温暖なアーレル首部も大分空気が冷えてきた。冬の足音が風と共に吹きすさぶ昼下がり、街の奥に小ぢんまりと建てられた市街警備八番部隊の詰所の中で、リドーはひとり悩んでいた。 「……しかし、さすがに」 両手で吊るした大きな紙には下手くそな彼の似顔絵がある。街の子供たちが部隊の設立、及びリドーの隊長就任を祝って描いてくれたものだ。目下の難問は、これを詰所の壁に飾るか否か。 彼を慕う子供たちの想いがこもっているのでなおざりにはし難いが、たとえ部下が三人しかいなくても、仕事の範囲が街中の“魔術技師とその作品の取り締まり”にのみ限られていても、一応は勅命を受けて作られた一隊である。その正式な場にこんな私情めいたものを飾るべきか飾らぬべきか……。 「すみませーん」 飾り気のない塗り壁を前にしてうなる彼に、のんびりとした声がかけられた。すぐ側の入り口からしているにも関わらず、思考の渦に飲み込まれているリドーはまったく反応しない。 「いや、だがうちにはもう貼る場所がないし……」 「すーみーまーせーん」 「ん?」 呼びかけはまるで子供のように幼稚な形で繰り返される。リドーはようやく入り口に立つ声の主に気づき、その頭から靴の先まで上下になめるように見つめた。 くすんだ赤茶の髪をみつあみにして、あまり高くはない背丈に地味な服を着込んだ娘。見覚えのない顔だ。眠たそうにとろけた瞳がぼうっとこちらを見上げている。薄く散らばるそばかすが、冴えない顔を幼く見せた。 大人びた気配のない面立ちに、リドーの頭は彼女の歳を十代と確定する。 「なんだ、道案内なら二軒隣の交番に行け。ここは管轄外だ」 どうせいつもの間違い人と決めつけて、上から見下すように告げた。 小さな建物の形こそよく似ているが、彼の仕事は巡査のものとは異なっている。通常の人間を取り締まる警備兵ではなく、あくまで魔術技師とその作品だけを対象としているのだ。 だがぼんやりとした目つきの娘は無表情のまま口を開いた。 「あなたの管轄のお話ですよ、リドー・イジナスさん。お仕事の依頼を持ってきましたー」 「仕事?」 「はいー。ここに依頼の書類が……」 彼女は茫洋とした調子で告げると、肩から提げたかばんの中をもそもそと探り始めた。 せわしく動く二の腕につけられた、濃い灰色の腕章に気がついたのはその時だ。 「お前、協会の」 リドーが驚いたように言いかけたその時、半円状に切り取られた入り口を覗くようにして、新たな客人が顔を見せた。 「アリス、説明は終わったか」 「あ、先輩。まだですー。この人が全然はなし聞いてくれないんでー」 「ジーナさん!」 更なる驚きを含んだリドーの声に、ジーナと呼ばれた女性は無言で頭を下げた。 つやのある黒髪を一束の緩みもなく纏めあげ、装飾のない髪留めでしっかりと押さえつけている。隙のない頭部と連鎖するように、上げられた表情もまたきりりと引き締められていた。鋭い目つきを煽るように、口紅は赤くきつく引かれている。若干厚く塗られた化粧は歳をいくらか高く見せるが、実際には自分よりも若いことをリドーはよく知っていた。 彼女が、どんな仕事をしているのかも。 「お久しぶりです、リドーさん。この度はご昇進おめでとうございます」 リドーは瞬時に姿勢を正すと、まるで上官と向かい合う時のように表情を引き締める。ささやかな緊張感が彼女によってもたらされたようだった。彼はアリスに向けたものとは全く違う態度で喋る。 「アーレルに戻っていたんですか」 「ええ、三日ほど前から。今回より本部に配属を戻されましたので、またこれからお世話になります」 「そうですか。こちらこそよろしくお願いします」 「それで早速ですが、お力を貸して頂けますか。正式な通達もありますので……おい」 それぞれに礼をすると、ジーナはそ知らぬ顔であくびをしていたアリスの肩を軽く小突く。 「書類は」 「せんぱーい、今日ちょっとお化粧濃いですよー」 「うるさい。ほら、預けただろう。白い封筒だ」 「めんどくさーい。