「……外の様子、見せてください」 魔術によるある程度の治癒が終わり、ひとまずは痛みが消えたと思われるころ。シラは静かに囁いた。サフィギシルは心配そうに、彼女の顔と血にまみれた足を見る。 「でも、まだ完全には……」 「大丈夫。それよりも心配なんです。運んでください」 今の状態ならば痛みはほとんどないはずだが、まだ義足を付けていない。魚の形の下半身では自力で歩くことはできないだろう。シラはサフィギシルに両手を伸ばす。彼は困った顔をするが、シラは平然と言い切った。 「それぐらいはしなさい。迷惑かけたんだから」 「……ハイ」 痛いところをつかれてしまえば反論も消えてなくなる。サフィギシルは彼女を横抱きにして、血で足がすべらないよう気をつけて部屋を出た。さっきまでは激しかった外からの音はぴたりとやんで、今はただピィスがペシフィロをなじる声が立て続けに聞こえるだけ。一体何が起こったのかは、罵声からは察することができなかった。事情がまったく掴めない。 サフィギシルは訝しく思いながらも廊下に出る。抱えられたシラが言った。 「いやだったら、今はまだドアから覗くだけでもいいけど」 彼女の言葉と表情は、繕っていた皮を剥いですっかりと気さくになっている。あの時の怒鳴りによるものなのか、それとも疲労がそうさせるのか。どちらにしろそれがなんだか嬉しくて、サフィギシルはかすかに笑った。 「にやけてないで。どうするんですか?」 「あ、うん。とりあえず外に……」 喋りながら玄関につき、ドアに手をかけたところでびくりと止まる。 「おおーい! 大丈夫かーっ!?」 「猫はどうなったーっ!」 「大丈夫かいカリアラくーん!!」 「生きてるかあーっ!!」 扉一枚隔てた外から、大勢の人の声がした。 こちらに駆け寄る足音と、口々に放たれる声が騒がしく響き始める。唐突に出現している家に驚く言葉が聞こえた。カリアラを呼ぶ声、ピィスを呼ぶ声。ペシフィロに話しかけるものもいる。よくわからないが猫について会話がなされているようだ。ペシフィロとピィスがやけに慌てているのがわかる。カリアラを心配する言葉が騒がしく集まっていく。サフィギシルは硬直してその場から動けなくなった。 ドアを開けたその先にはたくさんの人間がいる。きっと街の住民だろう。彼らは“前の”サフィギシルのことをよく知っているはずだった。そして、その男はもう死んだのだと思っている。 その中に、今自分が出て行ったらどうなるだろう? 「行きましょう」 シラが、首に巻いた腕を強める。サフィギシルは息を呑んだ。 「今なら丁度いいわ。出ましょう」 外にはピィスもペシフィロもいる。カリアラも街の人々と打ち解けているようだ。それならば、きちんと説明をしてくれる。二人を紹介してくれるはずだ。シラはまっすぐな目でサフィギシルを見つめている。人魚の姿に戻っている彼女にとってもこの状態は厳しいだろう。大勢の人の目を浴びることになる。人間を怖れるシラにとって、それは耐えがたい苦痛のはずだ。だが彼女は強いまなざしを向けて言った。 「さあ」 サフィギシルは、ゆっくりと、ドアを開ける。 カリアラたちを囲むたくさんの人間たちが目に入った。彼らはまだこちらには気づいていない。口々に、楽しそうに語りあっている。そこに行かなければいけない。“外”に出て行かなければ。 だが足が動かない。どうしてもすくんでしまう。 やりきれない悔しさに、彼が歯をくいしばったその時。 とん、と背を押されたような気がした。 凍りついていた足がつまずくように前に出る。一歩目が外に出た。二歩、三歩。二人の姿が完全に外の光を浴びたとき、カリアラがこちらを向いた。彼は驚いたように二人を見つめ、その後で、嬉しそうに笑う。 カリアラはピィスに声をかけた。あたりにいた人々が一斉に目を向ける。サフィギシルは心臓が止まる気分だった。シラも同じだったのだろう、彼の首を抱き寄せる。ピィスが早口に説明を始めた。カリアラも、ペシフィロもまた所々に口をはさむ。集まった数十人の人々は、驚きの目で解説者と対象物を交互に見つめた。サフィギシルとシラはいたたまれずに繰り返し息を呑む。家を一歩出た状態から、二人はまったく動けなかった。 「サフィ、来いよ!」 ピィスに呼ばれてサフィギシルはゆっくりと歩きだす。 固まる人の群れにむけて、たくさんの視線を浴びながら、一歩ずつ確実に。 突然その足が止まった。サフィギシルはびくりと震える。 「サフィ?」 ピィスが訊くが返事ができない。体が、おかしい。胴体の中がいやに熱い。右胸だ。