番外編目次 / 本編目次

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 逃げ帰ったカリアラは、いつものようにストーブに張りつこうとしてびくりと怯える。そうだ、この塊の近くにいると焼き魚になってしまう。どちらにしろ今は火が入ってないので温かいわけではないが、カリアラは鉄の箱を警戒してじわじわと後じさった。
 だが、寒い。このままでは昨日の干物と同じようにカチカチになってしまう。カリアラは必死になって部屋を見回し、すみにぽつりと放置された赤いマフラーを見つけた。そうだ、あれだ。あれはいつもつけるものだ。あれはとてもあたたかい。それに、赤いものは強いのだ。カリアラは転がっている赤い毛糸に飛びついて、素早く首に巻きつけた。
「あ、なんだ丁度いいじゃないか」
 唐突にジーナの声がしてまたもや怯える。おそるおそる見上げるのとほとんど同時に、ジーナは巻いたばかりのマフラーの端を掴んだ。
「ちょっと貸してくれ。目印にするんだ」
「だ、だめだ! これがないと寒いんだ!」
「ストーブをつければいいだろう。少しだけだ、借りるぞ」
 そのストーブは今や彼にとって恐怖対象だというのに、そんなことなど知らないジーナはあっさりとマフラーを奪ってしまう。カリアラはあたたかくて赤いものを取られてしまい、愕然とした表情で、立ち去る雪の女王を見つめた。



「借りてきたぞ。これを巻け」
「うわ、あいつがいつもしてるやつだ」
 差し出された赤い毛糸のマフラーを見て、サフィギシルは露骨に嫌な顔をする。それでも押し付けるように渡されて、仕方がなく首に巻いた。匂いをかいで眉をしかめる。
「なんか魚くさい……」
「そういう差別的な発言はよくないぞ。木組みの体が生臭いわけがないだろう」
「するんだよ、あいつこれ巻いたまま生魚食べるから。うわ、うろこまでついてる」
「ま、死にはしない。我慢しろ」
 ジーナはこびりついていたうろこを剥がして雪へと飛ばし、マフラーの巻き具合を丁寧に調整すると、満足そうにサフィギシルの格好を眺めた。
「ああよく見えるようになった。やっぱり雪の白には赤だな」
「ごめん。今気付いたんだけど、俺まだ寝間着……」
「大丈夫、私も中は寝間着だ。化粧どころか顔も洗ってない」
「それ妙齢の女性として全然大丈夫じゃないよ」
 しっかりと着替えているピィスが呟く。雪があまりに嬉しくて、ろくに着替える暇もなく飛び出してきたのだろう。ジーナが毛皮をずらしてみると、よれよれになった古い寝間着の襟が見えた。二十七の独身女性が取っていい行為なのかどうなのかは解らないが、とりあえず薄着のまま山に行くのは危険なので、サフィギシルはひとまず着替えるために家の中へと駆け込んだ。



 カリアラは寒い上に暖まるすべをなくし、困り果てた表情でがたがたと震えていた。戻ってきたシラが抱きしめてくれているのでそれなりに温かいが、それでもやはり寒すぎる。小さく小さく縮こまってシラの腕の中にいると、駆け込んできたサフィギシルがその様子を見てちらりと不満を顔に浮かべた。だがすぐに自室へと走っていって、服を着替えて戻ってくる。その首に赤いマフラーがあるのを見てカリアラが声をかけた。
「サフィ、それがないと寒いんだ。返してくれ」
 サフィギシルはマフラーに手をやって悩むようにしていたが、年がら年中べたべたとくっついている熱帯二人の状態を見て、ふいと顔をそむけてしまう。
「俺だって寒いんだ。シラに暖めてもらえばいいだろ」
「だ、だめだ、寒いんだ!」
 カリアラは素早く出て行くサフィギシルの背に呼びかけるが、無情にも居間のドアはあっけなく閉じられた。どうしてみんなが自分を寒くしようとするのか解らない。カリアラは信じていたものにことごとく裏切られたような顔で、閉じられたドアをいつまでも見つめていた。



