番外編目次 / 本編目次

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 夢などは見なかった。だから、短い時間なのだと思った。だがまぶたを上げてみれば、目に映るのはおそろしく深い闇。空高くには月が浮かび、星が小さく散らばっている。サフィギシルは絶望にも似た思いを抱いた。気を失っているうちに夜になってしまったらしい。しかも、事態は酷くなっている。
 首の後ろか背中のあたりが破損しているらしかった。その辺りにある感覚用の神経が寸断されてしまったようだ。痛みがないのはありがたいが、全身の力が抜けていた。指先一つ動かせない、声を出すこともできない。体のどこが壊れたのかは解らないが、少なくとも二・三箇所は穴が空いたらしかった。雪が体の中に入り込んで体温を消している。胃や腸に当たる箇所の水分が凍りついて背の裏側に落ちていた。
 視界ですら半分以上雪に覆われかけている。動かせるのはまぶたとくちびるぐらいだが、そのどちらとも雪を被っているようだった。落ちた雪に視界が曇る。月がおぼろに形を溶かす。口の中に雪が積もって舌がひどく痺れていた。
 もしかしたら、ここで死んでしまうのだろうか。サフィギシルは愕然と考えた。こんなに遅い時間になってもまだ助けが来ていない。急斜面を転がるうちに、上からでは解らない場所に落ちてしまったのだろうか。何の音も聞こえないのは近くに誰もいないからか、それとも耳が壊れたせいか。
 腹の底から押し出すように、はあ、とかすかな息を吐くと、真っ白なそれはあっという間に夜の闇の中に消えた。変化のない景色に怯えてもう一度吐こうとすると、喉の奥が凍りついてぴたりと動きを止めてしまった。感情も夜闇のごとくにどうしようもなく暗く沈む。
 どうしよう。本当に、誰にも助けてもらえないのか。気づかれることのないまま凍りついてしまうのか。日が暮れた後の捜索は困難になるはずだ。ペシフィロなら人を探す術を心得ているかもしれないが、あれは魔力反応を確かめる手法だから、尽きかけている今の自分の微弱な力を察するのは困難だろう。ジーナは探してくれるだろうか。ピィスは危険だからと家で待たされているかもしれない。シラは寒い中では動けないから、彼女も家にいるだろう。
(カリアラは)
 寒さも雪も苦手な彼は、きっと外には出てこれない。何度も救ってくれたけれど、今回は、今回ばかりは助けには来てくれない。何よりも雪を怖れさせたのはサフィギシル自身だった。死んでしまうと脅かして、悪気がなくとも恐怖心を植えつけた。その罰があたったのだろうか。報いを受けているのだろうか。
 そう考えると泣きたくなったが、涙腺の奥に蓄えられた人工涙は雪の寒さで氷と化してしまっていた。
 心の底から凍えてしまってうつろに月を眺めていると、耳の奥にかすかな異物感を感じた。ざく、ざく。震えるそれは壊れかけた耳に響くちいさな音なのだと気づく。ざく、ざく。鼓膜を直に揺らすそれは少しずつこちらに近づく。ざく、ざく、ざく。
「サフィ」
 聞き覚えのある声にとてつもなく泣きたくなる。近づいた声の主は、こほ、と小さく息をついた。
(カリアラ)
 彼の名を呼びたかった。呼んで、笑顔を見せたかった。そうしなければと思うほど、覗き込んだカリアラの顔は悲壮な色をしていたからだ。歯の根は震えてがちがちと痛々しい音を立てる。両目は大きく見開かれ、表情は凍りつき、顔色は白や青を通り越して紫色になっている。着込んだコートに続く首も、何もつけていない手も青黒く染まっている。
 カリアラはもう一度、こほ、と小さく息を吐く。そして両手を叩きつけるようにして、サフィギシルの体に積もった雪を取り払い始めた。ぶつけられる十本の指はありえない角度に逸れては力なく元に戻る。指の中の神経が完全に切れているのだ。手のひらはすでに彼の思うように動いてはくれないらしい。カリアラはただ両の手を投げつけるようにして、体中にまみれる雪を払ってくれる。腰から下はかなり深く雪に埋もれていたようだ。カリアラは土を掘り起こすようにして、サフィギシルの体を捜す。
