最終話「受け継がれるもの」
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 サフィギシルは思わずがばりと身を起こした。
 心臓石がいやに速く脈打っている。唐突な呼吸の再開についていけず荒い息を繰り返す。
「……え? え、あれ?」
 わけがわからず混乱したままきょろきょろとあたりを見回す。居間だ。日の光が静かに差し込む現実の居間の中だ。カリアラが驚いたようにこちらを見ている。ピィスも目を見開いて穴が空くほどこちらを見ている。彼女のくちびるが小さく震えた。
「も」
 一音が口をついた途端、その表情は弾けるような歓喜となる。
「戻ったああっ!!」
 そしてピィスはサフィギシルに思いきり飛びついた。サフィギシルは突然のことに困惑を強めるばかり。なぜだか頭をなでられた。ばしばしと肩を叩かれた。
「何!? なっ、何が!?」
 混乱する視界の隅で、カリアラが疲れたように崩れ落ちる。その口元には、かすかな笑みが浮かんでいたような気がした。ピィスは安堵した表情でうっすらと涙を浮かべる。
「何がじゃねーよ! ああ、もう死んだかと思った!!」
「は!?」
 全くわけがわからない。記憶が随分混濁している。サフィギシルは体を揺すられながら状況を把握しようと頭を動かす。確か、急に魔力を吸い尽くされて、意識が遠くなって、ビジスに出会った。ピィスが遠い場所で泣いているのが聞こえて、そして……。
「カリアラ」
 彼の呼び声を聞いた。
 サフィギシルは慌てて床に崩れたカリアラを見る。
「カリアラ、大丈夫か!?」
 だがカリアラはひどく潰れた声で言った。
「おれより、シラの方」
 サフィギシルは息を呑む。薄れていたさっきまでの記憶が鮮やかに蘇った。
 そうだ、自分はシラに怒鳴られたのだ。闇の中で歩みを怖れて立ち止まっているときに、微笑みを捨てた本心からの言葉をぶつけられた。耳も壊れてしまいそうな絶叫で、喝を入れられた。
 その叫びを聞いた途端、体が勝手に動いたのだ。
 理屈ではなく反射的に、重みを忘れて踏み出した。
 そして今、自分はここに生きている。
「シラ」
 サフィギシルは彼女を探した。広がる血に目をみはる。シラは服を血まみれにしてぐったりとソファに倒れていた。
「早く治してやってくれよ、つらそうなんだ!」
 それは心配そうなピィスの言葉を聞かずともわかった。シラは体を丸めてうずくまり、荒い息を続けている。随所に見える肌はおそろしく青かった。サフィギシルは彼女のもとへ向かおうと足を踏み出す。
 その途端、家の外から耳障りな音が聞こえた。
 轟音、というには音量が低いだろうか。
 まるで割れ鐘を無茶に叩いたような音。それは壁を隔てた庭から響いてくる。ピィスが息を呑むのがわかった。怯えたように青ざめるのもよく見えた。
 カリアラがゆっくりと身を起こす。彼は潰れた声で言う。
「ピィス」
 ピィスはびくりとそちらを向いた。カリアラは彼女を見返しもせずに立ち上がる。
「行くぞ。サフィ、シラを頼む」
「だってお前……!」
 彼の体は頼りなくふらついた。カリアラは食卓に縋るようにしてよろけながらも立ち上がり、壁を伝って歩いていく。心配そうなピィスに手を差し出した。
「行くんだ」
 ピィスは言葉をのみこんで、カリアラの体を支える。口早にサフィギシルに告げた。
「とにかく早く治してやって! 急いで!」
 サフィギシルは事情がわからないながらもうなずき、倒れるシラの元へと急ぐ。カリアラとピィスは外に出た。部屋の中が途端にしんと静まり返る。サフィギシルは広がる血に滑らないよう気をつけて足を運んだ。外の光が惜しげもなく部屋の中に差し込んでいる。風が通る、空気が動く。暗かったあの場所とは違う。以前の家の中とも違う。ここには確かな動がある。ここは、生きていくための世界だ。
 どうしてだろうか。サフィギシルは口をきつく結んで思った。
 今は大変な状況で、本来ならばとても緊迫しているはずで。
 なのに、喜びの感情が頭の中を埋め尽くしているのは何故だろう。こんなにも胸の中が暖かくてしかたがないのは何故だろう。
 ピィスの笑顔が、触れられた場所の暖かみが、遅ればせながら心の中に詰まっていく。カリアラがそこに居たことが、笑っていたことが、どうしてだろうかひどく嬉しい。助けてくれと言われたことが、お前が要ると言われたことが、一緒に生きようと言われたことが。シラが本心をあらわにしてくれたことが、手を貸すと呼びかけてくれたことが。ここに戻ってきた時に、ピィスが、カリアラが歓んでくれたことが。
 それが、言葉を失うほどに嬉しい。
 サフィギシルは泣きそうになってしまい、困惑してそれをこらえた。今は喜んでいる場合じゃない。シラを、彼女を助けなければ。でもどうしようか、泣きそうだ。もう、本当に泣き出してしまいそうだ。それをぐっと我慢しながら、うずくまるシラへと近寄る。彼女は全身を汗にぬらして苦しげな呼吸を続けている。両腕で顔を覆っていて表情は窺えない。
 呼びかけようと口を開きかけたその時。
 サフィギシルは強い力で腕を引かれた。シラの腕が彼の首に回される。そのまま強く引き寄せられて、二人の顔は触れあいそうなほどに近づく。
 息すら届く至近距離で、シラは最高の笑顔を見せた。

