エピローグ「人は笑う」
←前へ  連載トップページ  次へ→



かけがえのないあなたに  出逢えたよろこび  この世の奇跡
今日という素晴らしい日に  よろこびのうたを  祝福を
生を受けたこのよろこびに  惜しみない祝福を  祝福を

風は歌い光は踊る  水と大地は語り合う
かけがえのないあなたと出逢えた奇跡に
生を受けたこのよろこびに

素晴らしきうたを 祝福を
よろこびのうたを 祝福を
(コルグラード民謡)



 カンカンと耳に明るい音がする。定期的に響くそれは、木に釘を打ちつける音だろうか。鋭い音は放たれるごとにぼんやりとやわらいで、あたりの空気にとけていく。
 カリアラが、誰かと喋っているのがやけに近い場所から聞こえる。まだ醒めきらない頭を叩き起こし、サフィギシルは目を開けた。視界は嘘のように暗い。彼は一瞬思い悩み、その後でおもむろに枕を顔の上からどけた。さらに上から被さっていた毛布も、掛け布団と薄いシーツも。そしてげんなりとして身を起こす。
 作業室の奥にある小部屋の中だ。横になっていたのはいつも通りのベッドの上。だが、起床して一番に見える景色は驚くほどに変化している。サフィギシルは不機嫌を丸出しにして呼びかけた。
「……おい」
「あ、起きたのか」
 壁に空いた大きな穴の向こうから、カリアラがひょっこりと顔を出した。くわえていた釘が口を開いた拍子に落ちる。外で修理を手伝っていたのだろう、その手には金づちが握られていた。彼とその強固な工具はあまりにも危険な取り合わせに思えたが、今はあえて言及しない。サフィギシルは穴の向こうに向けて言う。
「起きたよ。起きたとも」
 それは見ればわかることだが、この状態は一目では把握できない。サフィギシルは部屋いっぱいに広がっている、毛布と布団の海をぐるりと指して訊いた。
「なんなんだよこの状況」
「きのうはすごく寒かったからあったかくしようと思った」
 カリアラは笑顔でハキハキと答える。なるほど、家中の布団や毛布を山のように掛けていけば確かに暖かいだろう。壁に大きな風穴が空いていても気にならないに違いない。サフィギシルは、自分の足に掛けられていた五枚の毛布を床に落とした。腹の上に乗せられていた敷布団三枚も。
「……枕は頭の下に置けよ」
 カリアラは聞き分けよくうなずいた。サフィギシルはもう何も言うまいと誓いながら体を起こす。
 そして思わず顔をしかめた。体が重い。全身に疲労が貼りついていて、起きるだけでふらふらする。布団が多すぎたためかもしれないが、それ以上に前日の疲れが堪えているのだろう。昨日は本当に忙しかったのだ。
 ビジスが空へと消えたあと、カリアラは笑顔のまま気を失ってばったり倒れた。聞けばなにか巨大な猫と戦っていたとかで、随分と痛い目にあっていたらしい。サフィギシルはカリアラの体を開いて絶句した。戦ってきた彼の体の中は、よくぞここまでと言わんばかりに破壊されていたのだ。どうしてこんな状態で今まで生きていられたのか、心底不思議に思えるほどの重症だった。
 もちろん即座に作業場へと運んで修理に取り掛かる。だが怪我の度合いがあまりにも酷すぎるうえ、シラに義足を付ける作業もすぐに始めなければいけない。それらはいかにビジスの力を受け継いだと言えども、容易に進められるものではなかった。
 そこまで思い起こしていると、大きな穴の向こう側から痩せた男がこちらを覗いた。
「おっ、起きたか。大丈夫かい?」
 さっきカリアラと話していた者だろう。彼の手にも金づちが握られている。どうやら、あちこちが壊れてしまったこの家を修復してくれているらしい。隣の部屋のあたりから、カリアラがむちゃくちゃに壁を打つ音が聞こえている。
「やー、昨日は大変だったねえ。でもすごいよあんたは。あんな神技をこの目で見られるなんて、猫に感謝しなくちゃな」
 男はカリアラを止めることもなくしみじみと言う。サフィギシルは引きつった笑みでそれに答えた。
 とにかく手が足りなかったのだ。一刻を争う怪我人を二人同時に任せられれば、その場はまるで戦場となる。そうとなれば細かいことを考えている暇もなく、サフィギシルは緊張も何もすべて忘れ、その場にいた魔術技師たちを即席の助手に仕立て上げた。今思えばかなり動転していたのだ。全力でカリアラとシラの修理に取りかかりつつ、初対面の大人たちをてきぱきとあごで使ったような気がする。家の中にたくさんの人を入れて、いろんなことを手伝わせてしまったような……。
 そしてそれは、残念ながら記憶違いではないようだった。
「よかったら、今度また作業を見せてくれよ。手伝えることは何でもするからさ。みんな同じこと言ってたよ。今は街の修復でそれどころじゃないけど、もう少し余裕ができたらぜひ色々と教わりたいってさ」
 などと人懐こい笑顔で言われてしまう。サフィギシルは中途半端な愛想笑いをしてみせた。
「……また、機会があれば」
 みんな、と一言で済まされてしまったが、多分十人以上はいるだろう。昨日の修理を手伝ってくれた者だけではなく、子どものように目を輝かせて外から作業を覗いていた、数多くの技師も含むに違いない。彼らと賑やかに交流する姿が自分でも想像できなくて、サフィギシルはこめかみを押さえた。
「うち、小さいけど技師工房やってるんだ。よかったら気軽に遊びに来てくれよ」
「……そうですね」
 爺さん、俺たぶん友達ができました。山ほど。
 心で呟きながら重い体を動かして、毛布の広がる床へと下りる。
「ま、今はゆっくり休んでくれよ。壁は全部直しとくから」
「ありがとうございます」
「いいっていいって。勉強させてもらったお礼だよ」
 たどたどしく礼を言うと、男は照れくさそうに笑った。カリアラが彼を呼ぶ。
「ディーカー、こっちの穴終わったぞ。次はどうするんだ?」
「あー! 何やってんだよ、これじゃこの家壊れるよー。いいから釘でも並べてな」
「そうか」
 といういつも通りの台詞と共に、カリアラがまたひょこりと穴の向こうに立つ。彼は叱られたにも関わらず、にこにこと笑っていた。昨日からずっとこうだ。笑顔のまま気絶して、修理が終わって目を覚ましても終始笑い続けている。今も地面に釘を一本ずつ並べながら、ゆるんだ笑みを浮かべていた。サフィギシルは怪訝にそれを眺めていたが、寄せた眉をほどかないまま諦めてドアへと向かう。
「あ、忘れてた。サフィ!」
 呼び止められて振り向くと、カリアラはにこにこと笑いながら言った。
「おはよう」
「…………」
 サフィギシルは無言のままそのゆるみきった笑顔を見つめる。
 そして、何か部品を入れ忘れてしまっただろうか。と真剣に考えながら部屋を出た。


