第6話「群れ」
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 馬は裏道の前で捨てた。複雑な細い通りを西公園へと走りながら、リドーは歯を食いしばる。怒りとも悲しみともつかない思いが広がる景色の色すら変えた。年甲斐もなくがむしゃらに叫びたくなる。意味もなく何かに当たってしまいたかった。やり場のない激情を腹に抱え、彼は絶望的な知らせを運ぶ。
 救援の要請は断られた。討伐戦力として師団や大隊が動かないだけではない。国側は現状では不可能として、取り残された住民たちの救出を先へと延ばした。だがそのまま動く気配はなく、いくら待てども応援の兵は来ない。被害を受ける市街部は、実質的に見放されたことになる。
 上層部は見捨てたのだ。敵に怯える数百人もの国民を。
 無駄だ、無理だ、不可能だ。あの敵は倒す手段がない。真っ向からそんな愚かな弱音を吐かれた。反論の言葉はない。応援を呼びに城まで戻ったリドー自身、あの敵にどう立ち向かえばいいのかその糸口すら提案できなかったのだから。
 だが安全な場所に厳重な警戒を敷き、本当に向かわせるべき場所に一人たりともよこさないその姿勢に腹が立った。激昂と言ってもいい。上兵や大臣たちの並ぶ王城の一室で、彼はたまらず批難を叫んだ。だが泥のように静まり返った重臣たちは、沈鬱に目を伏せるだけ。解決をなかば放棄している現状がそこにあった。
 城には一般の兵ですらろくな数が残っていない。ビジスとカリアラの襲撃の傷がまだ癒えていないのだ。魔術の治癒など元々が仮のものだ、まともに戦える体ではない。あの一件で随分な数の兵が戦力から失われた。そもそも長く続いた平穏を経て軍事力は低下している。
 さらに昨日、総隊長ラックルートが大量に免職者や謹慎の者を出していた。彼はビジスへの宣言通り、“化け物”に恐怖を覚えて使い物にならない者を追い出しにかかったのだ。だが処分は仮のものだ。このような事態ならば即座に持ち場に戻らなくてはならないだろうに、街に降りていた免職者たちは戦いから逃げ出した。人手を求めて呼び止めたうちの一人などは、このまま国を捨てるとまで言った。
 処分がなくとも、どちらにしろ使い物にならなかったに違いない。彼らはあまりに弱すぎる。それは王城を厳重に守る兵士たちも同じだった。皆一様に暗いものを抱えながらも、その表情には安堵の色が見え隠れする。自分たちは助かる。安全な場所にいられる。そんな思いがあからさまに見える弱者たち。
 どうしてもその中に混じることはできなかった。リドーは制止の声をはねのけ、伝えたくない絶望の事実を抱えて応援を待つ場所へと向かう。
 唐突に、高くから悲鳴が落ちた。上に位置する西公園から人の騒ぐ声がする。そしてそれを掻き消す轟音が鳴り響いた。空が割れるほどの音。それが、何の前触れもなくごく近くで放たれる。前方に見える坂道を巨大な闇が駆けのぼった。どろりとしたそれが飛ぶように向かう先は人の集まる西公園。重く囲う鉄の柵が攻撃される音が聞こえる。
 リドーはその場に立ち尽くした。建物に阻まれてわずかにしか見えない公園の入り口で、闇は巨大な猫の姿を取り戻す。攻撃を受けたのだろうか、それは突然墨色の液体となって坂の中腹まで落ちた。そしてまた、ゆっくりと猫の形に戻っていく。
 目の前だ。今いる道の真正面に、巨大な猫が立っている。見上げなければ視界に収まらないほどの闇。あまりにも大きすぎる、おぞましい力を持つ敵。
 陽の光がさえぎられて広い影があたりに落ちる。気づけば足は下がっていた。リドーは恐怖のままに後じさる。腰が引く。情けない姿勢のまま体は小さく震えだす。それでも猫の横顔からはひと時も目が離せない。
 闇に浮かぶ金色の目が見つめるのは、坂の上に集まる人々。彼らの悲鳴は止んでいた。猫も口を閉じている。体を冷やす空恐ろしい沈黙の時。子どもたちの泣き声が、かすかに聞こえる。
 その場に凍りついたように、リドーは一歩も動けなかった。近寄れば命を吸われて死に至る。身動き一つ取れないまま、骸のように横たえられた被害者たちを思い出す。少しでも近づけば彼らと同じ運命だ。彼は、心の底からこちらに来るなと願っていた。来るな、来るな、自分の姿に気がつくな。
 猫があごをくっと下げる。低くから睨む視線は公園に狙いを定めている。威嚇の咆哮。リドーの悲鳴は轟音に掻き消えた。情けない声色だったに違いない。悲しいまでに弱い顔をしているに違いない。リドーは自覚のないまま無様な形で逃げていた。近くの民家の壁に縋る。足がひどく震えている。
 猫は一歩一歩上へと距離を詰めていく。耳を痛める音の合間に、人々の声がきれぎれに伝わってくる。悲鳴、絶叫、恐怖の言葉。だが助けに行くことができない。足を踏み出すことができない。城の者に憎しみを抱いていても、逃げ出した者に憤りを感じていても、この場で動きだすことすらできない。自分も彼らと同じなのだと思い知り、リドーは屈辱と恥に顔を歪めた。
 ビジスに向けたラックルートの言葉を思いだす。