「よくできました!!」

 それは本心からの笑顔。優しげな作り笑いなどではない、弾けるような明るい笑い。
 彼がずっと望んでいたもの。ずっと求めてきた言葉。
 こらえてきた涙が途端にあふれた。サフィギシルは止まらないそれを拭いながら泣きじゃくる。シラは彼を抱き寄せた。呆れたように笑いながら、優しいしぐさで頭をなでる。
 その胸の中で無様な嗚咽をくりかえし、サフィギシルは、ただ幼い子どものように泣いた。

※ ※ ※

 今にも倒れてしまいそうなカリアラの体を支えながら、ピィスはそっと外を窺う。
 猫が、居る。広がる荒れた庭の隅に、闇色の猫がよろけながらも立っていた。その体は随分と小さくなっているが、まだ小熊ほどはあるだろうか。どろどろとした腹からは、白濁した半透明の吸入石が二つぶら下がっている。ピィスは思わず舌を打った。あれがある限り、下手に近寄ることはできない。たった二つになったようだが、それでも魔力を吸い尽くすことに変わりはないのだ。
 猫は二人に気づいていない。かぱりと開いたままの口から、壊れた鐘のような音を流しつつ、何かを探すかのようにうろうろと視線を迷わせている。
 どうする。どうやって倒すか、追い払うか。
 緊張に冷え込む思考で、ピィスが独白したその時。
 猫が、二人に気づいた。空洞の目が射抜くように見つめてくる。
 カリアラが息を吐いた。彼はそのまま猫に向けて走り出す。
「ばっ、やめろ!!」
 悲鳴のような制止の声にもふり向かず、彼がピィスの腕を振り払って猫へと向かっていった瞬間。
「『切り裂け』!!」
 聞きなれた声が鋭く術を行使した。カリアラはびくりとして足を止める。
 光を帯びた風の刃が猫の前脚を切断する。高く割れた悲鳴が響いた。放たれた風の魔術はあっという間に吸入石へと吸い込まれるが、猫の反撃を待つ前に次の術が発動される。地を崩す強い魔術だ。猫の立つ地面が割れて穴となった。足元を崩された猫はわめきながらそこに落ちる。すっぽりとはまりこんだその上から、石のつぶてが矢のごとくに鋭い軌跡を描いて飛んだ。続いてまた風の刃が何発も打ち込まれる。穴の中から石の砕ける音がした。
 猫の声が完全に掻き消える。悲鳴も、泣き声も、すべてが穴の中に消えた。
 カリアラはふらりとその場に座り込む。ピィスもまた彼の元へと駆け寄って、へたり込んだ。
 遠くに立つ人物を見て、泣きそうな声を出す。
「親父……」
 荒れた空き地の入り口に、ペシフィロが息を切らして立っていた。突き出していた杖を下げて二人に駆け寄る。
「大丈夫ですかっ! けが、怪我はありませんか!?」
「何やってんだよバカ、遅いよ……!」
 安堵から、またもや涙が滲んでくる。ピィスはペシフィロの差し出した手にしがみつき、彼の腕に頭を預けた。いつもは情けないばかりの父が、今ばかりはたくましく思える。ピィスはペシフィロに寄りかかり、脱力した体をまかせた。
「ああ、ああ、こんなことになるとは……カリアラ君、大丈夫ですか?」
「わかんねえおれもうつかれた」
