番外編目次 / 本編目次


 その日は朝から騒がしく、部屋の空気は奇妙な熱をはらんでいた。
「ハンカチっ。ピィス、ハンカチ見なかったか!」
 慌ただしく駆けてきたジーナはピィスが首を振るのを見て、また別の部屋へと飛んでいく。彼女は今朝からずっと動き通しで、一瞬たりとも落ち着いた様子がない。せわしない空気につられたカリアラが、おろおろと意味もなく動いてはジーナに轢かれてすっ転ぶ。邪魔だ、と叱られてシラが批難を訴えてもジーナは耳に入れることなく、見つめているのは次なる作業のことばかり。部屋の隅に安全な場所を見つけてくつろぐピィスが無責任に野次を飛ばし、騒がしさに輪をかける。
 そんないつもとは違う光景の中央で、サフィギシルはぐったりと椅子に腰掛けていた。そうしているとまたジーナが飛んできて、あれがいる、これがいる、と鞄の中に物を詰め込む。彼女は歩くことを忘れてしまったのだろうか、急く足を止めたかと思うとまたすぐにどこかに消えた。響きわたる足音は上品とは程遠い。何もしていないうちから嫌というほど疲れを感じて、サフィギシルは肩を落とした。
「こら! 背中を曲げるな!」
 またしても飛んできたジーナに背を叩かれて、情けない声を出す。ジーナは鋭く睨みつけると、力の抜けたサフィギシルの顔面をぐにゃぐにゃとこねくり回した。当然、サフィギシルは悲鳴を上げる。ピィスが声を立てて笑うが文句を言う余裕もない。パン生地のように散々もてあそばれた後で、ぴしゃりと頬を挟まれた。
「気合いがない! もっとしゃんとしろ!」
 そんなことを言われてもパン生地になった後ではもう醗酵するしかない。サフィギシルはひりりと痛む頬を押さえ、抗議の目で見上げるが、ジーナはいつもと同じように厳しく顔を引き締めている。しかしそこに怒りはない。彼女は射抜くようなまなざしでサフィギシルの全身を確かめると、ぐい、と上着を掴み上げた。サフィギシルは椅子から浮くようにして上半身を持ち上げられる。そのまま、乱暴な動きでだらけていた着こなしを直された。
「まったく。せっかくいい服なんだからちゃんと着ろ。背筋を伸ばせ!」
「……別に今はいいだろ。本番はこれからなんだし」
「気構えの問題だ。会食は昼からだろう。今からそんなことで大丈夫か?」
 十中八九あんたのせいでくたくたになってるんですが。言ってみたいが口にするとしっぺ返しを食らうので、沈黙する。ジーナは文句を言いながらサフィギシルの髪に触れる。彼女によって整えられた白髪はすでに乱れはじめていた。もう触るな、と指で直しながら叱られるが、整髪剤の匂いや感触が気に入らないし、いつもと違う髪型をピィスやシラが意味ありげに見つめるので気恥ずかしくて仕方がない。サフィギシルはむっつりと口をつぐんだ。
 ビジス・ガートンの後継者として国の幹部に顔見せを。と城に招待されたのは当然の成り行きだった。何しろビジスの死亡以来、サフィギシルが城に出向いたのは一度きり。それもペシフィロを介して国王に挨拶をしただけで、王城の人員にビジスの力を継ぐ者が一体どんな人間なのかはまったく伝えていないに等しい。これからの国政に関わるかもしれないのだから、と彼らがサフィギシルとの相互理解を求めるのはごく自然なことである。
 だがしかし、当の本人は政治どころか見知らぬ人と出会うことさえ苦痛に感じる性質なのだ。まともな外食すらしたことがないのに、いきなり城の昼食会に参加とは想像しただけで緊張に胃が絞られる。サフィギシルは着慣れない正装の中で、小さく小さく身体を丸めた。
 そもそもこの国服というもの自体、敷居が高くて嫌になる。裾を固める縁取りやびっしりと綴られた刺繍が服の重さを増していて、不慣れな肩にのしかかる。アーレル土着の民族衣装はもっと軽いひらひらとした巻き布なのだが、今の時代にそんな服を着ているのは老人の一部ぐらいだ。現代の正装はシャツにズボンに上着にと他国とさほど変わりないが、本国から伝わる刺繍の文化はいまだ絶えていないらしい。ベストにも上着の裏にも、布地と同系色の糸で繊細な模様が綴られている。布も糸も仄暗い色なので遠目にはわからないが、よく見てみれば絡み草に区切られて、蛇、鳥、鹿などの動物や植物が並んでいるのが面白い。上着をめくって動物を数えていると、ジーナに頭を叩かれた。
「丸まるな! ボールかお前はっ」
「そっちこそ鞠みたいにぽんぽんつくなよ。これさ、裏に模様あっても見えないよな」
「堂々と華美にすると本国に怒られるからな。こそこそと飾るうちに表よりも裏が見せ場になったとかなんとか、学校で教わったような……。だから今も基本的には表は地味で裏は派手。豪商なんかもっとすごいぞ。金だの銀だので宝石まで縫い付けて、趣味が悪い」
「動物の大行進は趣味がいいのかよ」
「伝統模様だ。ほら、もう見ない。ちゃんと前閉じてろ」
