第6話「群れ」
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「カリアラ君!!」
 鉄の柵にしがみつくカリアラをピィスが呆れて止めたころ。喧騒をかき分けて、いやと言うほど聞きなれた声がした。五つ子だ。彼らは泣き笑いの表情で人ごみを飛びぬけてくる。
「やっぱり! あんな奇妙な歩き方をするのはカリアラ君だと思ったよ!」
「えっ、わかったのか。すごいな」
 本気で驚くカリアラに、ロウレンを始めとする熱帯魚好きの男性陣は、揃いの動きで指をさした。
「僕たちの目にはどこからでもお見通しさ!」
「いやオレにもわかると思う」
「うん私にも絶対わかるわ」
 ピィスとカレンは共に冷たい視線を送る。カリアラがやっていたカニのような横歩きを再現しはじめる四人。カレンはそのよく似た頭を一つずつ順に叩いた。
「はいはい真似しなーい。おふざけ終了ー」
「でも良かったよ無事で! 心配したんだよ!?」
「もう僕たちさっきから心配で心配で! 大丈夫かい怪我なんかしてないかい?」
 四人は何事もなかったかのようにカリアラにまとわりついた。めげない不屈の精神は、彼らの長所でもあり短所でもある。
「うん、大丈夫だ。痛いけど我慢してるから」
「痛い? 痛いのなら大丈夫じゃないじゃないか」「あそこに救護所があるよついていこうか」「僕が包帯を巻いてあげるよ!」「あんな巨大な猫なんて恐ろしいもの信じられないよね」「でもここなら大丈夫なんだよ!」「でも、すごく怖いよね」「痛いけど死なないから大丈夫だ」「とにかく猫型っていうのが難点だよね恐ろしいもの」「でもやっぱり痛み止めでも貰ったほうが」
「ああもう一気に喋るな! オレたち目立つなって言われてるんだから!」
 だがその願いは聞き届けられそうにもなかった。男だろうが四人もいれば十分にかしましい。近くにいる人々の目が、少しずつこちらに集まり始めた。
「……だめだ。入り口の方に戻ろう」
 まだ、兵士たちといる方がいくらかましのように思えた。カリアラを恐れて騒がれては目も当てられない。これだけの人口密集地帯なのだ、混乱は避けなければ。
「入り口は危険だよ! もしかしたらまた奴が来るかもしれないし。こっちの方が安全だって」
「そうだよ、奴は奥には来れないからね」
「猫が? そういえばなんでここが避難所なんだよ。もっと広いところがあるんじゃねーの?」
 人による熱気のためにその場は随分息苦しい。手を振れば人にぶつかる。あちこちで子どもの泣き声がする。それぞれが耳元で喋らなければいけないほどの騒がしさが、苛立ちを高めるのだろうか。誰もが眉を深くしかめ、耐えるように立っていた。そこまでして、誰もがここを離れないのは何故なのだろう。
 ロウレンがその答えを教えてくれた。
「ここ、坂の上にあるだろう? だから猫が来ないんだって。猫も一回ここまで上がってこようとしたらしいんだけど、きこりの人たちが切り倒した木を転がしたんだ。ちょうど古くなって危険だった木を切った後だったらしくて。で、猫は足を取られて下まで転がり落ちちゃって、それ以来こっちには見向きもしなくなったんだ」
「入り口に丸太があっただろ? あれはもし次に猫が来たら投げつけるつもりみたいだよ。さっき、そのきこりの人たちが運んできてくれたんだ」
「ちょうどすぐ下に鍛冶屋もあったしね。猫がきたら武器も投げて追い払うんだよ。正面からぶつかっても勝ち目はないもの。せめてうわてから抗わなくちゃ」
「下よりも安全だろうってことで、みんなここにいるんだよ」
 ピィスは聞くほどに眉をしかめていく。何か、ひどく嫌な予感がした。まるで安心している彼らに、問わずにはいられない。
「ここに猫が来たのっていつ?」
「ずいぶん前だよ。街に現れてまだちょっとしたぐらいかな。僕たちはまだ下でおろおろしてたんだけど、急にみんながここに行けって騒ぎ出して……」
「その時と今とじゃ猫の大きさって違うよな」
 猫は街の力を吸って体格を増している。現れてすぐと今とでは、随分と違うのではないだろうか。現に、ピィスとカリアラが街の入り口で遭遇した時よりも、先ほどすれ違った時のほうが明らかに巨大だったのだ。とてつもなく大きくなった猫に、はたして丸太は効くのだろうか?