 彼の顔に表情はない。しっかりと目を見開いて、がたがたと震えながら真剣に雪を掘る。今にも死にそうな顔をして、何よりも苦手な雪の中をここまで捜しに来てくれて、凍えながらも懸命に助けようとしてくれている。
 ぱき、と乾いた音がして、カリアラの指が折れた。彼はそれでも見やりもせずに、淡々と雪を掘る。腕を叩きつけるように。雪を殴りつけるように。ぱき、とまた指が折れる。カリアラは動きを止めない。
(もういい、もういいよ)
 さっきとは違う意味で泣きたくなって、なんとかして彼の動きを止められないかと考える。だがカリアラは痛みにも反応せずに、淡々と雪を掘る。腕を叩きつけるように。雪を殴りつけるように。
 カリアラは、こほ、と小さく息をつくと動かしていた手を止める。どうやら体が完全に出てきたようだ。左右には除けた雪がうず高く積もっている。カリアラは表情を凍らせたまま呼吸を整えていたが、動かない指を無理に使って着ていたコートの前を開けた。
 現れたのは鮮やかな赤い衣類。赤色の毛糸で編まれたケープにショール、ベストにセーター。腹巻きやひざかけも重ねて巻きつけられている。カリアラは何重にも着込んだ真っ赤な衣類を一枚一枚剥ぎ取って、サフィギシルの体に巻いた。あまりにも真剣な表情にどうしていいか解らない。困惑するこちらにも構わずに、カリアラは何枚も何枚も赤いものを着せていく。指がほとんど使えないため動きはやたらと不器用だった。だが、それでも、確実にサフィギシルを赤く赤く染めていく。
 身につけていたすべての赤をサフィギシルに移し終え、カリアラは凍りついた声で言った。
「強い」
 その目は赤く変化したサフィギシルを見つめている。魚の強さを身につけた友の姿を。
 カリアラは、ふと自分の体に赤がひとつもないことに気がついて、途端に不安な顔になった。着衣を減らして余計に寒くなっている。カリアラは弱々しい表情でおろおろとあたりを見つめた。だが、ふとサフィギシルに目をやって、ゆっくりと手を伸ばす。
 カリアラはサフィギシルの首からマフラーを取りあげて、手早く自分の首に巻いた。
「強い」
 震える口で呟くと、こほ、と小さく息をつく。カリアラはサフィギシルに両手を伸ばして脇の下のあたりを掴み、抱きかかえるようにして雪の中から引きずり上げた。サフィギシルは身動きができないので無抵抗にぶら下げられる。掛けられていた赤い衣類が何枚か下に落ちた。カリアラはまず彼の体を苦労しながら背に乗せて、その後でぎこちない手で赤を拾って冷えた背にかけてやった。
「強い」
 言い聞かせるように呟くと、雪に足を取られながらもよろよろと歩きだす。腰には縄が巻かれていた。カリアラはそれをたどりながら、危うい動きで一歩一歩進んでいく。初めよりも重くなった足取りが、雪を潰してくぐもった音を立てた。ざく、ざく、ざく。
 歩みが大きく迂回したので何気なく目をやると、明らかに人為的に雪の掘られた跡があった。それもひとつだけではない。いくつも、いくつも、あちらこちらに大きな穴が開けられている。カリアラが掘ったのだ。多分、姿を消したサフィギシルを捜すために。
 サフィギシルは動きの鈍い両腕で、カリアラの首にしがみついた。言いたいことがたくさんあった。感謝の気持ちと伝えきれないほどの謝罪。だが口は動かない。かすかな声すら出てこない。ありがとう。今朝はごめん。たったそれだけでもいいのに。
 サフィギシルは出てこない言葉の代わりに両腕に力をこめた。持ち主の元に戻ったマフラーがやわらかくあたたかい。体の不調で熱は感じられないが、あたたかいはずだと思った。少しでも熱を帯びて、彼をあたためて欲しいと願った。
 淡々と運ばれながら、みしみしと鳴るカリアラの体の不調を耳にして、帰ったらすぐに直してやらなければと思った。無力な自分が彼のためにしてやれる唯一のこと。ありがとうと言えなくても、せめてこの手で感謝の気もちを伝えたい。すぐに、すぐに、全身を温めて、壊れてしまった指を直して、神経を繋ぎ直して……。そう考えているうちに、安定した震動からか眠気が頭に降りてくる。凍えきった体もすぐにそれにつられてしまい、サフィギシルはゆっくりと穏やかな眠りについた。