挨拶ぐらい少人数でいきましょうよー」 「お前は何でも面倒くさがるだろう。仕事だ仕事、少しは真面目に……ああもう、どうして荷物を整理しておかないんだ。お菓子を入れるなお菓子を!」 呆れるほどに寒暖差がある二人の様子に、リドーはいくらか好奇の混じる目を向ける。外見、声、喋り、態度。何もかもがそれぞれ真逆を突き進んでいるように思える。ぼんやりとしているがあくまでも我が道を行くアリスと、それに調子を崩されてしまうジーナ。 そういえばこれに似た二人と最近よく話すような……と知り合いの顔を思い浮かべて気がついた。 「もしかすると、今からサフィギシルの所に?」 「ええ」 ジーナはアリスの鞄から顔を上げて、疲れたようにため息をつく。書類はまだ見つからないようだ。アリスは焦りもせずのんびりと鞄の中をあさっている。リドーは確認をするつもりで尋ねた。 「再就任の挨拶をしに行くんですか?」 「いいえ」 だが返されたのは冷たく切り捨てるような回答。向けた視線はかみ合わない。 ジーナは背筋を伸ばして立つと、遠く離れた目的地の方を見つめ、きりりと顔を引き締めた。 「少々、奇襲をかけに」 |
※ ※ ※ 作業室はいやに静まり返っていた。物をすみへと寄せてあるため床の上は片付いている。中央には椅子がひとつ。その上にはカリアラが目を閉じて微動だにせず座っている。 サフィギシルは彼の背後に立ったまま、現れた物を凝視した。それだけではなく眉もひそめた。一度視線を遠ざけてみて、時間を置いて確認してみた。だが目の前のものは色すら変えずそこにあるまま。まだ若き魔術技師は、一体これをどうするべきかと頭を抱えたくなった。 黒に近い青い目で穴が開くほど見つめているのは、頭皮をはいで剥きだしにしたカリアラの後頭部。木製の部品や金具で組まれた骨組みの中には、義脳と呼ばれる巨大な石がぴたりと収められている。全体的には透明だが、所々に薄暗いもやのようなものが掛かっていてすみずみまでは見通すことが出来なかった。 それは特に問題ない。濁りがあればあるほど知識や記憶が蓄えられているということなのだ。逆に言えばカリアラの脳は一握りほどしか使われていないということで、それはそれで大変なのだが今はまあどうでもいい。 問題は、その透明な義脳の外縁に、つけた覚えのない謎の装置が組み込まれていることだ。 カリアラの体を作ったサフィギシル本人がどんな装置か知らないというのは、なにかと不安を覚えさせる。サフィギシルは困ったように不可思議な形をした機械を見つめ、あまりにも透明すぎる義脳を眺め、ため息をつきたい気持ちでカリアラの頭を閉じた。 (まあ、どうせ爺さんのやったことだろうし……大丈夫だよな) 柔らかな布や骨組みを何重にも義脳に被せ、飛び出した端を特殊な針と糸で縫う。 覚えがない、ということは自分の師であり父であるビジス・ガートンが何か仕込んだものなのだろう。あまりにも破天荒な人物だが無意味な悪さはしないはずだ、ここは信用しなければ。 むしろ本当の難問はそのビジスの魔術技師としての力の集大成である義脳が、カリアラの知能にかかればほとんど活用されずに終わりそうなことかもしれない。 (……まあ所詮は元魚なんだし。死ななきゃいいんだ、要するに) 自らに言い聞かせなれた言葉を心の中で呟くと、サフィギシルは手早く頭皮の接合作業を完了させた。 あとは髪をつけて目覚めさせるだけである。人間のするかつらによく似た頭髪素材を布張りの頭に被せ、要所をぽつぽつ拾うように同色の糸で縫いつける。くすみきって色の薄れた輝きのない金髪だ。長く陽に晒されて痛んでいるので、後から魔力で補修してやらなければならない。 (面倒くさい。どうせこいつ丸ハゲでも気にしないのに) 十九年間ピラニアとして生きてきたカリアラは、服飾や外見に関する把握が異様に甘い。毎日同じ服を着ていても気にもとめないだろうし、毎日違う服を着ていてもそれはそれで気がつかないに違いなかった。人間の服装の相違というのをきちんと理解していないのだ。