 穴が開いてしまったせいか廊下はやけに涼しかった。風通しがいい。空気がどこか真新しい。
 背後からはカンカンと明るい音がする。
 また誰か新しい人がやってきて、カリアラに話しかけているのが遠く聞こえた。
「おう。サフィギシルはどうしてる」
「大丈夫。もう起きた」
 そう答えるカリアラはまだ笑顔のままなのだろう。起こることや見るものすべてが嬉しくてしかたがないというような、ほころぶ笑みを浮かべているのだろう。サフィギシルは彼の笑顔を想像しながら居間に入る。
「あら」
 ソファに腰掛けていたシラが、きょとんとして顔を上げた。
「どうしたんですか、そんな笑顔で」
「えっ、俺笑ってた?」
 サフィギシルは思わず頬に手をやる。シラは平然と言い切った。
「笑ってますよ。現在進行形で」
 うそ、と呟きながら顔をこねると、彼女はかすかな笑みをもらす。ほんの少し呆れたような、どこか優しい微笑みだった。今までの作り笑いとはまったく違うかたちの表情。
 シラは立ち上がると、慣れない足を引きずりながら部屋の奥へと歩きだす。
「朝ごはん、食べるでしょう? 座っててください」
「え。……作ってくれるの?」
 驚きのまま口を開くと、軽くふり向いて言った。
「期待はしないでくださいね」


