第6話「群れ」
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 青ざめた人々が取り憑かれたように走っていく。絶叫の形に口を開いているがその音は聞き取れない。泣き叫ぶ子ども、誰かを呼び続ける女性。だがどの音も水に沈めてしまったように、誰の耳にも届かなかった。
 掻き消すのは猫の鳴き声。耳に馴染んだ可愛らしいものとは違う、頭を割りかねないほどの轟音。赤い口が開くたびに、その体は大きく歪んだ。まるでどろりととろけてしまうように、闇色の毛並みは歩むごとに液体じみたものへと変わる。それは定期的にまた固形へと舞い戻り、本来の姿を思い出そうとするかのように、猫は毛並みを整えた。
 死に物狂いで走るヒトを嘲笑いでもするかのように、猫はただゆっくりと石敷きの街路を歩いた。その一歩は建物を軽くまたぐ。前足を振り下ろした先で、家々がまるで模型のように簡単に潰された。
 かつかつと石の鳴る音がしているはずだ。長く太く膨張した神経にぶら下がり、吸入石は歩みに添って振り子のように体を揺らす。一抱えほどに膨れたそれは片割れの石とぶつかりあって、そこら中の魔力を吸い取り上げていった。時には瓦礫の残骸を。時には人や動物を。
 猫は鳴く。まるで何かを求めるように。
 猫は歩む。行き場が知れずさまようように。
 その巨大な体の下で、あまりに小さな人間たちはただひたすらに逃げ惑った。

※ ※ ※

「西公園だ! あそこが安全だ!!」
 裏道を駆けていくと、ことあるごとにその言葉を耳にするようになった。人気のない古びた家の並ぶ通り。あまりにも明るい日差しに照らされて、時が止まったようにも見えた。干しだされたままの布団、並べられた洗濯物に洗い桶。だが猫の声は確実に背後から音量を増してくる。震動が激しくなっていく。
 猫は街を回遊していた。一度ぐるりと周った筋をそのまま歩いているのだろう、破壊の音は初めと比べて格段に減っている。街の中に、猫のための巨大な通りが完成したようなものだ。潰された家々をさらに踏み固めるように、闇色の猫はゆっくりと歩き続ける。
 人々が向かう西公園は、大した規模の場所ではない。だが普段から避難所として指定されている広大な中央公園は、白の道と赤の道の交差近くに置かれており、すでにその半分近くが猫の通りに含まれていた。西公園は、猫の道にあたらない。
 あちこちに散らばる兵士や若い男が、混乱する人々を大声で誘導していた。手を大きく回して場所を示す。人々はそれにかき混ぜられるように足を早める。
 もうほとんどは避難してしまったのだろうか、道を行くのは逃げ遅れたらしき者ばかりだった。年寄りを背負って走る若者、寝間着姿の病人らしき女性を抱える男。必死に逃げようとする足の悪い老人に、兵士が駆け寄り背を貸した。すぐ傍の家の中から、怪我をした家人が担架に載せられて避難する。
 見ると、門構えは丈夫に見えたその家は、奥まった部分のほとんどを猫によって崩されていた。破壊は太く直線的に、足跡を残しながらはるか先まで続いている。
 いつのまに近づいていたのだろう、そこは猫の歩む道だった。
 瓦礫から割れた木々の匂いがする。景色をおぼろにするように、細かい粉が舞っていた。ピィスはそこを恐れるようにカリアラの手を強く引き、前方に向けてよりいっそう足を早めた。
 だがそれは止められる。カリアラが動かない。彼は地に釘付けられてしまったように、微動だにせず立ちつくしている。
「何やってんだよ!」
 焦りのままに手を引くが動かない。カリアラは食い入るように一点を見つめている。
 唐突に、繋いでいた手を離された。