 ――この程度でやめる者は、この国には必要ない。

 では、必要な者はどこにいるのか。
 思わず心で尋ねたその時、猫が体をのけぞらせ、この世のものとは思えないほど恐ろしい悲鳴をあげた。断末魔のごとくの叫び。巨大な体が見る間に倒れて坂を転がり落ちていく。
 リドーは思わず駆け出していた。横道を終えて坂へと飛び出す。
 その目前を、影がかすめた。残像の中でその肌は銀に光る。人ではない姿の生き物。目を見開いた凝視の先で、カリアラが、転がり落ちた猫に向かってまっすぐに駆けていった。
 家を崩して暴れる猫に迷いもなく向かっていく。猫は体をどろりと起こし、カリアラに狙いを定めた。爪の出た前脚が飛ぶ。だがカリアラはひるみもせずに、回避してはじっと猫を睨み続ける。それは攻撃の機会をうかがっているように見えた。
 猫が一つ叩くだけで地震のように地が揺らぐ。体を少し回しただけであおりを食らった家が崩れた。それでも彼は、ひと時も目を離すことなく巨大な敵と対峙している。
 リドーは坂を駆け上がった。無残に倒れた門を踏み、大きくひしゃげた柵を横目に公園の中に入る。
 その途端、絶叫に近い声が聞こえた。
「お願いします!!」
 見覚えのある背が礼の姿勢で固まっている。奥へ奥へと逃げるように身を寄せ合う人々に向け、ピィスがその小さな頭を深々と下げていた。
「お願いします、一緒に戦ってください!!」
 叫びは今にも涙をはらみかねない悲痛な色を伴っていた。誰もが複雑な顔で口をつぐむ。数え切れないほどの人が集まっているにも関わらず、その場はやけに静かだった。坂の下から猫の放つ音が聞こえる。ピィスはそれにも負けないほどに大きく声を張り上げる。
「お願いします! 一緒に戦ってください!!」
 小さな背が震えている。何百もの視線をたった一人で受け止めながら、ピィスは深く頭を下げた。
「お願いします、一緒に戦ってください! あいつを助けてください!!」
 上げた顔には涙が筋となって流れる。ピィスは歯を食いしばり、震える体をまた深く礼に固めた。
「助けてください! お願いします!!」
 リドーは言葉を失ったまま、食い入るように彼女を見つめる。唐突に服の裾を引かれた。見ると、馴染みの子どもたちが不安な顔で集まっている。
「隊長、お兄ちゃんが、魚のお兄ちゃんがやられちゃうよ」
 泣きながら訴えるのはカリアラを恐れていたはずの少女。ティーアの言葉に堰を切られ、子どもたちは口々に喋りだす。
「隊長、ねえ、助けてあげてよ。ティーアを助けてくれたんだ」
「猫にやられちゃうよ、このままじゃみんな死んじゃうよ」
「ねえ助けてよ、隊長はみんなを守ってくれるんでしょ?」
 見上げてくる瞳たちは願いを奥に抱えて潤む。たくさんの幼い手が、彼の服や腕を引いた。
 リドーは叫ぶピィスを見つめる。まだ幼さを残す肩は震えながらも礼を続けた。小さな頭が深く深く下げられる。敵に向かう友のために、彼女は黙る大人たちにたった一人で立ち向かう。
 それなのに、自分は今何をしている?
「隊長、ねえ、助けてよ」
 リドーは込みあがる感情を押さえるように、拳を痛いほどに固める。
「隊長」
 あまりにも分不相応な呼称が震える心を揺さぶった。

