最終話「受け継がれるもの」
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 サフィギシルは椅子から立ち上がる。
 その瞬間、目に見えていた景色は跡形もなく掻き消えた。広がるのは夜の闇。ぽつ、とかすかな水の粒が頬に落ちた。弾かれたように顔を上げると空が見える。重く暗い雲をたたえる、恐ろしく広い空。
 雲の中にかすかなざわめきが起こった。雨だ。やわらかな雨が、ゆっくりと降り始める。
 サフィギシルはあたりを見回した。
 庭だ。あの時の、夜の庭だ。
 そこには、ビジスが死した前日と同じ景色が広がっていた。
 雨が降る。ざあざあと音を立てて体を冷たく濡らしていく。
 むずがゆいそれが、ふっと消えた。雨音が薄れていく。
 暖かな手が、そっと頭に乗せられた。ほのかな光が体を包む。
「爺さん」
 サフィギシルは傍に立つ彼を見上げた。ビジスは屈み、膝をついて目線を合わせる。サフィギシルは自分の体が小さな子どものものであることに気づいた。乗せられたビジスの手は、頭がすっぽりと覆われてしまうほどに大きい。サフィギシルは自分の手を見た。足を見た。まだ生まれて間もない未発達な子どものからだ。
 ビジスは静かに口を開いた。
「責任を、取らねばいかん」
 ゆっくりと頭をなでる仕草があまりにも優しくて、手のひらからビジスの想いが伝わってきて、サフィギシルは泣きそうになる。
 ビジスの体は今までになく大きく見えた。自分が縮んだからというだけではない。彼の中には老いを忘れさせる安定感があった。確かな強い意志と力が、隅々まで流れているのだ。決して倒れることはない大樹の幹にもたれかかっているようだった。長い時が、積み重ねられた確かな力が彼の中に存在している。
 サフィギシルは立っているのも不思議なぐらいにか弱かった。
 まだ、世界を知らない幼子だった。
 彼はこれが本来の自分の姿であることを知った。
「爺さん、俺、行かなきゃ」
 サフィギシルはビジスを見上げる。
「俺、行かなきゃ」
「この力を抱えていくか?」
 彼は迷わずうなずいた。
「だって、それがなきゃ助けられない」
 その目は既にここではなく地上の仲間を見つめている。
 ビジスは嬉しそうに笑った。サフィギシルの手を取って、そっと指を開かせる。
「ならば渡そう。この身に宿る力の全てを」
 ビジスは左手をサフィギシルの手の上にかざした。大きな彼の手のひらから、密な力がゆっくりと落ちていく。それは音もなく染み込むようにサフィギシルの中へと消えた。すべての受け渡しが完了すると、ビジスはサフィギシルの手をそっと包む。
「この力は小さなお前の掌に余る」
 彼は、サフィギシルの目をまっすぐに見つめて言う。
「抱えきれなければお前の仲間に持ってもらえ。お前には、それができる」
 サフィギシルはうなずいた。ビジスは満足そうに笑う。
 そして、ふとあらぬ場所に目を向けた。
「ここで、お別れだ」
 サフィギシルは息を呑む。問いかけは泣きそうになる。
「爺さん。爺さんは、もう」
「ああ。……何か、訊いておきたいことはあるか?」
 悲しみと心細さが、サフィギシルの足をすくませた。それでも懸命に口にするべき言葉を探す。さまざまな問いが頭を巡った。訊きたいことは山ほどある。言いたいことも同じぐらい。
 だが最後に残ったのは、たったひとつの問いかけだった。
「爺さんは、どうして俺を作ったの」
 それはずっと心に抱えてきたもの。ひと時も忘れることなく居座っていた、消すことのできない暗がり。
「この力を渡すため? そのために、俺を作ったの?」
 それとも、前のサフィギシルの代わりにするためだったのか。
 サフィギシルは不安のままに父を見上げる。
 ビジスは笑った。
「なんだ、忘れたのか?」
 告げた答えはあまりにも簡潔だった。
「お前が願ったからじゃないか」
 サフィギシルはぽかんと小さな口を開ける。それを見て、ビジスは笑みを強くした。
「まァ無理はない。わしらもそんな昔のことは、覚えてなどいないからなァ」
 ビジスはサフィギシルの頭をなでると、くつくつと喉を揺らす。
「忘れたのならば覚えておけ。魔術技師と言うものはな、全ての願いを叶える仕事だ。語りたいものには口をつける。歩きたいものには足を与える。“人間になりたいものを人間にする”」
 サフィギシルは息を呑む。ビジスは一言ずつ、ゆっくりと語りかける。
「願わない姿に変えるなど、いくらわしでも出来やしない。外側だけこちらが勝手に作り上げても、中身がそれを拒否してしまえば何もかもが崩れてしまう。長くはもたん。……そういうものだ」
 その言葉があまりにも暖かくて、嬉しくて、サフィギシルは泣きそうな顔になる。知らずうちに頬がゆるんだ。笑みを隠すようにうつむく。
「ありがとう」
 かすれた声で囁くと、ビジスは笑いながらサフィギシルの髪を乱した。
「さァ、旅立ちの時が来た」
 暖かい手が小さな彼の背に回る。ビジスは前方を指差した。
 煌々と光を湛える外灯が首をもたげている。その向こうに広がるのは、塗りつぶされた闇だった。あの時は前に進めなかった、『外』へと続く入り口だ。明かりに照らされているはずなのに、道の向こうはどうしてだろうか何ひとつ見えなかった。未知の闇。見たことのない世界。
 ビジスはサフィギシルの肩を掴む。
「行けるな」
「……うん」
 サフィギシルは不安な顔でビジスの指の先を見ている。行き先は生の路だ。
 緊張と恐れからこわばる彼の体を支え、ビジスはそっと囁いた。
「ここから先は、お前の世界だ」

