古びた辞書が山のように積まれている。手元にはしみのついた筆記用具と、書き取り用の粗末な紙。ざらついた表面を指でこすると、ピィスの引いた罫線はわずかにだが繊維に滲んだ。サフィギシルはペンを取り、段頭にインクを添える。一文字目、二文字目。繰り返し書かされた綴りだ。だが、三文字目で形が崩れる。四文字目は途中で潰れた。五文字目が思い出せない。あと、少しなのに。 (落ちつけ) 焦る心を奥に隠してもう一度やり直す。一文字目。だが二文字目もまた大きく歪んだ。なぜ。どうして。何度も書いたはずなのに。傍に置いた手本の文字は正確で美しい。サフィギシルは自分自身を恨みながらそれを真似しようとする。 サフィギシル。たったそれだけの綴りが、自分の名がどうしても上手く書けない。 悔しさのあまりに手が震える。続ければ続けるほど生まれる文字はいびつに壊れ、歪み、醜いまでに不出来なかたちで苛立ちを募らせる。一文字目。二文字目。何度やっても上手くいかない。 (なんで) 悪い夢でも見ているようだ。忘れていた嫌な焦りが体を覆う。 (俺はもう、こんなことは簡単に) 手が震える。心臓石がいやに脈打つ。知らずうちに呼吸が速い。 (簡単に出来るようになったはず) 字が歪む。枠を飛び越す。書くべき字を思い出せない、言葉の綴りが出てこない。 (どうして) もうこんな思いはしないはずだったのに。 ペン先が紙を裂いた。インクが滲む。紙に書かれた稚拙な文字が黒いしみに侵されていく。 (……何が起こったんだ) もう、こんな思いをする必要などないはずだった。半年前のあの時から、知識も技術も完全に身についている。何もかも不自由なくやっていけたはずなのに。 (確か、急に封印が濃くなって) 恐怖心に囚われながら思い出す。震動と共に、ラーズイースが封印の濃度を上げた。そのまま、長い時間閉じ込められたような気がする。事態を理解できないまま身動きが取れなくなって、苛立ちからシラと口論になり、彼女を怒らせ、また沈黙のまま時間を過ごした。そして。 (魔力が消え始めて) まず先に家がやられた。封印の霧だけでなく、家中に巡らせた魔力が消えていく。何か巨大なものが屋根に組みついていた。不気味な音を立てて壁が崩れたあとは、サフィギシルやシラの体から魔力が失われていく。まるで血の気が引いたように、命のもとが確実に奪われていた。 先に悲鳴を上げたのはシラだった。彼女の足は魔力を失い見る間に木へと戻っていく。場所が悪かったのだ。魔力は壁際から消えていた。サフィギシルはシラを抱えて逆側に避難する。逃げ場はない。二人とも、少しずつだが確実に力を奪われていった。 痛くはなかった。ただゆるゆると脱力し、意識の薄れを感じるだけで、泣き叫ぶようなことはなかった。だがシラは違う。彼女は魔力が薄れるほどに半身の傷が開くのだ。下半身を血に染めて激痛に耐えている。 それ以上、苦しむ彼女を見ていることができなかった。サフィギシルは痛みを感じなかった。だから、彼は魔力を吸う壁の方へと歩んだのだ。そうして自ら囮になった。 シラは何かを叫んでいた。痛みによる悲鳴以上に強い声で。 (なんだっただろう) 彼女は怒っていたようだった。外からする異様な音とシラの声は混ざり合い、薄れゆくサフィギシルの聴覚をざわめかせていた。 (なんだっただろう) その頃には体中の力が抜けて、聞き取ることができなかった。 シラに訊けば教えてくれるのだろうか。 (……どこに行ったんだ?) あの後、彼女はどうなってしまったのだろう。サフィギシルは机の上を見渡した。 そしてハッと我に返る。 どうして体が動いているのか。紙が散乱しているのは、辞書が積まれているのは、書き取りの練習をしていたのは、なぜだ。 (ここは、どこだ?) いつもと同じ、家の居間だと思っていた。座っているのは食卓だ。昔はここでピィスに文字を教わっていた。だが今はピィスはいない。サフィギシルはあたりを見回す。暗い。ここはどうしてこんなに暗いのだろう。机の上の紙も文字もしっかりと目に入るのに、机や床以外の場所が嘘のように沈んでいるのだ。やわらかい闇が視界の角を覆っている。自覚すると途端に息が苦しくなった。空気が重くのしかかる。音がない、気配がない。あまりにも静かすぎて耳が痛い。何ひとつ動かない静止の光景。まるで絵の中に入り込んでしまったようだ。 ここはどこだ。一体何が起こったんだ。 サフィギシルは呆然としたまま振り返り、ぴたりと止まる。 背後に位置するソファに人が座っていた。 シラではない。カリアラでもない、ピィスでもない。 サフィギシルは食い入るように彼を見つめた。 その男は背を向けたまま口を開く。懐かしい、からかう笑みを含んだ声。 「……なんだ、もう終わりか?」 ビジスが、そこにいた。 |