※ ※ ※

 轟音の中で聴覚はすでに麻痺している。全身を蝕む痛みが意識すらうつろにさせた。強化された皮膚の内ではいくつもの神経が断ち切れていて、不自然な熱を訴える。崩れた瓦礫を負った背が、振り落とされて打った腹が、走るだけでもひどく痛んだ。
 カリアラはそれでも地を踏みしめて立つ。まっすぐに猫の目を睨む。猫は威嚇のように口を開いた。視界を覆う巨大な脚が飛んでくる。広がった夜の闇には白く光る鋭い爪。引いた体の近くをかすめて足元を揺るがした。
 カリアラは震える地面を横に飛び、そのまま一気に後ろに下がる。見知らぬ家の壁にぶつかる。猫から目を離さないまま素早くさらに横へと走る。
 まるで沫を吐き出すように、何度目かの息をついた。
 苦しみを堪えるためのしぐさ。そうすれば、痛みが出て行くような気がした。
 思考すら混乱させる大きな音の波の中で、彼は体の痛みを探る。時間を追うたび痺れていく腕の付け根、変わらぬ熱を訴えてくる右の膝。流れる瓦礫を背負った時に腰の中で糸が切れた。不気味な悪寒が体を走り、それからずっと体内に生ぬるいものがあふれている。足を一歩踏むごとに全身が崩れそうになる。寒気が胸の内側を舐めていく。

 ――大丈夫、まだ生きてる。

 彼は深く息を吸った。おれはまだ生きている。だからまだ戦える。痛みなど別にどうでもいい。体が動きさえすれば。生きているだけで十分だ。
 カリアラは深く息を吐き、痛む手足を馴染ませるように振った。体の内部で水が鳴る。飲んだものを溜める袋が破れているのだ。