 嫌な予感は確信に近づいていた。ピィスはコウエンの言葉を思い出す。猫は獲物を探して近寄ってくる。みんな避難して誰もいなくなって、そこに餌がポンと投げ込まれれば動物は迷いもなく食いに行く……。
「やばい」
 急激に血の気が引いた。もう街にはほとんど人が残っていない。今は周遊している猫も、いずれ吸い取る獲物がなくなったことに気づくだろう。底なしに魔力を欲しがる猫の目に映るのは、大量の魔力源がひしめき合うこの公園。
 ――食いに来ないはずがない。
「ここ、安全って言いきれないんじゃねーの」
 むしろ猫にとっては格好の餌場だろう。奥は山に囲まれていて、出入り口は坂側にしかない。猫が坂を上がってくれば、人々に逃げ場はないということだ。呆気なく追いつめられてしまうだろう。この密集地帯に乗り込まれれば、確実に多くの人が潰される。
「なあ、ここやばいよ。だめだ、解散した方がいい」
「何言ってるのさ。ここ以外にどこに行けばいいんだよ」
 五つ子の目にこの場に対する不信感はかけらもない。きっと皆そうなのだろう。完全に信用しているのだ。誰が言い出したかもわからない、保証のない安全神話を。
 ピィスは焦りに詰まる言葉をむりやりに吐いて説明する。さっき、空腹の猫が下りてきた自分たちを求めて飛びついてきたこと。コウエンの言っていたこと。この場所にとどまるのは袋のねずみに等しいということを。
 元々、周囲の人々からさほど距離のない場所だ。ピィスが危険を唱える度に、人の目が集まってくる。提示された危険性は彼らの口を伝わって、よりいっそう騒がしいざわめきやどよめきへと変わっていった。気がつけばたくさんの視線が自分に向けられていて、ピィスは思わず一歩下がる。鉄の柵に、背が当たった。
「そんな、でも……今さらどうにもならないよ。だってどこに行けばいいのさ! 下りていったらあっという間にやられちゃうよ」
 同じ顔を青くしたロウレンたちが言い返す。大人たちの声がそれを後押しした。そうだな、そうだよ。口々に勝手な言葉が吐き出される。
「それに、ここを離れたらあの猫にのこのこと近寄ることになるじゃないか。それこそ食べてくれって言いながら歩いていくのと同じだよ!」
 でもどちらにしろ奴が来れば危険なんだと言う男がいる。いやだ私は絶対に下に降りたくないと首を振る女もいる。今さらに浮かび上がった問題はあちこちに飛び火して、人々の口を開かせた。猫の声にも負けないのではという騒がしさ。思いもよらず大事となった事態に困惑し、ピィスは視線を迷わせる。
 誰もが文句を口にする。答えの出ない意見を繰り返す。もしこちらの攻撃が効かなかったら、猫がここに入り込んだら。しかし自らあの街の中まで降りていくのか? この道を下ればすぐに猫の通り道にぶつかる、見つからないよう別の場所に逃げるなんて不可能だ。でもここは危険だ、ずっといるわけにもいかない。じゃあどうすればいいんだよ。
「みんなで行けば大丈夫だ」
 落ち着いた声がした。見ると、カリアラが口を開いている。彼はそのまま同じ言葉を繰り返す。
「みんなで行けば大丈夫だ」
 カリアラはまっすぐに人々を見つめて言った。彼を見てぎょっとする者がいる。聞こえずに話をやめない者もいる。カリアラはまた繰り返す。
「みんなで行けば大丈夫だ」
 その声はやけにしっかりとして聞こえた。喧騒が収まっていく。人の目がカリアラに集まっていく。
 銀のうろこに悲鳴をあげる者がいた。不気味に後じさる者もいる。だがカリアラは曇りのない目でまっすぐに見つめて続ける。
「みんなで行けば、大丈夫だ」
 いつの間にか誰もが彼に注目していた。よそ事を呟かない、もう口を開かない。人の集まる公園は、途端にしんと静まった。
「どういうことだ?」
 手前にいた男が尋ねる。カリアラは説明してくれと頼むように、傍のピィスの肩を叩いた。ピィスは緊張にうわずるのを感じつつも、できるだけ落ち着かせた声で語る。魔力を吸う猫の仕組み、ぶら下がる吸入石を壊さなければ敵は倒れないということ。一度に大量の魔力を吸い切ることができないために、頭数さえ集めて一度に立ち向かえばやられることもない。だから、みんなで共に猫に立ち向かって欲しいということ。