 カリアラは回りきらない舌で言うと、地に体を投げ出した。
 ペシフィロはピィスを抱きかかえたまま、落ち着きなくあたりを見回す。
「そんな、ああ、まさか……まさか、こんなことになるとは思っていなかったんです」
「……思っていなかった?」
 ピィスはふと顔を上げる。父がぎくりとするのが体から伝わってきた。青ざめている。ペシフィロは今までに見たことがないぐらい、蒼白な顔をしている。
 なにか、ものすごく嫌な予感がした。
「思ってなかったって、親父……」
 言葉の続きは、石の崩れる音で消える。全員がそちらを見た。つぶてとなって放たれた石の山が、ゆっくりと崩落していた。猫が落ちたはずの穴の中から、ひょこ、と茶色い頭が覗く。よろよろとした動きで四足の動物が穴の中から這い上がった。
「……ねこ?」
 ピィスが思わず疑問形で口にしたのも無理はない。その生き物は、猫のような、犬のような、たぬきのような、やぎのような、よくわからない四足歩行のモノだった。
 『作品』だ。まだ毛皮をまとっていない、内部の木組みを剥き出しにした、木製の細工物だ。
 だが顔があまりにも不細工すぎて一体何の動物なのかわからない。吸入石はついていないようだった。間抜けすぎる容貌が警戒を薄れさせる。
 前脚が一本なかばで切断されて、立つ姿勢は危うげに歪んでいた。その生き物は歩き続けることができず、穴を出たところで立ち止まる。大きさは、猫というよりは世話の焼ける大型犬ぐらいはあるだろうか。動物なのかという以前にこの世界の生き物なのかもわからない。ただ尻尾が異様に短いことと、足が妙に長いことだけはわかった。
 その奇妙な生き物を見て、ペシフィロが、今まで以上に青ざめたことも。
 動物は、カコ、といきなりあごを落とす。真四角に開かれた口の奥から、蚊の泣くようなかすかな音が響き始めた。猫が放っていたのと同じ、耳障りな濁りの音色。だが今までよりも小さくなったそれは、改めて聞き直すと、音程が狂ってはいるものの耳に覚えのあるもので……。
「『生誕の祝福』」
 ピィスは呆然と呟いた。

   かけがえのないあなたに 出逢えたよろこび この世の奇跡
   今日という素晴らしい日に よろこびのうたを 祝福を
   生を受けたこのよろこびに 惜しみない祝福を 祝福を

 これは生誕歌だ。誕生日を祝って歌う、古くから伝わる唱歌だ。
 さっきまで黒猫だったはずの奇妙な生き物は、野太く潰れた声で言った。
「ピ、ぴいスれぇん、たた、んじょ、ビ、おめ、でと、う」
 たどたどしく言い終わると同時に、生き物はその場に倒れる。
 その言葉で何もかもを理解して、ピィスは目の前が真っ暗になるのを感じた。そして、泣きそうに青ざめたすべての元凶に過去最大の怒声を浴びせる。
「この……ッッ 馬鹿親父――っ!!」
「す、す、すみませ――ん!!」
 半泣きとなったペシフィロの声に、カリアラが、ぐったりと頭を落とした。

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