 そして、とん、と背中を押す。

 サフィギシルは平衡を崩して小さな足をもつらせた。そしてそのまま転がるように、こけつまろびつ走り始める。慣れていなかった足がしっかりと地を蹴っていく。たちまちに動きが速くなる。
 彼は振り返ることもなく、新たな路を走り始めた。



 消えていく小さな背を見つめながら、ビジスはその場に座り込む。サフィギシルはもう見えなくなった。役目を終えた父親は、嬉しそうに息子の発ったあとを見つめる。
 ――やっと、送り出すことができた。
 前のサフィギシルの時のように、背を向けることはしたくなかった。かと言って手元に閉じ込めるべきではない。それでは何も変わらない。
 自分は、“送り出す”べきだったのだ。
 彼は深い息をついた。これで、終わりだ。もう思い残すことはない。ビジスは闇の中に寝そべった。
「……わしは死ぬ。だが、全ては残る」
 語る口が笑みをつくる。湧き起こる喜びに包まれて、笑いがあふれて止まらない。真暗な天に向けて叫ぶ。
「これほどの幸福があろうか。これ以上の喜びがあろうか!」
 そしてそのまま高らかな声で笑った。
 長く、長く笑い続けた。
 ビジスは止まらない笑みを両手で覆い、ひとり呟くように言う。
「ああ、本当に。――本当に、なァ」
 くちびるが音を乗せずに動く。彼は声には出さず、そっと何かを口にした。

 言い終えるとまた頬がゆるんでいく。彼は飽きもせずに笑った。
 ゆったりと四肢を投げ出し、ここにはいないものたちに言う。
「馬鹿息子を、よろしく頼むよ」
 そうして彼は、笑いながら目を閉じた。

※ ※ ※

 まばゆい入り口を抜けると、後は闇ばかりだった。サフィギシルは思わず足をすくめてしまう。随分と前方に、うすぼんやりとした光が見えた。丸い、かすかな朧月のような白。
 そこが、本当の、最後の出口なのだと悟る。
 その先には世界がある。生きていくべき場所がある。すぐにでも向かわなければいけなかった。彼は走り出そうとした。
 だが、足が、動かない。
 幼い体はがたがたと震え始める。得体の知れない恐怖が全身を凍りつかせた。力を受けた左手が、信じられないほどに重かった。まるで石になってしまったようだ。手の重みは肩を痛める。それは全身に広がって、苦しみとして弱い体を覆っていった。息が上手くできない。重い、痛い、怖い。
 足が、どうしても、動かない。
 左手だけでなく、震えていく足もまた石のごとくに重かった。サフィギシルは前方の光を見つめる。
 これからあの向こうで、永遠にこの重圧を抱えなければいけないのか。こんなにも重い力を、ひきずり続けなければいけない。きっとそこではつらい目にあう。苦しい思いも悲しい思いもたくさんする。怖い、怖い、怖い。足が動かない。すくんだまま動けない。行かなくてはいけないのに怖くて一歩を踏み出せない。
 ちいさな彼が、今度こそ駄目かもしれないと思ったその時。
 あたりの闇が一斉に揺らぎ始めた。空気が震える。それは予兆をあらわしている。――何か来る。何か、強いものが。

