廊下で人と会う度に仰々しく頭を下げられて、サフィギシルは自分がかなり高く見られていることに気づく。客だからというだけではない。緊張した面持ちには従順さが見え隠れして、まるで主と言わんばかりだ。重臣たちにまでそんな態度を取られては、じゃあこっちは誰に頭を下げればいいんですかと言いたくなる。恐ろしいことに城内にはサフィギシルよりも立場の高い人間がいないようだった。 (ちょっと待ってくれよ。なんでだよ) 心細さに足を速めてペシフィロを探すのだが、彼は一度外に出るとあちこちに呼ばれてしまいなかなか戻って来れないらしい。厨房に呼ばれてましたよ、だの、植え込みの修繕を頼まれていましたよ、だのと一体どれだけ雑用をすれば気がすむのかと怒鳴りたくなる勢いだ。おかげで城の中をそろそろ一周しそうである。 諦めて執務室に戻ろうか、とため息をついたところで見慣れない道をみつけた。こうなればいっそ制覇してやる、とやけになって足を踏み込む。どうやら広い部屋の裏回りとなっているようだ。狭くひんやりとしたそこは進むほどに人の気配が遠ざかり、生活音が消えていく。空気からも熱が去るようで、サフィギシルは不安から身を竦ませる。服の中で小さく体を縮めながら歩いていると、突然目の前に人が現れたので息を呑んだ。相手もまた恐怖にこわばる顔つきでサフィギシルを見つめている。白い髪、重たげな暗色の正装。全身を映す大きな鏡が飾られているのだった。本日二度目の失敗に情けなくて頭が垂れる。 (突き当たりにこんなの置くなよ!) 鏡の中のサフィギシルに苦々しく睨まれる。その表情があまりにも子どもじみていたので、頬を叩いて顔つきを引きしめた。背筋を伸ばすと身長が高くなったように見える。すらりと立つ姿がなかなかさまになっているので、改めて安心した。これならば落ち着いた大人の男に見える。城内を歩いても、食事会に紛れ込んでも違和感はないだろう。 鏡に気を取られていたが、目の前には大掛かりな扉があった。押してみると鍵はかかっていないようで、意外にも軽く開く。サフィギシルは扉を開けた。そのまま、ノブを手に固まった。 吹き抜けの天井を持つ広間。涼やかな空気が流れるその正面には、まるで教会のように演壇が設けられていた。人を集める場所なのだろう、席が並べられているが今はサフィギシルしかいない。 (いや、違う) サフィギシルの目は演壇の上から離れない。 ビジス・ガートンが、そこにいた。 巨大なキャンバスは暗く塗りつぶされてまるで夜の景色のようだ。四隅を埋める群集は顔こそ描かれていないが、皆驚愕に身を乗り出して一点を見つめている。中央に二つの光。その片方は淡い色を身に纏い王座に腰掛けている。 その足元に跪く、恐ろしいほどの赤。 膝をつき、服従の姿勢を取っているが彼の口は危険な笑みを湛えている。眼は床に向けられているが今にもこちらを向きそうで、サフィギシルは息をすることすら忘れた。赤銅の髪に合わせたのだろうか、彼の纏う国服は黒に見えるほどに深いえんじ色だ。だがはだけさせた上着の内から隠しきれない血の色が鮮やかに見え隠れして、夜の中に一点の炎を灯している。炭の奥で息を潜める火種の色だ。彼は全てを焦がす己の力を内に隠し、粛然と、王に誓いを立てている。 添えられた札を見れば絵の題はその通り「宣誓」だった。これはビジス・ガートンがアーレルの王に忠誠を誓った一幕を描き出したものらしい。 知らずうちに笑みがもれる。嘲笑か、それとも呆れが過ぎたのか。サフィギシルは壮年のビジスと彼を取り囲む人々を見て、淡く笑う。宣誓という題名がここまで似合わない絵も珍しい。これは今から人を喰らいにいく獣の絵だ。行儀良く爪を隠し、隙を見て一息にかぶりつこうと狙いを定める凶暴な。 細やかに描かれた中着の刺繍がまるで毛並みのように見えて、ビジスが今にも動き出して飛びかかってきそうに思えてサフィギシルは一歩退いた。 