第6話「群れ」
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 繁華街から遠く離れているためか、目に映る住宅地は思いのほかに平穏だった。カリアラとピィスはカレンと共に、事件の起こった川岸や中心部を避けながら帰路を急ぐ。地図に示した危険な場所を大きく迂回しているために、サフィギシル宅への道程はいつも以上に長かった。
 アーレルでは中心部を離れるほどに、道が迷路のごとく複雑になる。細かな筋が互い違いに絡みあって、直線的な進行を執拗に阻むため、逃走経路は随分とまどろっこしい。当然、距離も膨れ上がる。道程の半分を越えたところでピィスとカレンの息は上がり、すでに足は走るというより早足にまで落ちていた。カリアラは魔力の消費も激しくないのか、表情を変えることなく定期的に足を動かす。言葉はない。彼はただ淡々と人の街を去ろうとしている。
 建ち並ぶ民家の外にはちらほらと人がいた。誰の様子にも日常しか見取れないということは、まだそれほど情報が行き渡っていないのだろうか。それとも、事件もおぼろには知っているが、現実的な問題として捉えきれていないのか。
 三人は人の目を気にしつつ、できるだけ目立たないよう気をつけながら足を進める。
「カレン、やっぱまだ駄目?」
 疲れきったピィスが訊くと、カレンは小さく首を振った。
「だめ。もう、さっきの転移が成功したのも奇跡みたいなもんなのよ? あんたの父親じゃあるまいし、ほいほい跳べる魔力も技術もありません」
 カレンが共に逃げているのは道案内の役目もあるが、どちらかと言えばその転移の術に期待をもたれたためだった。だが、まだ見習い術師である彼女にとって、連続での術の成功は難しい。
 本当は誰よりも隣を走りたそうな兄弟たちは、いざとなれば手助けができるように、後方や近くの道にばらけて周囲を守っている。危険なものが近づけば、すぐに知らせてくれるはずだ。
 二人組として覚えられているだろうから、カリアラとピィスは別々に逃げた方が安全という意見も出た。だがサフィギシル宅に入るためのタグは一枚だけで、そもそもカリアラは封印の解き方を知らない。結局は、五つ子たちに頼りながら素早く街を去るしかなかった。
「じゃあ、このまま走るしかないか」
 うんざりとしたピィスの言葉に、同じく疲労を隠しもしないカレンのため息が続いた。
 カリアラは顔色一つ変えずに走る。その表情には悲しみも緊張も見て取れず、こわばりすら浮かばない。彼はまるで水を泳ぐ魚のそれと同じように、前だけを見つめて走る。五つ子の家を出てからずっと、一言も喋っていない。
 濡れ衣を着せられたあげくに追われ、憧れていたたくさんの“同種”のもとを自ら去らなければいけない。そんな現状をどう思って走っているのか、外側から眺めるだけではわからなかった。ピィスは時おり不安そうに彼を見るが、カリアラは眉一つ動かさず、彼女を見返すこともない。
 だがその動きが不自然に揺らぐ。カリアラが立ち止まったことに気づき、ピィスとカレンも緊張して足を止めた。しかし、すぐにその理由を知って警戒の姿勢を解く。ボールが転がってきたのだ。カリアラは不思議そうにそれに近づき、慎重に屈んで拾う。
 いいから急ごう、とピィスが声を出しかけた時。ボールの来た方向から声がした。目をやると、まだ小さな女の子が坂になった脇道を駆け下りてくる。
「ごめんなさい、なげて!」
 転がるように駆けてきた足を止め、女の子はカリアラに声をかける。カリアラがどうすればいいのか尋ねる顔をしているので、ピィスは女の子を指さした。
「ほら、投げてやれよ」
 そうは言ったが、カリアラがやり方を知るはずもない。ピィスは代わりに投げ戻そうと、ボールを取って女の子の方を向く。
 だが、そのまま石のように固まった。
 女の子の目が見開かれ、恐怖にこわばっていたのだ。見つめているのはカリアラとピィスの二人。硬直した子どもの体がかたかたと震えはじめる。カリアラはぽかんとして子どもを見つめた。女の子はおぼつかない足取りで後じさる。小さな足がくぼみにぶつかり、尻餅をついてしまった。カリアラは慌てて駆け寄る。
「大丈夫か!?」
 近づいた彼を見て子どもは目を見開いた。