予備の心臓石が、ビジスの潜んでいる場所が、焼けるように熱を持つ。小刻みの震動が体を揺らした。石が震えている。恐怖によるものではない。これは、これは、強い力の弾けだす……。 サフィギシルは人々の元へと走った。カリアラにシラを渡す。そのまま数歩あとじさる。 強く眩しい衝撃が身を揺るがした。 爆発にも似た音を立てて、光が、風が、熱が、力が、サフィギシルの体から放たれる。それはあたり一面の空気を絡め取るように伸びたかと思うと、濃密な力の塊となって一直線に天へと向かった。ごうごうと音を立てて高く高く昇っていく。目を眩ますほどの光に変化していく。 そして空高くに到達すると、強い光は弾けるように離散した。 「ビジス」 ペシフィロが呆然と呟いた。 そのあとは、誰もが言葉を失った。口を開いて空を見つめた。 風が、鳴る。木々がざわめく。地が、水が、うっすらと光を帯びた。地面からほのかな光の粒が湧く。川からも同じように小さな光があふれ始めた。それはたちまち天へと昇る。離散した眩しい光を追うように、地から、水から、木から、風から、魔力が目に見える形となって空高くへと昇っていく。上空で密集した魔力たちは、暮れ始めた空にうすぼんやりとしたもやをかけた。 それは、まるで、雲のように。 白いもやは金色の光をかすかに纏って空を覆う。 呆けた顔で見上げる彼らに、ひとひらの光が舞い落ちた。 やわらかな光の粒が、つぎつぎに降り始める。 ゆっくりと、音もなく。 空が白く輝いた。金色を伴うほのかな光が、その時、国中を照らしていた。 サフィギシルはよろけながらピィスの元へと歩み寄り、へたりとその場に座り込む。抜け殻になってしまったようだった。大きなものが体の中から消えている。力が、魂が。 ビジスが、この体を去っていった。 傍に集まる大勢の人々と同じように、サフィギシルもまた空を見上げる。 ビジスの言葉が頭の中に浮かび上がった。 ――腐れた体は土へと戻る。魂は大気に消える。魔力は水に、声をはらんだ息は木々の中へとな。 ビジスが笑ったような気がした。 耳元に、笑みを含んだ彼の声を聞いた。 暖かく大きな手の感触を思い出す。あの声が耳を打つ。 ――一つの命は、そうして世界に染み渡る。 「じいさん」 景色が淡く白くぼやける。 サフィギシルは彼の散った空を見上げ、ただ、静かに涙を流した。 |
小さな光はちらちらと瞬きながら、みんなのもとに降りおりる。 カリアラは口を大きく開けて、ぽかんとそれを見つめていた。 雪みたいだ、とピィスが言った。 “雪”が何かは知らないが、それはどうやらとてもいいもののように思えた。 誰もが空をため息と共に見つめている。光は触れると暖かかった。空が金色に輝いている。次々に温かい光を落としてくれる。 カリアラは、こほ、と小さく息を吐く。全身の力が抜けていた。限界近くまで消えた魔力が体温を下げている。体中をくまなく寒気が覆っていた。訪れる光の粒がとろけるほどにあたたかい。少しずつ、少しずつ、体へと染み渡る。 怪我を負う体内に光が積もる。確かな熱をもたらして、あたたかくしてくれる。 カリアラはまた息を吐いた。今度は、安堵によるものだった。 「ねえ、大丈夫?」 傍に座るシラが心配そうに訊いてくる。カリアラはうなずいた。 そしてあたりを見回して、嬉しそうに口をゆるめる。 街の人たちが、ペシフィロが、ピィスが、サフィが、シラが。みんなが同じ場所を見ている。たくさんの人々が、自分と同じ生き物が、揃って空を見つめている。 喜びがふつふつと湧いてきて、顔が勝手に笑顔を作る。表情がだらしなくゆるんでいく。喉が震えた。空気が体の中から出てきて、くつくつと音を立てる。嬉しくて嬉しくてしかたがない。肩が揺れる、体中が喜びに騒ぎだす。 声が出る。出そうとしているわけではないのに、声が勝手に口をつく。 彼は生まれて始めて声を出して笑った。 まだ慣れない不器用な笑い声が、途切れ途切れに外に出る。シラが驚いてこちらを見た。カリアラはそれすらもおかしくて楽しくてしかたがなくて、また止まらない笑みを口に出す。 顔が笑う。どうしても笑ってしまう。嬉しくてしかたがない。嬉しい、嬉しい、嬉しい。 彼は地に横たわり、だらりと四肢を投げ出した。 金に輝く天を見つめる。街の人たちが、ペシフィロが、ピィスが、サフィが、シラが。みんな同じ場所を見ている。揃って空を見つめている。 みんな、いる。 湧き起こる喜びに包まれて、笑いがあふれて止まらない。喜びが止まらない。 カリアラは満面の笑顔で叫んだ。 「しあわせだ!」 |