      ※ ※ ※

「ねえ、せめて応急手当でも……そのままじゃ辛いでしょう?」
「大丈夫。我慢する」
 心配するシラの提案を退けるのはもう何回目だっただろうか。カリアラは暖かい部屋の中、赤いケープにショールにひざかけに腹巻きに、ありとあらゆる赤い衣服を身につけて、その上から毛布を被って壁にもたれかかっていた。そうしなければ体を支えられないというのもあるが、何よりも全力で燃えさかるストーブが恐ろしいので、部屋の角で丸まっている。
「まあお前がそうしたいんならいいけどさー。見てて痛いんだよ。せめて包帯ぐらい巻かせろよ」
 力なく床に垂らしたカリアラの手を横目で見つめ、ピィスがため息まじりに言った。サフィギシルを救出して何時間経っただろう。カリアラは気を失ったサフィギシルを背負い、みんなの待つ山の中まで戻ってきた。街の住民をも巻き込んだ捜索隊は一様にほっとしたが、二人の負った怪我は大きい。サフィギシルはすぐに応急処置を受け、家に連れ戻された今では全力で修理を進められている。だがカリアラはどういうわけだか修理や手当てを断った。
 サフィギシルの仮処置を終えたジーナが手を出そうとしても、「先にサフィを直してくれ」と修理を受け入れようとしない。あまりにも真剣なので、彼女は結局言われた通りにサフィギシルを直している。
「痛くないんですか?」
「すごく痛い。でも、我慢するから大丈夫だ」
 手を持てあましたペシフィロが尋ねてみても、カリアラは真顔でそう答えるだけ。だがその指は四本も折れていて、糸一本でかろうじて手に繋がっている状態だ。その他にも人工皮が凍りついて裂けてしまった箇所もある。本人は無表情だが見ているほうが痛々しい。
「大丈夫って言われても……」
 ぴったりと寄り添ったシラが、悲しげに彼の手に触れたその時。
 騒がしい足音がこちらに駆けつけたかと思うと、居間のドアが勢いよく開けられてサフィギシルが飛び込んだ。
「カリアラ!」
 サフィギシルは部屋の中を見回して、すみにいるカリアラを見るとほっと安堵に頬を緩める。
「まだ走るな! 大人しくしろ!」
 ジーナが慌てて追ってきたが、サフィギシルは打ち返すように言う。
「だって早く直さなきゃ。怪我してんだろ!」
「お前だって瀕死だったんだ! カリアラは私が直しておくから、お前はまだ安静に……」
 サフィギシルは伸ばしたジーナの手を払い、子どもじみた顔で言った。
「いい! 俺が直す!」
 そして幼くも真剣な目で座り込むカリアラを見る。
 カリアラは笑った。嬉しそうに、可笑しそうに、鮮やかな笑みを見せた。
「うん。頼む」
 力強い声で言うと、指が折れて垂れ下がった両手を彼に伸ばす。サフィギシルは照れくさそうにぎゅっと口を結んだが、すぐに決意を抱えた顔で、言えなかった言葉の代わりにカリアラの腕を取った。



 修理作業が終わった翌日、居間にあるストーブの周りには手作りの柵が置かれた。暖かくも安全なその柵の周辺は『焼けない場所』と称されて、臆病な元ピラニアの安らぎの場所になったという。


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