 甲高い、絶叫に近い悲鳴があたりに広く響きわたる。ピィスは驚いて硬直したカリアラの腕を掴み、どうするべきかとっさに周囲を見回した。人気はすぐ近くにはない。だが、遠くから驚いてこちらを見る大人がいる。状況を察したカレンが、大人たちに「なんでもない」としぐさで示すが、恐怖のままに泣き叫ぶ異常な声は誤魔化しきれるものではない。
「子ども、子ども、どうしたんだ!? 大丈夫か!?」
 カリアラはおろおろとうろたえて、へたり込む子どもに合わせて膝をつく。不安そうに泣き顔を覗き込むと子どもはますます泣きわめき、震える体で必死になって逃げようとする。ピィスはカリアラを子どもから引き剥がした。
「馬鹿! お前が怖いんだよ!」
 うろこを帯びて暴れる姿を近くで見ていたのだろうか。確かな理由はわからないが、とにかくこの女の子はカリアラをひどく恐れている。呆然と立ちすくんだカリアラの腕を引きつつ、ピィスは子どもをなんとかするか、逃げだすべきかと逡巡した。だがその思考はカリアラの声にさえぎられる。
「おれ、怖くない!」
 カリアラはピィスを逆に引き戻す勢いで子どもに向かい、必死に叫ぶ。
「おれ、怖くない! 怖くない!!」
 彼は同じ言葉を繰り返した。だが女の子は余計にひどく泣くばかり。
「怖くない! おれは怖くない!!」
 切実さを浮かべる顔が困ったように歪んでいく。どうしていいかわからないのだろう、顔つきの定まらないままピィスたちを振り返った。
「おれは……!」
「ティーア!」
 驚きを含む声が坂の上から投げられた。続いて多くの足音がばたばたと騒がしく近づく。どうした、なに、ないてるの。様々な声と共に、年齢も性別もばらばらな子どもたちが道の先に現れた。涙のまま振り向いた女の子を見て口々に騒ぎ始める。「どうしたの?」「大丈夫?」「なんで泣いてるの?」
「ティーア、転んだのか?」
 一声をあげた少年が、慌てて駆け下りてきた。だが、彼もまたカリアラを見て凍りつく。少年は痙攣をおこしたように引きつり、素早く後ろに引き下がった。警戒と怖れを隠しもしない顔で、女の子を背にかばう。
 察したピィスが止めるために動くよりも、カリアラが彼らに向かって手を伸ばすほうが早かった。
「来るな!」
 心配そうに伸ばされた手は、少年の声でびくりと跳ねる。
「来るな、来るなっ! また来たのか、今度はティーアを食いに来たのか!?」
 少年はカリアラを睨みつけて怒鳴る。カリアラは手を戻しそびれたまま、呆然と子どもたちを見た。二人の名前を呼びながら、他の子どもも一気に駆け下りてくる。それぞれがほうきや木の棒を持って、立ちつくすカリアラたちに向けて構えた。
「ジェイス、こいつが悪いんだな!?」
 他よりも頭一つ背の高い子どもが聞くと、ティーアをかばう少年は迷わずうなずく。
「うん、こいつだ! こいつが魚の化け物だ!」
「何言ってんだよ! カリアラが何したって言うんだ!」
 かっとなってピィスが身を乗り出すが、ジェイスと呼ばれた少年もまた同じように食いかかる。
「こいつがおれの父ちゃんを襲ったんだ!!」
 真剣な顔に負けてピィスは思わず口をつぐんだ。少年はカリアラを指さして続ける。
「ティーアもおれも見てたんだ! こいつ、うちの店に入って父ちゃんを食おうとした! お前……お前も見た! こいつと一緒に逃げただろ!」
 ピィスもまた同じように示されて、驚きのまま改めて少年を見た。
「まさかお前、肉屋の……」
「何をしている!」
 聞き覚えのある鋭い声が言葉をさえぎる。
「リドー!」
 ピィスは忌々しげに舌を打った。よりによってと吐き捨てる。今一番会いたくない人物だ。何体もの『違反作品』を掴まえてきた彼が、厳しい顔で近づいてくる。配属が変わったため、着ているのは市街警備の格好ではなく王城警備の制服だった。だがそれで中身が変わるはずもない。
「隊長! こいつだよ、こいつが悪いやつなんだ!」
 子どもたちは素早くリドーの後ろに回り、口々に訴えた。小さなお子さま警備隊は、しっかりと自分たちの隊長の背に隠れながらカリアラを指す。
「こいつが父ちゃんを食おうとしたんだ! またみんなを襲うつもりなんだ!!」
「信じるなよリドー! こいつに悪気はないんだよ!」
 ウソだ、ウソだと騒ぐ子どもたちを睨みながら、ピィスは必死に食い下がる。
