第6話「群れ」
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 シラの微笑みが、こわばっていた。サフィギシルは驚きと共に手ごたえを感じるが、彼女を見つめる彼自身、同じように動揺が顔に出ていることにはまだ気づいていなかった。シラもまた同じだったのだろう。ぽかんとしたサフィギシルを見て、自身の盾にひびが入っていることに気がついてしまったらしい。彼女はすぐさまぎこちなさを笑みで埋めた。サフィギシルが「あっ」と口を開いた時には、そこにはもういつも通りのやわらかな笑みがある。サフィギシルは己の失敗を悔やんだ。好機が見えたからこそ、余計に歯がゆさが増した。
 前は、この花びらのような微笑みが何よりも嬉しかったのに、今となっては憎らしさすら感じるようになっている。動揺のない穏やかな顔。それは他者との関わりをかたくなに閉ざす壁であり、盾なのだろう。この強固な障壁も、カリアラの前ではあっさりと崩すのだと考えると悔しさが増していく。それなのに、どうして自分に対しては、ひとつの緩みも許そうとはしないのだろうか。
 簡単だ。それはサフィギシルが彼女の嫌う“人間”だから。怖れているものの一人だから。
 でも、それじゃ駄目なんだ。カリアラはそう言っていた。シラはもう人魚には戻れないから、いつまでも人間を怖れているわけにはいかない。無理に街に出なくてもいい。でもせめて、生活する家の中では怖がらず安心して暮らせるようにしてほしい。
 だから、なかよく。何もかも包み隠さず話せるような関係に。
 サフィギシルは意を決し、緊張に固まった口を動かした。
「いま」
 微動だにしない彼女の笑みを怖れながら、うわついた声で訊く。
「今、何を考えてる?」
 口にした途端、自分でも何を言うかと首をかしげたくなった。もっと他に言いようがあるはずなのに。だがシラは沈黙の後、顔色一つ変えず答える。
「多分あなたと同じことを」
「同じこと?」
「ええ」
 シラはサフィギシルに体を向け、それでも目は逸らして告げる。
「『どうすれば外に出てくれるんだろう』って」
 サフィギシルはぎくりとした。確かに今、どうすれば壁を崩してくれるのかと考えていた。だが心臓が嫌な鼓動を立てていくのは、彼女の言葉が当たっていたためではない。今になってカリアラの意図に気づき、サフィギシルはどうしていいかわからないほど困惑した。
 同じこと。シラの言葉が本心ならば、確かに同じことだった。微笑みの壁に隠れるシラも、封印の霧に身を隠すサフィギシル自身の問題も。そして二人が互いに対して『どうすればいいのか』と考えていることも。相手を外に引き出すために、策を練っていることですらそっくり同じことになる。
「……カリアラに何か言われたのか」
「あなたと仲良くなってくれ、と」
 サフィギシルは思わず片手で顔を覆い、言葉もなく天を仰ぐ。やられた、と心の中で呟いた。これじゃ本当にまったく同じことじゃないか。
「俺も言われた。シラと仲良くなってくれって」
「そうでしょうね。きっとそうだと思いました」
 彼女も呆れているのだろうか。少しずつだが、微笑みが消えかけていた。作り物のように整った顔立ちが、よりいっそう際立っていく。サフィギシルは怖れを感じながら尋ねた。
「なんでそう思った?」
「表情に出ていましたから」
 シラは当たり前のように言う。サフィギシルは頬に手をあてた。シラとは違い、こちらはすぐ顔に出てしまうたちなのだ。相手の内心がわからないのに、こちらだけ筒抜けなのは随分と不利なことに思えた。
(……いや)
 すぐにそれを取り下げる。
(全然わからないわけでもない)
 気づきにくいが、彼女は確かに表情を凍らせている。無表情に近づいたのも、余裕を失ったからだろう。言葉や声にも微妙な変化が表れている。どこか、温度が変わったような。もしくは気さくに砕けてきたのだろうか、ぴりぴりとしていた空気でさえも今や呆れを含んでいる。カリアラにしてやられた連帯感のようなものが、二人の間に生まれていた。
「……なかよく」
 改めて口にすると間抜けに聞こえて、サフィギシルは頭を抱えた。仲良くしろと言われても。頼まれたとき以上の脱力感がゆるゆると体を伸ばす。彼は疲れを感じて椅子の背にもたれかかった。
 ふと見ると、シラもまた疲れた風情でソファに深く座っている。仕事を終えたかのようにまたしても背を向けて、ゆるやかに流れる金の髪をうつむきに揺らしている。見た目には優雅だが、内心はそれと程遠いに違いない。
「仲良く、ねえ」
 呟いた声ですら間の抜けたものに聞こえて、サフィギシルは息をつく。始終付きまとっていたはずの緊張が失せていた。恐怖や不安どころか意気込みでさえ姿を隠してしまったらしい。もはや姿勢を正すことすら面倒だが、それでも確かに気が楽になっていると言えた。
 サフィギシルは問いかける。
(……これか?)
