第6話「群れ」
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「……笑うなよ」
 サフィギシルは呟いた。感情を押し殺した声に、シラは思わず振り返る。
 目を見開いたのは、彼が泣きそうな顔をしていたからだ。哀しげに歪められた瞳は、それでも真剣にシラを見据えている。恐怖心など捨てた表情。シラの笑みがわずかにこわばる。
「腹が立つなら素直に怒れよ。怒鳴れよ、叫べよ。そうすればまだ少しは楽になる。なあ、もう笑うな。そんな苦しい顔をするな」
 盾となる微笑みを彼の言葉がなでていく。もう、そんなことはやめてしまえと熱い声で訴える。乗り出したサフィギシルの姿勢は、まっすぐな彼の熱意を実直に伝えてくれた。カリアラのものとは違い、ためらいや緊張に声をうわずらせてはいるけれど、それでも確かな彼の意志がシラの元に届いている。
「俺の前で泣くのが嫌ならあっちに行くよ。聞こえないよう耳もふさぐ。だから、もう、そんな顔するなよ……。苦しいだろ? 無理して、我慢して、抑えこむのはつらいだろ?」
 一言一言吐き出していく彼のほうが、よほどつらそうに見えた。
「そうしてると、すごく苦しくならないか?」
 シラは微笑みをやめない。サフィギシルは言葉の尽きてしまった顔を、絶望に崩した。うつむく彼を見下ろすシラは、ひとつの事実に気がついている。
 どうして、彼を見ていると、焦燥にも似た苛立ちがじりじりと胸を焼くのか。それは、わかってしまえば馬鹿らしいほどに簡単な答えだった。
 自分と同じだったからだ。大きな不安を抱えているのに人に頼ることができず、胸のうちに押さえ込む。苦しみの末に進むことができなくなり、立ちつくしてはしゃがみこむ。うつむいて、目をそらして。時おり外に出ようともがいてみても、またすぐに打ちのめされて、内へと沈み込んでしまう。
 シラは笑い出したい気持ちになった。目の前で落ち込む彼が、自分と同じものに見えた。
 苦しみを独りで抱えている。進むべき道はわかっているのに足が動かず、自分の弱さを晒すことができないために、誰かに手を借りることもできない。他のものを恨むことができないのはすべてが自業自得だからだ。憎しみは常に己に戻る。そうしてまた何度でも不甲斐なさに苦しむのだ。その悪循環を内に抱えているからこそ、シラはサフィギシルを見るたびに息が止まる思いがした。サフィギシルもまた、きっと同じ。
 シラの盾は微笑みだった。では彼は、あの小さな作業室が唯一の防壁だったのだろう。逃げこんで、隠れ通して、捨ててしまえと忠告する言葉にすら怖れを感じて閉じこもる。本当はそんな風にしたくはないのだ。こんな自分が嫌で嫌でしかたがなくて、それでも盾を捨てられなくて、行き詰るがままに体を丸める。嫌いだ。本当に、そんな自分が大嫌いだ。
 だからそれと同じ相手に嫌悪感を抱くのだ。
 苦しみにもがく姿の奥に、自分の脆い部分を重ねて。
 シラは知らずと呟いていた。
「つらいの?」
 上げられたサフィギシルの顔は、泣きそうに歪んでいる。
「……つらいよ。なんで俺がつらいんだよ、おかしいよ。でもあんたがそうやって、無理に笑っているのを見るのがつらい。わけわかんないよ。なんで、俺、こんな……今まではこんなことなかったのに」
 それは彼が彼女のことを知ってしまったからだろうか。
 それとも、カリアラの話を聞いた時点で何かが変わってしまったのか。
 椅子の上で膝を抱く彼の姿は、随分と幼く見えた。初めての感情に戸惑う子どもは床板を見つめて呟く。
「俺は昨日、あいつに『ありがとう』って言われた。その時、泣きそうになってるのに顔が勝手に笑ったんだ。……嬉しかったから。本当に嬉しかったから、笑いたくもなかったのにそうなったんだ。でも、あんたのはそれとは違うんだろう? 本当に、嬉しくて嬉しくて笑ってるんじゃないんだろう?」
 最後の言葉は彼女へとまっすぐに向けられた。肯定を求める目。
 こわばった微笑みに、真剣なサフィギシルの言葉が食いついていく。
「それは、嫌なやつに教え込まれた微笑みなんだよな。あんたはそんな風にだけはなりたくなかったんじゃないのか。優しくて、きれいなだけの飾りにはなりたくなかったんじゃないのか」