「この粗末な身をひとかけら残らず捧げ、貴国に生涯の忠誠を誓いましょう」 静寂を割る声にびくりとして転びかける。振り向くと、ペシフィロが苦笑していた。 「すみません。驚かせるつもりはなかったんですが」 「……っくりしたぁ。びっくりしたあ! なんだよもう!」 本気で心臓がばくばくと駆けていて呼吸すら荒くなる。駆け寄ったペシフィロが背中を優しく撫でてくれた。 「大丈夫ですか」 「いいよ、もう。ああびっくりした」 逃げるように立ち上がると、ペシフィロはくすくすと笑みをもらす。 「怖いでしょう。この絵は」 正直に頷いて、もう一度ビジスを見た。火種を抱える賢い獣が跪いて告げた言葉。 この粗末な身をひとかけら残らず捧げ、貴国に生涯の忠誠を。 「……嘘だ」 「ええ。大嘘ですよ」 あっさりと認められて振り向けば、ペシフィロはやはり苦笑している。ビジスをよく知る彼が言うといやに確かなものに感じた。 「絵ですから、多少の誇張も含まれているとは思いますが、少なくともこの絵を描いた人間にはこう見えていたんでしょうね。私は当時を知りませんが、この後大陸中で赤色が流行したそうですから、よほどの印象だったんでしょう」 「ペシフさんはその時いなかったの?」 「まだ生まれてもいませんよ。約五十年前。ビジス・ガートンは四十一歳。初代の王は当時六十近くだったはずですから、二十年も開きがある。そこまで年下の人間に建国を持ちかけられて操られるというのは、どういう気持ちだったんでしょうね」 「……操られるって。いいの、そんなこと言っちゃって」 だがこの国の者ならなんなく受け入れそうだった。そもそも、こんな絵を城の広間に堂々と飾ること自体どうかしている。 「五十年前、ビジスはこの場所で生涯の忠誠を誓いました。その後ここは使用禁止になっています」 「え。今も?」 「そう。立ち入りは自由ですけどね。なんでもここで、あの絵を描いた画家が狂死してしまったそうで」 身を竦ませて、ついきょろきょろと死の影を探してしまう。ペシフィロはわざと低い声で言った。 「ビジスの宣誓を見た彼は取り憑かれたようにあの絵を描き、完成すると筆の柄で喉を裂いて絶命したと言われています。今でも夜になると画家のうめき声がするとかなんとか……」 サフィギシルが目を見張ると、まあ私は聞いたことはありませんが。と明るく続けた。 「ですが不吉だからと会堂は外に作り直したんですよ。だからここが使われたのは二回だけ。ビジス・ガートンの宣誓と、彼の葬儀。結果的にビジスが独り占めしてしまいましたね」 「あの絵もそうだ」 サフィギシルはビジスを見上げる。絵の中の赤はほんの小さなものなのに、それしか目に映らなくなる。広大なキャンバスも、繊細な群集も、本来は中央に据えられるべき国王ですら彼のために用意された儚き燃料に過ぎない。 「処分しろという声もあるそうですが、これだけ大きいと一苦労ですし。そもそも高名な画家ですのでかなりの価値になるんですよ。題材柄、他に流出させるのもどうかと思いますし。……それに、この絵は怖いでしょう」 ペシフィロは畏れの混じるため息をつく。 「怖いから、ずっと見ていたくなる」 燃え上がる寸前の炎。絵の中の人々が口々に悲鳴を上げているように見えてきて、足が竦む。 ――燃やされる。 サフィギシルの全身が悲鳴を上げた。このままでは燃やされる。ペシフィロも自分も木くずのように一瞬で火に包まれて、それでも彼から目を逸らすことのできないまま呆然と焦げていく。身体がまるで紙のようで今にも火がつきそうで、後退るとペシフィロにぶつかって、そのまま床に崩れ落ちた。 「大丈夫ですか!?」 「無理だ」 うわ言が口をつく。 「無理だ。いやだ。いやだ」 体が冷えていくのは思い出してしまったからだ。城の者が自分に何を求めているのか。