「居ろ」
 あまりにも簡単な指示を残し、カリアラは瓦礫の中に駆け込む。あっという間に猫の足跡を残す残骸の中に消えた。
 震動。倒れた屋根がびりびりと音を立てた。雄たけびに似た猫の声が、残されたピィスの肌を震わす。頭を殴りつけるような轟音がだんだんこちらに近づいてくる。
「馬鹿、早く逃げろ!!」
 くっきりと跡の残る巨大な猫の通り道。見渡すとはるか遠くに闇色の影が見えた。それはすぐさま巨大になる。歩みはのろいが進む一歩が大きいために、猫の体は恐ろしく早く迫り来るのだ。潰れた家が震動のためにより大きく崩れていく。
 地震のような大地の揺らぎは足元を危うくする。頭の中で理性がここを離れるべきだと訴えるが動けない。カリアラがまだそこにいる。間違いのない、猫の歩む先にいる。
 彼を呼ぶピィスの声はすでに悲鳴と化していた。だがそれも喉が枯れる感覚だけになっていく。割れ鐘を叩くような音がすべてを掻き消していく。
 怯えきった顔を上げると黒猫と目があった。それだけで一抱えはありそうな、金色の瞳がぎろりと見つめる。立ちすくんだ体を縦に射抜く視線。それが近づく。立っているのも危ういほどの振動と共に一歩ずつ近づいてくる。
 横から突き飛ばされるように、硬直した身をかっさらわれた。跳んだ先には白壁があり、打ち付けられて背が痛い。急に視界に影が落ちた。日の光をさえぎってカリアラが覆い被さっている。何かあたたかくて柔らかいものを胸元に押し付けられている。息が上手くできない、苦しい。耳元で風のうなる音がする。魔力が猫に引かれて体を離れそうになるが、不透織布で覆われたカリアラの体が吸入の盾になっていた。地面が揺れる体が揺れる、足が痺れて平衡がおかしくなる。
 ふっ、と、轟音と震動がやわらいだ。それは来たときと同じように素早く去っていく。カリアラがほっとした様子で体を離した。圧迫から解放されて呼吸は楽に戻ったが、ピィスの体は硬直していて未だに動くことができない。彼女はそのまま崩れ落ちた。
 痺れきった聴覚に、意外な音が引っかかる。ごく近くから狂乱じみた泣き声がした。よく見ると、ピィスの胸元にしがみつくようにして、まだ幼い女の子が真っ赤な顔で泣いていた。カリアラがその背を叩く。落ち着かせるように、温かく優しいしぐさで。
「大丈夫。大丈夫だ」
 ピィスは全身の力が抜けるのを感じた。
 この男を、もう、どうしてやろうかと思う。
 彼は子どもを助けに行ったのだ。ピィスにはわからない場所にいた、多分そのままでは猫の餌食になりかねなかった小さな子どもを。
 カリアラは懸命に子どもをあやす。子どもはピィスを離れてカリアラにしがみつき、恐怖と安堵の混じる顔で泣き続ける。やり場のない不安を押しつけるように、しっかりと彼に抱きついて。
 カリアラが背を叩くうちに、子どもは徐々に泣き声を弱くした。穏やかな涙の中で、余韻を残してしゃくりあげる。まだ赤く染まるその顔には覚えがあった。今日、まだ猫が現れていない時に出会った子どもだ。転がったボールを追いかけてきた女の子。カリアラを恐れて泣いていた。
 子どもはふと自分を優しく抱く腕が、銀色のうろこに覆われていることに気づいた。はっとして見上げた先では、カリアラが真面目な顔で見返している。子どもは戸惑う目でカリアラを見た。彼の顔は首から頬まで銀のうろこに占められている。子どもの顔が、緊張にこわばった。そこに、カリアラの手が近づく。
 カリアラは誰もが息を詰めるほどに真剣な顔で、服の袖をそっと子どもの目にあてた。涙は布の中に消える。残された子どもの目には、潤みはあれどあふれだすものはない。
 カリアラは嬉しそうに笑った。
