第6話「群れ」
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 こほ、と何度目かの息を吐いた。カリアラは平らに広がる猫の背を尾に向けて這い進む。もう、手足の感覚すら痺れて使い物にならない。それでも彼は浅瀬を泳ぎ進むように、ゆっくりと、前方に見える吸入石へと向かっていく。噛み砕いた石はまだ三つ。それなのにあごも歯も限界を訴えていて、みしみしと軋む音を耳元に囁きかけた。
 猫は危機を察して暴れる。カリアラは動きの鈍い両腕で振り落とされないようしがみついた。ひるみはしない。少しでも気をゆるめれば途端に餌食に成り下がる。ここで食われるわけにはいかない、殺されるわけにはいかない。まばたきすら忘れた両目は輝く石を睨みつける。
 あれを壊さなければならない。あれを、あれを潰さなければ。
 また、小さく息を吐く。指先の感覚がない。足がついているのかもわからない。
 突然、風の鳴る音と共に闇色の塊が飛んできた。一抱えほどもある尾が鞭のように襲いかかる。避けるだけの力はない、庇うだけの余裕もない。カリアラは無防備な格好のままそれを受けた。丸太で殴られたのに等しい衝撃。息ができず声も出ない。体中の動きが重く沈んでいき、暗転と共に意識が数瞬手放される。
 頭に響く威嚇の声で目を覚ました。恐怖心を煽るように、目の前で夜のような尻尾が揺れる。空気が風を切ってうなった。長い尾が青空へと振り上がる。落下地点は間違いのない自分自身だ。
 避けられない。手を離せば地面へと落とされる。
 息が止まった。このままでは今度こそ完全に闇の中へと沈められる。カリアラは初めて震えた。全身を覆う奇妙な悪寒に動かされてがたがたと震えはじめた。
 殺される、殺される、殺される。抵抗しなければいけない。だが避ける術はない。青空を割るようにして細長い闇が落ちてくる。視界が真黒に覆われる。
 音にならない何事かを呟いて、カリアラは目を閉じた。