がた、という無機質な音を立てて木組みの体が机に崩れる。全員が息を呑んだ。最悪の状態を見て、三人はその場に凍りつく。心臓すら止まりそうな沈黙の中、ピィスがおそるおそる手を伸ばした。 「なんで」 震える指先が、人形と化したサフィギシルの肩に触れる。 「なんで、なんで」 泣きそうに呟きながらも原因はわかっていた。魔力を吸われてしまったのだ。猫によって、完全に動力を吸い尽くされた人型細工はただの木人形へと戻る。それが、彼の身に起こってしまった。 「サフィ、サフィ。なんで。なあ、なんで」 ピィスは冷たい体を揺するが反応は返ってこない。食卓に突っ伏した姿勢のままで、サフィギシルは物のように無抵抗に振れている。木と化した体が机の上でかたかたと音を立てた。 あまりのことに、ピィスは目の前が真っ暗になるのを感じる。崩れ落ちてしまいそうな体を分け入るようにして、カリアラがピィスの背後から手を伸ばした。彼はサフィギシルの頭を触る。手はそのまま下へと伝い、心臓部にあてられる。 「いる」 カリアラはしっかりとした声で言った。 「サフィ、まだここにいる」 ピィスは慌ててサフィギシルの胸に手をやった。目を見開いて、今度はそこに耳を添わせる。反応が、ある。魂はそこにいる。まだ完全に死にいたっているわけではないのだ。魂はまだ心臓部の中にある。魔力が尽きてしまったために仮死状態となっているが、これならば、まだ魔力を注ぎさえすれば。 「……魔力」 希望とは裏腹に、言葉はひどくうつろとなった。魔力があれば彼は助かる。だが、その力が一体どこに残っているのだ? ピィスはまた震え始めた。涙が滲む。みるみるうちに頬を伝う。 「どうしよう、ないよ。オレ、もう残ってない。どこにもない」 自ら自由に使える魔力は、シラを治療するために出しきってしまったのだ。残っているのは自分自身の命に関わる部分のものだ。使えはしない。命を惜しいと思うかどうかは関係ない。その部分は、人間の意志で外に出せるものではないのだ。実質的に彼女の魔力は尽きているのと同じだった。 「どう、どうしよう。サフィが、サフィが」 サフィギシルとシラの魔力が吸い尽くされているぐらいだ、家の中の魔石や道具に残っているはずがない。このまま魔力を与えることができなければ、サフィギシルの魂はじきに体を離れてしまう。二度と戻って来れないところに行ってしまう。 「サフィが」 求めるように名前を呼ぶが、そこにあるのは一体の木偶人形。 動かない彼を見つめ、ピィスは静かに泣きだした。 |
「爺さん」 口にした声は弱い。表情もまたそれと同じく貧弱に薄れていた。 サフィギシルは、ビジスの背を縋るような目で見つめる。 「今まで何やってたんだよ。なんでずっと黙ってたんだよ」 「まあ何と言われても、別にたいしたことはしとらんよ。わしはずっとここにいた。お前の奥深くにな」 ビジスは静かに笑っていた。サフィギシルは彼がまたどこかに消えてしまうような気がして、必死になって話しかける。 「いてもわからなきゃ意味がないだろ。呼んだのに答えなかったじゃないか。俺、俺、何回も呼んだのに」 「そりゃあ出来なかっただけのことだ。お前が無茶をしているせいで、体の方がもうもたなくなってきていたからなァ、二つの魂が同時に動ける状態ではなかったのだよ」 懐かしい声と語り口。ビジスは楽しそうに話を続ける。 「しかし、久しぶりに逢えたと思えばこんなことになるとはな。……まあいずれは辿り着くことだったんだ。それがいつになったとしても、驚くほどのことではないか」 ビジスは背を向けたまま喋る。当たり前のように続く言葉、あまりにも落ち着いた声。ゆったりとソファに座る姿も、その佇まいも半年前と何ひとつ変わらない。 サフィギシルは振り返らないビジスに尋ねた。 「爺さん、ここはどこなの」 「死の淵さ。……いや、生死の狭間とでも言おうか。ここはこの世で最も死に近しい場所だ」 ビジスはソファの背にもたれかかる。サフィギシルを見ないまま、朗々と語りだした。 「死というものはなァ、言うなれば旅立ちだ。腐れた体は土へと戻る。魂は大気に消える。魔力は水に、声をはらんだ息は木々の中へとな。一つの命はそうして世界に染み渡る。その一歩手前がここだ。生命はこういう場所から出て行くのだよ」 「…………」 ああ、そうなのかと思った。最も死に近しい場所。旅立って行くための部屋。体の魔力が吸い尽くされてしまったために、ここまで来てしまったのだ。 この場所を一歩踏み出せば、死が待ち受けているのだろう。 だからこそここはこんなにも静かなのだ。何もなく、動きもなく、ただ終わりを享受するだけの場所。 実感が恐怖心をやわらげていく。空恐ろしく見えた景色が肌に馴染み始めた。気持ちがこの場に溶け込んでいく。どうしてだろうか、心がやけに落ちついていた。不安のない心であたりの景色を眺めていると、自分の体も同じものになっていくように思える。この場を取り巻く静止の時間に音もなく組み込まれていく。 サフィギシルはゆるやかな終わりを見た。 これで、何もかもなくなってしまうのだと、確かに感じた。 「じゃあ、俺、死んだんだ」 心を満たすのは安堵だった。諦めに包まれて呟く。 だがビジスはくつくつと喉を鳴らした。 「何を言うか」 戯れを笑う声。ビジスは楽しそうに言った。 「お前はまだ、生まれてもいないじゃないか」 |