脳みそが透明なだけはある。 「はいできあがり。さっさと起きろ脳みそ透明」 調整の後に魔力を込めて、椅子の上で眠る彼の意識を呼び起こした。ぱちりと開く丸い目は赤みがかった茶色をしている。変わりばえのしないそれがきょとんと作り主を見上げた。 「あ、サフィ。おはよう」 「もう夕方だ。お前、自分がどうなったか覚えてるか?」 カリアラはまだ意識がはっきりしていないのか、何もない空中をぼんやりと見回しながら呟く。 「階段から落ちたよな、朝」 「それは今日だけじゃなくて昨日も一昨日もその前もだ。階段は朝だけじゃなくて昼にも落ちてる。そうじゃなくて、街で怪我したんだろ? 崖になってるところを下まで一気に頭から」 「そうか」 もう一度「そうか」と口にすると茫洋とした目がはっきりと澄んでくる。完全に目が覚めたらしく、カリアラはまばたきをして首を回すと大きな大きな息をついた。 「うん、落ちた。いっぱい落ちた。痛かったな、あれはすごく危なかった」 「覚えてるならいい。記憶が破損してたら本当にやばかったよ」 いつも通りの彼の様子にサフィギシルも長い安堵の息をつき、ゆっくりと伸びをして全身の疲労を癒した。落ち着くとすぐに小言を吐き始める。 「痛かっただけで済んだことに感謝しとけ。お前もうちょっと体のすみずみまで気を配るとかしろよ。こう毎日毎日怪我されちゃ、修理の手も……」 延々と続きそうなそれをさえぎり、かすかなノックと囁くような声が届いた。 「もう終わった?」 「終わってるよ。入っていいし、喋っても大丈夫」 サフィギシルは閉じられたドアの向こうに話しかける。間髪いれず入り口は勢いよく開けられた。全く同時に元気のいい明るい声がその場に響く。 「なんだよ早く言えよー。あーもー、じっとしてて疲れたー!」 ピィスは遠慮なく作業室の中に入り込むと、鬱屈を晴らすように小さな体を大きく伸ばした。 頭部を開いている間は囁き声すら立ててはいけない。剥きだしにした義脳に直接衝撃が伝わると、ひどい場合は記憶や知能に障害が発生することもあるのだ。作業で起こる物音は仕方がないが、周辺の騒音はできる限り遮断しなければいけない。 というわけで人一倍声の大きいピィスには、絶対にしゃべらないようサフィギシルから執拗な警告が出されていた。 彼女はいつものように少年にしか見えない格好で、早速作業室の中のものを物色しはじめている。 「大丈夫ですか? なにも異常はありませんか?」 行動の素早いピィスに遅れて、シラが部屋に入ってきた。彼女は心配そうにカリアラとサフィギシルを交互に見つめる。触れてもいいのか戸惑うように、カリアラの側に寄った。 憂いを帯びた表情は彼女の美しさを恐ろしく際立たせる。見るものが見れば様々な美辞麗句が湧き出すに違いない。だが儚さすら感じさせるその顔立ちは、続いた答えによって崩れた。 「平気、問題なし。外傷だけで中身には影響なかったよ」 「あああよかった! 心配したのよ痛かったでしょ大丈夫もう痛くない!?」 シラはすぐさまカリアラに飛びついて全身をなで回しはじめる。カリアラは驚きもせずされるがままに受け止めて、平然とした顔で答えた。 「うん、大丈夫だ。もう痛くない」 「そうなの、もうあなたが運ばれてきた時からずっとずっと心配して心配して心配して……何かあったらどうしようかと。ああよかった、よかった……」 シラはとても大切なものを慈しむように、カリアラの体をぎゅうと抱きしめた。 「一応しばらく体全体に痺れがあると思うけど、じっとしてれば治るから。カリアラ、今日一日はあんまり動くなよ」 サフィギシルは二人の世界を作る彼らに説明を投げかけると、特に動じる気配もなく奥の作業机に戻った。いつもの自分の椅子に座り、生ぬるい目を遠くに向ける。 「あー、俺も慣れたよなー……」 「ごめんオレまだあの変化には慣れない。すごく心臓ドキドキしてる」 「お前も毎日毎時間ああいうのを見せられたら嫌でも慣れるよ」 引きつった表情でシラを見つめるピィスを笑うが、その目はゆるく濁っている。 