「何もしてないんだ。こいつ、ただ転がったボールを拾っただけで、別に何もしてないんだよ。なのにそいつらが勝手に怖がって騒ぎだして! こいつは絶対に危害加えたりしねーよ、全然何もしてねーんだよ!」
「じゃあどうしてこんなに怯えているんだ」
 リドーの声はおそろしく静かだった。ピィスはぎくりとして言葉を失う。リドーは何かをこらえるように、ぎりと歯を噛みしめていた。睨む目に複雑な色。彼はかばう子どもたちとカリアラとを交互に眺め、押し殺した声で言う。
「街の住民を襲ったのは誰だ」
「こいつじゃない! ピラニアとは関係ないって、魚に詳しい奴も言ってる!」
 カレンが強くうなずいた。それに励まされてピィスはさらに口を開く。これを機会に誤解を解こうと、懸命に説明をした。
「濡れ衣なんだ、カリアラは悪くないんだ。リドーからも言ってくれよ、何でこいつが追われなきゃいけねーんだよ。そんなことしてる間に真犯人を探すべきだろ? なあ、簡単に暴走するようなそこらの『作品』とは違うんだ、全然問題ないんだよ。……誰が作ったとかは言えないけど、だけど」
「お前たちの事情はわかっている!」
 リドーはそれを打ち消すように怒鳴った。憤りを隠そうともせずピィスに顔を近づけて、他の者には聞こえないよう押し殺した声で叫ぶ。
「だがどうやって説明する!? サフィギシルに関しては緘口令が引かれているんだ!」
「なんで知って……」
 ピィスは驚いてリドーを見た。そして彼の顔に浮かぶのが、ただの怒りの表情ではないと気づく。噛みしめた口、寄せられた眉間と歪む目つき。どうにもならない不甲斐なさを憎む顔だ。
 言葉を失うピィスを無視し、リドーはカリアラにだけ聞こえるように耳打ちした。
「……緘口令のせいで、城での一件が余計に広まっている。“あれ”の仕業は閉言の術をかけられて口にできない。だからその分被害者はお前のことを吹聴する。随分と誇張してだ。“あれ”のしたこともすべてお前のせいにされている。わかるか。杖で殴り、化け物を引き連れて兵を全滅させたことまで、お前のしわざになっているんだ」
 距離を置いた顔には、憐れみと悔しさがくっきりと見て取れた。
「街の住民は完全に人喰い魚を敵として見ている。噂と間違った情報は今も膨れ上がっている……止める手段がない」
 リドーはきつく歯噛みする。言葉を、喉の奥からしぼり出す。
「無駄に着せられた罪はなんとかしたい。こんな風に、してもいないことの被害を押しつけるのは不本意だ。だが今はどうにもならない。俺にはどうすることもできない」
 悔しさに歪む目が、カリアラを見て、ピィスに向かう。
「ピィスの方はなんとか上を説得することができた。罪はない。これまで通り、問題なくここに来れる。……だが、お前の方は無理だった」
 リドーはしっかりとカリアラを見て言い聞かせた。
「もうこの街には来るな」
 カリアラの目が大きく揺れる。どうしていいかわからない顔で、リドーやピィスやカレンを見つめた。何か言おうと開いた口は、言葉を見つけることができず、ぱくぱくと動くばかり。何も言えない彼の代わりにピィスが非難を訴えた。
「そんな、カリアラは悪くねーのに!」
「じゃあどうして肉屋を襲った!」
 リドーは苛立ちに押されるように早口でまくし立てる。
「“あれ”が作ったから安全か? ビジス・ガートンの息がかかれば安全か!? それならどうして暴走した。どうして理性を失ったまま街で暴れた!」
「それは……」
「理由があろうが暴走は暴走だ。実際に被害報告が出ている。飛び込まれた店の主人は、こいつを恐れて夜も眠れず憔悴しているそうだ。やせ細る彼を、子どもがどんなに心配していると思う?」
 背後に集まる子どもの一人がカリアラを睨んでいた。泣きそうな表情で、怯えながらも憎しみと恨みを伝える。
「目の前で“うろこの化け物”を見た子どもがどれだけお前を怖がっているかわかるか? 食事も進まず、あの道に近寄れなくなるほどだ。お前はそれだけ人の心に傷を残した。これは見過ごせる状態か!?」
 ボールの女の子は泣きながら他の子にしがみついていた。カリアラを見ないように向けた背が震えている。他の子どもたちも女の子を守るように、いざとなれば戦えるよう武器を手に敵意を見せる。
「一度暴走してしまったものをどうやって取り消せる? まったくの無実じゃないんだ。またそうならないと本当に断言できるのか!?」