※ ※ ※

 願う言葉を叫び終わると、喉の奥がひゅうと鳴った。ピィスは体を折って咳き込む。たいした動きのつもりではなかったのに、止まらなくなってしまった。発作でも起こしたかのように立て続けに咳が出る。喉が乾いていた。肺のあたりがひどく苦しい。いい加減に尽きてしまいそうな涙が、またしても盛り上がる。それは拭われることもなく頬を伝った。ピィスはまた顔を上げる。
 心配そうに覗き込む若い女と目が合った。縋るように見つめるが、女は怯えるようにして連れの男の腕を取る。男の方へと視線を移すが望む答えは得られなかった。逃げられる。飛びのくように目を逸らされる。その表情も引けた腰も惨めなほどに弱く見えた。
 ピィスは背筋を伸ばした。地を踏みしめる。腰の引けた大人たちへのせめてもの抵抗として、小さな体を精いっぱいに大きく見せようとする。彼女は一定の距離を置いて並んだ彼らをぐるりと見渡し、また深く頭を下げた。
「お願いします! 一緒に戦ってください!!」
 もう何度この言葉を叫んだだろう。口の中ではかすかな砂の味がする。乾いた喉には引きつれた痛みが走る。それなのに、いまだに応えてくれる人はない。共に戦う者はいない。
「戦ってください! お願いします!!」
 低く出た姿勢とは裏腹に、頭の中は罵倒の言葉でいっぱいだった。こんなにも人間という生き物を憎んだのは初めてだ。怒りと悲しみと情けなさが混ざり合って感情を濁らせていく。
 人間はこんなにもどうしようもない生き物だっただろうかと思う。気まずげに互いを見やる目の前の大人たちと、まっすぐに敵に向かっていったカリアラの顔が交互に浮かんで悔しくなる。どうしてあんな風になれないのか。どうしてまっすぐに進むことができないのか。
 答えの出ない問いを繰り返しつつ、ピィスはただ頭を下げた。
「お願いします、一緒に戦ってください! あいつを助けてください!!」
「助けなんていらないんじゃないのか」
 誰かがぼそりと呟いた。
 心臓が止まったような気がした。ピィスは顔を上げた姿勢で凍りつく。――今、何て言った?
「あの化け物ひとりで十分に戦えてるじゃないか。別に、俺たちが行かなくても。なあ」
 ピィスは呆然と声の主を見た。信じられないものを見る目をしていただろう。魂の抜けた顔をしていただろう。ピィスの視線を受けた男は気まずそうに目を逸らし、近くの者へと同意を求めた。場がざわめく。途端にあたりが騒がしくなる。
 囁きあう沢山の声。それは、深い地の底からぞわぞわとしたものが這い上がってくる音に聞こえた。おそろしく不吉で醜い気配。
 聞き取りづらい一つ一つが断片として耳に入る。そうだあいつにやらせればいい。戦えているじゃないか、上手くいけばあれを倒すかもしれない。そうすればみんな助かる、そうすれば問題ない。さっきも噛みついていた、猫は悲鳴をあげていた。
 強いじゃないか。あのままいけば、もしかすると。
「あいつひとりじゃ弱いんだよ!!」
 ピィスは力の限りに叫んだ。人々がびくりとして彼女を見る。
 その景色が淡く水の中に沈む。まだこんな声が出てくるのかと思った。まだこんなに涙があふれるものかと思った。ピィスは強気も何も捨てて、ぼろぼろと涙をこぼしながら叫ぶ。
「ひとりじゃ駄目なんだ。あいつ、ひとりだと弱いんだ! ……なのに戦ってるのは何のためだよ。あんたたちのためじゃないのか、みんなを守るためじゃないのか!!」
 あまりにも悔しすぎて悲しすぎて頭が上手く回らない。言葉がすぐには出てこない。本当はひとりきりで戦えるはずがないのだ。カリアラカルスはこんな風に孤独のまま戦える生き物ではない。それなのにカリアラは戦っている。
 ずっとひとりで戦いながら、応援が来るのを待っているのだ。
 ピィスはその場に崩れ落ちた。みるみる力が抜けていく。地にへたりこんでしまう。それでも涙を流しつつ、人々をきつく睨みつけた。枯れていく声で叫ぶ。
「なんで戦わないんだよ、なんで動かねーんだよ! たった……たったひとりに押しつけて、自分たちだけここに隠れて。いいのかよ、そんなことでいいのかよ!」
 大人たちは弱々しい目でじっと彼女を見つめている。同情とやるせなさと痛みを奥に含んだ視線。冷酷なものではない。生きている人間としての感情が彼らの想いを揺さぶっている。このままでいいはずがないとわかっているのだ。こんな所で立ちすくんでいる自分たちを情けないと思い、臆病だと理解している。それなのに恐ろしくて動けない。このままでは駄目だとわかっているのに怖くて一歩を踏み出せないのだ。
 ピィスは彼らに語りかけた。
「あんたたちの街じゃないか……」
 涙がしずくとなって落ちる。人々もまたどこか泣きそうな顔をしていた。
「ずっと生きてきた、暮らしてきた大切な場所じゃないか、なあ!」
 悲痛な声が消えたあとは、ひたすらに重い沈黙。反論の言葉はない。後に続く肯定も。
 もう、叫ぶ力も消えうせた。ピィスは目をこすりながら、子どものように泣きじゃくる。
 静寂を破るように、ざ、と砂が音を立てた。座り込んだすぐ傍に大人の足。ピィスは人影を振り仰ぎ、忌々しく顔を歪める。
「リドー……」
 応援を呼びに行っていたはずのリドーが、ピィスの隣に立っていた。散らばっていた兵士が期待の目で彼を見る。ピィスは彼を睨みつけた。呼びかけを止めに来たのか。
 だがリドーは地に膝をつき、低く頭を下げて叫んだ。
「戦ってください!!」
 深々と身を下ろす。頭を地に擦りつける。
「お願いします! 我々と共に戦ってください!!」
 誰もが呆然として彼を見つめた。リドーは平伏したままで言う。地に押し付けた腕が震える。
「援軍の要請は断られました。この場所は捨てられました! 救援は来ません、生き残るには我々が戦うしかありません!」
 鋭い眼差しを人々に向けて叫ぶ。
「あなたたちが必要なんです!!」
 場を揺るがすほどの声。並ぶ皆はびくりと震えた。
 リドーは彼らを一人一人まっすぐに見つめて言う。
「私も国に仕える兵としてではなく、この地に生きる一人の人間として戦いたいと思います! この街の住民として最後まで戦い抜くつもりです!」
 ばらけていた目が彼のもとに集まっていく。リドーは天に咆えるように叫びあげる。
「お願いします! 共に戦ってください!!」
 そして額を地に叩きつけた。彼はそのままぴくりとも動かない。叩頭の姿勢のままで皆の返事を待っている。
 息すら奪う沈黙がその場を包む。
 空気が変わった。人々の表情から弱さがわずかに引いていく。
 何人かが、ぴくりと動きかけたその時。