「うん。なるほど」
 特製の料理を見てサフィギシルはうなずいた。シラは不機嫌に顔を赤らめる。
「なんですかその反応は」
「いや……なんか、ものすごく無難だなあと」
 初めて見た彼女の料理は、良くも悪くも納得の行くものだった。
 手でちぎったと見られる大きさのまばらなレタス。慣れない刃物で切ったのがありありとわかる分厚いチーズ。切り口が斜めすぎるハムに、形の崩れてしまったトマト。作り置きのソースがかけられたそれらを一気に挟むのは、上下で明らかに厚さの違うパン。山盛りになっているためにあごが外れてしまいそうだし、切り分けられていないので両手で抱えなくてはいけない。
 あまりにも豪快なサンドイッチを目前にして、サフィギシルはまた笑ってしまう。
「た、食べたくないならいいんですよ」
「いや、食べる食べる。いただきます」
 シラがますます赤い顔で皿を下げようとするので、笑いながら手を伸ばした。
 持ち上げただけでトマトがずるりとずり落ちた。ソースがこぼれてべたべたする。ハムが厚い。そしてチーズはもっとぶ厚い。サンドイッチというよりもなんだかチーズの味しかしない。
 それなのにとても美味しかった。ふつふつと湧いてくる暖かい感情が美味しいと思わせた。シラは隣の席で食べる様子を見守っている。おいしいよ、と声をかけると疑うような目をしたが、その後で照れるように少し笑った。
 サフィギシルはこぼれる具に苦戦しながら尋ねる。
「二人は、朝ごはん何か食べた?」
「当たり前でしょう。もうお昼前ですよ」
 シラは呆れた息をつく。そういえば、もう陽がかなり高い。サフィギシルは昨日はいつ眠っただろうと考えて訝しむ。作業が終わったところまでは覚えている。だが、そのあとの記憶がない。
「昨日、俺どうやって部屋に戻ったっけ?」
「今気づいたんですか。自力で戻ってません、カリアラさんが運んでくれたんです。あなた、修理が終わってすぐ倒れたんですよ」
 覚えていない。意識を失っていたのなら当然だろうが、それはそれで別の意味での不安が起こる。
「ちゃんとしっかり運べてた?」
「かなりあちこちぶつけてましたよ。どこか痛くありませんか?」
 言われてみれば、後頭部に鈍い痛みが残っている。肩にも、腕にも、膝にも。体中が重いのはどうやらすべてが疲労のせいではなかったらしい。サフィギシルはうんざりと頭を押さえた。
「……それであの布団の山か」
「悪気はないんです。本人はいたって真剣」
「知ってる」
 知っているからこそ、下手に文句も言いづらいのだ。サフィギシルはこの件についてカリアラにどう注意しようか悩んだが、結局は流すことにした。親切心だ。と、自分自身に言い聞かせる。今さら何か言ったところで疲れるだけのような気がした。
 いろんなことを考えながら、黙々とサンドイッチを消化する。もう既にパンを食べているというより、具だけを食べている状態に近かった。シラは皿の上に散らかった野菜のかすを眺めて呟く。
「私たちは生魚で十分なのに」
「生のままはちょっとなあ。今度料理教えようか」
「そうして下さい。いつまでも呑気な居候のままのわけにはいきませんから」
 そうか、これからは全部自分で食事を作らなくてもいいのだな、と思う。それならば随分助かる。何しろ今まで料理をはじめ、毎日の家事が苦痛になりつつあったのだ。サフィギシルは肩の荷が下りた実感を、しみじみと口にした。
「……楽だなあ」
「言ったでしょう、手を貸してあげるって。約束したからには守らないと」
「ああ、なるほど。でももっと早く言ってくれれば良かったのに」
「手を貸したい人と貸したくない人がいるでしょう?」
 さらりと言われてそのまますんなり流した後で、言葉の意味が心に染みる。サフィギシルは何故だか恥ずかしいような、照れくさい気分で口をもごもご動かすが、なんとかしぼり出すように、ほとんど呟くように言った。