  大丈夫、死んでいない。おれはまだ生きている。
 もう一度、こほ、と溜めていた息を吐いた。猫の脚が飛んでくるが、巨大な分動きは鈍い。カリアラは今度は後ろに退くのではなく、猫に向けて突進した。体の真下に潜り込むと、陽の光が完全にさえぎられた。見上げれば目に映るのは遠近感すら狂わす闇と、遠く瞬く吸入石。それは本物の星のようにあまりにも遠すぎた。手を伸ばしても届かない、ここからでは壊せない。
 目標を見失った猫がその場で体を回し始める。カリアラはその中心に立ち、素早くあたりを見回した。何か、足がかりになるものは。星に手を伸ばせるものは。
 ふとそれを目にして閃いた。カリアラは回る脚や尻尾をすり抜けて、猫の外へと走り出す。現れた太陽の光が眩しい。日差しをさらに浴びるように、カリアラは崩れた街の方へ向かった。白の道を全力で駆けていく。
 カリアラに気づいた猫がどろりと足を踏み出した。震動と共にたった一歩で追いつかれる。だがもとより逃げるつもりはない。カリアラはまだ無事な家の中へと飛び込んだ。
 目で室内をざっと探る。慌てて飛び出したのだろう、逃げた家人の混乱をあらわすようにあちこちで物が倒れていた。転がる鉢を飛び越えて階段を駆け上がる。上へ上へ、少しでも高い場所へ。
 横目に見える木の壁にひびが入る。それを確認した途端、ぎらりと光る白い爪が壁ごと襲いかかってきた。階段がもろく崩される。足元が嘘のようにごっそりと奪われて、カリアラは即座に上へと跳び上がった。すんでのところでなんとか二階に手が届く。木の床にしがみ付くと、さっきまでいた階段がただの木くずとなって落ちた。
 唐突に開けた階下の壁に外の景色が広がっている。猫は覗きこむようにして、階段の残骸に標的を探していた。大きな目が不思議そうに崩れた木を見つめている。カリアラはその眼差しを避けるように、ぶら下がった格好からなんとか二階に這い上がった。
 焦る目で部屋を見回す。登る場所は、どこか上に続く道は。
 床がみしりと音を立てた。柱も割った破壊の余波が足元を斜めに歪める。木敷きの床がみるみるとたわんでは傾斜して、目に見えて下に落ちはじめた。
 とっさに窓に手をかけたのは正解だった。カリアラは開け放たれたままの二階の窓から身を乗り出す。足をかけた窓枠が床と共に斜めに歪み、左側を重心にしてゆっくりと落ちていく。カリアラは外に飛び降りた。
 弾けるような音を立てて、伏せていた猫の背に着地する。液化した魔力がしぶきを上げて飛び散った。衝撃が踏み込んだ足を打つ。猫が鋭い悲鳴を上げる。足は闇色の身に深く刺さった。ぐにゃりとぬるい奇妙な感触。重心がうまく取れずに手をついた。猫が立つ。怒るように頭を起こす。
 すぐ後ろで二階が落ちる音がした。見るとさっきまでいた家はその半分を崩されて、建物の中を存分にさらけ出している。壁には鋭い爪の跡。猫はその武器を高くに向けて放った。見えない敵を追うように、自分の体にしがみ付く小さな相手を憎むように。だが爪先は空を掻く。カリアラは敵の死角に乗り込んでいた。
 着地した時の衝撃が全身へと伝わっていく。息と共に体の中身を吐き出してしまいそうだ。カリアラはよろめく姿勢を無理に起こし、不安定な足場に深く踏み込んだ。
 抗議らしき猫の声は耳を切り裂くほどに鋭い。猫は体を揺すらせる。カリアラはたまらず立っていられなくて、思わずその場に手をついた。泥のような真黒な体にしがみ付く。
 あまりにも広いそこは、まるで大地のようだった。立ち上がった猫の背は飛び降りた二階よりも高いだろう。遠くの家は屋根しか見えず、近隣の建物は下を覗き込まなければ見えない。空が近い。澄んだ青が伸ばせば届いてしまいそうだ。
 巨大化した猫の背は、それだけで部屋がいくつも入りそうな広さだった。下手をすれば目に映るのは青い空と黒く平らな背中だけで、まるで別の世界にいるような錯覚に囚われる。ずっと先には同色の後頭部。逆側にはそそり立つ細身の尻尾。
 表面はほぼ液体のようになっているが、その奥は固形化して硬くなっているらしい。踏み込んだ足はくるぶしで止まっている。靴底にぬめりとした固体を感じる。石はどこにあるか見えない。この固い下にあるのならば殻を割らなくてはいけない。だが平らなそれには歯が立たない。

