第6話「群れ」
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 液化した猫の肉が体の中に流れ込む。どろりとしたそれは胃の中にへばりつき、徐々に固体に変化して体を中から押さえつけた。指一つ動かせない。わずかな身じろぎすらできない。カリアラは全身を内外から固められて、固形化した猫の体に閉じ込められていた。塗りつぶされたような闇がまぶたの代わりに視界を閉ざす。耳の中にも猫の肉が入り込んでわずかな音すら遮断される。カリアラは意識すら危ういまま、身動きもできずとどまっていた。

 体の中から、かすかな水の音がする。生まれ育った故郷の川の音。懐かしい水の気配。

 こぽ、と沫の音がした。
 真暗なはずの視界に鮮やかな赤が滲む。血の色だ。危機を煽る同胞の血の臭い。
 たくさんの魚影が躍る。身を翻すようにしながら互いの身を食いちぎり、血を流し、秘められた力を水に溶かす。

   生きろ

 彼らは死に行きながら叫んだ。胸びれで命のもとをこちら側に流しながら、傷だらけの体で叫んだ。

   生きろ  生きろ  生きろ  生きろ  生きろ

 一匹が力尽きて声を失う。内臓を散らした体が水面へと去っていく。仲間たちが次々と後に続いた。平衡を失う体で、喉を潰された体で、死に場所へと去っていった。一匹ずつ消えてなくなる。川の向こうに去っていく。


 そして、自分だけが残された。




 自分だけが。

 本当に、

 たった独り。


 同胞を失い、卵を失い、希望を失い、
 他の魚と混じり合うこともできず、群れになることもできず、
 永遠に、ひとりきりのまま。

 みんな、いなくなった。
 たったひとり、残された。




 衝撃が、消えかけた意識を引き戻した。
 体を包む猫の身が液体へと変化する。どろりと肌をなめていく。
 地の底を揺るがすような震動があちこちから伝わってくる。
 猫が揺れる。さざなみのように融けていく。
 頭の先が空気に触れた。唐突な光に目を焼かれる。頬が出る、口が出る。喉の奥から猫の体がどろどろに溶けて吐き出される。
 震動は続いている。動きを忘れた全身に伝わっていく。
 耳の中からも液化した闇がほどけ落ちた。聴覚が戻ってくる。あたりの音が確かに聞こえる。

 声がする。たくさんの、たくさんの声がする。
 怒号、雄たけび、ざわめき、歓声。
 たくさんの、たくさんの声がする。たくさんの人がいる。

 それが自分を呼んでいる。

「カリアラ――っ!!」
 ピィスが叫ぶ。五つ子の声がする。リドーの声もする。それすら紛れてしまうほどに、たくさんの人間が、口々に自分を呼んでいる。
「生きてるかあ――っ!!」
「大丈夫か――っ!」
「返事しろ――っ!!」
 たくさんの、たくさんの、たくさんの人間が、確かに自分を呼んでいる。
「カリアラ――っ!」
 泥のような闇が溶けて体が空気に触れていく。猫は悲鳴を上げていた。衝撃が沼に似た猫の背を波立たせる。尾が落ちる、後ろ脚ががくりと崩れる。目の前で黒い体がどろどろと溶けていく。
 カリアラは自由になった体を動かし、猫の足元を覗く。
 そして、ぴたりと息をとめた。
 様々な色の頭が隙間も少なく広がっている。
 男がいる。女がいる。若者がいる。老人がいる。

 数えきれないほどの人間たちがそこにいた。

 呼吸を忘れた。まばたきを忘れた。言葉を忘れた。カリアラはただその場に立ち尽くし、食い入るように彼らを見つめた。
 それぞれが武器を持って猫の体を攻撃している。槍を投げ、剣を立て、斧を脚に打ちつける。手の届かないものも猫の近くに密集し、一人から奪われる魔力の量を減らしていた。
 木製の大蛇が、獣が、犬が、身を呈して猫の体にぶつかっていく。巨大な武器を振りかざす者もいた。コウエンが彼らに指示を出している。放たれる怒声に従って、効率よく猫の体が大きく解体されていく。あちこちに散らばる吸入石が神経を断ち切られては落とされた。そのたびに猫の体は液体となって崩れ落ちる。背の高度がみるみる下がる。

 みんなが敵と戦っている。同じ方を向いている。
 たくさんの人が、みんなが、自分がひとつになっている。

   おれは群れの中にいる。

 カリアラは強く思った。強く強くそう思った。
 生まれて初めて、彼は群れをその身に感じた。

 幸福感に意識を奪われそうになる。頭のてっぺんをきゅうと引かれたような気がした。全身が歓びに痺れていく。あまりのことに体がふらつく。
「カリアラ――っ!!」
 すぐ真下でピィスが叫んだ。泣きそうな顔をしている。カリアラは返事をしようとしたが胸が詰まって言葉が出ない。
 返答として右腕を振り上げる。
 途端に、どっと歓声が上がった。
 そこら中で喜びの声があがる。みんなが嬉しそうに笑っている。
「よおおし! 兄ちゃん、動けるかあ――っ!!」
 後列にいた男が大声で問いかける。カリアラはうなずいた。
「そこの、首の後ろにある石! それを、壊せるかあ――っ!?」
 カリアラはまた強くうなずく。どろりとした水面に浮かぶ白濁の石。無造作に膨れた中には二つの花が咲いていた。細身の花弁をふわりと開いた赫い花。
「それが急所だ――!」
「頼む――っ!!」
「こっちは、任せろ――っ!!」
 カリアラは迷わず猫の首へと走った。
 何百もの応援の声に包まれた。幸福感に足がもつれる。みんないる。みんないる。みんないる。
 遠い街の奥から、大勢の騎兵隊が押し寄せてくるのが見えた。まだ蟻のように小さいそれは更なる大群となるだろう。だがそれを待つ必要もない。カリアラはふらつきながらも懸命に石に組みついた。力いっぱい口を開く。白濁した半透明の石に食らいつく。
 熱狂に呑まれて皆の心がひとつになる。一斉に声を上げる。
「行っけええええ!!」
 重なった言葉と共に、赫い花が見事に散った。


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第6話「群れ」