番外編目次 / 本編目次


 どうしよう。サフィギシルは本日何度目かも知れない泣き言を飲み込んだ。だが口の中の料理はなかなか喉を通ってくれない。噛みすぎて液体となった魚の身をとろとろと舌で揺らし、少しずつ、少しずつ、ゆっくりと飲み干した。隣に座るペシフィロが、心配そうに顔を覗く。だが笑い返す余裕もなくて、うつろな目を皿に落とせばソテーされた魚の身はまだ半分以上ある。
「口に合わなければ残してもいいんですよ」
 ペシフィロに囁かれて首を振る。決してまずいわけではないのだ。ただ、緊張に縮む胃が物を受けつけないだけで。一皿だけなら残しても問題はないだろうが、この調子では全料理手付かずのまま厨房に戻しかねない。さすがにそれは、料理を日課とするものとして申し訳ないのだが。
 しかし、この状況では。
 ちらり、ちらりとあちこちから人の目がサフィギシルを見ては逸れ、またひそかに覗いては隣の者に話しかけ……と小蝿のように飛んできては離れていく。気になるのならずっと見ていればいいものを、サフィギシルが見返すと誰もが目を逸らすのだ。その表情は気まずげで、どこか怯えを含んでいた。会堂に並ぶ十余人の大人たちは、みなそれぞれに喋りながら目の端でサフィギシルを捕らえている。それでも話し掛けてくるのはペシフィロと、逆隣の男だけ。ペシフィロが席順に気を配ってくれたのだろう、ハバルというその男は家臣の中では一番若いようだった。
「緊張しますか?」
 ぎくりとして手元が狂い、ナイフの先が皿を叩く。動揺のまま見返すと、ハバルは手のひらを見せた。
「良かった、僕もなんです。ほらこんなになっちゃって」
 その指先は明らかに震えている。ハバルは驚くサフィギシルを見て人懐こい笑みを浮かべる。
「多分、ここにいる全員が同じぐらい緊張してると思いますよ。ねぇ先生?」
 ペシフィロが飲みかけていた水を詰まらせて咳き込んだ。どうしてそこまで動揺しているのだろう、と何気なく周囲を見渡せば全員が気まずい顔をしている。サフィギシルが目をやれば恐ろしげにうつむくし、手が震えるのかナイフが小刻みに皿を鳴らす。威厳ある風貌の大臣ですらわざとらしい空咳をした。
「こりゃ調理場は騒動だ。みんな料理を残しちゃあコックの顔が立たないでしょう。ほら、コーデさんなんて今にも倒れそうですよ。どうですかサフィギシルさん。ここらでちょっと大暴れしてみませんか」
 いたずらめいた囁きに驚いて身を引けば、ハバルは目を丸くする。
「暴れませんか?」
「暴れませんよ!」
 とんでもない、と全身で訴えると彼は急に体を折って、どうしたのかと不思議に思えば笑っているようである。先ほどとは別の意味で震える彼に困り果て、ペシフィロに目をやるとこちらもまた困り顔。
「……ハバル。落ち着きなさい」
「僕はこの中で二番目に落ち着いてると思いますがね。センセ、いいじゃないですか。堅っ苦しいのはいけねぇや。やるならやるでさっさと楽にしちまった方がいいんですよ。ねぇサフィギシルさん?」
「あの言ってる意味がわからないんですけど」
「いやァね」
 気を張らずに喋りだすと地元の訛りが混じるらしい。ハバルは小気味良く口を回す。
「何しろこんなにも静かに進む食事会は初めてなもんで、みんな心臓に悪いんですよゥ。ビジス・ガートン閣下がいる時ゃそりゃあ大変だったもんで。退屈だなァとか言い出したら最悪で、いきなり皿を動物に変えちまったり、そのまま戦わせたりしてねぇ。客が来てるときなんかみんな大慌てですよ。それでもあの人楽しいだろうとか言って涼しい顔してるんだもんなア。楽しいのは楽しいんだけど、一瞬先の行動が見えませんからね。傍観者の気分で笑ってたら、いきなり担ぎ上げられて動物の中に吹っ飛ばされたりするんだもの」
 あの時は参りましたねぇ、と笑いかけられたペシフィロは今まさに参っていますと言わんばかりに眉根をきつく寄せていた。それを見たハバルは笑うが周囲のものは緊張を高めるばかり。指でつつけば崩れ落ちてしまいそうな面持ちで、しんと黙りこくっている。