「お兄さんお疲れですね。人生に」 「ああ疲れてるとも。なんで俺毎日家事とか説教とかして生きてるんだろうって時々疑問に思うぐらいだ」 まだ家事になれないシラと、何をやっても失敗ばかりのカリアラとの生活には常に疲労がつきまとう。ピィスは同情というよりもむしろからかうような顔で、ぐたりと曲ったサフィギシルの肩を叩いた。 「育児に悩む母親みたいになってるなー。まだ二歳なのに」 「歳のことは言うな」 「白髪なのに」 「髪のことも言うな。お前もちゃんと見ててくれよ、崖から落ちたの一緒にいた時なんだろ?」 歳に合わない白い髪を気にするように押さえつつ、サフィギシルは不満の顔をピィスに向ける。 「いや、ちょっと目を離したらいなくなってて。おかしいなと思ったら落ちてたんだよ一番下まで」 「だからちゃんと見てろよあいつ頭悪いんだから。義脳まるっきり透明なんだぞ」 「カリアラは走るの下手なんだよ。体の重心ちゃんと取れてないんじゃねーの? ま、それもそのうちなんとかなるって。次からはきちんと注意しときますー……と、なんだあれ。手紙?」 責任を逃れるように逸らされた目は部屋のすみでぴたりと止まる。山積みにされた木箱の奥に隠されたたくさんの白い封筒。より近くにいたシラが歩み寄った。 「あら、ずいぶん沢山ありますね。どうしたんですか?」 「あっ、見るなよ! 開くな!」 焦りを含んだ非難の声に、伸びたシラの手が止まる。代わりにピィスが近づいて一通を取りあげた。宛先と差出人を確認すると、呆れた顔でサフィギシルを振り返る。 「お前これジーナさんから来たやつだろ。ひとつも読んでねーじゃねーか。あーあ、怒られるぞー」 「え、誰ですかその人」 「別に関係ないだろそんなこと。だから動かすなって!」 気になってピィスに尋ねるシラの動きを怖れるように、サフィギシルがより焦った声を出した。カリアラはきょとんとして手紙と彼を交互に見つめる。ピィスは付きまとう三つの視線をおちょくるように、ひらひらと手紙を振った。 「んなこと言ってないで新しいのだけでも読めばいいのに。あの人帰ってきたからさー、そろそろ」 「えっ、か、帰ってきたって」 さりげない発言にサフィギシルの顔色が目に見えて変わったのとほぼ同時、かちゃ、というあまりにも地味な音が玄関から聞こえてきた。かすかなそれを耳にしたのは聴覚の優れたカリアラとシラだけ。だがすぐさま続いた複数の足音は、誰にでも解るほどに荒々しく攻撃的に近づいてくる。四人が四人とも驚きのまま閉じられたドアを見た。 「突破!!」 響きのいい号令が下り、盛大な音と共に入り口が開かれる。 現れたのは武装した兵士が四人に女が二人。先頭に立つ兵士は顔見知りのリドーだった。兵士たちは複雑な表情をして、言葉もなく硬直したカリアラたちを見つめる。 悪者になりきれない兵士たちを分け入って、黒髪の女性が室内へと歩み寄った。引き締められたきつい顔が中の四人を順に睨む。サフィギシルの顔ががみるみると青ざめていく。 女性は力強く作業室の床を踏み、脅すような厳しい態度でサフィギシルに向けて言った。 「魔術技師協会です。重要なお話がありますのでサフィギシル・ガートン技師には即座に本部までご同行願います。五秒以内に応じなければ強制的な連行が認められます五四三二一、連行開始!」 息継ぎも少なく言うと彼女は腕を振り下ろして突撃の合図を送る。待機していた兵士たちが途端に部屋の中へと入った。後に続いたみつあみの女性がのんびりとカリアラを指差す。 「せんぱーい。この子人型細工ですー」 「よし、捕獲! すみやかに引きずり出せ!」 命令に従って、リドーともう一人の兵士がカリアラに取りついた。 「なんだ!? おれ引きずられるのか!?」 「口を押さえるな、噛まれるぞ!」 「何するんですかっ! やめてください!!」 「シラ、落ち着いて」 悲鳴を上げて止めようとするシラをピィスが止める。