第6話「群れ」
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 石が砕け散った途端、猫は悲鳴を上げて倒れた。
 輪郭が水に変化する。目に見える猫の体は全てとろけて落ちていった。それは滝のように流れては霧となり大気に消える。濃密な風が吹き抜けたあとに残るのは、小山と化した猫の残骸と、どろと共に降ろされて座り込むカリアラだけ。
 人々はそれを確認すると、地も躍るほどの歓びの声を上げた。
 武器を投げ出す騒がしい音がそこら中に響き渡る。歓声があたりを包む。
 ぽかんとしてへたりこむカリアラに、ピィスが飛びついた。
「やった、やったな!」
 彼女はそうしきりに言いつつ泣きそうな顔で笑い、カリアラの頭をなでる。されるがままにしていると、傍にいた人々が次々と押し寄せてきた。たくさんの手が伸びてきて肩を叩く。背を叩く。力強く抱きしめられる。
「ありがとう!!」
「よくやった!」
「すげえよお前っ!」
 聞き取れないほどあちこちから声がかかる。もうわけがわからないほどたくさんの手が伸びてきて、叩かれる、触られる、なでられる。わあわあと賑やかに続く歓声と数えきれないほどの笑顔、笑顔、笑顔。
 それが、全部、自分に向けられている。
 カリアラは押し寄せる人々にもみくちゃにされながら、ただぼうっと突っ立っていた。たくさんの人間が、同じ仲間が、みんなが、みんなが、みんなが。与えられた感情があまりにも大きすぎてどうしていいかわからない。呆然と開いたくちびるが何故だか震えた。頭の芯が甘くしびれる、体中が熱くなる。みんながいる。みんながいる。みんながいる。言葉が出ない。呼吸も止まる。頭の中がぐらぐらする。体中が痺れていく。
「大丈夫か、痛いのか!?」
 人の手をかきわけてピィスが傍まで戻ってきた。心配そうに顔を覗き込んでくる。カリアラは彼女を強く抱きしめた。驚く相手に構わずに、目も口もぎゅうと閉じる。そうでもしないと、体が溶けて消えてしまいそうだった。
「どうしよう、おれ、おれ、壊れるかもしれない」
 喋る端から胸が詰まって声が変にうわついていく。ピィスは抱きしめられたまま慌てた。
「ええっ、やっぱ痛いか? 大丈夫か、しっかりしろ!」
 痛みなど大きすぎる感情に押しのけられてわからない。カリアラはもつれる舌で懸命に言葉を探す。
「痛くない。痛くない。痛くない」
 これだけではまだ足りない。なにか言わなくてはいけない。何か、何か、何か。
 その言葉はほろりと口の中からこぼれた。
「ありがとう」
 カリアラは腕をほどき、まっすぐにピィスの目を見つめて言う。
「ありがとう」
 そして周囲の皆を見渡しながら繰り返した。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう」
 声がどんどん大きくなる。ふくれあがる感情と共に叫びに近くなっていく。
「ありがとう、ありがとう! ありがとう!!」
 感謝の言葉を叫び終わると、一瞬、その場はしんと静まり返る。
 だがすぐさまそこら中から弾けるような笑顔がかえってきた。
「どういたしまして!」
「こっちこそだ!」
「ありがとう!!」
 またたくさんの声が集まっていく。「どういたしまして」や「ありがとう」などいろんな言葉が投げかけられる。また頭をなでられる、手を握られる、肩を何度も叩かれる。
「カリアラくううん! よかった、よかったよおおお!!」
 ロウレンが駆け寄ってきて泣きながらしがみつけば、ルウレンたちも後に続いた。彼らにもありがとうと告げていると、ひときわ強い力でぱあんと背を叩かれる。
「やったな!!」
 遠くからようやく近づくことのできたリドーが、興奮と歓びを隠しもせずにカリアラの肩を揺すった。今までに見たこともない笑顔。その場の皆がまじまじと彼を見つめる。リドーはすぐにハッとして、気まずそうに顔を赤く渋らせた。
「いや、うん、あー……なんだその顔は。何か悪いか」
 ピィスは笑いをこらえながら教える。
「隊長、額割れてるよ」
「ああっ!?」
 地に叩きつけた時に切ったのだろう、リドーの額からはだらだらと血が流れている。言われて初めて気づいた彼が慌てて額に手をやると、途端にどっと笑いが起こった。歳のいった人たちがしみじみと語り始める。
「いやあ、でもアンタも格好良かったよ。昔はあんなにヘマばっかりしてたのにねえ」
