最終話「受け継がれるもの」
←前へ  連載トップページ  次へ→


 部屋の中はおそろしく静かだった。泣き始めたピィスにも、既にわめく力はない。弱々しく涙を拭う彼女に、カリアラが落ちついた声で訊く。
「魔力があればいいのか」
 彼は泣きじゃくるピィスをまっすぐに見つめて尋ねる。屈み込んで目線を合わせ、幼い子どもに向かうように一言ずつ口にした。
「それがあれば、サフィ、助かるのか」
 ピィスはうなずく。だがすぐに、涙にぬれる声で告げた。
「でも、もう、残ってないよ。どうしよう。もう、もうどこにもないんだ」
 ここに来て今までの無茶が一気に訪れたのだろう。ピィスは白い顔でへたりこむ。カリアラは、横たわるシラを見た。彼女もまた血の気を失い、荒い息を続けている。不気味な汗が青ざめた肌を伝った。耐えるように閉じられた目は、開かれる気配がない。
 苦しむシラ。悲しみに震えるピィス。もう息をしていないサフィギシル。カリアラは三人の姿をゆっくりと見つめた後で、こほ、と小さな息を吐く。
 そして自らの腕に噛みついた。
「なっ」
 驚いたピィスが顔を上げる。だがカリアラは構わずあごに力を込めた。強固な肌がみりみりと音を立てる。手首を奇妙な形に曲げる。
「バカ、何やってんだよ! おい!」
 カリアラは腕から口を一度離し、また同じ場所に食らいつく。今度は硬い音がした。カリアラはさらに噛む。あごの力を限界まで強めていく。シラが悲痛な声を上げた。甲高い魚の悲鳴で彼を止めようとする。だがカリアラは自分の体を食いちぎろうと、懸命に噛み締めていく。強く、強く、強く。鋭い牙と化した歯が衝撃を受けて砕ける。一本、二本、三本。それでも彼はただひたすらに自らの腕に噛みついた。強く、強く、強く、強く、強く。
 耳に重い音が響いて左手首が砕け散る。
 カリアラは食卓に伏すようにして崩れ落ちた。
 シラが魚の悲鳴を上げる。ピィスが人の悲鳴を上げる。
「何やってんだよ、なんで、なんで……!」
 ピィスは混乱に言葉を途切らせながら、机に伏せた彼を抱く。
 カリアラはその動きをさえぎるように、すっと腕を突き出した。
 ピィスは大きく目をみはる。
 木肌と化した左腕は、手首から先が砕けて失われてしまっている。その傷口から、白い煙のような魔力が静かに流れ落ちていた。
「これ」
 カリアラは目線だけをピィスに向けて、喉から声をしぼりだす。
「サフィに」
 ピィスは途端にこみ上げた涙をこらえ、口を結んだ。
「……ばかやろー」
 震える声でそれだけ言うと、すぐさま砕けた傷口を取る。もつれる舌で素早く呪文を唱えながら流れる魔力を一つに集めた。ぼんやりとした、霧のように白いそれをサフィギシルの体に流す。少しずつ、少しずつ彼の中へと渡していく。
 木の肌に貼りつけた人工皮に色が灯る。じわりと滲みこむように、繊維的な布の目が人間の肌の色に染まっていく。薄い光を纏いながら、彼の体は少しずつ、人間のものへと変化していく。関節に見えていた継ぎ目が消える。肌がやわらかく変化する。眠るような表情に人間らしさが戻ってきた。あと少し、あと少し。
 指を伝って流入していた魔力が止まる。人形と化していた外見が人間らしいものに戻った。サフィギシルの体の中は、完全に新たな力で満たされている。あとは彼自身の目覚めを待つだけ。ピィスはカリアラの傷口を近くにあった布巾で包む。そしてごくりと息を呑んで、サフィギシルが目覚めるのを待った。
 だが、彼は動かない。呼吸も元に戻らない。
 サフィギシルはまるでただ眠るように、机にうつ伏せている。
「……サフィ?」
 ピィスは呆然として呟いた。できることはすべてしたはずだ。後は、ただ、覚醒を待つだけなのに。
「なんで。おい、起きろよ。目ぇ覚ませよ、なあ!」
 ピィスは呼びかけながら彼を揺する。人間のものとなった体は柔らかく左右に振れた。だがサフィギシルは動かない。
「サフィ!」
 呼びかけながら叩いても反応は返ってこない。ピィスは必死に彼を呼ぶ。一度戻ったサフィギシルの体温が、また、ゆっくりと薄れ始めた。

