。ではまた後日」
「ご協力ありがとうございましたー」
 敬礼して部屋を出ていく兵士たちと、呑気に大きく手を振るアリス。
 ほのぼのと落ち着いた部屋の中で、ただカリアラだけが危機を訴え続けていた。



「……随分と頭のいい人形だな」
 あからさまな嫌味を肌に感じつつ、サフィギシルは顔が赤く染まっていくのを隠せない。筒抜けで響くカリアラの声が居たたまれなくて仕方がなかった。どうしてこう恥をかかせるのかあの馬鹿は。
「しょうがないだろ、魚なんだから」
 脳みそも透明なんだから、とは不利になるので言えなかった。
 ジーナは特に話を突きつめようとはせずに、不機嫌そうな態度のまま対面の席に座った。色あせた粗末な椅子を、深く沈むソファに見せるほどにゆったりと足を組む。サフィギシルはどういう動きをすればいいのか解らなくて、意味もなく視線を巡らせた。
 引きずり込まれた奥の部屋は若干狭く、カリアラのいる場所よりも小ぢんまりとした空間になっている。呆れるほどに殺風景だ。何よりも装飾の類が全くない。窓すらない石壁に、幅の広い机が一つと椅子が四つ。たったそれだけ。
 そのうちの一つに小さく縮こまり、サフィギシルは覚悟を決めて向かい合うジーナの顔を窺う。
 今までもずっと恐い人だと思ってきたが、今日は特に恐ろしい。怒りを内に含むためか、それとも化粧が濃いからか。ただでさえくっきりとした顔立ちが引き締められて、印象をよりきつく見せていた。
「ジーナさん」
 この人を呼ぶときは、敬称に力が入る。うっかりと呼び捨てにしないよう注意しない時はなかった。
 取り立てて気に障る行動ではなかったらしく、ジーナはちらりと目を向ける。昔からそうであるように、サフィギシルの顔を真正面から見ようとはしていない。
「なんだ」
「いつ帰ったの」
「三日前だ。知りたいのは“なんで帰ってきたのか”だろう? わざわざ他国の辺境に飛ばされていたはずなのに、どうして今ごろ戻ってきたのか。帰ってこなきゃ良かったのに、と」
「そこまでは言ってないだろ」
「顔に出てる。ビジスから手紙が来たんだ。ペシフがわざわざ届けてくれた」
 前置きもなく続いた言葉が何を示すものなのか、理解するのが瞬時遅れた。この国に帰ってきた理由のことだと気付いて尋ねる。
「爺さんが? いつ?」
「まだお前の体にいる時に。詳しい事情は全部聞いた。何もかもその手紙に書いてあった。ついでにここのお偉方にも何か書いていたらしい。すぐに本部に戻ってくるよう辞令が届いた」
 ため息をつくような声でそこまで言うと、逸らした目が弱く沈んだ。
「……魂の果てる時には間に合わないことを謝っておく。手紙にはそう書いてあったよ。色々と残務処理に手間取って、すぐにはこっちに戻れなかった。言葉通り、もう一度逢うことも出来なかったわけだ」
 厳しさの抜けた顔を隠すように、ゆっくりと額を押さえる。魔力製の照明器具は煌々と部屋を照らしているのに、そのあたりだけがいやに薄暗く感じた。一人の人間の死が、そこにこびり付いている。
「お前があの家に閉じこもってすぐに飛ばされたから、こうして話すのも半年ぶりぐらいになるか」
「何やってたの、そこで」
「手紙に色々と書いて送ったのに、読んでないんだな」
 厳しく糾弾されると思ってぐっと首を縮めるが、それ以上の言及はなかった。ジーナはどうでもいいことだと言わんばかりにサフィギシルの問いに答える。
「ロイヘルンにはノリスという田舎街があって、そこに高い塔を建てるそうだ。ビジスが設計図と計画を残していたが、死んだ後は建築作業も停滞している。いつまでも四階から進まない塔のことで、いろいろと調停に動くのがここ半年の生活だった。……私のことはいい。本題に入ろう」
 逸らされていたジーナの両目がはっきりとサフィギシルを捕らえた。
 彼女は真剣な顔をして、低い、静かな声で告げる。
「端的に言おう。世界中の魔術技師がお前の命を狙い始めた」
 サフィギシルの呼吸が止まった。言葉も、声も、思考も、すべて。
「……なんだよそれ。世界中、って」
 ようやくひねり出した言葉は弱く、続けられたジーナの声にすぐにかき消されていく。
「ビジスの継承騒動が大陸中に広がり始めている。魔術技師だけじゃない。これからはビジスが影で支配していたという四十二ヶ国の人間が、お前のその力に目をつけ始めると言ってもいい。解るか? ビジス・ガートンの遺産だ。世界をその手で操った、謎多き天才の思考の全てがお前の体の中にある。お前を殺して、心臓石と義脳を取り出すだけで世界が手に入るんだ。狙われないはずがないだろう?」
 彼女の指はまっすぐにサフィギシルの胸をさしている。鋭く突き刺されているような気がした。
 反論の言葉もない。その通りだとしか言いようがなくて、サフィギシルは弱々しく口を結んだ。生身の人の体で言えば血の気が引いていくような錯覚が全身をなめていく。うつむいた顔が上げられない。その通りだ。どうして気づかなかったのだろう、ビジスの力を受け継いだということは。
「あの魚は今日崖から落ちたそうだな」
 続けられた彼女の声は何よりも冷たく感じた。肩がびくりと大きく揺れる。
「不審なところがある。怪しい人影を見たという証言があるそうだ。当然だな。ビジス・ガートンの力を受け継いだものの技術の集大成。それだけで十分に分解する価値はあるだろう。人質にするという手もある。ピィスも、あの人魚にしても同じだ。お前と同じく狙われる可能性がある」
