第6話「群れ」
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 坂を下りると街は木々の陰に隠れた。ピィスはカリアラに手を引かれて林の中を駆けていく。そのまま行けば、間もなく街に出るはずだった。裏付けるように、立ち木の奥から崩壊の音がする。近づくにつれて振動すら加わってきて、ピィスは足がすくむのを止められない。
 だが、カリアラは痛いほどに強く手を握り、前方へと導くようにピィスの体を引いていく。迷いのかけらもない動き。ピィスは人ではない何かに引きずられているような気がした。カリアラは、一言も喋らない。振り向きもせず前を見て走るだけだ。彼は背を向けたまま、まっすぐに街へと向かう。
 林を抜け、橋を渡り、小屋の並ぶ未整備の野道を行く。急いでいるはずなのに、随分と長い時間に感じられたのは何故だろうか。不安と恐怖の入り混じる中、ピィスはふわふわと頼りない場所を走っているような錯覚に囚われている。平らな地面を踏んでいるはずなのに、足首から先がまるで別の世界にあるようだ。踏み出す一歩がつまづいてしまいそうになる。その間にも、腕を引くカリアラの手はゆるめられることがない。
 甘さを見せない厳しい態度に腕は痛みを訴えるが、今は彼にすがりつかなければ走れなくなりそうだった。街からは体中に染みこむような崩壊の音がする。人の悲鳴がよりいっそう生々しく耳に届く。ピィスは手の痛みを胸に押し込み、しっかりとカリアラの手を握り返した。
 結果としてそれは正解だった。民家が並んで立ちはじめ、もうすぐ街の中心部が近づいてくるというころ。さびついた鐘を無茶に叩くような、耳障りな音がした。ピィスはたまらず叫んだし、カリアラもまた声を上げた、らしい。だがそれは聞こえなかった。互いの声すら掻き消えるほどの音量。頭上から降り湧くそれは、まるで空が一度に音を鳴らし始めたようだった。雷にも似た破裂音に、思わず二人が見上げた先には嫌というほど高い青空。だがその色は、すぐに真黒に染められた。どろりと視界全てを覆う、遠近感すら狂わす暗闇。
 カリアラが何かを叫ぶ。ピィスは手を強く引かれ、そのまま雑に抱きとめられた。
 やまない音の波の中では、逆に静寂すら感じた。カリアラの背後で、小さな家が闇に押されてゆっくりとひしゃげていく。ピィスはその光景を見つめながら、カリアラに押し倒された。彼の肩越しに、煉瓦と木々がなだれのようにこちらに迫ってくるのが見える。ピィスは思わず目を閉じた。
 頭を揺るがす衝撃と、いつまでもやまない崩落の音。
 死んだ、と思った。間違いなく今ここで死ぬと思った。悲しみが起こる前に事実だけが脳裏に浮かぶ。ああ、ここで終わりなのか。
 明確な痛みを感じたのはその後だ。足に鈍い重みがある。だが、それだけだ。他の部分に痛みはなく、ピィスは疑問を頭で転がす。息は苦しい。押し倒された時に打った背も痛い。しかし、それだけのような。
 はっとして目を開けたのと、カリアラが瓦礫を背に身を起こしたのは、どうやら同時のようだった。がらがらと無造作な音を立てて、カリアラは平然と身に降りかかった残骸を押しのけている。煉瓦に柱に漆喰の壁。カリアラは当たり前のようにそれらを払い、ふとピィスを見て足をどけた。被さって彼女の体を庇う間、足を踏みつけていたのだ。カリアラは申し訳なさそうに言う。
「ごめんな。大丈夫か?」
 その声があまりにもいつも通りだったので、ピィスはその場にとろけそうになる。
「だ、だ、だ」
 大丈夫ってお前いま建物の下敷きになってたんじゃ。心の底からそう言いたいが、あいにくと力がうまく入らないのは口も同じのようだった。ピィスはカリアラを見回すが傷らしきものはなく、彼は平然とした様子のまま服の汚れを払っている。
 だが、その顔が瞬時に引き締まった。彼は敵意に満ちた視線をピィスの背後に投げかける。
「……あれだ」
 警戒する声で言うと、カリアラはまるで沫を吐くように、こほ、と一つ息を吐いた。
 振り向いた先にあるものを、ただ一言で表すのなら『夜』としか言えなかった。やや開けた道の角に、唐突な夜が訪れている。薄く透ける黒い物体。その輪郭はどろどろと定まらないまま波のように揺れている。天辺は見上げれば首が痛くなるほど高くにあり、なだらかに下りた体はどこか丸みを帯びていた。
 街を崩した破壊の敵が、あと数歩で触れられるほど近くに無言で立っている。
 ピィスが悲鳴をあげて下がると、カリアラはその前に立った。
 闇に鮮やかな切れ目が生まれる。横一線に引かれたそれは、赤く大きな口になった。
 轟音。聴覚を壊すほどのそれが、口が開かれたのを機に闇の奥から放たれる。カリアラはびくりと固まった。巨大な口には鋭いキバが並んでいる。その上のあたりに、ぞわりとした毛並みのようなものが見えた。それがかすかに震えたかと思うと、肉が盛り上がる動きで隠されていたものが現れる。ぎらりと輝く金の瞳。不気味なそれが二人を見下ろす。
 さざなみのように揺れていた輪郭が、ゆっくりと動きはじめた。ゆらめきをとめて必要な箇所に集まっていく。無造作に広がっていた暗闇は、脚を作り顔を作り、長く伸びた胴を生みだす。脚の先には爪があった。胴の終わりに細く長い尾があった。頭の上に、大きな二つの耳が生まれる。