「よかった。水、止まったな」
 それにつられて、子どもの怯えや緊張も泡のようにとけて消えた。また、ぎゅうと彼にしがみつく。別の意味で染まり始めた赤い顔を押しつける。かすれた声でごめんなさいと囁いた。カリアラはもう一度だけ、子どもの背を優しく叩いた。
 その顔がふとピィスに向けられる。
「ピィスも」
 そう言うと、カリアラは真剣な顔で、ぽん、と手のひらをピィスの頭に乗せた。
「大丈夫。大丈夫だ」
 ぽんぽんと続けて叩く。大きく包み込むように。
 ピィスは初めて自分が泣いていることに気づいた。カリアラの声が、疲れきった体に染みこむ。ほろほろと音もなく涙を引き出していく。優しかった。あまりにも温かすぎた。ピィスはこらえきれずにうつむく。
 何の役にも立てないで、足手まといになるばかりで。自分は本当にこの場に“要る”のだろうかと、彼女はひどく悲しくなった。何ができるというのだろう。あまりにも非力な自分に、一体何ができるのだろう。
 ピィスはぐいと涙を拭う。カリアラに向けて、精一杯元気そうな顔を作る。せめて、もう、これ以上は泣かないようにしようと思った。今は、それぐらいしか思いつかなかった。

※ ※ ※

 助け出した女の子、ティーアを背負って二人は山側を目指して走る。はぐれた親がどこにいるかは聞いてわかることではなかった。とにかく人の集まる場所に行けば見つかるだろうと、願いを込めて避難所へと急ぐ。
 すでに、逃げ遅れの人々ですら滅多に見なくなっていた。いやに静かで広い街路をしばらく行くと、破壊あらわな猫の道を垂直に横切る、なだらかな坂があった。白の通には及ばないが、裏通りに比べればいくらか幅の広い坂道。近寄りつつある猫の声に怯えながら長い街路を上りきれば、そこには人の集まる西公園が待っている。
 坂の頂上、公園の入り口には背の高い柵がある。塗装のはげた鉄の門を守るように、武装した兵士たちが並んでいた。その足元には巨大な丸太が置かれている。背後には、何故か大量の斧や剣、槍などの武器が山積みにされていた。
 兵士たちはカリアラを見て悲鳴を上げかけたが、懸命なピィスの制止でなんとかそれを飲み込んだ。ピィスはたたみかけるように現状を説明する。カリアラが子どもを救ってくれたこと、親とはぐれたその子をここまで連れてきたこと。
 カリアラに背負われた子が、うろこの生えた彼の首にしっかりと抱きついているのを見て、兵士たちは複雑に顔を見合わせた。肉屋に対する必死の謝罪を目の当たりにした者たちだ。戸惑いの表情でカリアラの全身を眺めると、三人に対してしばらくここにいるようにと指示を出す。
「名前は?」
 やや歳のいった兵士が子どもに尋ねる。ピィスは早口に言った。
「ティーア。早くこの子の親探してやってよ」
 だが兵士は顔をしかめ、ピィスの言葉を無視して子ども自身に訊き直す。
「名前は?」
「ティーア」
 カリアラとピィスに対する相手の疑惑を読んだのだろうか。ティーアはむっとして答えると、しっかりとカリアラの首に抱きついた。
「……ティーアという子どもの親を探してこい」
 同じぐらい不機嫌なピィスの目から逃れるように、問いかけた兵士は気まずそうに指示を出す。一人がすぐさま公園の中に消えると、彼はちらりとカリアラを見て、また複雑そうに目を伏せた。
 並ぶ兵士は十人弱。リドーはいない。応援を呼びに行ったと聞いたが、まだ戻っていないのだろうか。顔見知りではない兵士たちは、いざとなればカリアラを押さえることができるよう、さりげなく武器を持ち直している。