 リドーは真剣な顔でカリアラを責め立てた。
「危険生物を自律に任せて野放しにするなど、本来ならありえない! 常に術者が制御して操っているのならわかる。それなら術者の腕によっては問題ない。だがお前の場合はどうだ。危険な生き物を凶行のできる体に変えて、放し飼いだ。またいつ暴走して被害が出るかわからない。そんな奴をこれ以上放っておけるか!」
 ピィスは何も言えなくなった。彼女は反論の余地を探すようにリドーを睨みつけていたが、結局は一言も口にすることができない。それを見たカリアラは、視線を周囲に巡らせる。うつむいたピィスの頭、同じようにつらそうな顔をしているカレン、ここからすぐに出て行けと言いたげなリドーの目つき。そして、自分を怖れて身を寄せ合う子どものかたまり。
 ひとかけらも混じり合うことのできない拒絶がそこにあった。
 カリアラは首を振る。川の中と同じ完全な孤立の状況。何度も経験してきたものと同じ光景に呆然として、ひたすらに首を振る。
「おれ、怖くない。何もしない。おれ、怖くない」
 少しずつ子どもの方に向かいながら、首を振る。表情の変化すらままならないまま繰り返す。力がうまく入らないのか、足取りは頼りなく体をゆらす。
「怖くない。怖くないんだ。おれは、おれは……」
 遠い場所から縋るように伸ばす手に、女の子が悲鳴を上げた。
「いやあっ、食べないで!!」
 手はびくりと動きを止める。カリアラは悲痛に叫ぶ。
「おれはもう子どもを食わない!!」
「……『もう』?」
 疑惑を含んだリドーの声は、おそろしく冷たく響いた。
「前に食ったことがあるのか」
 カリアラはびくりとしてリドーを見る。怯えるように一歩下がった。リドーはその分距離を詰める。
「お前は子どもを食ったのか!」
 カリアラは立ちつくしたまま言葉を失い、声もなく口を動かした。リドーの言葉に子どもたちが悲鳴をあげる。恐怖に震えて逃げようとする。
「やっぱり悪いやつだ! おれたちを食うつもりなんだ!」
 カリアラは必死に首を振る。だが子どもたちはそんな動きは見ていない、信用するはずもない。
「ちがっ……違うんだ、違うんだよ!!」
 ピィスが落ち着かせようと声をあげるが、騒がしさは混乱を煽るばかり。年少の子が泣き叫ぶ。その場はたちまち恐慌のるつぼと化した。肉屋の子どもがまた叫ぶ。
「隊長、やっつけてよ! みんなこいつに食われちゃうよ、父ちゃんも食われかけたんだ!!」
「違うって言ってんだろ!」
「ピィス!」
 子どもに掴みかかりそうになったピィスをリドーが止めた。カレンもまた止めようと慌てて駆け寄る。リドーは彼女を子どもから引きはがそうとするが、体格が小さい割に力が強くてうまくいかない。ピィスは何度も騒ぎ立てた肉屋の子どもを怒鳴りつける。
「父ちゃん父ちゃんうるせえよ! そもそもお前の親父が騒いだのが原因だろ! 全部そのせいじゃねーか!!」
 立ちつくしていたカリアラが、ぴく、と反応した。大騒ぎのかたまりを見開いた目でじっと見つめる。
 誰にも聞きとめられないほどにかすかな声で呟いた。

 原因。ぜんぶ。“あれ”が。

 彼はきつく口を結んだ。真剣な目であらぬ方を見渡して、遠くに何かを見つけたように、巡らす視線をぴたりと止める。そして、じっと見つめる。そことこことを繋げるように、そのまま、足元の道に目を落とす。
 そして踵を返して駆け出した。
「……カリアラ? おい!」
 気づいたピィスが声をかけるが彼は振り向くことすらしない。リドーが来た方向へとひたすらに走っていく。その背はみるみるうちに消えた。
「カリアラ!」
 ピィスは慌てて後を追う。リドーもまた走りだし、カリアラの行く先を見て叫んだ。
「『白の道』の方に行った!」
 それを聞いてピィスの顔から血の気が引いた。まさか、と口の奥で呟くと、その疑惑を高めるようにリドーが憎く吐き捨てる。
「あっちにはあの肉屋がある。逆恨みで仕返しする気か!」
 まさか、まさか、まさか。ピィスはそう言いたげに口を開くが、否定の言葉は出てこない。願いながらただカリアラの後を追う。
 カレンがどこかで兄弟と話しているのが聞こえる。口早にあせる会話が、後方で響いていた。


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