第6話「群れ」
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 制止を求めるピィスやリドーの叫び声を背に受けて、カリアラは振り向きもせずひた走る。見つめるのはただ一点、目標もひとつだけ。彼は他には目もくれず、全力でそこへと向かった。
 無茶な走りに関節が悲鳴にも似た音を立てる。かすかなそれは、耳元で切られていく風に混じった。ひときわ大きいピィスの声もその音に消えたころ、ぶれる視界に目標となる店が見えた。
 ――あそこだ。
 足を速める。大通りに差しかかり、警備兵が駆け寄るのを体当たりで突破する。驚いた顔の人々が次々に家の中へと逃げる。騒ぎが彼を避けるように両端へと引いていく。誰もいなくなればなるほど進む道しか見えなくなって、もう追ってくる人の声すら意識にまで届かない。何も聞こえない、目指す場所しか目に映らない。止まらない感情がカリアラを走らせる。
 あの時入った裏口は今は堅く塞がれていた。塗りこめた壁の白土すら隠すように、木の板が何重にも打ち重ねられている。ノブもなく開く手段が見つからず、カリアラは木板の重ねに飛び込んだ。全身をぶつけるが、板は音を立てただけ。それでも分厚い木戸のから悲鳴がした。家の中で物を倒してしまったのだろうか、がたがたという崩壊の音と恐怖の叫びが外まで届く。
 カリアラは目的の人物が中にいることを確信し、また木の板にその体を打ちつける。今度は軋む音がした。体にも鈍い痛みが起こるが彼は激情に動かされるまま、ただひたすらに体当たりを繰り返す。壁が揺らぎ、家が軋んだ音を立てる。木板が戸ごと大きくたわむ。カリアラは頭を肩を引き続き打ち込んだ。攻撃が一度終わるごとに中から悲鳴が聞こえてくる。
 誰かが強く肩を取って、制止らしき言葉をかけた。だがそれが何かを認識する余裕もないまま迷わず木板へ飛び込んだ。板に大きなひびが入り、内部の悲鳴が強くなる。やめろという怒声と共に体を掴む腕が増えたが、それすら共に引き込むように、歪んだ木戸へと一気に力を打ち込んだ。
 耳に明るい音が響いて閉鎖口は派手に砕け、カリアラは掴まる兵士を道連れにして部屋の中へと転がった。粉に煙る調肉場に、腰を抜かして震えている男が一人。以前ここで驚かせたのと同じ男。襲われたのだと騒ぎ立てた肉屋の主人だ。
 カリアラはその男を強く見つめた。――あれだ。
 いくつもの手が取り押さえようと絡んでくるが払い飛ばし、跳ねることで包囲を逃れて、悲鳴を上げる男に駆け寄る。恐怖のままに見開かれた目、青ざめた顔に歯を鳴らす口。
 カリアラは怯えきった男の顔をまっすぐに見つめて叫んだ。