 そう言いながらまるで子どもに対するように、手ずから止め具をはめていくのでサフィギシルは気恥ずかしくて仕方がない。楽しそうに見物しているピィスやシラを睨みつける視界の隅で詰襟が閉じられて、ぴたりと首を締められた。苦しいのではだけさせてしまいたいが、叱られるのは目に見えているので不満を別の言葉に代える。
「もう何着もあるんだから、別に作らなくてもよかったのに」
 王への謁見に出向いた時は、前のサフィギシルの服を着て行った。そちらは何度も使われていたからだろう、布地は肌に馴染むようで着心地も良かったのだ。だがこの服ときたら、わざわざ仕立て屋に連れて行かれて長々と見立てられた割には着苦しくてかなわない。意匠の細かさや布地のなめらかさからして値段もかなりの物だろうし、と考えるほどに納得がいかなくて機嫌がさらに悪くなる。
「あれはお前の服じゃないだろう」
「どういう意味だよ。外見が同じなんだからいいじゃないか」
「そうじゃなくて。気に入らないのか? よく似合ってるのに」
 なあ、と同意を求めると、くつろいでいた仲間の視線が集まってサフィギシルの全身をなめていく。カリアラだけがなぜだか匂いをかいでいたが、シラは優しく、ピィスはにやりとそれぞれに笑みを見せた。
「ええ、似合ってますよ」
「そうそう。よっ、兄ちゃんかっこいい!」
「どこの八百屋だお前は」
 誉められたら誉められたでとてつもなく恥ずかしくて、ついつい目を逸らしてしまう。どういう顔をするべきなのか分からなくて困っていると、カリアラが首をかしげた。
「お前、なんかスースーするぞ。どうしたんだ?」
「スースーって。……スースー? 何がスースー?」
「いつもはスースーしてないのに、今はすごくスースーしてる」
「スースー? だから何がスースー?」
 風通しがいいのかと腕を振るが、きっちりと肌を隠す服のつくりに隙間などあるはずがない。二人してスースーと繰り返していると、ピィスがたまらず吹き出した。
「お前らスースースースーって、ばっかじゃねえの」
「だって気になるだろ! 何なんだよスースーって」
「匂いですよきっと。ね?」
 シラの問いかけに、カリアラは頷いた。
「今日、サフィはスースーしてるんだ。なんでだ?」
「……香水だよ。悪いか」
 改めて匂いをかげば、確かに鼻がすうすうとする。会食に行くのだから、よほどしつこく確かめなければ分からない程度なのだがカリアラには伝わるのだろう。強制的に振りかけられた香りは、水気を含んだ薬草の匂いに似ていた。甘ったるいものではないのをなんとなく嬉しく思う。
「そんなにきつくないと思うけど。臭いか?」
「臭くはないぞ。でもスースーしてる」
「スースーしてたら駄目なのかよ」
「駄目じゃないぞ。でもスースーしてるな」
「なあスースーがお前に何かしたのか? スースーは悪か?」
「だーからお前らスースースースー笑わせるなー!」
 真剣なやりとりなのにピィスは腹を抱えて笑い、シラとジーナもおかしそうな顔をしている。じゃあもうスースーは終わり、と告げるとカリアラもまた、わかった。スースーは終わりだ。と真顔で言うのでピィスの腹筋はさらに大変なことになった。
「わーらーうーなー」
「いいじゃありませんか。気が楽になるでしょう」
「どこが。なんかもう行く前から疲れたよ」
 苦い顔をしながらも、心臓を苦しめていた緊張感がゆるくほどけていくのを感じる。もし、今すぐいつも通りの服に着替えてくつろぐことができたなら、どんなに嬉しいことだろう。だが玄関のベルが鳴らされて、サフィギシルは否応なく現実に引き戻される。迎えの者がやって来たのだ。応対に出たジーナを追って歩いていくと、残りの者もついてくる。
「なんだよ」
「お見送りー」
 へらりと笑うピィスにあわせてカリアラが頷いた。四人して長くもない廊下を進み、玄関へ。
「何かおみやげくださいね」
「城に何があるってんだよ」
「いろいろあるぞ。魚とか」
「テキトーに備品盗ってきても平気だって。男を上げろ!」
「自分が行かないからって好き勝手言い放題か」
 サフィギシル、と庭から呼ばれて慌てて靴を履きかえる。いつもの外出用ではなく、この日のために注文して作らせたもの。頭から爪先まで新品に包まれていることに気づいて、サフィギシルは違和感を覚えた。髪型も服も香水も、何もかも初めてのことばかり。それこそ、ハンカチや懐中時計にいたるまで新品で揃えられている。何だろうな、と心の中で呟いて、いつも以上に堅苦しく身を固めた迎えの兵士に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
 ジーナはそれよりもさらに深く礼をしている。頭を上げたところで、カリアラに呼ばれた。
「サフィ」
 振り返ればカリアラもシラもピィスもにこにこと笑っている。三人はそれぞれまばらに手を振った。
「いってらっしゃい」