「さっきの言葉は痺れたね、実際。毎日のように川に落ちてたくせにさあ」
「かっ、関係ないでしょうそれは!」
 リドーの顔が流れる血と同じぐらい赤くなる。それがきっかけとなり、一点に集まっていた人々の興奮は穏やかにほどけていった。それぞれが功績を讃え合う。倒れた猫の残骸や転がっている武器や石を眺めては、さっきどれだけ恐ろしかったか、どんなに凄い熱気だったかを改めて噛みしめた。
 すさまじい熱狂と共に味わった一体感は、それが消えてしまった後でも人々の心を繋ぐ。
 全身を覆ううろこを少しは気にしながらも、落ち着いた態度でカリアラに声をかける者がいる。カリアラは上手く言葉にならないながらも打ち解けて言葉を返す。肉屋の店主がおずおずと近寄ってきて、謝罪と感謝の意を伝える。カリアラもまた笑顔で同じ言葉を返した。子どもたちが集まってくる。それぞれが騒がしくカリアラに話しかける。
 なごみの時を過ごしていると、壊れた猫の残骸からコウエンの声がした。
「おーい、部品回収するぞーっ。魔術技師は手伝えーっ」
 ピィスがそちらを振り返る。カリアラもそれに倣って後ろを見た。ぽつぽつと人ごみの中から返事があがり、何名かの魔術技師がコウエンの方へと集まる。一般人をかき分けて、壊れた石と神経の散らばる中を早足で。

 かつん、と石のぶつかる音がした。

 コウエンの顔が青ざめるのが見えた。ひやりとした風が吹く。それはすぐに濃密な強風となり、倒れた猫の残骸へと集まっていく。コウエンが飛び退いて叫ぶ。
「よけろ!」
 その瞬間、真黒な闇が盛りあがった。
 悲鳴が上がる。逃げようとした人々に広い広い影が落ちた。混乱がその場を呑み込む。
 ゆっくりと、倒したはずの黒猫が体を起こす。ほとんどの石を外されたために倒れていたが、まだ息は残っていたのだ。三つ四つに数を減らした石を抱え、凶暴な闇がまたしても姿を現す。
 だが、その体は今までの半分以下に縮んでいた。
 猫は苦しげに目を細めると、怯えたように身をすくめる。光を失い、ただの空洞となった両目は明らかに人間を恐れていた。
「勝てる」
 誰かが呟く。その言葉で消えかけた士気が戻った。落ちている武器を拾い、めいめいに構えて猫へと向かう。遠くから沢山の蹄の音が聞こえてきた。震動と共に気迫も伝わる。遅まきながら王城を出発した救援の兵が下りてきたのだ。崩れた瓦礫に邪魔をされて、すぐにはたどりつかないだろう。だがいずれはここにやってくる。戦力となってくれる。
「勝てる」
 呟きは、今度は複数の口からもれた。
 皆が息を呑む。慎重に、少しずつ猫との間合いを詰めていく。攻撃の瞬間を待つ。
 猫はその場で震え上がった。わずかに肌をなでるような弱々しい悲鳴をもらす。小動物のように震えながら身を縮め、逃げ場所を探すのか光のない目をさまよわせる。
 その視線が、ぴた、と止まった。怯えから来る体の震えも。
 猫はくいと顔を上げる。そして空に向けて大きく大きく口を開いた。途端にどろりと体が融ける。近くにいた人々が悲鳴を上げた。液状になった猫が土を這う。それは恐ろしいまでの速度で人々のもとを流れ去る。
「逃げた!?」
「川の方だ!」
 言葉を肯定するように、黒い水となった猫はすぐ近くの土手へと流れた。そのまま川の中に入ると闇は固体に変化する。動物の形などではない、無造作な塊となって逆流していく。すさまじい勢い。川の水が割れて散るのが皆のいる場所からも見えた。異常なまでの水飛沫がまるで雨のように降る。誰もが呆然とそれを眺めた。
「逃げた……のか?」
 呟きに答えられる者はいない。皆が同じ疑問を抱えていた。
「俺たちにびびってたよな」
「そりゃまあ、勝ち目がねえもんな」
「でも逃げたって、どこに」
 その言葉にピィスが息を呑んだ。弱体化した敵が望むもの。それは作品にとっては命の源となる魔力だろう。だが、もうこの場から力を吸い取るわけにはいかない。ここにいれば殺されるのだ。別の場所でなければならない。
 そうなると、街以外で魔力の残っているところは。
「シラ」
 カリアラの呟きに、橋の落ちる音が重なる。それは間を置いていくつも続いた。耳を痛める崩壊の音を立てて、五つある橋がすべて壊される。
「あいつ、あの家に……!」
 遠くから水の跳ねる音がした。山側の空を闇が横切る。川を上がった塊が向かう先はサフィギシルの家の方向。むきだしの封印は濃い魔力の塊だ。猫はそれを狙っている。
「どうしよう、なあ、どうしよう!」