どうしろと言っているのか。 彼らは皆サフィギシルに、あの火種になれと言っているのだ。見るものを燃やし尽くす炎の代わりを求めている。 「無理だよ……」 こんなにも弱いのに。正装すら服にのまれてまともに着ることができない。大人たちの中にいると緊張して食事も喉を通らない。鏡を見て、少しでも大人に見えた程度で安心していたというのに、こんなにも大きなものを望まれては。 脱力した体は理性の制御を離れて震え、差し出された手を握ることすらできない。むりだ、むりだと泣きそうにうめいていると強く肩を掴まれた。 「サフィギシル!」 鋭い呼びかけに、息を呑む。 ペシフィロの顔は痛ましげに歪んでいて、ああ心配させていると胸が痛んだ。 「サフィギシル」 「う、……はい」 「もう『うん』でいいです」 「うん」 呟くと涙がこぼれそうになったので、恥ずかしくて俯いた。 「もう見ない方がいい。すみません、配慮が足りませんでした」 ペシフィロはサフィギシルの目にビジスの絵が映らないよう手をあてる。そのままの格好でいるのもおかしいと考えて、サフィギシルは絵に背を向けた。まだ立ち上がる力はない。情けなくて恥ずかしくて、ただ意味もなく床を見る。 「気に病むことはありませんよ。あれは子どもが見ると泣きますし、大人でも熱を出す人がいるぐらいですから。感受性が強いということなんですよ」 「そうじゃなくて……俺、あの人になれって言われて。ビジス・ガートンの代わりをしろって……」 「誰が言ったんですかそんなこと!」 急に声を荒げるので驚いて、しどろもどろに否定する。 「あ、ちが、違う。俺が勝手に、そう思っただけで……」 「でもそう感じるだけのことはあったんでしょう」 吐き出される彼の言葉も顔つきも、珍しく憤りに染まっていた。サフィギシルはペシフィロがなぜ怒っているのかわからなくて、不安のまま彼を見上げる。ペシフィロはサフィギシルの肩に手を置いた。 「すみません。そういう考えはやめるよう説明はしておいたのですが……。これからも説得を続けますから、あなたはできるだけ気にしないでいてください」 「どういうこと?」 「あなたの言う通り、あなたにビジスの仕事を引き継がせようという意見が出ています。ビジス・ガートンの知識を持っているのだから、これからの国の運営も任せておけば大丈夫だの、緊急事態にはきっと助けてくれるだのと無責任なことを言う者がいる。それも、一人だけではありません。彼らは今までと変わらぬ安寧を求めている。ビジスさえいれば絶対に安心だという考えがありましたからね。ですが、国というものは変わっていくものなんです。ビジス・ガートンが再来する必要はない。……少し寂しいですけれど、それが真実です。私たちはビジスに後のことを任された。後はお前たちが好きにしろと、全て受け渡されたんです」 ……無責任に、投げられたようなものですけど。そう寂しげに呟いて、ペシフィロはまっすぐにサフィギシルの目を射抜く。 「サフィギシル。これからあなたに無理を言ってくる人もいるでしょう。ビジスと同じように、と多大な望みを持ちかけられるかもしれない。でも惑わされてはいけません。あなたはあなたです。決して、ビジス・ガートンなどではない」 強く言うと、肩を掴む手が緩められる。ペシフィロは穏やかに微笑んだ。 「窮屈な正装は苦手で、人見知りが激しくて。美味しい料理を持ち帰りたくなってしまう、そんな家族思いの子です。大切な人が自分のために苦しむのをつらく思える優しい子です。友達が怪我をしたらすぐに治すことができる。楽しいことがあれば笑い、悲しければ涙を流すことができる。あなたはそんなとてもいい子だ。今はまだそれだけでいい」 暖かな声に頭の奥がじわりとゆるむ。ほろほろと顔が解けていきそうで、サフィギシルは歯を噛んだ。ペシフィロはひとつひとつ染み込ませていくように、ゆっくりと言葉をかける。 