 一つ口にするたびに不安げなざわめきが起こる。問いかけた男は不愉快そうに確認した。
「……じゃあ俺たち全員に、猫に突撃しろって言うのか」
 否定を求める空気にも関わらず、カリアラは強くうなずいた。
「うん。そうだ」
 途端にあちこちで反発の声があがる。
「ふざけんな!」
「馬鹿なこと言うな!」
「そんなことをして無事なわけがないだろう!」
 批難の声は苛立ちから即座に罵倒に変化した。化け物が、と罵られる。並ぶ頭のあちこちで拳を固めた手が上がる。大声で否定されてカリアラはびくりと固まった。困惑を顔に浮かべてきょろきょろと辺りを見回す。
 人々の中にはカリアラの意見にうなずく者もいたかもしれない。だが静かなそれは、熱を帯びた反論に押しのけられた。その場の空気や雰囲気だけで、無意見の者も反論に引き寄せられる。密集した人間たちは、いとも簡単に突撃を批難する色に染まった。
「そうだ。この場の安全は我々が守る!」
 兵士がカリアラの腕を取った。
「馬鹿なことを言うな! じきに応援も来る、この場はこちらに任せておけ!」
 カリアラはどうしてそんなことを言うのかわからないのだろう。困ったように首を振った。
「なんでだ、なんでみんなで行っちゃいけないんだ?」
「危険だからに決まっているだろう! お前は一般人を化け物に立ち向かわせる気か!」
 兵士はそのままカリアラを引いて門の方へと連れて行く。引きずられていくカリアラに、兵を誉める声が飛ぶ。嬉々としてはやし立てる者もいた。ピィスは兵士の腕に取り付いてなんとかとどめようとするが止められない。カリアラは困惑をあらわにしてさらに尋ねる。
「なんでだ? なんでいけないんだ? いっぱんじんってなんだ?」
「黙れ、外に出ろ!」
「カリアラ君!」
 五つ子の声がして振り向くと、彼らは両親らしき大人に体を引き止められていた。親が何かを言い聞かせているのが見える。等しく揃った表情が、哀しそうにこちらを見つめている。
 カリアラはどうして提案を拒否されるのか、どうしてこんなことになってしまったのか本当にわからないようで、力負けて入り口へ引きずられながらもずっと問いを繰り返す。
「だって倒さなきゃみんな死ぬんだろ!? なんで、なんでだめなんだ!?」
 彼を引く兵士の数が増えた。ピィスの手は払われる。開かれた門を潜らされ、カリアラはいまだ問いを続けるままに坂道へと連れ出された。
 落とせという声がする。それは人に伝播して一つの声へと重なっていく。落とせ、落とせ、落とせ。やめろと言うピィスの声は後押しする悪意の声に潰された。落とせ、落とせ、猫の餌にしてしまえ。尋常ではない。この場所はどこかおかしい。追い詰められた人間の姿がそこにあった。
 ピィスは止めようと駆け寄るが取り押さえられて動けない。複数の手がカリアラの体を坂道の下へと向ける。その傾斜はゆるやかだが走り出せば下まで止まらないだろう。遠くから猫の声がする。下に落ちれば歩み寄る猫の餌食となる。兵士の手がぴたりと止まった。迷いが浮かぶ。突き落とせば無事ではすまない。だが人々の声が背を押している。熱に浮かされたような危うい状態。猫が近づく。震動がこの場所にまで伝わってくる。鳴き声が大きく耳に響き始める。人々が恐れるように山側へと下がっていくのがわかる。落とせという声は止まない。だが掴んだ手が離れない。
 大人しくされるがままだったカリアラの顔に恐怖が走った。
「逃げろ!!」
 投げ出していた足を踏みしめて、引きずっていた兵士を逆に公園の方へと押し戻す。どろりと滲む闇が坂道の下に現れた。カリアラは我に返った兵士と共に、公園の中へと駆け込む。闇が近づく。不定形の液体となって、坂の上へと飛び上がる。
