熱帯魚が冬に強いわけがない。そんな当たり前のことを示すように、カリアラは本格的な寒波が到来してから外に出ようとしなくなった。あれだけ街と人を好む彼が一歩たりとも家から出ない。時おり物欲しげに窓の外を眺めはするが、心と違って体の方はストーブの前から離れなかった。 「……冬眠した方がいいんじゃないか?」 サフィギシルは毛布を被るカリアラを見て呆れきったように言う。呼びかけに反応はなく、カリアラは全身を毛布に包まれたままぴくりとも動かない。ここ数日はずっとそうだ。冬というだけで十分に寒いのに、どうやら今年は数年ぶりの大寒波が来ているらしい。どちらにせよ街に下りてもこの気温では人もあまりいないだろう。比較的温暖な地方であるアーレルの住民はことごとく寒さに弱い。 「そろそろ食糧が危ういんだけど、誰かお使い……」 「行きません」 カリアラに寄り添うシラが冷たく言った。解ってはいたが切り捨てられると気が悪い。サフィギシルは不機嫌な表情でカリアラの隣に座った。縮こまる元ピラニアは、間近で見ても毛布の塊にしか見えない。 「じゃあ、今日の昼飯は三人でこれだけだ」 サフィギシルは台所から持ってきた魚の干物を掲げてみせる。シラの顔に不満と不安が一緒になって浮かび上がった。サフィギシルはため息をついて言う。 「冗談だって。でもこのままじゃ、あと三日もすれば本当になるだろうな。その前にペシフさんが何か持ってきてくれるといいけど……」 干物は置き場所が悪かったために固く凍りついていた。端の方には霜が大きくこびりついて指の先をかじかませる。サフィギシルは冷えた手を干物ごとストーブにかざしていたが、ふと思いついて固まっている白い霜を爪の先でこそぎ取った。 そしてそれを、細く空いた隙間から毛布の中にぽとりと落とす。 カリアラは途端にびくりと大きく震え、頭に毛布を被ったままばたばたと暴れ始めた。視界が隠れているために混乱しているのだろう。カリアラは訳が解らずまるで魚のように跳ねる。あまりに過敏な反応にサフィギシルは愉快に笑った。 「もう、何するんですか!」 シラはじたばたとするカリアラをやわらかく抱きしめる。大丈夫だと教えるように甲高い魚の声を出しながら、毛布越しに彼の体を優しくなでた。カリアラはそれでようやく落ち着いて、開いた毛布の隙間から怯える目を覗かせる。取り立てて危険なものはなさそうだと確認すると、息をついて顔を出した。 「今、なんかすごく冷たかったぞ。どうしたんだ?」 「別に。ほら、干物食うだろ」 キョトキョトとあたりを見回すカリアラを見て、サフィギシルは可笑しそうに口を緩める。氷のような魚の干物をストーブの上に乗せると、じゅう、と水分の蒸発する音がした。カリアラは楽しそうなサフィギシルと不機嫌なシラを不思議そうに眺めていたが、音につられて干物へと視線を移す。 鉄板の代わりにもなるストーブの上面で、白んでいた保存食は少しずつ温かい色を取り戻していく。食欲をそそる香ばしい匂いが漂い始めた。燃える薪の音にあわせるように、干された身の表面に脂じみた小さな沫が膨らんではまた消える。魚の干物は熱に焼かれて食べごろになっていく。 その様子を見つめていたカリアラが、何も言わず一歩下がった。彼は恐怖を顔に浮かべてストーブから距離を置く。一歩、また一歩。にじり下がるような動きは上半身が引けていた。 サフィギシルは怪訝にそれを見ていたが、怯える理由を察して笑う。立ち上がるとカリアラの背後に回り、意地の悪い笑みを浮かべて彼の肩をがしりと掴んだ。 そして座り込んだカリアラを、ストーブに向けて一気に押す。 「だ、だめだー! 焼かれる――!!」 カリアラは恐怖のままに叫んだ。サフィギシルは声を上げて笑いながら彼の体をストーブに近づけさせる。カリアラは逃れようと必死になって抵抗した。 「だめだサフィ、離してくれ! この近くにいると焼かれるんだ、焼き魚になるんだ!」 「そりゃ焼き魚にしようとしてるんだから当然だろ。お前ぐらいでかかったら食べがいがあるだろうなー」 「く、食うのか!? おれも焼いて食われるのか!?」 カリアラはびくりと身を震わせる。悲壮な顔で、にやにやと笑うサフィギシルを見上げた。 「なんでおれを食おうとするんだ!?」 「暇だからですよ」 シラは呟くように言ってサフィギシルの頭を叩く。 「まったくもう。