「みんな食事会っていったら前の晩から『標的にされませんように』ってお祈りまでしてるんですよ。ま、食事なしでも閣下がこちらに来るだけで同じようなもんですが。だからね、暴れるんなら一息に楽にしてくれなきゃア俺たちみんな卒倒だ」
(あ、俺って言った)
 細かい箇所に着目しながらハバルの笑みをじっと見つめる。なんだか既視感を覚えると思えば、どことなくピィスに似ているのだった。ペシフィロが「ああやってしまった」という顔をしていて、家でも職場でも同じような奴と一緒で大変ですねと言いたくなる。
「……ハバル。場をわきまえなさい」
「失礼致しました。で、サフィギシルさん。大暴れの方は?」
「だからしませんよ!」
「なんだ残念。今まさに絶好の雰囲気なのに。ちょいとつつくだけでみんな心臓がひっくり返りますよ」
 くすくすと笑う彼はまるで小さな子どものようで、サフィギシルはナイフとフォークを手にしたままどうするべきか分からなくなる。だが悪い気はしなかった。さっきまでは自分の方が大人たちの雰囲気に押しつぶされそうだったのに、今となってはサフィギシルが彼らを緊張させている。それはただの誤解なのだが、なんとなく、気分がよかった。
 サフィギシルがビジスのような人間ではないことを見抜いたのだろう。ハバルは一足早く緊張の輪を抜けて、再び食事に取りかかった。今度は迷うことなく大振りに切り分けて、次々口に入れていく。みるみると消えていく料理を見てなんだか腹が空いてきて、サフィギシルも魚を一切れ口に含む。今度はするりと喉に落ちて、また一口、もう一口と見る間に皿を空にした。
「あっ」
 思わず大きな声が出る。ひくっ。と何人もの大人たちが息を呑んで合唱のようになった。
 サフィギシルは赤面して、目を見張る彼らになんでもないと合図を送る。はたはたと手を振ると彼らは皆本当は何かしたのではないかと疑うように、恐ろしげに目を逸らす。
「どうしました?」
 言葉の調子は涼しげだがハバルの顔は「やったね!」と喜んでいた。
「……いや、その。カ……うちの者に、残したもの持って帰ろうかなって思ってのに、忘れてたから」
 消え入りそうな声で言うとハバルはしばしきょとんとし、盛大に吹き出した。一体何が起こったのかと周囲の者がざわめきだす。サフィギシルは隅々まで赤くして懸命に言い訳をした。
「だ、だってこれあいつらが好きそうな味だし……残すのもったいないし……」
「後で用意させますから。ここで残すのはやめなさい」
 ペシフィロはたしなめるがハバルはますます腹を抱える。
「いい。いいですよあなた。面白い」
 ひいひいと涙すら滲む目で誉められて、とてつもなく恥ずかしくて悔しいけれど、少しだけ嬉しくなった。ああ、と気持ち良さそうな息をついて、ハバルは水を一息に飲む。
「まあ、あれにはかないませんけどね」
 楽しげな目が示したのは場の上座、黙々と料理を食べる十一歳の国王だった。彼は口いっぱいに食べ物を頬張りながら、サフィギシルを見つめている。彼はふとテーブルに置かれた果物を取って掲げた。
「ねえそこのこれ食べないの? ちょうだい」
 サフィギシルのテーブルにも同じものが手付かずのまま置いてある。側についていた給仕の女が慌てて手を下ろさせた。
「陛下っ。失礼ですよ」
「えー。みんないっつも僕が残すと怒るくせに。食べなきゃ今度は僕が怒るよ」
「すみません。いただきます」
「よろしい。それおいしいんだから全部食べてね。ピィスに持って帰っちゃだめだよ」
 ペシフィロも、と念を押すと給仕の女が「またケンカしたんですか」と言うので国王は口を膨らせて、違うよあいつが悪いんだ。とぶつぶつと文句を続ける。そういえば赤く熟したこの実はピィスの好物だ。そう気がついてペシフィロを見れば、彼は果実に負けないぐらい顔を赤く染めていた。
 国王はペシフィロに空のグラスを向ける。
「おかわり」
「陛下。私に言わないで下さい」
 ハバルがまたもや吹き出した。他にも一人、笑いを堪えている男。よく見てみれば恥ずかしそうな者もいれば、ペシフィロと王を微笑ましげに見守っている者もいる。中には緊張がほどけたのか肩の力を抜いている人もいた。