 今まさに考えていたことを改めて告げられて、嫌な予想を客観的な事実として語られて、心臓のあるあたりが冷たくきつく締め付けられた。うつむいた頭が更に下りる。気がつけば背も曲っている。
「気の早い奴がいるようだ。回収には失敗したようだが、一つ間違えばあの魚は敵の手に渡っていた」
 崖から落ちて作業室に運ばれてきた時の、カリアラの状態が目の端から離れない。修理することができたからこそ笑っていられる話だった。肩は砕け、後頭部は大きく裂かれ、その傷は首の下にまで達していた。ジーナは深く沈むこちらを無視して容赦なく話を続ける。
「頼りなさそう、人がいい、押しに弱い、毒がない。街の技師達に聞いたお前の印象だ。いいか、お前は完全に甘く見られている。好意的な者たちでさえそう思っているのだから、悪意をもった奴らにとってはこれほどなく狙いやすい獲物だ。再来月には技師たちの祭りもある。不穏な人材がどんどん増える。お前には、その中で生きていけるという自信はあるか?」
 ない、と正直に答えるのは嫌だった。どうしても口がその形には動かなくて、苦いものを感じながら悪あがきのように言う。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ」
「石を渡せ」
 質問の答えは簡潔だった。ジーナはあらかじめ用意されていた言葉を音読するかのように、よどみなく言い放つ。
「ビジスの知識が入った心臓石を手放すんだ。元々が予備のものだ、適切な手段を踏めば取り出してもお前の命に別状はない。世界中の者が欲しがるビジスの知識はただその中だけにある。その石さえ捨ててしまえばお前は自由だ。取り出したものは我々と国が責任を持って管理することになっている」
「でも、それじゃ、俺は」
 頼りなく吐き出された反論のもとは威圧的に押しつぶされた。
「いいか、このままじゃお前はいつか殺される。ビジスの力があるから何でも出来るなんて思うな。いくら知識があったとしても、それをとっさに使いこなせるほどの経験はないはずだ。自覚しろ、お前は子供だ。多く見積もっても二歳にしかならない幼児だ。その力はお前には絶対に扱えない」
 彼女の目に迷いはなかった。彼を一人の人間として見ている様子はない。サフィギシルは歯噛みした。最初からそうだった。この人は、完全に自分のことを人型細工として見ている。木製の作り物として考えている。それが何より気に食わない。
「石を渡せ。しかるべき場所に保管するんだ。……状況によっては破壊もやむない」
 それは信頼などかけらもない、一方的な命令だった。
 サフィギシルはゆっくりと口を開く。
「嫌だ」
 自分でも驚くほどにはっきりとした声が出た。
 意外な反応だったのか、ジーナはわずかに身じろいだ。もう一度押し付けるように言う。
「その力はお前には必要ない」
「俺たちにはこれが要るんだ!」
 サフィギシルはカッとなって思わず怒鳴った。こちらを見つめる彼女の目に怯えがよぎるのが解る。予想外の反応に、今までずっと逃げるだけだった彼の変化に、明らかにうろたえている。
 サフィギシルは真剣に彼女を見据え、自分の意志を再確認するように言った。
「……要るんだ。絶対」
 この力だけは、この知識だけは、絶対に失うわけにはいかないのだ。
 意気を呑まれて冷めていたジーナの顔色が、みるみると赤くなった。彼女もまた激情のまま怒鳴りつける。
「ビジスの力を受け継いだ。お前はこれがどれほどのことか解ってるのか!? あの男を見くびるな。本国に脅しをかけてこの国を独立させた。世界中の国の王の弱点を握っていた! お前にそれだけの力があるのか。それを背負う覚悟があるのか!」
 サフィギシルはびくりと身を竦ませる。ジーナは声を落として続けた。
「お前はあの男の何を知っている? あの人がしてきたことをどれだけ口にして言える?」
 口元にはどこか自嘲気味な笑みが浮かぶ。
「お前はビジスを知らない。まだ何も解っていない」
 だがそう告げる彼女の顔には、反論を許さないだけの自負もあらわれていた。
「もう一度言う。お前には無理だ」
「…………」
 無理ではないと言い切れるだけの自信などあるはずがない。はったりが通用する場面ではないことは、ひりひりと痺れるほどに張りつめた空気で解る。
 だが、それでも。
 たとえ無理な話だとしても、この力を手放してしまうわけには。
「他に、方法はないのかよ。石を外す以外になんとかする方法」
 一縷の望みを求めるように、願うように問いかけた。ジーナの顔が難しげに歪んでいく。何回も、サフィギシルの顔を見た。机の上や空中に何度も視線を迷わせた。
 だがしばらくの後、ためらうように口を開く。
「……ないことは、ない。だが難しい。それに、お前は」
「あるんだったら教えてくれよ! 難しくても何とかするから、だから言ってくれ」
 すがるようなサフィギシルの表情に、ジーナは言いかけた言葉を呑んだ。
 彼の顔をじっと見つめる。サフィギシルもまた真剣にそれを見返す。
 ジーナはとうとう諦めてしまったように、投げ出すように語り始めた。
「もし、力を保持したまま生きていきたいのなら……」


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