 カリアラたちがなんとか入り込むと同時、傍で待機していた兵士が門を閉めた。頑丈な鉄の門は闇にぶつかり大きく揺れる。体を冷やす音がした。門の繋ぎが割れる音。背の高い門が、ゆっくりと外側に向けて倒れていく。どろりととろけた猫の体はその隙間を通り越し、ただのごみと化した門を下敷きにして、また、元通りに猫の形を取った。
 折り重なる悲鳴と絶叫。人々はできるだけその場を離れるために走りだすが、この狭い公園内には元々さほどの空きはない。誰もが絶望的な恐怖に叫ぶ。だがそれもまたすぐに鳴りはじめた猫の声に掻き消される。
 柵の外に残されてしまった兵士が、絶叫して丸太を転がした。それは猫の前脚を打つ。続けてさらに転がした。左前脚、右後脚。確実にぶつかるそれは猫の体を転がした。
 歓声。だがそれもすぐに絶望の色に染まる。坂の中腹まで転がり落ちた黒猫は、一度体をどろりとした液体へと変化させた。光のない水たまりができたように見えた。夜の海のようにも見えた。中央には同色の塊が小山となって寝そべっている。だがいくらも時間をおかないうちに、薄白い吸入石に輪郭を取られてそれはまた猫の形となる。
 金色の目がぎろりと光る。敵意を持って人間たちへと視線を放つ。丸太は既に尽きていた。外にいた兵士たちは武器すら投げ出し中へと逃げ込む。
 猫は陽炎のようにゆらめきながら佇んでいる。闇に浮かんだ金色の瞳だけが言葉もなく皆を見つめる。二度も転ばされてしまったからだろうか、猫はこちらの動きを探るように、坂の真中にとどまっている。それは襲いかかる機会を窺っているように見えた。
 動きの止まった敵と同じく、公園は静まった。みな息を呑んでいる。子どもの泣き声だけが聞こえる。
 動かない猫を見つめ、カリアラが口を開いた。
「今なら行ける」
 おそろしく静かな声。低く、耳に染み入るような。
「今なら行ける。あれを倒せる。みんなで行くんだ」
 人間たちは畏怖の目で彼を見つめた。腰を抜かして多くの者が地に座り込む中、カリアラはただ一人背筋を正して立っている。恐れはない。そうするのが当たり前というように、まっすぐに猫と対峙している。カリアラは真剣な顔で彼らを見返す。怯えきった目を一つ一つ見つめて語る。
「みんなで行くんだ。そうすればあれを倒せる。早くしないとこっちに来るぞ」
 壊された門の先で、猫がこちらを睨んでいる。頑丈なはずの鉄の柵は歪んでいた。猫の攻撃を受けて、呆気なくひしゃげたのだ。
「行くんだ。そうしないとみんなやられる」
 あまりにも静かな声。誰もが彼に恐怖を感じた。
 あれに突っ込んで行けと言うのか。あの巨大な化け物に、鎧一つ着込みもせず。ピィスも彼らと同じく震えた。自然と首を振っていた。足がすくむ。心臓が冷えていく。無理だ、あの場所に駆けていくなんてとてもできない。だがカリアラは臆することなく猫を睨み返している。
「行こう」
 カリアラは全員に向けて言った。まっすぐに猫を指差す。
「行くんだ」
 誰もが子どものように首を振った。蒼白となった顔に恐怖を浮かべ、畏れをもって彼を見上げる。
「い、嫌だ」
 泣きそうな顔の男が情けない声で拒絶する。怯えるしぐさで後じさり、カリアラから距離を置いた。それを機にみな足を下げる。歩くことを今思い出したかのように、少しずつ奥へと逃げる。
 猫が咆えた。唐突に起こった轟音に人々は弾かれたように走りだす。奥へ奥へ、少しでも猫から離れるように。
「逃げるな!!」
 カリアラは彼らに向けて叫んだ。困惑がまた表情を支配する。理解できない人の動きに戸惑うように声を荒げる。
「早くしないと敵が来るんだ! 戦わないとやられるんだ!!」
 この場所では狭すぎてろくに戦うことはできない。猫がたどりついた途端に踏み潰される者が出る。
 混乱を見抜いたのか、猫が一歩を踏み出した。逃げろと言ってピィスが彼の腕を掴むと、カリアラは困惑のまま彼女に訊く。
「なんで戦わないんだ!? 人間は強いのに!」
 ピィスはハッと彼を見つめた。頭から冷水をかけられたような気がした。