「あ、マフラーしてる」
 サフィギシルが外に出ると、ピィスが意外そうに言った。
「悪いか?」
「いや、着替えに戻ったんなら別のに替えてくるかと思って。それカリアラがずっとしてたやつだしさ、お前のは他にあるだろ」
「まあ、あるんだけど。贅沢者にはたまには意地悪しておかないと」
「あー、そういうこと」
 不機嫌な彼の様子に、ピィスは事を察して笑った。
「よーし、行くぞー。気合を入れて挑めー」
 外にある倉庫から持ち出したスコップを肩に担ぎ、ジーナが山へと歩きだす。
「どこにどんな気合を入れて雪遊びに挑むんだろう」
「ほどほどのところで戻るように言ってやってくださいね。熱中すると他が見えなくなる子ですから」
 送り出すペシフィロの髪や服は、よく見ると雪まみれになっていた。ここに来る前までも、ジーナに散々遊ばれていたのだろう。それでも彼は慣れきってしまったように、穏やかな笑みを浮かべる。手を振る彼に見送られ、サフィギシルとピィスも山に向けて歩きだした。
「かまくらだ。かまくらを作るんだ」
 先を行くジーナの頬は、周囲の気温と内なる気持ちでかすかに赤くなっている。
「……こんなに嬉しそうなジーナさん、初めて見た」
「オレ、アーレル人のこういうところ結構好きだよ」
 十年近く寒い国で過ごしたピィスは雪にも慣れているのだろう。足取りは軽快で雪に取られることも少ない。だが雪に触れること自体初めてのサフィギシルは、周囲の景色に見ほれながら歩くため、何度も転びそうになってはピィスの肩にしがみついた。
「お前、今、すごく弱い子みたいだぞ」
「う、うるさいな。しょうがないだろ慣れないんだから」
「せっかく赤いの借りてんだから、ちょっとは根性入れてみろよー」
 サフィギシルは早足で進むピィスの腕を掴みながら、どこか拗ねたように言う。
「赤いのと根性とどう関係があるんだよ」
「なんだ、知らないの? 赤いのは強いんだよ。カリアラにとってだけだけど」
 ピィスはくぐもる音を立てて雪を踏みつつ、魚の理屈を説明した。
「カリアラカルスは腹の部分が赤いだろ。その色が鮮やかであればあるほど強いとされてるんだって。ほら、メスを取り合う時とかさ。そういう時はより腹が赤いやつが勝つらしい。だからカリアラカルスのオスは、赤ければ赤いほど強いやつってことになるな」
 サフィギシルは複雑な心境で首のマフラーを見つめた。そういえば衣替えをする時に、カリアラは真っ先にこの赤色を手に取った。その後は毎日かかさず首に巻き続けている。あれは寒くなり始めた外に出て行くための、彼なりの知恵か工夫だったのだろうか。弱くなってしまいそうなおのれを奮い立たせるために、せめてもの強みとして赤い色を。
 考えすぎか、と思った途端に足がすべって雪の積もった地に転ぶ。ただでさえ白い体がますます白く染まってしまった。ピィスが声を立てて笑う。
「人間は色ぐらいじゃ強くなれないって証拠だなー」
「……魚だって、赤いのが増えたくらいで変わるかよ」
 恥ずかしさから不機嫌に吐き捨てて、サフィギシルは出されたピィスの手を取った。