「ね。いいでしょう、うちの大将」
 あんた子どもとはいえ仮にも王をあれだとか大将だとか……と呆れながらも口元はゆるんでいく。サフィギシルはなんだか楽しくなって笑った。
(変な国)
 会堂の中は少しずつ話し声が増えていく。賑わい始めた空間で、サフィギシルもまたハバルたちと喋りながら料理を食べた。服の重さや苦しさなどは、すっかりどこかへ消えていた。



「うわ狭っ」
 思わず声に出した後で、サフィギシルは口を閉じる。おそるおそる振り向くがペシフィロは笑っていて、気分を損ねた様子はなかった。ほっとして、改めて彼の執務室を眺める。
 両手を広げて転がればすぐに壁にぶつかる程度の空間に、仕事用の机がひとつと、後は大量の本ばかり。無駄なものを置く余地がないのだろう、飾り物の類はどこにも見られなかった。例外として、ひとつだけある窓の横に謎の木人形がぶらさがっている。きっとピィスの手製なのだろう。華々しさは微塵もないが、ペシフィロという人を凝縮したような部屋でおかしかった。
「こんなに狭くて大丈夫なの?」
「ここは待機するための場所ですから。実際に仕事をする時は、城のあちこちに出向くので問題ありませんよ」
「隣の部屋使えばいいのに。あんなに広いんだから」
「あれはビジスの部屋ですから」
 そう言って覗いていた体を戻せばそこは既にビジスの部屋だ。ペシフィロの部屋の何倍どころか何十倍という勢いで広がるのは、何もない質素な空間。質のいい絨毯や石壁にかかるタペストリーは城らしく高級品と思われるが、何しろそれ以外にほとんど物がないのだから豪華とは言い難い。あるのは机と鏡、あとは本棚含む収納棚が並ぶだけ。ビジスの死後荷物を整理したわけではなく、昔からずっと変わらないとペシフィロは言う。ここまでやる気のない部屋も珍しく、とても政務に関わっていた人間のものとは思えない。隣のペシフィロに少しぐらい場所をあげてもいいのでは、と考えるのはごく自然なことだろう。
「……どう考えてもおかしいんだけど。第一なんでそっちの部屋はあんなに狭いんだよ」
「元は物置でしたから。ほら、掃除用具とか入れておく……」
「物置って! なんでそんなとこで働いてんの!」
「狭い方が落ち着くんです」
 それにしても程があるだろ、と隣接する大小の部屋を比べていると、ペシフィロは寂しげに笑う。
「みんな部屋を変えた方がと言ってくれるんですが、やはりここには思い入れがありますし。なんとなく、引っ越したくないんです」
「思い入れ……」
「ええ。例えば閉じ込められたり、奥に封印された呪いの剣が眠っていたり、水責めにされかけたり、あとはそうですね……」
「ねえ本当に幸せだった? 爺さんといて幸せだった?」
「いえ、悪いことばかりじゃなかったんですよ。半々……いや、悪いことが少し勝つ程度です」
「多いよ!」
 ペシフィロは遠い目でそっとドアの端を撫でる。
「若い頃はねぇ、どうしてやろうかこのクソジジイぐらいは普通に思ってましたけど。そのうちに慣れるものですよ」
 あくまでも穏やかに笑う顔に嘘が見えなくて、だめだこの人本気だよ、と嫌でも実感してしまう。シラのように作り笑いで言うのなら、怒りを隠した冗談とも取れるのだが、彼の場合は正直な感慨としか思えなかった。
 そうしていると、部屋の外からペシフィロを呼ぶ声がする。どうやら用事ができたようで、ペシフィロは呼びに来た男と二言三言話した後で申し訳ない顔をした。
「すみません、少し待っていてもらえますか」
 うん、と口にしかけて言い直す。
「はい」
「退屈でしたら城内を見て回ってもいいですよ。特に迷うほどの道ではありませんから」
「はい」
 ではまた戻ってきます。そう言い残してペシフィロは小走りに出ていった。サフィギシルは彼が城内をちょこまかと駆けている姿を想像して笑ってしまう。さてどうしようかと部屋を見回したところで、布をかけた全身鏡が気になって、近づいた。
(そういえばうちも鏡多いよな)