「政治に関わりたいのなら、それでもいい。でも力を持っているからと強制的に押しつけられて、他の路を閉ざされるのは間違っている。私情ですが、私は、あなたにはそんな苦労をしてほしくないんです。……生まれ持つ力のために苦しめられるのは、何よりもつらいから」 サフィギシルは緑色の髪を見た。同じ色の瞳を見つめた。ペシフィロは恥ずかしそうに微笑んで、手を離す。へたりこんでいたサフィギシルの腕を掴んで引き上げた。 「無理強いはさせないよう説得を進めています。ですがもし、心なき者があなたを利用しようと閉じ込めてしまった時は……みんなで逃げてしまえばいいんですよ」 補助されて立ちながら、サフィギシルは耳を疑う。見返したペシフィロはいたずらめいた笑みを見せた。 「ビジスの遺品は高額で売れますし、適度に資金を作って逃げちゃえばいいんですよ、そんな国。大丈夫、人間なんとかなるものです。それはそれで楽しいですよ、きっと。カリアラ君は食糧を採ってきてくれるでしょうし、シラさんも元は野生の人魚でしょう? みんな水と食糧さえあれば山の中でもしばらくは生きていけます」 「なんかすごく無責任なこと言ってない? 仮にも国臣だろ」 「もちろんそんなことにならないように全力で努めます。ただそういう選択もあるということですよ。選ぶことのできる路は多い方がいいでしょう? あなたはその中から好きな路を進めばいい。今あなたが生きているのは、ビジス・ガートンのものでもなく、一人目のサフィギシルのものでもなく、あなたの人生なのだから」 ペシフィロはサフィギシルの上着を指でなぞる。 「……この服はあなたのものでしょう?」 そうだよ、と言いかけてその意味に気がついた。ジーナに無理やり連れられて、わざわざ仕立てて作らせた服。家の中にいくつも眠るお下がりのものではなく、まだ誰も袖を通したことがない自分だけの物。考えてみれば前のサフィギシルのものでもない、ビジスのものでもない「自分の物」など生まれて初めて持つのだった。服だけではなく靴も、時計も、ハンカチも香水もすべてサフィギシルだけのもの。 本当に初めてだ。これまでは、顔も声も名前ですら誰かのものだったから。 つん、と鼻が痺れた途端に涙があふれた。ぼろぼろとこぼれ落ちて顔が歪んでしわくちゃになり、堪えきれなくなって嗚咽をもらす。涙がいっそう大きくこぼれて、顔面も袖も襟首もあっという間に濡れていった。 ペシフィロに抱き寄せられる。思いきりしがみついて号泣したい気持ちになるが、あいにくと彼は小柄で。サフィギシルは肩に頭をすりつけて、服の背を握るに留まる。彼が優しく背中を叩いてくれるのでますます涙が止まらなくて、泣き声はまるで子どものようで、この短い時間だけでも彼が父親であればと思う。今だけは、嘘でもいいから父子として。 「今日の食事、厨房で詰めてもらったんですよ。おまけまでしてもらっちゃいました」 頭を撫でる手ひらの暖かさにまた泣ける。ペシフィロは倒れそうなサフィギシルの体を支える。 「これを持って帰りましょう。みんなのところに」 小さいはずの彼の体がなんだかやけに大きく思えて、サフィギシルは泣きながらひたすらに頷いた。 泣き止むとハンカチも袖もずぶ濡れで、ペシフィロの服にまで渡っていたので恥ずかしくてしかたがない。サフィギシルは耳の端まで赤くして、渡された折詰を握った。気がつけば服もよろけて着崩れてしまっている。ペシフィロが直そうと手を伸ばすが、これ以上はと先に自分で直してしまった。 真新しい自分の服。他の誰のものでもない。 「……行こうか」 ええ。とペシフィロが微笑みかける。サフィギシルは振り向いた。絵の中のビジスは炎を隠してひたりと膝をついている。サフィギシルは、彼に背を向けて往く。一歩一歩、その足で、真新しい道を歩きはじめた。 |