 カリアラは呆然と見上げて呟く。
「猫だ」
 言葉の通り、街を破壊したそれは、あまりに巨大な黒猫だった。
 形が確認できなければ、まず猫だなんて馬鹿なことは考えもしなかっただろう。だがその耳が屋根と同じ高さで揺れていても、胴が家を二つは楽に飲み込んでしまう長さでも、しんと立つたたずまいはまさしく猫のそれだった。カリアラは息を失う。ピィスも彼にしがみつく。
 牙を生やした口が開かれた。頭を壊してしまいそうな音の波が空気をゆさぶる。咆哮のようなそれを奏で終わると、猫はぐにゃりと胴をねじり、全身をひねらせた。闇と化した体の中には小さな光が浮かんでいる。十、二十、いやそれよりも大量に。猫は慣性にまかせるがまま、ぐるりと胴を振り戻した。
 小さな光が流星のように闇を飛び、別の光と衝突する。かつ、かつ、かつ、と石たちのぶつかる音。弾かれた動きから見て、光は猫の体にぶら下がっているらしかった。だがピィスがその意味を求める間もなく、逆らいようのない風が吹く。ピィスたちの背から猫に向けて。いや、引き寄せられたのだ。空気がすべて、猫の体に。
 風はもはや嵐の最中の勢いで、二人を猫へ飛ばそうとする。ピィスもカリアラもそれぞれに建物の残りに取りついた。壊れた煉瓦が宙に浮き猫の中へと消えていく。尋常なものではない、自然の風ではありえない。だが抗議する余裕も持たさず、風は二人を猫の体に吸い寄せる。ピィスは必死に柱の残りに組みつくが、足は地を掻いていた。カリアラもまた瓦礫を掴み、懸命に耐えている。
 耳元でうなりあげる風の音よりまだ鮮明に、猫の口から雄たけびが放たれた。それは威嚇の声にも聞こえた。いたぶるようにも、勝ち誇るようにも。どれにせよ、本物の猫の鳴き声とは程遠いおぞましさ。
「ピィス、大丈夫か!?」
 猫の声に紛れてカリアラの声が聞こえる。だがピィスは顔を向けることができない。明らかな体の異常が彼女を恐怖に沈めていた。風が体を舐めるごとにざあと血の気が引いていく。まるで氷を背負っているかのような悪寒が全身を蝕んでいる。柱を掴む手がかじかむ。しがみつくのも難しいほど体の震えが止まらない。力がなくなっていく。
 懸命な動きも虚しくピィスの手が柱を離れかけた、その時。
 灰色の塊が四つ、猫の頭に跳びついた。
 琴線を砕いたような不協和音。風が止んだ。猫の体がどうと倒れるのが見えた。ピィスはその場に崩れ落ちる。カリアラが駆け寄って腕を引く。
「逃げるぞ! ピィス、ピィス起きろ」
 だが意識はあるが体がまったく動かない。ピィスはまぶたを開閉することすらままならず、くちびるさえも動かせなかった。止まらない異常な震えが歯をがたがたと鳴らしている。
「どうしたんだ!? 早くしないとあいつが起きる、逃げるぞ!」
 カリアラは彼女の上半身を起こしてくれるが、ピィスは彼を見返すことすらできなかった。カリアラの必死の声が響く中、動かせない目線の先で、猫が巨体を起こし始める。
「ピィス!」
 叫びと共に、上半身を引きずられた瞬間。もう一度、同じ塊が起きかけた猫の頭を組み伏せた。
 今度はその形までよく見えた。動物だ。灰色の、大型犬が三匹。
「起きんじゃねーよクソ猫が」
 低く、怒りに満ちた声。カリアラはそちらを見るが、ピィスは振り向かずとも声の主を知っていた。――魔術技師の道具屋をやっている、コウエンだ。
「ピィス! 魚!! 今のうちだ!」
 コウエンの声はより街に近い方からした。猫に組みつく犬型細工は、魔力を失い即座に木のくずへと戻る。犬たちは頭を浮かせた猫によって、ごみのように振り落とされた。コウエンが憎々しげに舌を打つ。
 カリアラはなんとかピィスを立たせようと声をかける。だが本当に動かないと知ると、彼は彼女の体を肩に担いだ。あまりにも不安定な姿勢にピィスは両手を迷わせるが、カリアラは今にもずり落ちそうな格好のまま、コウエンの方へと走る。ピィスは煽ぐようにバタバタと体を揺らされて意味不明の叫びをあげた。抗議したいが声が上手く出てこない。結局はカリアラに何も言うことができないままコウエンと合流し、そのまま狭い横道に運び込まれた。
「こっちだ! とにかく逃げるぞ!!」
 先導するコウエンは、頭から大きな布を被っている。走るたびに白いそれがはためいた。
 黒猫からとにかく遠くに逃げようと、全力で道を駆けていく。ピィスはなんとか自由が効きはじめた腕でカリアラの背にしがみついた。そうしなければ、間違いなく振り落とされるか壁などに頭をぶつける。かろうじて足を支えられてはいるものの、いつ吹きとばされてもおかしくない状態だった。
「馬鹿かおめぇちゃんと持て!」
「え!? なにがだ!?」
 コウエンが叱責しても、カリアラはわけがわからず大声で聞きかえすだけ。ピィスはとにかく早く避難が完了しますように、そしてこのバカ魚を殴ることが出来ますようにと祈りながら耐え忍んだ。


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