 ビジスは外見にこだわる人間だったのだろうか、と考えながら布をめくると見慣れない男がこちらを見ていてどきりとする。だがそれは普段とは違う格好をしたサフィギシル自身だった。この場に誰もいなくて良かった、と嘆息して鏡を見る。
 改めて全身を眺めてみると、想像していたよりも落ち着いた姿をしている。感じている着苦しさは鏡には映っていない。むしろちゃんと着こなしているように見えて、充足感が胸を満たした。外見だけは大人の男になったようで、内心との落差に違和感すら感じてしまう。だが皆にもこう見えていたなら悪くはない。ずらりと並んだあの大人たちの中にちゃんと紛れていたのだろうと考えて、サフィギシルは初めて心の底から安堵した。
(やっぱ刺繍見えないな)
 上着の裾を引いてみるが、内側と中着のベストを飾る模様はどの位置からも覘かない。脱いだときに見せるものなのだろうか。上着にも飾りはあるがそちらの方は簡略化されている。こうして、隠しながら己を飾り立てるというのはどういう気分なのだろう、とこの国に思いを馳せた。
 港町として栄えていたアーレルは、ウェルカ国の領土だった時代から、すでに当時の首都よりも賑やかで金力を持っていたという。アーレルには開拓すればますます発展していく要素があった。だが本国は保守的な思想をやめず、自由に商売をさせてくれない。不満を抱えていたアーレル領主の元にビジスが現れ、独立をけしかけたのが五十年ほど前のこと。以来領主を初代国王としてこの城を建て、正式な場で着る国服を作った。
 すでに独立しているはずなのに、アーレルの住民はウェルカのことをいまだに本国と呼んでいる。派手な祭りを起こす際も「本国に怒られる」などと冗談めいて言う習慣が残っているし、何よりもこの国服自体が本国に遠慮する形で作られている。ウェルカで最上色とされる紫は使ってはいけないだとか、刺繍の模様も白鷲を入れてはいけないなどと細かい規定を抱えているのだ。国力ではウェルカなどとうに超えているというのに、アーレル人はいつまでも本国よりも低い立場を貫いている。
 だがそれは、あくまでも上っ面だけの話。
 サフィギシルは上着を開く。鏡の中に映るのは、重苦しいまでにびっしりと縫いつけられた刺繍模様。そこらにあるタペストリーの何倍も手の込んだ、呆れるほどに金のかかる代物だ。ジーナの言うとおり豪商ならば金糸銀糸に宝石に、とさぞや眩しい光景になるのだろう。表面上は地味を貫きながら、内心では顕示欲を満たしている。
「変な国」
 呟きながら上着を閉めると、鏡の裏から不満げな声がした。
「変って言うなあ」
 ぎょっとして退いた足元に小さな頭。鏡をずらして這いずる姿勢で現れたのは、食事会で嫌というほど見た顔だった。
「お、王様!?」
「大きな声出さないでよ。かくれんぼしてるんだから」
 幼い王は体のほこりを払いながら、鏡で姿を確認する。つやのある黒髪を直したところで、ついとサフィギシルを見上げた。
「変だけど変って言ったら負けだから変じゃないって言いなさいってみんな言うよ」
「え、変だけど? 変じゃなくて? え?」
「サフィギシルは頭が悪いの?」
 なんだとこのクソガキが、ぐらいの罵倒は頭に浮かぶがさすがに言う度胸はない。第一よく考えてみれば、彼の方がサフィギシルより十年近く年上なのだ。
「サフィギシルはピィスと仲がいいんでしょ。ねえ、あいつ僕のことなんて言ってた?」
「え。いや……ちょっとわがままかなあ、とか」
 わがままで甘ったれで自分の地位を自覚している生意気なクソガキとか言ってました。と正直に告げるのはためらわれて口ごもる。だが王にはそれでも十分に伝わったようだ。不機嫌そうに顔つきを曇らせると、ぶつぶつと愚痴をもらした。
「いやなんだよね。ちょっと年上だからってさ、すぐえらそうにするし。なんだこんなことも知らねーのー? とか嬉しそうにからかうし。問題の出し合いっこしたら、僕が習ってないところばっかり言って馬鹿にするし。まだ見てないところを出されてもわかるわけないよねえ」
「そう! やるよなー、あいつ!」