 坂の下から高く割れた音がした。
 猫の放つ轟音。攻撃的な、いやに凶暴に聞こえる音色。
 全員がそちらを見た。長く続く坂の裾に闇色の巨大な猫。遠くからでもその背に乗る人影が目に見えた。カリアラだ。彼はじっと背の上にしがみついている。敵意をもつ猫の声。動かないカリアラに長い尾が打ち付けられる。水を叩いたような音。猫の背が波立つ。カリアラはそれを避けない。死んだように動かない。また尾がぶつけられる。二回、三回、四回。カリアラは人形にでもなったかのように無抵抗のまま殴られる。攻撃の余波で体が跳ねる、おもちゃのようにもてあそばれる。

 子どもが泣いた。恐怖に震えてあちこちで泣き始めた。そのうちの何人かは親の手を引いて言う。助けて、ねえ、助けて。
 親は悲惨な光景から目を離せないまま口を結んだ。
 その他は、誰も何も言わなかった。
 恐怖に怯える泣き声と、カリアラが尾で殴られる音だけがその場に響く。

 ピィスがふらりと立ち上がった。呼吸すら忘れてカリアラを見る。あまりに巨大な猫の背で、小さな体が何度も叩きつけられている。悲鳴もなく意識もなくごみのように潰される。
 そして最後の攻撃を受け、カリアラの体はゆっくりと猫の中に沈んだ。液化した猫の体に溺れるがごとく沈んでいく。頭が埋もれる。投げ出された手が黒い水面に呑みこまれる。
 その体が完全に闇の中に消えた時、猫が醜い勝鬨の声を上げた。


 悲鳴にも似た絶叫と共にピィスが坂へと走り出す。


 リドーがとっさに立ち上がった。近くにいた兵士たちも腰を浮かした。前列にいた人々が彼女に向かって手を伸ばした。思わず足を踏み出した。

 その瞬間。


「走れええええ!!」


 後列にいた五人が同時に怒声を上げた。
 心臓を揺るがす声にその場にいた全員が腰を浮かす。ロウレンがラウレンがルウレンがカレンがリウレンが彼らの背を押した。手を引いた。両手を広げて人々の肩を押しながら走り抜けた。それぞれが叫びながら人ごみを押していく。喉が千切れるほどの声がその場の皆の意識を奪う。
「走れ、走れ、走れえええ!!」
 難しい言葉はいらない。単純な命令は迷う心を支配する。人々を煽動していく。
「走れえええええ!!」
 多くの人が走り始めた。坂道へと駆け出した。止まっていた者たちもつられて走る。五つ子のように人々の手を引いていく者が出た。肩を叩く者が出た。同じ言葉を叫びだした。
「走れ、走れ、走れ――!!」
 声は子ども五人の声から大人たちの声へと変わる。声量が上がっていく、叫ぶ者が増えていく。
「行け――!! 走れ――っ!!」
 機転を察したリドーが叫ぶ。
「武器を取れ! 敵を倒せ――っ!!」
 走り出した人々は入り口に積まれていた武器を掴んだ。選び抜く暇はない、ただ何かがあればいい。めいめいに武器を構えて門を出る。坂道にさしかかればもう止まることはできない。次から次へとなだれのように続いていく人に押されて後戻りなどできはしない。もう逃げ出すことは出来ない、止まらないままひたすらに足を動かす。呼びかけの声は意味を持たない雄たけびへと変化した。猫の声すら掻き消すほどの大声を上げて駆け下りる。今までの不安や恐怖をはらうように絶叫する。
 そしてただひたすらに走る、走る、走る。
 先を行くピィスは驚いて振り向くが、すぐにそのまま速度を上げる。煽るように腕を上げた。残る力を振り絞って叫んだ。
「倒せ――っ!! 守れええええ!!」
 人々はそれに続く。雄たけびと共に片腕を振り上げる。
 熱狂が場を支配した。堰を切られた人間たちは、怒号を立てて一斉に坂を駆け下りる。

 彼らは巨大な“群れ”となり、まっすぐに猫へと向かっていった。


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