 だが暗がり始めた彼の心も、山の中に入ってしまえば雪のように明るくなった。高度が若干上がる分、麓よりも雪が厚く積もっている。歩いていけば膝の下まで柔らかく埋もれるほどだ。今までにない状況に、サフィギシルは珍しくも嬉しそうに騒ぎ始めた。
 天気は良いとは言えないが、吹雪くような気配はない。薄曇りの空ですら明るい色に見せるほど、目に見える光景はまばゆく白く輝いていた。人の手が入っていないなだらかな曲面を、ジーナが嬉しそうに踏み崩す。ピィスが丸めた雪玉をサフィギシルの頭にぶつけて、そこから自然と雪合戦が始まった。わあわあと騒ぎながら雪玉をぶつけ合う。ジーナもそこに参戦し、反則技を繰り返しては子ども二人に文句を言われた。そうやって、声が涸れてしまうぐらい長い時間遊び続けた。
「……もうちょっと大きくしたいな」
「そうだよな。せっかくこれだけ降ったんだから力いっぱいやらなきゃな」
 腰の高さに届く程度の雪だるまを前にして、サフィギシルとピィスは揃って腕を組んでいた。
 無邪気に戦う遊びはいつしか共同作業に繋がって、投げ合っていた雪の球はまとめられて雪だるまの元となった。ひとつ小さなものを作ればもっと大きくしたくなる。大きくするにはもっと雪が必要だった。だがひとり黙々とかまくらを作り始めたジーナのせいか、手近な雪は大抵使いつくしていた。雪国とは違って降雪量も見慣れてしまえばたかが知れているように思える。
「んー、じゃあもうちょい足を伸ばしてみるか。行きすぎなきゃ平気だろ」
 生える木々を抜けた奥には、まだ人の手のついていない平らな場所がありそうだった。楽観的なピィスの言葉を素直に受けて、サフィギシルは少し離れた場所にいるジーナへと声をかける。
「ジーナさん、俺たちちょっとあっちまで行ってくる」
「大丈夫か?」
「大丈夫。そんなに遠くには行かないから」
 ジーナは雪の白さに埋もれそうなサフィギシルを凝らした目で確認し、顔よりも赤いマフラーを見つめるようにして言った。
「深入りするなよ。あと、マフラーは外すな! 雪に隠れて見えなくなる!」
「……そんなに保護色なのか俺は」
「うん、遠くから見たらかなり雪に紛れてる。絶対外すなよ、それ」
 ピィスにまで真顔で肯定されてしまい、サフィギシルは複雑な表情で短い髪を押さえつけた。同じく肌が白くても、せめて髪がピィスのように赤ければ紛れることもないのだろうか。サフィギシルはぶつくさとぼやきたい気持ちで林の方へと足を進め、汚れてけば立っているカリアラの元気の元をきちんと首に巻きなおした。
 林を抜けるとまたしても広く開けた場所に出る。サフィギシルもピィスも共に喜びの声を上げて、それぞれが思い思いに雪だるまの部品となる雪玉を転がし始めた。ピィスは白い息を吐きながら嬉しそうに片手を挙げる。
「オレは頭をやるから、お前体の方なー! オレのよりもでっかくしろよ」
「わかった!」
 サフィギシルもまた雪玉を転がす手を止めて答えた。その後はお互いに黙々と雪を転がす。小さな球は雪をまとって見目の悪い形になった。それを随時直しながら、広い雪の原を歩く。単調な作業の中では思考がよそへと飛びがちだった。サフィギシルの意識の先は、目の前の雪玉からマフラーへと逸れていく。
 いつも身につけているのを見ていたせいか、カリアラの気配がして落ち着かなかった。雑な使用でついた汚れも、それによるかすかな匂いも、これはお前の物ではないと訴えているような気がする。乾いてこびりついてしまった生魚の血がやけに気になる。取り出したばかりの頃は完全な赤色だったはずなのに、毛糸に染みこんでしまった泥水や砂のせいで、今となってはぼやけたまだら色に見えた。自分だったらこんなに汚すことはない。そう思うとよりいっそう他人の物に感じられて落ち着かない。触れる肌がむずがゆい。
「あ、もうこっちで積み上げて作っちゃった方がいいよな?」
 遠くからピィスに言われてハッとする。気がつけば手の先の雪玉はかなり大きくなっていた。
「そうだな。もうこれじゃあの道は抜けられないし」
「じゃあオレ、顔の部品取ってくる。ジーナさんとこに置いてきたから」
「わかった」
 返事を受けて駆けていくピィスの背を眺めた後で、何気なく残された頭の方の雪玉を見てぎょっとする。ピィスはどうやらとてつもなく大きなだるまを作るようだ。頭にしては、あまりにも巨大すぎる雪玉がその場に残されている。サフィギシルの手元のものより一回りは大きいだろうか。こちらは体担当だから、あれを乗せられるだけの雪玉にしなくてはいけない。
 サフィギシルは負けるものかと転がす腕に力を込めた。大きくするにはもっともっと雪が要る。踏み固められていないまっさらな白い雪が。サフィギシルは人の足に踏まれていない方向へと雪玉を転がした。ただ足元だけを見つめ、無心になって雪を転がす。もっとたくさんきれいな雪を。何もついていない雪を。
 その動きは唐突に低い位置へとすべり降りた。体中が埋まるほど深い雪に足を取られて腰を落とす。そこはほとんど崖のような急斜面になっていた。投げ出された手も足も掴む場所にめぐり合えず放られたまま落ちていく。すべる体は止まらない。がむしゃらに手を動かしても触れるのはやわらかい雪ばかり。しっかりとした感触に出会えないまま手が足が腹が首が雪の中に沈んでいく。
 薄い板が割れるような音がして、激痛と共に目の前が暗く沈んだ。同時に硬いものを感じる。横腹に痛みと冷気と木の感触。闇の消えた目で確かめると、折れ曲った太い木に引っかかっているようだった。容赦なく打ちつけた腹部が痛い。なまぬるい煙が立ち昇っているから、木製の外皮が一枚割れてしまったらしい。痛みに身をよじらせると引っかかっていた木の幹からすべり落ちそうになった。死にもの狂いで腕を回して取り付くが、両足が完全に落ちてしまう。もがくように動かしても触れるのは雪ばかり。完全に足場を失って、腕だけで木に取りついている格好になってしまった。
 痛みに呼吸を荒げながらなんとか上を見上げると、かなり遠くにさっきまでいた平坦な地の端が見える。どうやら傾斜を転がり落ちてしまったらしい。下を見ればまばらに伸びる黒い木々が深く雪に沈んでいる。このあたりは方角のせいなのか、かなり雪が深そうだ。
 どうしよう、と痛みに霞む頭で思う。このままここで待っていれば、ピィスとジーナが探しに来てくれるだろう。足跡や雪玉の跡が居場所を示してくれるはずだ。少なくとも上が見える位置にいれば助けを求めることができる。
 だがあまりの痛みに声は消え、割れてしまった脇腹は意識を遠ざけようとする。このままでは気を失う。急激に熱を失った手が小刻みに震えはじめた。肩から力が抜けていく。体重を支えきれない。
(駄目だ!)
 力がふつりと緩んだ瞬間、あっ、とかすかな悲鳴を残して体は一気に底へと落ちる。
 何かとてつもなく硬い物が頭の後ろにぶつかって、彼の意識は瞬時に闇へと沈められた。


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