 あまりにも思い当たるので思わず大きな声が出た。目を見張る王に構わず経験上の文句を連ねる。
「偉そうに他国語喋って『わからないのー?』とか言って、お前が知ってるだけじゃねえかって話だよな。それで自分の苦手分野は隠してさ」
「そうそう! この前なんて問題出されるの嫌だからって算術の教科書隠して、得意な本だけ上に出してたんだよ。それで好きな問題出してみろよ答えるからー。とか言っちゃってさ! ずるいよね」
「やるよ。それあいつなら絶対やる。他人はからかうくせに自分は常に優位に立ちたがるんだよな」
「平等ってものがないんだよね。こっちが文句言ったらかわいがってやってるだけだよとか言うし。そんな愛情いらないよ」
 きらりと光る目と目が繋がる。二人は共感に動かされて握手した。
「……あ、敬語」
「いいよ。同志だもん」
 ぶんぶんと力いっぱい振りながら、国王は満面の笑みを見せる。吹き飛ばす勢いで離した手を、そうだ、と叩いた。
「同盟にしよう。ピィスと断固戦う同盟。僕が会長で、サフィギシルが副会長」
「活動内容は?」
「いつかピィスをぎゃふんと言わせる!」
 あまりにも楽しそうに言うのでつられて愉快な気分になって、サフィギシルは声を立てて笑う。
「そりゃいいや。いつか絶対言わせてやろうな」
「うん。サフィギシルはそのうちここを使うんでしょう? だったらこの部屋を本部にすればいいよ」
 え、と正直に呟くと、国王は濁りのない目で「何言ってるの」と訴える。
「だってサフィギシルはビジスなんでしょう?」
「ビジスって。そりゃ爺さんの知識は継いだけど……」
「みんな言ってたよ。ビジスの中身をもらったから、サフィギシルはビジスと同じなんだって。だからここで仕事をするんでしょ。ビジスもね、前はここでいろんなことしてたんだ。サフィギシルもここに座って国のことをするんでしょう?」
 それが当たり前で他の事例などありえないという顔をするので、一瞬、そうなのかもと考えて慌てて首を横に振る。サフィギシルは走り始めた心臓を落ち着かせるように喋った。
「俺は、爺さんの知識をもらったけど、政治のこととかよくわからないし……」
「知識があるのにわからないっておかしいよ。やればできるんじゃない?」
「できるかもしれないけど、なんかそれは……考えてなかったし、そんないきなり言われても」
「じゃあこれから考えればいいんだよ」
 陛下。と声がしたかと思うと入り口に若い女が立っていて、王はサフィギシルの後ろに隠れる。
「もうっ、ご迷惑でしょう。申し訳ございませんサフィギシルさん。ほらお薬の時間ですよ」
「やーだー。もう治ったもん。飲まなくても平気だよ」
「そうやって油断するからすぐにお熱を出すんです。それでは失礼いたしました」
 侍女らしき女は王を抱えて引きずるように部屋を去る。暴れる体を押さえる動作に慣れが見えて微笑ましい。サフィギシルは二人を見送って、手を振って、ぱたんと扉が閉じたところで呆然とした。まさか、そんな話になっているとは思ってもいなかったのだ。ビジスが政務に携わっていたことは知っていたが、世界情勢どころか地理の把握も甘い自分がその位置に立つなんて。確かに、不可能なことではない。今はまだ石に眠るビジスの知識を取り出して活用すれば、彼がやっていたような仕事をすることもできるだろう。
 しかし、それにしても予想外の話だったので感覚が掴めない。サフィギシルは部屋を見回す。ビジス・ガートンの執務室。あまりにも広いこの部屋に通い詰めて、あの机に座って政務を執り行なって……。どんなに頭を働かせてもそんな自分は見えてこない。
(……ペシフさん、まだかな)
 じっとしていられなくて部屋の中を歩き回る。鏡を覗き、棚を開き、並べられた本をはらはらとめくってみてはつまらなくて元に戻す。そうしてしばらく待ってみたがペシフィロは来なかった。退屈で、いたたまれなくてもうこの場所にはいたくない。サフィギシルは迷わないよう注意しながらおそるおそる部屋を出た。


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