 ピィスは焦りのままカリアラの腕を引く。今すぐ止めに行かなくてはサフィギシルの身が危ない。半身を作りかえたシラもまた、軽傷ではすまないだろう。だが近辺の橋が落とされた。川を渡るには随分と遠い下流の橋を使うしかない。しかしそれでは間に合うかどうかわからない。猫はもう家のほうへと向かっている。
「どうした、あっちに何かあるのか」
 近寄ったコウエンに、ピィスは切実な声で叫ぶ。
「友達がいるんだ!」
 青ざめた顔がみるみると弱くなっていく。コウエンの腕を引く。
「あのままじゃ殺される! どうしよう、間に合わない!」
 コウエンは何か思うような目で彼女を見た。同じ顔で見つめてくるカリアラの体を眺め、口を開く。
「……そいつは」
 何者だ。こいつを作った奴なのか。そんな言葉が続きそうな気配だった。
 だがコウエンは複雑そうに口をつぐみ、真摯な顔で言い換える。
「大切か」
「うん」
 カリアラが即答した。ピィスもうなずく。コウエンは舌打ちをして川を眺めた。
「しかしどうやって渡るか……」
 川幅は広く水は深い。泳ぎの得意な大人ならば何名かは行けるだろう。だが向かう先がわからなければ時間がかかる。それ以前に、たどりついても戦えなければ意味がない。人々はわけがわからずしきりに川を覗き込む。土手まで歩く者もいた。それを見ていたカリアラが、目を見開く。
「鳥」
 彼はすぐに五つ子を探した。
「ラウレン、鳥だ! 鳥で飛ぶんだ!」
 泳げなければ空を飛んで越えればいいのだ。以前、カリアラが街でラウレンによって飛ばされてしまったように、鳥の力を持つ『作品』に乗って行くことができれば。
「そうか! その手がある!」
 コウエンの方が反応が速かった。彼は担いでいた鞄を探る。
「でも鳥型じゃ、何人も乗れないんじゃ……!」
「何人でもいいんだよ! 少なくとも操作できる奴がいればな!」
 コウエンは不安なピィスの顔に、取り出した筒を突きつけた。透明な長細いガラスの入れ物。その中には淡く輝く動物の命の塊。コウエンはそれを掲げると、やおら声を張り上げた。
「魔術技師は注目しやがれ! 本日の目玉商品だ!!」
 集まっていた技師たちが一斉に顔を向ける。コウエンは慣れた調子で喋る。
「空の王者ボークスヘッグの魂ひとつ! ビジス・ガートン直々に卸してきた世界に二つとないものだ! これを上手く仕込んでやれば、ビジス爺と同じぐらい凶悪な鳥ができあがる。調教は終わっているから言うことはちゃんと聞く。こいつに乗って飛んでいけば猫にとどめを刺せるだろう。それはこいつら二人にやってもらう!」
 ピィスがぎょっとしてコウエンを見た。カリアラは真剣な顔でうなずく。コウエンは二人を見ずに続けた。
「だが今ここで飛ばすための器がない。一回限りのご使用だ、使った後はぶっ壊れても構やしねえ。ボロでもいいから作れる奴が一人でも多くいる。鳥型細工の即時製作無料奉仕! 度胸と力があるってんならこの計画に乗ってみろ!」
 技師たちの目が輝きながら集まってくる。コウエンはそれを煽って力強く叫び上げた。
「クソジジイの遺した魂、受けてえ奴ァ名乗り出な!!」
 途端にあちこちで手が上がる。
「クロヴ工房のジスティカだ! 鳥型なら作り慣れてる!」
「技師三級のルースだ! 俺にもやらせろ!」
「なら俺にも権利はあるな! 準二級の最終まで行ったんだ!」
「じゃあお前も三級じゃねえか、俺も同じだ!」
 延々と続きかねない彼らに向かって、コウエンが怒鳴る。
「うるせえなどっちも同じだ! 全員さっさと動きやがれ!」
 反論の声がぽつぽつと聞こえたが、的確に続くコウエンの指示に全員が従った。
「猫にやられた俺の鳥は使えるか? まだ翼は残ってるんだ」
 壊れた作品の残骸を持って彼に聞く者もいる。何人かがそれに続いた。
「俺の鳥も胴と足なら残ってる。繋いでくれ!」
 コウエンは満足そうにうなずき、戦って散っていった生き物たちを組み入れる。
「よし、急げ!」
 猫はもう家へとたどりついただろう。だが封印を破るにはかなりの時間がかかるはずだ。魔力を吸う吸入石ももうほとんど残っていない。しかし、わずかに残った吸入石にも封印を吸い取ることはできる。急がなければ霧の壁も解かれてしまう。
 二人が不安に見つめる先で、空を飛ぶための鳥はみるみると形になっていった。


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