第6話「群れ」
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「私は、人間に育てられました」
 口にすると苦いものが広がった。身を絞るような後悔に襲われながらも、シラは早口に言葉を繋ぐ。
「どんなきっかけだったのかは覚えていません。ただ、気がつけば私はそこにいた。その大きな水槽の中にいたんです」
 取り返しはつかなくなった。もう逃げることはできない。それならば走り続けなければならない。少しでも足を竦ませてはいけない。
「海よりは狭いと感じていた覚えがあるので、生まれは海だったのでしょう。でもその頃のことは詳しくは覚えていません。同種の人魚の記憶もなく、私が覚えていたのはただ人間のことばかり」
 口を止めれば動けなくなるような気がした。一瞬でもサフィギシルの反応を見てしまえば何も言えなくなりそうで、シラはうつむいた床に向けて独り言のように語る。質問の一つすらはさむ間を与えないよう、区切りなく話し続ける。
「まだ幼い時のことです。物心がつくころには、私はすでに彼らと共に生活していた。彼らが何をしていたのか、よくはわかりませんでした。人魚に関わる仕事ではなかったようです。研究のために育てているのではない。そう言われたのを覚えていますから」
 その場所の名を胸に浮かべ、一瞬、続けることをためらった。だが頭よりも先に足を踏みこむように、シラは確かな声で言う。
「ローティス研究所。そこが、私の育てられた場所でした」
 この名前を口にするのは本当に久しぶりで、長い間閉じ込めていた記憶すらも引き寄せられた。


 名前をあげよう、と彼らは言った。みんなで悩んで決めたんだよ。そう言って、ガラスの縁に身を乗り出した小さな人魚の前に並び、互いの肩をつつきあってお前が言えよと頬をゆるめた。
『シラフリア。シラフリア・ローティスだ。属名はここの名前にしたよ。ここに暮らす一員だから』
『いい名前だと思わないか? これが君の名前だよ。いつまでも“人魚さん”じゃつまらないだろう』
『今日から君は、シラフリアだ』
 一人、特に優しくしてくれる人がいた。彼はいつも親しげに名前を呼んで、暇さえあればいろんなことを教えてくれた。言葉を教え、本を読み、ボールや遊具で構ってくれる。
『なんだ、遊んで欲しいのか? ああもう跳ねるなって、水が飛ぶだろう。……そう、いい子だ。そうだな、じゃあ今日は何をしようか』
 遊んでくれる人は何人もいた。彼らはみな暇をみては、小さな人魚の遊び相手になってくれた。
『手があいたのか? じゃあシラと遊んでやってくれ。ほら、寂しがってるじゃないか。何言ってるんだ、最近は大分言葉も喋れるようになったんだ。なあ? ……ほら、お前を呼んでるよ。恥ずかしがらずに行ってやれ』
 子どもと遊ぶ趣味はない、と強情に近寄らなかった男でさえ、最後には笑いかけてくれるようになった。今までは見向きもしなかったのに、不器用な態度のままことあるごとに話しかけてくる。
『……いや、俺は別にお前と仲良くしようとか、そういう……そ、そんな顔するなよ。なんだよもう、わかったよ、少しだけだぞ少しだけ。こら、水をかけるな!』
『はは、気に入られたようじゃないか。嬉しかったんだよな、シラ。君はとても頭がいい。すぐに喋れるようになるさ。これからもっといろんな話ができるといいな』
 そんな、優しい人たちだった。彼らのことが大好きだった。