 次々とかけられる声に呆然としたのはなぜだろう。サフィギシルは固まりかけた口を動かす。
「……ってきます」
 ああ、そういえばこれも初めてのことだ。気がついて静かに驚く。いつもはみんなで出かけるか、留守番ばかりしていたから。行ってきます、と上手く言えなかったことが魚の骨のように喉にひっかかって、こくりと小さく息を呑む。サフィギシルは後ろ髪を引かれながら、何度も振り返りながら歩いた。



 服に殺されそうだと感じたのもきっと生まれて初めてだ。サフィギシルは首を包む詰襟を緩めたくて、それでも手が出せなくて、息苦しさに眉を寄せていた。着崩れてしまってもジーナはもういないのだ。自分の手で完璧に修正できる気がしなくて、下手に触れることもできない。身動きの取れないつらさに固まりながら、背筋を伸ばして馬車の揺れに耐えている。
 馬車に乗るのも初めてだ。ひとりきりで知らない大人と接するのも初めてだ。何から何まで今までにない経験で、サフィギシルの頭の中は早くも飽和しそうだった。頼むから話しかけないでください、と兵士たちに念じるが、二人とも元々寡黙な性質なのか黙りこんだままである。安心するべきなのか、逆に緊張が高まると思うべきか黙々と悩んでしまう。いっそのこと「俺今日スースーしてるみたいなんですけど、どうですか。スースーしてますか」とでも訊くべきかと考えるが、実行する度胸はなかった。沈黙に包まれて、服がよけいに苦しくなる。
 大きさは身丈に合っているはずなのに、どうにも肌に馴染んでいく感じがしない。ぴんと立てられた襟が首をどんどん締めていくようで、そのうちに服に喰われて取り殺されてしまうのではないだろうか、と本気で思う。身体の方はぐにゃぐにゃとしているのに、服ばかりがかっちりと張り切っていて、サフィギシルを置いて服だけが先に歩いていきそうだ。真新しく光る靴も、この足とは相性が悪いので仲良くしたくありません、と拗ねているようにすら思えてくる。
 カリアラだったらこんな時でも緊張しないだろうな、と思う。あの元ピラニアなら物珍しげにあちこちをいじり回すかもしれないが、少なくとも重苦しさに潰されることはないだろう。シラも取り繕うのが得意だし、いざとなれば腹が据わる性格なので大丈夫に違いない。ピィスなどはああ見えて公の場には慣れているし、三日に一度は城に通う生活をしているので緊張するはずがない。彼女はペシフィロを教師として国王と共に学習しているのだ。以前誘われたときに断らなければ良かった、と今さらながらに後悔をしているところで馬車が止まった。導かれて外に出る。
 城は前に見たときと同じ顔で、堂々と佇んでいた。建物は変わりがなくて羨ましい。いっそ建物になってしまいたい。そう思うほどに追いつめられた心情は、見覚えのある顔を見つけてほっと緩む。緑色の小ぢんまりとした人影が入り口に立っていた。サフィギシルは彼に駆け寄る。
「ペシフさ……」
 呼びかけたところで、口に指を立てられた。シッ、とたしなめられて目を見開くと、ペシフィロは小声で諌める。
「ペシフィロ、と」
「う、うん」
「サフィギシル。ここではできるだけ『はい』と言いなさい」
 はい。と口を開くがまともな声にはならなかった。ひしゃげられた息ばかりが力なく吐き出される。ペシフィロはしまった、という顔をして痛ましげに眉を寄せた。
「すみません。ですが、一応それだけは守ってください」
 はい、ともう一度言いかけるがやはり声にはならなくて、言葉のかわりに頷いた。ペシフィロは何か言いたそうにするが取りやめて、待機していた迎えの兵士に礼を言う。そのまま、彼らに指示を出したのでサフィギシルは驚いて、まじまじとペシフィロを見た。引きしまる顔つきは、善良にぼやけたいつもの彼とは別人のようだった。声色も真剣で冗談を言う隙はない。武装した兵士にも臆することなく仕事の手順を言いつけていて、今さらながらに彼がこの国の上層部に属していることを思い出す。同時にここは、彼にとって仕事の場なのだと実感した。服装もサフィギシルと同系等の正装だが、こちらはもっと落ち着いた色合いで、生まれつきの童顔を大人びて見せている。幾度となく着こなしてきたのだろう、服はすでに彼の身体の一部のようで、歩くたびに違和感を感じるサフィギシルとは大違いだ。
「どうしました?」
「…………」
 正直に感嘆するのがなんだか癪で、悔しくて、サフィギシルはただ「別に」と呟いた。
「そうですか。お待たせしてすみません。では、行きましょう」
「はい」
 ペシフィロは敷き詰められた赤絨毯を踏んでいく。先導する彼の背丈はサフィギシルよりもかなり低い。サフィギシルは揺れる緑の髪を見て、蹴ったらつまづきそうなのに、と不謹慎なことを考えながら後に続いた。


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