「なんでだ? おれ、怖いのか? おれが怖いからだめなのか?」
 カリアラはピィスの肩を揺する。戸惑いがくっきりと顔に浮かんでいた。本心から、なぜなのかわからないという風に。どうして人間は戦わないのか。どうして街を守らないのか。
 群れとなり敵と戦う。守らなければいけない者を守る。種を残すために自らの命を捧げる。それは彼らにとって、カリアラカルスにとって当たり前のことなのだ。
 でも、人間は。
「なんで逃げるんだ! 人間は強いのに!!」
 人間は、そんな“当たり前”のことができない。
 カリアラは困惑のままに叫ぶ。振り返る者もいたが皆揃って目を逸らした。誰一人としてあまりにもまっすぐな彼の目を見つめられない。
 猫がまた一歩を踏み出した。そこら中から悲鳴があがる。より遠くに逃げようと身勝手に体を押し合い、人が雪崩のように崩れた。別の意味での悲鳴があがる。圧迫された人のうめき声がする。子どもがいる、年寄りが潰されている。批難のこもる鋭い声が混乱の中に紛れる。落ち着かせようと、兵士や巻き込まれなかった者が必死に彼らを助け起こし始めた。恐怖をかき混ぜるように、猫の声が上がってくる。震動が伝わってくる。愚かな喧騒は猫の声に掻き消える。
 何も聞こえないその場所で、ピィスはカリアラが自分に何か告げるのを見た。
 次の瞬間、カリアラは坂へと走り出す。誰もいない入り口には猫の耳がのぞいていた。カリアラはまっすぐに駆けていく。自分の何倍もある猫の顔に向かっていく。
 その光景は信じられないほどゆっくりと感じられた。威嚇するように猫が巨大な口を開く。カリアラはそれを避け、闇色の喉元に飛びついた。猫が一瞬ひるんだように硬直する。カリアラが跳んだ先には太く白い神経にぶら下がる膨張した石があった。白濁した半透明の吸入石。中には浮かぶようにして、赫い、あまりにも赫い花が咲いている。カリアラは石にしがみついた。猫が暴れて体をゆする。振り子のごとくに揺れながら、へどろのような猫の体に紛れながら、カリアラは口を大きく開けて、膨れ上がった吸入石に食いついた。全力をこめて噛み砕く。
 絶叫。この世のものとは思えないほど恐ろしい悲鳴をあげて、猫は体を仰け反らせると、そのまま坂を転がり落ちた。カリアラの姿も消える。猫と共に落ちていく。
 ピィスは身動きもできず立ち尽くしたままそれを見ていた。
 唐突に、閃くように、カリアラが告げていった言葉を理解する。
 大きく動かされた口。たった三拍分の言葉。

 ――たのむ。

 遠くから、転がりきったらしき猫の絶叫が耳を鳴らした。我に返って駆け寄ると、家を潰して随分遠くに流れた猫と、坂の中腹に振り落とされたカリアラの姿が見えた。カリアラは起き上がると迷いもなく坂を駆け下りて、まっすぐに猫へと向かう。
 カリアラが着いたところで猫は彼を踏み潰そうと前脚で地を叩く。カリアラは震動の中懸命にそれを避け、石を探して猫の体を回るように走り始める。ピィスは目を見開いた。
 カリアラは戦っている。
 この場所を自分に任せ、たったひとりで戦っている。
 身を焼かれたような気がした。血が逆流したのがわかる。鼓動が焦り駆けていく。怒りにも似た激情が全身を焦がすのを感じた。心臓が鳴る。息が詰まる。
 体の熱に動かされるまま、ピィスは団子状に絡み合った人々へと向き直る。大きく深呼吸をした。震える手を握りしめた。
 カリアラは戦っている。たったひとりで戦っている。あのままではやられてしまう。
 ピィスはこみあがる涙を飲み込んだ。泣くな、泣くな、泣くな。今自分にできることは。彼のためにできることは。
 深く深く息を吸った。ただ身勝手に逃げようとする人間たちを睨みつけた。この人たちを共に敵と戦わせる。たったひとりで敵に抗うカリアラの元に向かわせる。

 それが、自分にできること。


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第6話「群れ」