※ ※ ※

 サフィギシルは呆然とビジスの背を見る。
「生まれてないって……どういう」
 だが問いかけはそこで途切れた。やわらかな光が空間の隅に差し込む。暖かいそれはじわりと滲むようにして、重い闇を少しずつ薄めていった。かすかな風の音がする。真暗な壁の向こう側を風が叩きつけている。
 魔力が入り込んだのだ。静止していた自分の中に、また、動力を込められている。
 遠くからピィスの声が聞こえた。
「サフィ!」
 それは随分と高くから投げ落とされる。反響をともないながら、雨のように降ってくる。
「起きろ、おい、起きろよ! 目ぇ覚ませよ、なあ!」
 その言葉で、サフィギシルは彼女が体に呼びかけていると知った。意識はそれよりもずっと深くに沈んでいるのに。この場所で、潜んでいたビジスと共に居るのに。
「馬鹿、早く起きろよ! サフィ!!」
 彼女は動かないサフィギシルの体を必死に揺すっているのだろう。息もせず倒れるそれに恐怖を感じ、蒼白な表情で。
 きっと、また、泣きながら。
「し、死ぬんだぞ。お前っ、このままじゃ死ぬんだぞ!」
 震えるそれはもはや泣き声と変わりない。切実な音は高い場所からいつまでも降りてくる。サフィギシルは泣きそうな顔をした。
「いいよ」
 弱々しい声で呟く。
「俺、もう、いいよ」
 返事をしても、ピィスの声は途切れることなく落ちてきた。ここからの声は彼女には届かないのだ。肉体を通さなければ、あちらと話すことはできない。だがもうそれを行う気すら失せていた。
「もういいよ。やめろよ。喋るな。呼ぶな。泣くな」
 止まらないピィスに向けて呟く。サフィギシルは耳をふさいだ。食卓に肘をつけて頭を抱えた。
「もういい。要らない。俺なんて助けなくていいから。泣くなよ……泣くなよ」
 どんなに強くふさいでも彼女の声は耳に届く。涙にぬれる言葉たちが罪悪感を疼かせる。
「サフィ、なんで。なんで起きねーんだよ……」
 ピィスの声はそこで途切れた。続くのは、あまりにも静かな嗚咽。弱々しく泣きじゃくる気配までもが伝わってくる。サフィギシルはさらに強く耳をふさぎ、涙の滲む声で言う。
「だって俺、もういやだ」
 上手くやっていけない苦しみを味わうのは。不甲斐なさと罪悪感に苛まれるのは。また、つらい思いをするのは。
「もういやだ」
 消え入る声で吐き出すと、あたりはしんと静まった。
「ならば死ぬか」
 落ちついた声がそれを破る。ビジスは笑みを含む口で続けた。
「このまま世界に溶けゆくか。確かにそれならもう苦しむこともないなァ。つらいと思うこともなくなる。感情など一つ残らず消え去ってしまうのだから」
 サフィギシルは目をみはる。ビジスは当たり前のように言った。
「何を驚く。これは自分で選ぶ路だ。お前の好きにすればいい」
 彼は背を向けたまま語る。
「わしはお前に何よりも重いものを渡してしまった。わしの持つ知識を、力を、全てお前の中に。使い方を誤ればさまざまなものを失うだろう。これはそれほどのものだ」
 真剣な語り口。ビジスは低く警告する。
「……人生を、狂わせてしまうほどのな」
 怯えるサフィギシルをビジスは笑う。彼は明るい調子で続けた。
「だが、今ならまだそれを捨てることができる。何もないところからやり直して生きていくか、全てを抱えて生きていくか。それともこのまま死にゆくか。……選択の権利はお前自身にあるよ、サフィギシル」
 初めからやり直して生きるか、力を抱えて生きていくか。それとも、死ぬか。サフィギシルは口の中で繰り返した。生きるか、死ぬか、生きるか。答えは既に喉元まで出てきている。ずっと、考えてきたことだ。だがそれを言葉にしようとすると、不思議と息が詰まってしまう。
「……一日が、長かったんだ」
 口をついたのは、無関係な話だった。
「することがなくて。爺さんが死んで、なのに何もわからなくて、それが怖くて。人と話をするのが怖くてしょうがなくて、家の中に閉じこもって」
 サフィギシルはビジスに背を向けて続ける。
「だから何もすることがなくて、一日がすごく長かった。爺さんが俺の体を動かしたりしてたから少しはマシだったけど、どちらにしろ起きててもやることなんかないし。ずっと眠れるわけでもないし、馬鹿みたいにぼーっと過ごすだけで。それが嫌だった」
 その生活が永遠に続くような気がして怖かった。それでも新しい道がどこにあるのかなど、想像することもできなかった。
「……俺、何してるんだろうって。なんで生きてるんだろうって、毎日考えた」
 そんな風に、“前の”サフィギシルの部屋で自問を続けた。
 “前の”サフィギシルの遺した本を読み、書き記した設計図や端書きを確かめる。そうすれば何かが見つかるような気がした。どうして自分が作られたのかが、理解できるような気がした。
 だが、答えは出なかった。何ひとつ変わらないままだった。
「前のサフィギシルが作りかけで放置してた『作品』も完成させたよ。爺さんが置きっぱなしにしてた奴も手を加えてみた。家の中の灯りの取り入れ方を変えた。封印を新しくした。でも何も変わらなくて。俺はずっと俺のままで」
「そうだな。お前はずっとお前のままだ」
 ビジスは当たり前のように言う。
「お前はわしの知識を使いこなしている。既存の物や道具を使うだけではなく、お前自身の知恵と発想を利用して新たなものを生み出したな」
 暖かい言葉ではない。偉いと誉めるわけでもない。彼はただ事実を述べているだけ。
 ビジスは静かに言いきった。
「だが、まだ認めるわけにはいかん」
 それは、弟子としてということなのか。それとも、自分の『作品』としてということなのか。
 サフィギシルは呆然と呟いた。
「爺さん。俺、誉められたことがない」
 からかい混じりにピィスに言われたことはあった。その他にも小さなことならいくつかあった。だが、ビジスには一度も誉められたことがない。“認められた”ことがない。そう初めて気がついた。サフィギシルは弱く口を開く。
「なんで俺、こうなんだろう。字が書けるようになっても、本が読めるようになっても、結局はわからないことばっかりで。何ひとつ上手くやれなくて、人を怒らせてばかりで。言わなきゃいいのに酷いことばかり言うし、自分で言ったくせにそれを気にして苦しんで、ずっと後悔ばっかりで。知識があっても変わらなくて」
 どうして自分はこんなにも情けないのだろう。なんでみんなみたいに上手くできないのだろう。サフィギシルは悲しくてうつむいた。
「どうせ生きても、俺はずっとこのままのような気がする」
 人を泣かせる、怒らせる。どうしても上手くやれないまま同じことを繰り返す。そうしてまた自分の不甲斐なさを噛みしめるのだ。何もできない力なさに苛まれるのだ。
「……だったら、俺は」
 決断が喉元まで出てくる。
 どうせ何もできないのなら。
 こんなにも無力なまま生きるよりは。
 言葉の続きをさえぎるように、こほ、とかすかな音がした。
「サフィ」
 カリアラの声。サフィギシルは顔をあげる。
 後ろめたさに突き動かされて、すぐに耳をふさごうとする。
 止められるのだと思った。死のうとしていることを諌める言葉が続くのだと。いやだ、もういいんだ、頼むから放っておいてくれ。そう口にしようとする。
 だがカリアラは弱く呟いた。