 それならば、叩き割ってしまえばいい。

 カリアラは目を閉じた。やり方は教えられて知っていた。鼻と口を手で塞ぎ、外部からの魔力的な干渉を遮断する。ビジスから学んだ通りに意識を深く潜らせる。このために、魔力を透過しない皮に変えてもらったのだ。この技を上手く使い、体の制御をするために。
 “内側から”自分の体の部品を動かす。指を動かすのやまぶたを開くのと同じように、自らを構成する部品を動かしてしまう技。今から動かすのは以前ピィスにも使われた箇所――重量の調整装置だ。そこに、確かな意志を宿らせる。
 ヂッ、と奇妙な音がして、体が重く変化した。重心が取れず上半身がぐらりと揺らぐ。カリアラは目を開き、重くなった体が倒れる勢いに乗せ、硬く広がる猫の背に両肘を突き立てた。
 絶叫。
 猫は石を砕いた時と同じ悲鳴をあげて、苦痛に身をよじらせる。
 厚い殻は割れなかった。もう一度打ち込もうと重い腕を上げた途端、急に闇がせり上がった。全身がぬめるような感触に覆われる。どこか間抜けに両手が空に向かっていた。バンザイをした格好のまま、カリアラは口を開く。その中にしびれるような苦い水が入り込み、彼はようやく自分が沈んだことに気づいた。
 攻撃により猫の魔力が一時的に分散し、薄くなってしまった力が液状に変化したのだ。猫の体がへどろのようにゆっくりと崩れていく。カリアラの体も中へ中へと沈んでいき、這い上がろうともがいても掴んだ先からどろどろに融けていく。あっという間に腰まで沈む。なまぬるく柔らかい重みが体を下へと引いていく。まるでコウエンの言葉通り、底なし沼に呑みこまれたようだった。
 消えた魔力を取り戻そうと、猫が体をひねらせた。カリアラは大きな動きに振り落とされそうになる。なんとかしがみついた足元で、石どうしがぶつかり合う感触がした。震動となり液化した身を震わせる。黒い沼に波紋が起こる。
 唐突に、強い力で引き寄せられた。
 言葉もない、息をつく暇すらない。体は急に猫の中へと吸い込まれる。おそろしく激しい流れが起こる。液状化した猫の体はまるで川と同じだった。急流、激流。川でまれに遭遇したそれがこの場に現れた。呆然としたカリアラの体は水と共に引き寄せられ、掴む場もなく流される。行く先は魔力を求める白濁の石、膨張した吸入石だ。それが、渦を巻く猫の液の中心に浮かんでいる。
 全身が流れに呑まれた。不透織布の肌に阻まれ魔力が去って行くことはない。だがそれでも構わないというように石は体を吸い寄せる。右から左から、前からも後ろからも。
 一組の石に引かれるのなら問題はないはずだった。だが全身に散らばった吸入石はそれぞれがカリアラを引き寄せようとする。現在もっとも近くにあって、一番力の強い物体。それを求めて最大限の力で吸う。少しでも多く魔力を手に入れられるように。
 カリアラは手足をそれぞれ別の石に引き寄せられて、完全に身動きが取れなくなった。かろうじて石たちから遠く離れた頭をもたげ、なんとか外へと顔を出す。
 だがそこに崩された家の瓦礫が飛んできた。さっき目に見たばかりの家具が、四方から襲いかかる。椅子が飛ぶ、壷が飛ぶ。それらがすべてカリアラへと向かってくる。防ごうにも首まで猫の体に沈み、手は石に引かれて動かない。
 あらわになった頭に向かって様々なものが飛んでくる。煉瓦、木の板、食器、机、戸棚。突風と共に集まるそれらは隙間がないほど視界を覆う。カリアラは死に物狂いで逃げようとした。
 強く引くとようやく右手が自由になる。だが空いた腕で庇っても衝撃はやわらがなかった。煉瓦が耳の上にぶつかる、木の棒が首を打つ。重いものが雨のように降ってくる。とめどなく続く激痛に意識が途切れそうになる。
 痛い、痛い、逃げなければ。逃げなければ殺される。
 だが体を中に沈めてみても危険度は変わらなかった。物たちはどろのような猫の体を突っ切ってまで飛んでくる。それも四方からだ。逃げ場はない、回避する方法もない。
 ――それならば。
 カリアラは狙いを定め、自ら水に飛び込むように猫の体の中に潜った。今度は初めから行く場所を決めている。
 液状化した魔力の流れは川のそれと同じだった。カリアラは水の流れを読むのと同じく流れる魔力の動きを読む。様々な色が重なり合った黒い力。無彩色のそれらは全て吸入石に向かっている。カリアラは流れを読んで、闇に輝く一つの石へと泳いでいった。それは走るよりも速い。吸い込まれていくのもあってあっというまにたどりつく。石に体が吸いついた。体内の魔力が引かれてびりびりと音を立てるが、不透織布が邪魔をして力は肌を抜けていかない。カリアラは闇に浮かぶ星を見つめた。光を放つ白い石。力を吸っていけばいくほど、中に浮かぶ赫い花があふれるように花弁を広げる。
 鮮やかな赫。毒々しく、恐怖すら覚えさせる色。
 それは白黒に染まる視界の中で目に痛いほどに輝いていた。
 壊そうと口を開くが石までは届かない。水の流れが邪魔をして口内に入り込む。カリアラは水の苦さを感じながらひたすらにもがく。もがく。もがく。押し寄せる力の波に翻弄されて思うように動けない、指一つ自由には動かない。だがなんとしてでもこれを潰さなければいけない。潰さなければ壊さなければ。