 そう。“飾り”として見られることは何よりも嫌だった。
 今回のことにしてもそうだ。平穏な生活を壊された上、飾りとして使うために陸の上まで連れてこられた。人魚は美しい幻想の生き物だ、おとぎばなしのようじゃないか。そんな馬鹿な夢見ごとを語る者にさらわれたのだ。だからシラは微笑み続けた。
 ――お望みどおり、美しい笑みを見せてあげる。優しくて暖かくて美しい、あなたたちが何よりも望む笑顔を。言葉の要らない最高の微笑みを。
 だが、それは人を狩るための道具にすぎない。花の美しさが雄を得るためにあるように、この笑顔は人を喰うためにある。騙されて恐怖を味わい、そのまま喰われてしまえばいい。そう考えて戦ってきた。
 サフィギシルは彼女の矛盾を突きつめる。
「飾りじゃなくて、同じ生き物として見てもらいたかったんだろ? 人間の仲間になりたかったんだろ? じゃあなんでそんな風にするんだ。嬉しくもないのにずっとにこにこ笑うだけなんて、そんなのは生き物じゃない。それじゃただの作り物だ。あんたの嫌いな“飾り物”の剥製と同じじゃないか!」
 一瞬、微笑みの壁が崩れた。素顔となってしまったシラは、すぐさま彼に背を向ける。笑い方を思い出そうとしているのに、どうしてだろうか顔が元に戻ってくれない。だめ、はやく。そう焦りながら平静を求める彼女に、サフィギシルは強く告げた。
「笑うなよ」
 呑み込んだのは息だろうか。それとも、決壊を目前にしたおそろしさか。シラはくちびるを一筋の線にして、こみあがるものを堪えた。意地を張る幼い顔になっていると、彼女自身も気づいている。だからこそ、サフィギシルを向くことができない。
「泣けよ」
「泣きません」
 シラは背を向けたまま、震える拳を握りしめた。
「あなたなんかの前で絶対に泣くもんですか!」
 ぽた、と手の甲を生ぬるい水が打つ。一筋をとどめきれなくなった口が、暴れるように震えていく。次々と落ちる涙を止める手段はない。頬が、喉が、流れるしずくに濡れていく。
 壁が、崩れた。後は一歩を踏み出すだけだ。崩れ落ちた瓦礫の外へと歩むだけ。
 サフィギシルは思いを引き寄せるように言う。
「俺は剥製なんかいらない。偽物の笑顔なんて見たくないんだ」
 肩を揺らした彼女に向けて、サフィギシルはさらに続ける。
「俺はあんたの本当の笑顔が見たい」
 真摯な声が降りかかる。
「嬉しいとき、一緒になって笑いたい」
 見えない手が差し出されたようだった。シラはその言葉に導かれて、ゆっくりと顔を上げる。もうこれで終わりになると彼女自身が感じていた。そして、まっすぐな目で待っているであろうサフィギシルへと、シラが振り向きかけた瞬間。
 軋む音と共に部屋が揺らいだ。壁が窓が柱が急に揺さぶられる音を立てる。
「ラーズイース?」
 サフィギシルは天井を仰いだ。この家に棲む従順な意識体は、建物と中の主を守るよう、急激に封印の濃度を上げている。魔力が景色をほのかに照らして異常事態を二人に伝えた。シラも、サフィギシルもわけがわからず呆然とそれを眺める。
「どうしたんだ」
 呟きに答えるように、部屋の空気がひどく震えた。

※ ※ ※

「……何だよ、あれ」
 街を一望する丘の上、立ち尽くしたピィスが呟く。
 まるで、唐突な夜が訪れたかのようだった。目に見える街の一部が暗闇に覆われている。ピィスは思わず空を仰ぐが、青空に浮かぶ太陽は午後の位置を維持している。それなのに、細やかな粒と化した家々は黒く塗りつぶされているのだ。いや、目を凝らせば闇の中はうっすらと透けていた。葬列に飾るベールを何重にも被せたかのような、奇妙な塊。
 カリアラも異変に気づいたのだろう。坂から落ちかねないほどに身を乗り出して、凝視している。二人分の視線の先で、黒い塊は建物を三つ四つ覆ったまま風に揺るがされていたが、突如摘み上げられたかのように収縮すると、家を潰した。
「なっ」