「助けてくれ」

 その声は、するりと胸の中に落ちた。

※ ※ ※

 かすれた声で呟くと、カリアラはまた小さく息を吐いた。意識が朦朧としている。視界が白く霞んでいた。
「サフィ、おれ、もうだめだ」
 ピィスに痛覚を切ってもらえたおかげで痛みはないが、それでも体の状態が悪いことだけはわかる。食卓に上半身を伏せたまま、ぴくりとも動くことができない。床に垂らした下半身の感覚がない。カリアラはもつれる口を、ゆっくりと動かした。
「がまんしてきたけど、もう、だめだ。体の中がぐじゃぐじゃなんだ。力がなくなってるんだ」
 傷口から全身の力が抜けだしてしまったようだ。体が重い。思考がやけにゆるんでいる。目の焦点が合わないし、見えるものも頭の中に入ってこない。カリアラはそれでも口を動かした。歯が折れたために、声はふやけた調子で響く。
「シラも、足、とれたんだ。このままじゃ死ぬ。おれには直せない。ピィスにも直せない」
 シラは床に横たわったまま苦しそうに目を閉じている。ピィスは涙の残る顔で、その場にへたり込んでいる。カリアラは動かないサフィギシルに向けて言った。
「お前が要るんだ」
 言葉は、静かに部屋に落ちた。
「お前じゃなきゃだめなんだ。おれじゃだめだ。おれはシラを直せないんだ」
 このままでは彼女はいずれ死にいたる。自分も、このままでは。
 カリアラは目覚めないサフィギシルに語りかける。
「さっき、おれ、群れになれたんだ。みんなと一緒になれたんだ。すげぇ嬉しかった。みんなと一緒になって、おれは群れの中にいて、嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。だからな、おれ、まだ生きたいんだ。ずっとここに居たいんだ」
 ゆっくりと、一言ずつ。サフィギシルの体に染み渡らせるように。
 カリアラは上手く捉えられない瞳で、まっすぐに彼を見つめる。
「おれ、なんでもするから。敵がきたらおれが倒す。食べるものも獲ってくる。おれにできることは何でもするから。お前がしあわせになれるようにがんばるから。だから、助けてくれ。おれたちを生かしてくれ」
 茫洋とした目が、力なく投げ出された己の左腕を見る。
 自ら噛み砕いた傷口から、薄い煙がもれていた。
 サフィギシルを助けるために割った腕。
 生かすために、生きるためにつけた傷。
 カリアラは静かに言った。

「生きよう。みんなで、一緒に」


←前へ  連載トップページ  次へ→

最終話「受け継がれるもの」