やめてくださいよ、本気で怯えてるじゃない」 「こうやってひとつひとつ騙されて成長していくもんなんだよ」 いやに実感のこもったことを言いながら、サフィギシルはシラの怒りを逃れるように窓辺へと避難する。真冬の景色は晴れていてもどこか暗く、静かな濁りをあちこちに匿っているようだ。窓についた露を手で拭い、何気なく空を見上げる。 「こんなに寒いんだったら、そろそろ雪が降るんじゃないか」 近くに雲の姿はないが、遠く見渡してみると奥の方にはねずみ色の影がある。あれがさらに大きくなって近づけばすぐに雪が降り出すだろう。シラが嫌そうに言う。 「そんな。このあたりはまだ暖かい地方なんでしょう?」 「でも毎年少しは降るらしい。積もりはしないみたいだけど」 「雪ってなんだ?」 カリアラはストーブから離れて尋ねた。サフィギシルはどう教えるべきなのか悩みながら口を開く。 「俺もまだ見たことはないんだけど……冷たくて、白くて……そうだ、さっきお前にくっつけた冷たいやつがあるだろ。あれが大量になったようなものだ。それが空から降ってくるんだ」 「ええっ! あんな冷たいのがいっぱい降るのか!?」 カリアラはまたしてもびくりと身を硬くする。サフィギシルは彼の反応が楽しいらしく、からかう口ぶりで言った。 「そうだ。しかも積もると庭中がその雪で真っ白になる。すごい時は人や家が埋もれるぐらい、あっちこっちが冷たいものでいっぱいになるんだ」 カリアラは衝撃的な表情で、両目を大きく見開いた。あんなにも冷たくて大変なものがたくさんたくさん降ってきて、人や家がうもれてしまってあっちこっちがまっしろに。 「それは死ぬだろ!?」 「確かにお前は死ぬかもな」 あっさりと答えると、カリアラは目に見えて震え始めた。シラがまた優しく抱きしめながら非難する。 「サフィさん! 脅かさないでください!」 「別に嘘はついてないだろ? 面白いから本当に雪が降るよう願っとこう」 「もう!」 楽しそうな笑みを浮かべるサフィギシルにそれだけ言うと、シラは恐怖に怯えるカリアラを穏やかになだめはじめた。 ※ ※ ※ |
まさかサフィギシルの願いが通じたわけではないだろうが、その日の夕暮れから降り始めた雪は真夜中になって吹雪き、翌日には完全な銀世界をもたらした。
一番に目を覚ましたのはサフィギシルだった。異様な寒さに震えながら何気なく雨戸を開ければ、窓の外は一面の雪景色。サフィギシルは生まれて初めて目にするものに驚きを隠しきれず、口を軽く開いたまましばらくその場に立ちつくした。 そして早朝の寒さも眠さもすべて忘れて二階へと駆け上がる。 「カリアラ、起きろ! 窓開けろ!」 鍵のない同居人の部屋のドアをノックもなしにいきなり開けて、ベッドの上ですまきのごとくに丸まっている元ピラニアの布団をはがす。カリアラは唐突な声と寒さにびくりとして顔をあげ、満面の笑みのサフィギシルを見てさらに目を見開いた。 「どうしたんだ!? 嬉しそうだぞ!」 「なんでそんなに驚くんだよ。窓開けてみろって、ほら」 だがカリアラはにこにこと笑うサフィギシルが怖くて仕方がないらしく、異常事態と言わんばかりに大声で助けを求める。 「シラー! 大変だ、サフィがすごく笑ってるんだ――!!」 「なんでそこで驚くんだよ、俺が嬉しそうだとそんなに変か! だから、ひとまず外を……」 「わっ。どうしたんですかその笑顔!」 飛び込んできたシラですら驚いたように立ち止まり、引きつった表情で軽く身を引いてしまう。サフィギシルは明るい笑顔をいつも通りの不機嫌に差し替えて、苦々しく口を歪めた。 「あ、直った。よかったなサフィ、元に戻ったぞ!」 「良かった……どうしたの? 怪しい薬でも飲んだんですか?」 「そんなに変か? 俺の笑顔はそんなに異常な事態なのか?」 ささくれた気持ちで尋ねてみても、同居人二人組は揃って強くうなずくばかり。サフィギシルは腹を立ててカリアラの腕を掴んだ。力強くベッドから引きずり下ろし、廊下に向かって歩きだす。 「よーし解った、異常なら異常なりにやってやる。来い!」 「なんだ!? さ、ささささ寒い! 寒いぞ!?」 もちろん腕は掴んだままだ。カリアラはびくりと身をこわばらせたまま冷たい床を引きずられる。慌ててなんとか体を起こすが、サフィギシルはさらに足を速めてしまう。