 ピィスがカリアラの腕を掴む。今見たものは幻かと尋ねるように見上げるが、カリアラは街から目を離さない。闇は、形こそ違えど巨大な手のように見えた。這うように忍び寄り、建物を包み込んでゆっくりと握り潰す。絡め取られた残骸が、轟音の後にはらはらと地に落とされる。遠くから悲鳴が聞こえた。よりきつく目を凝らせば、人々が叫びながら逃げていく姿が見える。何の冗談でもないと知ったピィスが声を呑んだ。
「どうしたんだ!? どうなってんだ!」
 カリアラがおろおろとして訊いてくるが答えが知れるはずもない。ピィスはただ色の失せた顔で彼を見返す。なんで、なんで、なんで。ふるえる口はただそればかりを繰り返した。恐怖の言葉は声にもならず、彼女の力を奪っていく。
 その間にも、闇色の塊はどろのように不完全な形をもって、流れるように街を飲む。取り込まれた家はまるで紙のように潰れた。建物が材木と化した後で、遅まきながら破壊の音がこの丘の上まで伝わる。きれぎれに届く絶叫がピィスの胸を切り裂いていく。
 腹を揺さぶる轟音がした。川の近くで一番大きな建物が、無残に崩れ落ちたのだ。かつて外国風としてもてはやされた赤い煉瓦が、まるで砂利でもこぼしたかのように煙にまみれて落ちていく。
「なんだ、何があったんだ!!」
 ピィスはただ首を振った。わからない。一体何が起こったのか、何なのかもわからない。
 ただはっきりと理解しているのは。嫌でも意識させられるのは。
「このままじゃ……みんな」
 遠く離れた街の景色を土煙と闇が覆う。容赦なく進む破壊は着実に被害を広げていく。
 ピィスはその場にへたり込んだ。
「みんな、死んじゃ……」
 続きはあふれた涙にのまれる。今さらながらに体中が震えはじめた。心配したカリアラがしゃがんで覗き込んでくるが、その顔すら見つめられない。頭の中を占めるのはただひとつの言葉だけ。どうしよう、どうしよう、どうしよう。このままでは街が壊される。みんなが殺されてしまう。
 体温と共にたくさんのものが去っていくような気がした。逸らせない視線の先では崩壊が続いている。人の悲鳴が耳に届く。どうしよう、どうしよう、どうしよう。腰が抜けて立ち上がれない。自分には何もできない。また、また何もできないままに大切なものが消えてしまう。
 カリアラが、すっと立った。
 彼はそのまま街に向かって走り出す。
「馬鹿!」
 ピィスはそれをとっさに止めた。服を掴んですがりつく。
「何考えてんだよ! 行ってもただやられるだけだろ!」
 カリアラは真剣な顔で叫んだ。
「このままじゃみんな死ぬんだろ!?」
 殴られたような気がした。ゆるんだ手を振り払い、カリアラは背を向けてまっすぐに街へと向かう。得体の知れない闇の暴れる破壊の場所へ。街を、人々を助けるために。
 ピィスはまたへたり込んだ。振り向きもしないカリアラの背がどんどん遠ざかっていく。彼は、自らの足で死の場所へと向かっている。いつか“彼”がそうしたように、自分を置いていってしまう。
 もはや座っていることもままならず、ピィスは震えに身を任せて泣いた。嗚咽はない。ただ静かな恐怖だけが、涙と共にこぼれていく。もういやだ。もう、こんな思いをするのは。死に行く母を見ていることしかできなかったように、前のサフィギシルやビジスを失ってしまった時のように、何もできないまま誰かを失うのは、もう、いやだ。
「カリアラ!!」
 衝動のままに叫ぶと、カリアラは足を止めた。
 振り向いた彼は驚いた顔をしている。
「何やってんだ!」
 カリアラは慌てて戻ると、ピィスに手を差し出した。
「行くぞ。お前が要る」
 確かな声。それ以外に何があるのかと言うような。
 ピィスは呆然と彼を見上げた。真剣な目は、いつものようにまっすぐに彼女を見つめている。そこに嘘や偽りはない。畏れも迷いも存在しない、ただ前だけを見据える眼。
 ピィスは衝動に突き動かされるように手を渡した。カリアラが、それを握る。
「大丈夫。おれが守る」
 ピィスは引き上げられるがままに立つ。繋いだ手から彼の力が伝わってきて、負けるものかとさらに強く握り返す。カリアラは街を襲う暗闇を睨みつけた。
「行くぞ」
 返答は声にならない。ピィスはぼろぼろと涙をこぼしながらうなずいて、共に丘を駆け下りた。

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