「ごめんなさい!!」

※ ※ ※

 誰もが呆然としていた。遠巻きに眺める人々も、遅れて着いたピィスやリドーも。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!」
 調肉場には壊れた木戸と、止めに入った兵士たちが転がっている。その散々な景色の中で、カリアラは呆然とする店主に向かって懸命に謝罪を続けた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!」
 戸を砕くのに無茶な力を出したせいか、その体はうっすらと銀のうろこを纏っている。カリアラは化け物じみた半魚の姿をとりながら、嘘のない真剣な顔で繰り返す。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!」
 彼は頭を下げることを知らない。形式的なしぐさを把握していない彼は、ただまっすぐに、店主の目を見つめて叫ぶ。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!」
 外から眺める住民たちは誰一人動けなかった。中にいる兵士たちも、ただ呆然と、謝り続ける“化け物”を見つめていた。立ち竦む人々と同じように、謝られている店主もまた身動きすら思い出せない。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!」
 カリアラは必死に謝る。一連の騒ぎの発端となった男に。自分が一番最初に迷惑をかけた相手に。
 彼は、あの時自分がこの店に飛び込んだのが、何もかもの元凶なのだと悟ったのだ。だから、発端となったその罪をつぐなうために、懸命に謝っている。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!」
 これからも街に来ることができるように。自分が、そしてシラやサフィギシルが彼らと暮らしていけるように、カリアラはただひたすらに謝った。曇りひとつない真剣な目で、まっすぐに店主をとらえて。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!」
 勢いは消える様子がない。カリアラは声量を落とすことなく、ひとときも目を逸らさずに謝り続ける。終わりの見えない謝罪の雨に、固まっていた店主の顔がゆっくりと弱まっていく。今にも声が枯れそうなほどに叫び続けるカリアラを、困った顔で見つめ返す。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめ……」
「もういい」
 店主はいたたまれなくなったように、彼の謝罪をやめさせた。
「わかった。もうわかったから……」
 カリアラは口を結んだ。へたり込み、ほのかに期待のともる顔で店主を見上げる。
 だが店主は疲れた様子で言った。
「だから、もうここには来ないでくれ」
 カリアラの動きがぴたりと止まる。
「襲いかかったことは許すよ。これ以上罪も問わない……だから、これで終わりだ。もう追わせたり、掴まえるよう頼んだり、訴えたりはしない。……だから、もう、ここには二度と来ないでくれ。どこか別の場所で、俺たちとは関係なく暮らしてくれ」
 そう言うと、店主は力なくうなだれた。
「そうしよう。お互いのためにも、それがいい」
 カリアラは、言葉もなく彼を見つめた。もがくように口を開き、何も言えないままに閉じる。あまりのことに白んでいくカリアラの頭には、もはやこれ以上するべきことが何ひとつ残っていない。カリアラはただ店主を見た。だが、いつまでそうしていても、店主の視線は床に打ち付けられたまま戻ってこないし、言葉が足されることもない。
 カリアラは呆然と周囲を見た。立ちつくす兵士たち。店の外で遠巻きにこちらを探る街の住民。誰もが、カリアラの視線から気まずげに顔をそむける。カリアラはどうしていいかわからなかった。答えを求めているのに、教えてくれる者が誰もいないのだ。
 ふらつく足で外に出るとピィスたちが待っていたが、彼女も、五つ子も、今にも泣きそうな顔できつく口を結んでいた。軽くつつくだけで嗚咽がこぼれ落ちそうで、カリアラは彼女たちに接することができない。かける言葉も見当たらない。
 どうすればいいのか。それが、どうしてもわからなかった。
 解決に繋がると思われることはすべてやり尽くしているのだ。これ以上は、もう。
 カリアラは頼りない足取りで道に出ると、ゆっくりと家の方へと歩きだした。
「カリアラ」
 ピィスが後をついてくる。彼女もまた口を開くが言葉が見つからないのだろう、息を食むように閉じ、触れようと伸ばした手を行き場のないまま元に戻した。
 人の気配はすべて後ろに引いている。目前の帰路に見えているのは、ただ薄白い街路だけ。背後に集まる人たちは死んだように静かだった。誰も喋らない。誰一人動かない。
 カリアラはどうすればいいのかわからないまま歩いていく。わからない、わからない、わからない。彼はただ家に帰るしかなかった。それ以外に、道はない。
 角をまがり、本格的に人の視線が途絶えたあたりで立ち止まる。心配そうに覗き込んできたピィスが言葉を失った。彼女は、カリアラの表情を見て泣きそうな顔をする。
「なんで笑うんだよ……!」
 カリアラは、ただ声もなく笑っていた。表情がうまく定まらないままぐにゃぐにゃと歪んでいく。それでも彼は、懸命に笑顔を作った。
「わかんねえ」
 あふれてくる感情をどう処理すればいいのかわからなくて、今するべき表情がどうしても見つからなくて。困惑に眉を下げたまま、彼はただ笑っていた。ふらつくその背をピィスが掴む。
「笑うってのはそうじゃねえだろ!? 笑うってのは、嬉しい時に、嬉しくて嬉しくてしょうがねえ時に勝手にそうなるもんなんだよ! ……違うだろ、そんなのは違うだろ!」
 喋るうちに涙が次々あふれだして、途切れ途切れになりながら、彼女はそれでも声を上げる。
「お前は今嬉しいのか? 嫌でも顔が笑うぐらいに嬉しいのか? なあ!」
 涙をこぼしながら叫ぶと、ピィスは彼の背にしがみつき、大声をあげて泣いた。
「わかんねえ」
 カリアラはふるえる声で呟く。
「わかんねえ」
 泣き方を知らない彼は、ただ、笑った。


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第6話「群れ」