 光の向こうから耳をつんざく盛大な音が放たれた。


「ふざッけんじゃないわよ!!」


 闇中をびりびりと震わせたそれは、シラの、怒声だった。

※ ※ ※

 唐突なシラの叫びにピィスはびくりと硬直する。悲しみも何も今だけは吹き飛んだ。ピィスは驚きのままシラを見つめる。まじまじとみはられた視線の先で、シラは血まみれのままソファに身を乗り出して、背を向けたサフィギシルに怒鳴る。
「さっきから大人しく見てれば何? ええ? あなたこの期に及んでまだ死のうとしてるんじゃないでしょうね!」
 青ざめた顔には強い怒りが広がっていた。シラは怒涛の勢いでまくしたてる。
「ふざけんじゃないわよこの根暗! 自虐! いくじなし!! いつもいつもぐだぐだ悩んで落ち込んで! ずっとそれ! 毎日毎日くりかえし! いい加減にしろって話よねホント! バッカじゃないのこのダメ人間!」
 ピィスはただ呆然として叫び続ける彼女を見た。
 ――これは、誰だ?
 シラはピィスが今までに見たこともない表情で、サフィギシルの背に向けて怒鳴り続ける。
「一瞬でもあなたと私が似てるなんて考えたことを人生最大の汚点と見なすわ! ああもう傷口開いてきたじゃないのよバカ! 痛い痛い痛い!! 血が出てるのよ見てみなさいよバカ! 根暗! 自虐! 逃げ男!! ああもう死ぬ! このままじゃ死ぬ! 助けなさいよ!!」
 もう彼女の目にはサフィギシルしか映っていない。シラは動かない彼に向けてぎゃあぎゃあとうるさくわめく。その姿はピィスが見てきたシラのものとはあまりに大きく違っていた。こんな人だとは想像もしなかった。
 だが、今の姿の方が活き活きとして見えるのは何故だろう。騒ぐシラはとても自然な姿に思える。ピィスは謎の答えを求めてカリアラを見た。そしてまたしても目をみはる。
 カリアラは、笑っていた。食卓に上半身を預け、力なく上げた顔はどこか呆れを含む苦笑。これもまた、初めて見る表情だった。ピィスはぽかんと口を開く。カリアラは騒がしく怒鳴り続けるシラを、ひどく優しく見守っていた。
 その視線に気づくことなくシラはさらに早口でまくしたてる。
「痛くて苦しくてどうしようもないのよもういやーっ! 誰のせいでこんなことになってるのか考えられる!? わからないだろうから教えてあげるわよ! あなたのせい! あなたがバカみたいに勝手に死ににいくのがいけないのよ!? 人がやめろって言ってるのに聞きもしないで危険なほうに歩いていって! 止めようとしても間に合わないし、挙句の果てに助けも拒否!? 人が死ぬ思いで魔力を込めてあげたのに無視!? ふざッけんじゃないわよ!!」
 ピィスは改めて床を見た。そして気づく。広がる血は壁から食卓に向かうように伸びている。
 シラは痛みに苦しんで床を転がったわけではない。サフィギシルを止めるため、助けるために彼に近寄ろうとしていたのだ。だから、義足が外れてしまった。
「正直な話あなたなんか大ッ嫌い! 人間が嫌いとかいう以前にあなた個人が気に食わないのよ! 人に向かってえらッそうに笑うなだの泣けだの言っておいて、それで自分は雲隠れ!? ひとりだけ逃げんじゃないわよ! あなたが誘ったんでしょうが!!」
 シラはすべてをときほぐすように叫ぶ。本心を隠しもせず次々と口にする。
「確かに外の世界は恐いわよ! 死んだほうがマシってぐらい痛い目にもつらい目にも遭いますとも! ええもう私だって何回死に目を見たか。いま現在を含めてね! 悲しいし苦しいし痛いしつらいし恐いし恐いし恐いし! いやなことばっかりよ! 絶望や苦悩を何度味わうことか!」
 一息分の間が空いた。シラはおそろしく凄みのある声で言う。
「でも私は死ぬのが怖いわ」
 彼女は血まみれの手でソファを掴んだ。同じぐらいに力を込めて叫んだ。
「それでも私は死にたくないの! どんなにつらくても、苦しくても、生きていく方がいい!」
 泣きそうな声で、動かないサフィギシルの背に向けて言う。
「私たちは傷つきながら生きていくことができるの!」
 幼い子どもを見るような、ひどく優しい目をしていた。
「つらくても苦しくても! それでもずっと歩いていける。大変な時は手伝ってあげるわよ。つらい時は私たちが手を貸してあげるから! だからっ」
 シラはソファの背に身を乗り出す。
 そして喉も千切れるほどに叫んだ。
「さっさと、起きろ――――っ!!」


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