もはや走っているのに等しく、寝起きの魚は激しく混乱するばかり。カリアラはまた笑顔に戻り始めた家主に連れられ階下へと駆け下りた。急ぎ足のまま玄関にたどりつき、まだ腕を掴んだままのサフィギシルが勢いよく扉を開ける。 冷たい空気が風となって流れ込んだ。体の芯から凍えるような外の気温に硬直し、カリアラは目に飛び込んだまばゆい光に殴られたような顔をする。今まで見たこともない、一面の白色が目の前に広がっていた。他の色がまったくない。土も草も石も何も、もれなく白に覆われている。寒い、まぶしい、白い、明るい。カリアラは突然に起こった事態に身動き一つできなくなった。 わあっ、とやけに明るい声を上げてサフィギシルが腕を引いた。直立していたカリアラは、抵抗する暇もなく白い地面に投げ飛ばされる。くぐもった音がしたかと思うと、顔が腹が腕が首が痛いほどの冷感に襲われた。 「た、大変だ――! 大変だ――!!」 「ははは! ばーか!」 じたばたと暴れていると、頭の上からサフィギシルの笑い声がした。混乱しながら必死にそちらを見上げれば、白い粉が塊となって降りかかる。顔に当たって散ったそれはまたしても冷たかった。 「どうだ、これが雪だ。冷たいだろ!」 「雪!? これが雪なのか!?」 カリアラはそこら中を見回した。白、白、全面の白。どこを見てもどの場所にも白いものが高く積もり、どれもこれも少し触れてしまっただけでも肌が切れるほどに冷たい。 「に、逃げろ、逃げるんだ! このままここにいたら死ぬぞ!!」 真っ青になって訴えかけるが、サフィギシルはいやに機嫌のいい顔で、立ち上がりかけたカリアラの体を突き倒す。彼は近くの雪を両手で掴み、カリアラの顔面になでるように押しつけた。カリアラは混乱して魚のようにばたばた跳ねる。サフィギシルはそこにさらに雪をかけた。声をあげて笑う顔は、いたずらに夢中の小さな子ども。カリアラは生死の危機に直面した者の顔で必死に大きな声を出す。 「助けてくれー! サフィに殺されるー!!」 ゴッ、と重い音がして、サフィギシルが頭を押さえた。痛みに細くうめきながら見つめた先には玉ねぎを抱えたシラ。彼女は玄関に足を踏ん張り、寒さにがたがた震えながらサフィギシルを睨んでいた。 「何してるのっ。いい加減にしなさい!」 「食べものを粗末にするなよ! 思いっきり当たっただろ!」 「当たったんじゃなくて当てたんです!」 厳しく言うが、その歯の根は上手く合わずに言葉もいたくぎこちない。サフィギシルは一応はカリアラから離れたが、今にも悪いことをしそうな目つきで二人の顔を交互に窺う。その口元は喜びからゆるみにゆるみ、今までにないほどに嬉しそうな顔つきだ。カリアラも、シラも、こんなに寒くて冷たいのにどうして彼が喜んでいるのか解らなかった。 だが熱帯育ちの魚たちをさらに困惑させる事態が訪れる。 「おーい、遊んでるかーっ」 「ピ、ピィス」 歯の根の合わない声色でカリアラが言った通り、白い庭の向こうからピィスが手を振っていた。雪に足を取られながら慎重に歩いてくる。何歩か遅れてペシフィロがその後に続いていた。それはいい。 だがカリアラたちを驚かせたのは二人の側に付き添っているジーナの姿。彼女は墨のように黒いロングコートに猛獣の毛皮を巻いた恐ろしい出で立ちで、満面の笑みを浮かべている。 「な、なんか黒いぞ! すごいぞ!!」 「どこの雪の女王だよ!」 サフィギシルも笑顔を忘れて雪に浮かぶジーナに叫ぶ。言葉を受けて、ジーナの笑みが引きつった。と思うと彼女は急に走り出し、雪に足を奪われながらも素早くこちらに駆け寄った。 「誰が暴政の女王様だ――!」 「言ってないし!」 だがジーナは叫びと共にサフィギシルの首を肘で取って押し倒し、そこら中の雪を集めて彼の顔に塗りつける。どこか幼い表情で、今まで聞いたこともない明るい笑い声を上げた。 「大変だ、サフィも殺されるー!!」 「同じことしてますよ二人とも……」 呆れたシラの言葉も聞かず、サフィギシルは体を起こすと笑顔でジーナに雪を投げる。ジーナもまた同じ顔で力いっぱい応戦した。高級そうな分厚いコートはすでに裾まで雪にまみれ、どろどろになっている。ヒョウによく似た獣の毛皮は目を見張るほどに鮮やかで、白い雪と黒い服から明るく浮かび上がっていた。似合うことは似合うのだが、どう考えても全力で雪遊びをする格好ではない。 