「ありがとう」
「はい、どういたしまして」
 シラはおかしそうに笑って答える。その笑顔があまりにも暖かくて優しくて、サフィギシルはどんな顔をすればいいのかわからなくなる。ぎこちなく頬を動かしていると暖かいものがあふれてきて、ふつふつと笑みが湧いた。
「なんか」
 照れくさくてきちんと顔を上げられなくて、残り少ないサンドイッチを見つめて喋る。
「さっき、起きたら人がいてさ。当たり前のように話しかけてくれて、カリアラとも仲良さそうで。あいつはずっとにこにこしてるし。後で来たほかの人も、俺のこと気にかけてくれてさ。……なんか、嬉しいな」
 そして最後の一口をぱくりと食べた。
 シラは笑っているようだった。顔を見てはいないけれど、雰囲気が伝わってきた。
「じゃあ、片付けておきますね」
「うん。頼むよ」
 シラは皿を持って立つ。台所へと向かいながら、ちらりとふり向いて言った。
「その喜び、誰のおかげか考えてみてくださいね」
 彼女はどこか楽しむように笑っていた。サフィギシルは手を拭きながら、口を山型に結ぶ。言われなくてもわかっていた。死ぬところだったのが助かってここにいられるのは。緊張感も嘘もなくシラと話せるようになったのは。身元も素性も怪しい自分がすんなりと街の人々に受け入れられたのは。
 そんなことは、考えなくともわかっている。
 そして、自分が言わなくてはいけないことも。
「サフィ、起きてて大丈夫か?」
 唐突にその相手に呼ばれてぎくりとする。サフィギシルは意味もなく慌てた気分になった。ドアを開き、カリアラが部屋の中に入ってくる。相変わらずゆるみきった笑顔のまま近づいて、斜向かいの席に座った。
「ああ。……あのさ」
 サフィギシルは口を開く。だが、言葉が後に続かなかった。
 言わなければいけないことがある。伝えなければいけないことがある。それなのに声が出てこない。ちゃんと言葉になってくれない。じりじりとした焦燥がさらに言葉を詰まらせる。カリアラは、こちらのあせりを気にもせずに笑っている。
「なんだ?」
「……なんでもない」
 サフィギシルは悔しさに口を結んだ。シラにはちゃんと言えたのに、どうしてこうなるのだろうか。
「そうか」
 そう言うと、カリアラは笑顔のまま手にしていたものを差し出した。
「これ、ビジスから」
「え」
 サフィギシルは驚いてそれを見つめる。横長の封筒だ。少し大きめなところ以外は特に変わった様子のない、うす緑色の平凡なもの。おそるおそる受け取ると、カリアラは笑顔で言う。
「前にビジスが出てきたときにあずかってたんだ。『サフィが出られるようになったら渡してくれ』って」
「預かってたって……なんだよこれ」
 薄く軽いところからしてただの手紙なのだろうか。それにしても、一体どうして。顔中に疑問を浮かべて訊くと、カリアラは嬉しそうに笑って言った。
「 “ごほうび” だ」


「…………」
 封筒の中から出てきた紙を見つめ、サフィギシルは言葉を失う。
 カリアラは外に出て行った。一人ぽつりと椅子に座り、サフィギシルはその一枚きりの紙を両手で掲げた。空を見上げるように見る。書かれた言葉が夢ではないことを確かめて、かみしめるように見つめた。何度も読んだ。言葉をすべて頭に胸に刻み込む。
 そして固く目を閉じる。くちびるも同じぐらいにきつく。
 彼はそのまま天を仰ぎ、深い息をひとつついた。
 言葉は、ない。
 だが動く理由ができた。やるべきことを思いついた。
 サフィギシルは紙を封に戻して立つ。台所のシラに声をかけた。
「ごめん、昼飯は適当に食べといて」
「どうしたんですか?」
 不思議そうに尋ねてくる彼女に向けて、できるだけさり気ない風に言う。
「ちょっと、街まで下りてくる」
 シラがぽかんとするのを見て、サフィギシルはにやりと笑った。


←前へ  連載トップページ  次へ→

エピローグ「人は笑う」