 そうしなければ、みんなが死んでしまうのだ。

 喉の奥まで液化した猫の身が入り込む。それでもただ石へと向かう。黒い水は重くぬめり肌に絡みついてきた。新たに取り込まれた魔力が濃さを増して、固体に変化しはじめたのだ。
 もがく体が重くなる。胃の中にまで入り込んだ魔力が硬くはりついていく。ぬるいものに覆われて全身が痺れていく。近づけた頬が石に貼りついて離れない。意識すら流れとともに薄れていきそうになる。気を失いそうになる。

 ――死ねない。

 渾身の力をこめて吸い付く石を引きはがした。死ねない。まだここで死ぬわけにはいかない。
 カリアラは残る力を振り絞り、輝く石に食らいつく。力を込める。痛みを訴えるあごが壊れてしまいそうだった。それでもまだ力を込める、込める、込める。

 目の前で、花が散った。

 赫い赫い花びらが、透明なかけらと共に闇色の水に流れていく。
 三度目の絶叫。猫は痛みにもがいて体を地面に押しつける。
 カリアラは石の後に残された神経にしがみつき、暴れる猫の体に留まる。激しく振られ揺すられる。だがカリアラは握りしめた手を離さなかった。どろりとした猫の身が少しずつ地に落ちる。
 潜っていたカリアラの体が外気に触れた。いやに寒いのは全身に力が行き渡っていないからか。もはや離れなくなってしまったように、手だけが猫の神経を握っている。足元が、宙に浮く。
 だが地面に落とされてしまう前に、猫の動きが落ち着いた。急勾配になっていた場所が平らな形に戻っていく。猫の身は固形に戻り、カリアラはその上になんとか立つことができた。
 こほ、と小さく息をつく。
 痛みを訴えない箇所はない。肘が、首が、肩が、膝が、腕が、足が、腹が、手が、指が、腰が、頭が、額が、頬が、顎が、喉が、熱く熱く痺れていく。
 カリアラは黒い泥の中に力尽きて倒れ伏した。
 だが両目だけは濁らない。見開かれた野生の瞳はその力を失わない。彼は心の中で呟く。

  死ぬわけにはいかない。殺させるわけにはいかない。
  今度こそ子どもを守るんだ。
  今度こそ、みんなで一緒に生きるんだ。

 もう二度と同じものを失うのは嫌だった。もう二度と、ひとりになるのは嫌だった。弱々しく投げ出した手が拳を作る。強く固めたそれを支えに身を起こす。

  死ぬわけにはいかない。殺させるわけにはいかない。
  今度こそ、今度こそ、もう二度と。

 耳の奥で、ひた、と水の音がした。全身をうろこが覆う。水の力が体の中で暴れだす。理性はすでに消えかけている。あるのは生きようとする本能だけ。生かそうとする想いだけ。
「いきる」
 カリアラは魚の言葉で呟いた。不穏な動きを察したのか、猫が威嚇の声を上げる。
「たおす」
 残り五十八個を砕くため、彼はゆらりと立ち上がった。


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第6話「群れ」