「なんだ、遊ばないのか! カリアラ、来い!」 「い、いやだ! 殺される!」 今にも高笑いをしそうな風貌のジーナに手招きされて、カリアラはびくりとして飛び起きる。珍しくも笑っている二人を怯えた目つきで見つめると、家の中へと素早く飛び込み安全な場所に逃げてしまった。サフィギシルは残念そうに、ジーナは可笑しそうに笑う。 「もう! なんなんですか二人とも!」 「あれー、カリアラ逃げちゃったの?」 悠々と歩いてきたピィスとペシフィロが、ようやくこちらにたどりついた。ピィスは玄関の向こうで混乱のまま壁にぶつかるカリアラを見て、入り口で震えているシラに向かって苦笑する。 「あー、まあ熱帯魚じゃしょうがないか。一緒に遊ぼうと思ったんだけどな」 「どうしてこんなに寒いところで遊べるんですか」 「人間の子どもは雪が好きなんだよ。特に、この辺の人たちはさあ……」 ちら、とあからさまにジーナを見て笑みに呆れを滲ませる。 「滅多に雪積もらないから。多分、今ごろ街の方でもいい大人と子どもたちがみんなできゃあきゃあ騒いでるよ」 シラはその光景を想像して深く深く眉を寄せた。 「解りません、その気持ち」 「まあそういう人間もいっぱいいるけど。オレもさー、雪国育ちだからこの程度じゃあそんなに喜びようもないな。どうせすぐに溶けちゃうし。でも遊んでみたら楽しいもんだよ。一緒に行かない?」 「どこにですか?」 「この近くの山の方。そっちの方が雪が多くて楽しいんだ」 「……行きません」 シラは考えただけで凍えそうというように、両腕を抱いてみせた。ジーナはサフィギシルに尋ねる。 「お前は行くだろう? カリアラはどうする」 「あー……あいつ連れて行ったら完全に怯えるなー……」 すでに今でもかなりの恐慌状態なのだ。これ以上奥深くに連れ込めば、どうなるか解らない。 「仕方がない、置いていくか。せっかく色々と持ってきたのにな」 「色々?」 サフィギシルが尋ねると、ジーナは傍観していたペシフィロを指差した。彼は小さく苦笑して、持たされていたらしき大きなバケツを傾ける。入っているのは人参に黒いボタン、スコップや棒の類。小さな木の実もいくつか入っているようだった。 「雪だるまを作るそうですよ」 「うわ、準備万端」 「いざ作る段階になって『目にするものがない!』『口にするものがない!』じゃ困るだろう?」 「いつだったかそうやって困ったことがありましたからね。あの時は眉毛になるものを探して庭中をひっくり返して……人の家の塀まで越えて、泥棒と間違えられたり」 「む、昔の話はするな!」 「雪が降るたびに朝一番で起こしに来て、寒い外に引きずり出しては延々と遊び始めて……」 「わーっ!」 ジーナは顔を赤らめてペシフィロの暴露を止めようとする。雪を投げて騒ぎはじめた彼女を指差し、ピィスは呆れたように言った。 「というわけで今朝も数年ぶりに起こしに来たわけ。わざわざ遠い我が家まで」 「…………」 「どうしてこう、同じ行動を取るんでしょうね」 複雑に黙りこむサフィギシルに向けたシラの言葉はため息まじり。ジーナはそれには答えずに、気を取り直すように言った。 「よし、じゃあ私と、ピィスと、ペシフと、サフィギシルで行こうか。昼前には戻ればいいな」 「ああ、それじゃあ私はここに残りましょうか。帰ってすぐ昼食にした方がいいでしょう。何か温かいものを作って待っていますよ。食糧も、ほら、持ってきましたし」 「あ、ありがとう。ちょうどなくなって困ってたんだ」 サフィギシルは担いでいた袋を見せるペシフィロに礼を言う。ビジス亡き今、みんなの保護者とも言える魔術師は笑顔でそれに答えてみせた。ジーナがふとサフィギシルを見て眉を寄せる。 「しかしお前、そんなに真っ白じゃ山の中ではぐれるぞ」 「保護色だもんなー」 からかうピィスの笑顔を睨み、サフィギシルは自分の白い髪を押さえた。肌も元々黄色がかった方ではないし、服もそれほど派手ではない。確かに今の配色では、真っ白な雪の中では目を騙しかねなかった。ジーナは悪目立ちする獣の毛皮を掴んで言う。 「何か目印になるものをつけろ。これを貸そうか?」 「絶対嫌だ」 「じゃあ、ちょっと待ってろ。何かくすねてくる」 堂々と悪いことを宣言すると、彼女はシラの側を抜けて家の中へと駆け込んだ。 |