彼女はさして動じる様子もなく、顔を引きつらせながらもわめくシラの体を押さえた。 「抵抗しなきゃ大丈夫。いいから引いて引いて。な? 隊長お仕事ご苦労サマー」 「ちょっとやめ……」 小さな体に似合わない強い力でシラの動きを封じると、カリアラはほとんど抵抗もなく二人の兵士に引きずり出された。びちびちと魚のように暴れながら長い廊下を去っていく。玄関に繋がる曲がり角で、リドーが申し訳なさそうにシラに向かって頭を下げた。 「なんだよいきなり!」 サフィギシルもまた残りの兵士にしっかりと両腕を掴まれている。ジーナは反発する彼の顔ぎりぎりに自分の顔を近づけて、低く、腹の底に響く声で脅した。 「強制連行と言っているんだわからんのかこのろくでなし。ああ? 私の名前を覚えているか。さあ少しでも記憶にあるなら言ってみろ」 「ジ、ジーナさ」 言い終える前に思いきり頭を殴られる。サフィギシルは情けない声を出した。 「ほう、それぐらいは覚えていたかこの出来損ないのバカ人形。今日こそは逃がさないぞ。そこの魚と二体一緒に長い長い話があるからとっとと来い」 「嫌だ! 絶ッ対行かないからな!」 ジーナはまた彼の頭をげんこつで殴りつける。サフィギシルは叱られた子供のような顔で睨むが彼女は全くひるみもしない。刺さる視線を強者の余裕をもって見下し、どこからか黒い棒を取り出した。 「ならば力ずくだな」 それは手のひらを飛び出す程度の長さで、棒というより筒のようだ。サフィギシルの顔が恐怖に染まる。ジーナはためらうこともなく、黒い棒の先端を彼の胸に叩きつけた。 弾けるような音がして、サフィギシルはぐったりと力を失い兵士たちに支えられる。 遠くで見ていたシラが小さな悲鳴を上げた。落ち着かせるピィスの声が後に続く。 「これも外へ! すぐに本部に運んでください、後の二人は必要ありません」 ジーナは顔色一つ変えず棒をしまって指示を出す。兵士たちは気を失ったサフィギシルをすぐさま外へと運び始めた。部屋の奥でアリスが呑気にあくびをひとつ。ジーナは息をつくこともなく、隙のない動きで出口に向かった。 壁際でシラを押さえるピィスに早口で話しかける。 「ピィス、ペシフを借りる。今晩は遅くなるからこの家で待機しろとの伝言を預かった」 「了解ー。あいつらあんまりいじめないでやってね。このひとも心配するからさ」 苦笑いのまじるピィスの言葉に、ジーナは小さな笑みをもらす。 だが敵意を剥き出しにして睨むシラに目を向け、上から下までじっくりと検分するように眺めると、不愉快そうに顔を歪めてすぐに体を廊下に向けた。 「撤収!!」 処置を終えて戻ってきた兵士たちに堂々と指示を下すと、彼女もまた早足に作業室を去っていった。アリスがのんびりそれを追う。ピィスとシラにぺこりと軽く頭を下げると、ゆっくりとドアを閉じた。 その足音ですら廊下を去れば、残されたのは立ち尽くすシラとピィスだけ。 ピィスはシラの体を離すと感心したように言った。 「うーん、相変わらずカッコいいな」 「なに呑気なこと言ってるんですかっ! あの人一体何なんですか!!」 食いつきそうな勢いのシラをなんとかなだめるように、ピィスは無理に笑顔を作る。わざとらしい表情のまま困ったように言い聞かせた。 「や、大丈夫だよ。多分カリアラは殴ったりしないと思うし、サフィも別に殺されるわけじゃないから。ほら落ち着いて、二人とも長くても明日には返してくれるはずだからさ」 シラはきつく口を結ぶと顔をそむけて鼻をすすり、泣きそうな声で言う。 「何なんですか、あの人」 「ええと。ジーナさんって言って、魔術技師協会の協会員。ビジス爺さんと、前のサフィギシルを専属で担当してて、昔からこの家によく出入りしてたんだ」 ピィスはどう説明していいのか悩みながらのように喋る。珍しくすべりの悪い言葉はそこで詰まった。 「……で」 彼女はひどく言い辛そうに口を開く。 「ビジス爺さんの、愛人、って言われてた人でもある」 あまりにも想像からかけ離れた説明に、シラは静かに固まった。 |