「私は」
 シラはこみあがる涙を戸惑いながらも必死にこらえた。どうしよう、もう泣き出しそうだなんて。自分でも驚くほど簡単に涙が滲む。だめだ、だめだ、泣いてはいけない。そう必死に言い聞かせてなんとか口を動かした。
「私はただ彼らとたくさん話すために、人間の言葉を覚えました。ひとりは嫌だったから。何もない水槽の中でぼんやりと過ごすのには耐えられなくて、いつもいつもガラスの縁に身を乗り出して、仕事の合間に彼らが話してくれるのを待っていた」
 こんな気持ちになるはずではなかったのに。いつも心の片隅にある、人への恨みや憎しみばかりが湧きだすと思っていたのに。それなのにどうしてこんなに懐かしい、温かい想いばかりがあふれるのだろう。胸が締めつけられるように苦しいのはなぜだろう。
「彼らは、手があけばそれぞれに私の相手をしてくれました。まだつたない人間語で話す言葉を聞いてくれた。いろんなことを教えてくれた。海にいた生きものたちとは違う、くるくると変わる表情がとても楽しかった。私もそんな風にしたいと思ったから、たくさん彼らの真似をしました」
 何を言っているのだろう、何を話しているのだろう。こんなことを喋るつもりはなかったのに。こんなにも私情めいたことを話して一体何になるのだろう。これはただの思い出だ。もう、取り戻すことのできないものだ。口にして一体何になるのだろう。
 それでも語りは止まらなかった。今までずっとおさえてきたものがあふれだす。
「嬉しい時や楽しい時は声をあげて笑うことを覚えました。つらいときには、哀しい顔や苦しい顔をするのも一つ一つ覚えていったんです。そうすれば彼らと一緒になれるのだと思っていた。いつか、いつか私も同じ人間に」
 哀しい気持ちが弾けそうになり言いよどむ。だがすぐに震える口を動かした。
「人間になれるのだと思っていた」
 そうだ、ずっとそう願っていたのだ。忘れかけていた当時の願いが鮮やかに甦る。あまりに幼いおろかな思考が次々に思い出される。
「言葉を話せば、身振りを真似することができれば、そうすれば人間になれるのだと信じていた。今はまだ子どもだから足がないんだ、だから水の外には出られないんだ。そんな馬鹿な考えで、ただひたすらに大人になるのを待っていました。いつかきっと皆と同じになれるんだって。大きくなれば人間になれるんだって、そんな、そんな馬鹿なことを本気で信じて」
 そう、馬鹿なことだ。人間になどなれるはずがなかったのに、それなのにひたむきに大人になるのを待っていた。暇さえあれば自分の体に変化がないかを点検し、毎日のように人間の暦を数え、いつもいつも早く明日にならないか、早く明後日にならないかとはやる気持ちで過ごしていた。
 その行く先に、どんなことが待っているかもわからずに。
「もっと早く気がつけば良かったんです。若い彼らが私と仲良くするたびに、彼らの上司が苦い顔をしていることに。その後で一人一人を呼び出して、何か注意をしていることに。だんだんとその回数が増えていって、彼らの態度がぎこちなくなっていったことだけでも気がつけばよかったんです」
 今思い返せば何もかも合点がいく。だが、あのころにはわかるはずもなかったのだ。思い出した当時の自分の純粋さに腹が立つ。あまりにも無邪気だったあのころに舞い戻り、忠告することができればどんなにいいか。だがそれは願うだけ無駄なことだと苦しいまでに知っている。
「私の体が大人になっていくにつれて、それは顕著になりました。話しかけてくれる人はあからさまに少なくなって、私は施設の隅で、水槽の縁に掴まったままひとりぼっちで待っていました。つまらないからずっと不機嫌な顔でいた。だんだんと表情すら忘れかけていった」
 ぽつりと墨をたらしたように、感情に濁りがあらわれる。思い出は進むにつれて、少しずつだが確実に憎しみへと近づいていく。
「すると、今までずっと近寄らなかった研究所の所長さんが、私の傍に来て言ったんです。『そんな顔をしていちゃいけない。君は笑っているところが一番綺麗なんだから。みんなそれを待っているんだ』」
 闇へ闇へと足を落としていくように、声色すら低く変わり始めた。床に落とした視線の先には許しがたい過去の光景。その目にも、震える口にもひたりと憎悪がはりついている。
「私は、笑ったらみんながまた話しかけてくれるんだと信じて、笑顔を練習しはじめました。声を出して笑ってはいけない、口を大きくあけてはいけない。たびたび現れるようになった所長さんが一つ一つ教えてくれた。優しく、暖かく、美しい微笑みを」
 明るく笑ってはいけない。つまらなくても拗ねてはいけない。悲しくても泣くのはよしなさい。そんなものは誰も望んでいないんだ、わかるだろうシラフリア。そう、毎日言い聞かされた。君はその微笑みが一番うつくしいものなのだから、と。
「『君はその顔が一番綺麗だ。みんなもその表情が一番好きだよ』。何度も繰り返されました。そのころにはもう、以前に話しかけてくれた人たちは近寄ってこなかった。でも、私は馬鹿みたいにその言葉を信じて。ずっと微笑みながらみんなを待って……」
 それほどまでに彼らに心を許していたのだ。ただ無邪気に指示に従ったのだ。
 しばらくすると、初めて見る人間たちが少しずつ増えていった。見慣れない人員たちは、水槽の傍でよくわからない話をしては、たびたび水の中の自分を指さす。成長が、固定が、色の補正を。そんな単語が口早に交わされてはいたものの、彼らは決して微笑む人魚に話しかけてくれることはなかった。
 それでもただ微笑み続けた。張りついたままそれ以外の表情が出来なくなってしまったように。
「私はただあの人たちと一緒にいたくて」
 大好きだった人間たちとまた共に過ごしたかった。それが唯一の望みだった。
「一緒のものになりたくて、そればかり考えていて」
 他のことには目がいかず、周りで何が起こっているのか考えもしなかった。
「私は」
 どうして彼らが去っていったのか早く気づけばよかったのだ。
「私は、そんなものには」
 どうして大人になるまで待っていたのか、なぜ笑顔を望んだのか察することができればよかった。
「私は……」
 ただ人間になりたかっただけなのに。
「私は、剥製になんかなりたくなかった……!」
 絞りだした言葉と共に、やるせない怒りと恐怖が心を揺さぶる。
 あの日の水はとても奇妙な味がした。それでもただ微笑み続けた。優しく、綺麗に、美しく。気がつけば体が硬直して動けなくなっていた。指一本動かすのにも途方もない痛みが走る。それでも顔が苦悶に歪むことはなく、ただ暖かい微笑みを続けるばかり。表情も何もかも動かすことができなくて、浮かぶこともできなくなって、微笑みをはりつけたまま深いガラスの底に落ちた。
 水が抜かれる。肌にひやりと空気を感じる。さまざまな人の手が、黒い網が体を絡める。
 恐怖の中に沈んでいても微笑みは歪まない。くちびる一つ動かせず、まぶたを閉じることもできない。揺らぎもしない瞳の先にはいつものように笑う所長。
 ――綺麗に飾りたててあげよう。色あせた鱗には螺鈿をはめて、宝石で髪を飾り、美しい姿が永遠に続くようにしてあげよう。人魚は命をなくしても輝きを失わない生き物だそうだ。ガラスの箱に入れて飾ってくれるそうだよ。素晴らしいね、その綺麗な微笑みは永遠に人の心を潤すんだ。
 所長は囁くように言った。
「人間になどならなくても、これで永遠に人の傍にいられるよ」
 内臓も肉も骨も海に捨て、しなやかな皮の中に石膏を流し込む。その他の表情など必要ない。心も命も必要ない。ただ外側だけがあればいいのだ。