 いまだ解けない警戒に苛立ちを感じながら、ピィスは奥を目で探る。遠くには浅い森、手前には人の森。思わずそう考えてしまうほど、公園は逃げてきた人間たちでいっぱいだった。その場からあふれだして坂道に押し出されてしまいそうだ。丘の上の公園は明らかな人工過多で、幅を取って座り込むことすらできないらしい。奥にある怪我人の介抱場所を別として、公園内には評判の見世物に群がるものと同じ密度で人間が広がっていた。
 コウエンは百人ほどと言っていたが、ざっと見てもその何倍もの人間がひしめいている。ざわめきも尋常なものではない。それぞれの声がはたして確かに聞こえるのかと思うほどに、その場は喧騒に満ちていた。不安、苛立ち、憤り。穏やかな声はどこからも聞こえてこない。
 その騒がしさも打ち消すように、ひときわ大きな声が聞こえた。
「ティーア!!」
 悲鳴にも似た女の声。若い兵士に導かれ、ティーアの母親らしき女性がよろめきながら駆け寄った。随分と取り乱していたのだろう、目は涙のために腫れ、長い髪は荒れて頬に貼りついている。
「おかあさん!」
 カリアラは子どもをすぐに背から下ろした。怪我をした足を引きずりながら、ティーアは母の胸に飛び込む。母は彼女をしっかりと抱きしめた。
「ありがとうございます! ありがとうございます!!」
 母親はあふれる涙を拭きもせずに頭を下げる。その背後から、複数の親子が近づいてきた。
「ティーアだ!」「大丈夫、ケガしてない!?」「ティーア、どこにいたの!?」
「エクターさん、ティーアちゃん見つかったの!?」
 顔見知りで集まっていたのだろうか、母や父や数名の子どもたちは我が事のように顔をゆるめる。ティーアは嬉しそうに言った。
「魚のお兄ちゃんがたすけてくれたの」
 その言葉に誰もがハッとカリアラを見た。その頬と首を覆う銀のうろこに息を呑んだ。袖から覗く手に広がった魚の証を、恐怖心と共に見つめた。
 カリアラは何も言わず、彼らをじっと見返すだけ。
 子どもたちは、そのほとんどがティーアと共に今日出会った顔ぶれだった。親の中には、以前カリアラが出会った幼子の両親もいた。彼らはみな緊張から表情をこわばらせる。
 ティーアはカリアラを庇うよう、懸命に説明をした。
「あのね、あのね、家がくずれてね、木のなかに足がはいってね、うごけなくなってたの。ねこが来たのにうごけなかったの、お兄ちゃんがたすけてくれたの。ね?」
 同意を求める視線を受けて、カリアラは表情を笑みに崩した。
「うん。でももう大丈夫だ。よかったな」
 心から喜んでいるのがわかる、緊張感をとかす笑顔。人々の警戒もまたほどけていく。
「本当に、ありがとうございます」
 母親もまた笑顔を見せた。取り囲む人々も表情をやわらげる。子どもたちは口々にティーアに問いを投げかけて、彼女を囲む賑やかな輪となって公園の中に入る。父親や母親たちも後を追った。
 彼らはふと振り返り、付いてこないカリアラとピィスに気づく。ピィスが何か言いたげに兵士の方を目で示すと、兵士は批難を受ける前にと口を開いた。
「……入ってもいいだろう。ただしあまり人目に触れるな、気づかれないようできるだけ隅にいろ。ここで混乱が起きたら目も当てられないからな」
「そうか」
 カリアラは相手の言葉をしっかりと受け止めて、並ぶ柵に体を添わせて公園の中に入った。人と目を合わさないよう、這いつくばる格好で外側を向いて歩いていく。奇妙なその行動は何よりも目立っていた。
「嫌味じゃなくて真剣なんです」
 苦虫を噛み潰した顔の兵士にとりあえずの釈明をして、ピィスは無駄におかしなカリアラを止めるため、小走りに中へと向かった。


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