 裏切りだ。
 これは酷い裏切りなのだとその時になってようやく気づいた。

「……捕獲の薬で体が凍りついていても、香りの毒は出すことができました」
 虚ろな声で、ぽつぽつと続きをこぼす。
「空気に触れて時間が経つと、少しずつ動けるようになってきて、私は必死になって逃げた。それでもまだ毒に汚染されていない部屋からたくさんの追っ手がやってきた。私を捕まえるために。私を剥製にしてしまうために。彼らが、私に名前をつけた彼らが私を殺しにやってきたんです」
 叫んでもまるで言葉が通じていないようだった。懇願しても聞き入れる気配はなかった。
 思い出すと体が震えて、シラは腕を抱き寄せる。消え入る声で呟いた。
「生まれて初めて水の毒を使いました」
 狂いながら溶けていく彼らの姿は、消えゆく沫のようだった。


 言葉がすべて尽きてしまい、シラはぼんやりと虚空を見つめた。口を閉じてしまうことはできない。まだ、吐き出したいことがあるのだ。
 人間が恐ろしかった。騙されたことが悔しかった。自分の力が、人を藻屑に変えてしまう性質が怖かった。彼らが狂い消えていくのがこれほどなく悲しかった。
 ――つらかったの。悲しかったの。苦しかった、怖かった!
 そうわめいてしまいたい。感情のまま何もかも吐き出せばいいのだろう。やるせない想いを叫び、泣き、わめき、騒ぎ散らし、くたくたになってそれでも楽になるはずだ。シラは既にそうすることが自分にとって最良なのだと知っている。何もかもさらけ出してしまうことが、解放に繋がるのだ。
 それでも彼女は叫びたくなる気持ちをおさえ、震える顔を微笑みの形に歪めた。
 サフィギシルの反応を見たくない。彼が何を言い出すのか一言も聞きたくない。彼は木組みの体を持っていても、紛れもない人間だから。その事実が彼女の心にかたくなな線を引く。人間と深く関わってはいけない、二度と心を許してはいけない。その想いが彼女の足をすくませて、心から触れ合うことを拒ませていた。
 自分でも驚くほどに深くさらけ出してしまった。もう、これ以上の関わりは。
 シラは微笑みを続けた。既に無意味なのだと知っているのに、それを止めることができない。滑稽ではある。だがそれ以上に、人間と無防備に触れ合うことがおそろしかった。
 振り返る勇気はなく、ただ床を見つめて言う。
「人間は嫌い」
 そして、するべきことがわかっているのに立ちすくんでしまう自分自身も。
「……嫌いよ」
 シラは盾の内にうずくまった。


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