 わざわざ自分に頼んできたのも、ピィスを外に連れ出したのも。
(このためなのか? カリアラ)
 だが即座に否定が頭を冷やした。それだけではないはずだと確信したのは、真剣なカリアラの顔を思い出したからかもしれない。あのまっすぐな目をした男が、人を騙すはずがないとサフィギシルは信じている。しかし、そんな希望よりも確実な事実があった。
「出ないんですか、外」
 呟くようなシラの言葉に、サフィギシルはまた体を固くする。不安がまた舞い戻り、今まで通りの気分の重さをあっけなく取り戻す。
「……そっちこそ。見せないの、本性」
 口をつくと言葉はずいぶん嫌味に響いた。シラの背がぴくりと動く。サフィギシルは苦笑した。この一言で、彼女もまた自分と同じく暗がりを取り戻したに違いない。サフィギシルは、より強い確信で先ほどの仮定を放り投げた。
 カリアラによる依頼は、そんなにも簡単に終わってしまうものではない。問題はまだ何ひとつ解決していないのだから。
 サフィギシルは、ゆるんだ空気がはりつめていくのを感じる。縮まったはずの二人の間に、透明な壁が生まれていた。
 遠くから投げかけるようにして、シラが硬い声で言う。
「意固地なんですね。体の無理を我慢してまで外に出たくないんですか?」
 サフィギシルもまたこわばる声で、彼女の背に言葉を投げた。
「そっちこそ。ずっと猫の被り通しで、そろそろ胃が荒れてるんじゃないか?」
 僅かに肩を震わせた後、シラは見惚れるような笑みで振り向く。
「わがままが過ぎるんじゃありません?」
「そっちこそ」
 だがサフィギシルも負けないように、精一杯の笑みでそれに応じた。二人はしばし、満面の作り笑顔で向かい合う。無言のまま敵意にも似た思いを抱え、それぞれが競うように互いの姿を見つめ合う。
 先に折れたのはサフィギシルだった。一息に顔を崩して不機嫌に曇らせる。感情をそのまま出して言った。
「何が意固地だ。あんたにだけは言われたくない」
「そうですね。あなたは意地よりも怖れの方が強いでしょうし」
 シラは変わらぬ笑顔のままで続ける。
「怖いんでしょう? 外の世界が」
 握りしめた手がぴくりとゆるんだ。サフィギシルは動揺を隠すためにうつむく。落ちた目には何も映っていなかった。ただ悔しさと屈辱ばかりが頭の中を占めている。どうしてだろうか、ピィスに言われれば弱い言葉も、微笑むシラの口から出ると何倍も癪に障った。
「……そっちこそ。怖いんだろう? 人間が」
 一音ずつ力を込めて反撃すると、シラの笑顔はあからさまに引きつった。彼女はそのままに続ける。
「どうしてそんなに恐ろしく思うんですか。たかだか人の暮らす場所が」
 たかだか、の部分にぴりぴりとした神経を逆なでられた。サフィギシルは嫌味に吐き捨てる。
「どうしてそんなに怖いんですか、たかだか弱い“食べ物”が」
 シラの顔に赤が差した。サフィギシルは感情にまかせて続ける。
「人魚はヒトに強いんだろ? ただの食べ物なんだろ? 言ったじゃないか、人魚は人狩りに都合のいい生き物だって。じゃあその獲物にびびりながら生きるあんたはなんなんだ。食べるべきものに怯えるなんて、野生動物失格じゃないか。そんな、まるで人間みたいに――」
 サフィギシルは息を呑む。何を喋っていたかも忘れた。それほどまでに恐ろしく感じるものが、今、目の前にある。
 シラが微笑っていた。氷と感じるほどに、冷たく。
 形は確かに微笑みと変わりないのに、その目つきから、閉じられた口の端から悪意が漂っている。まるで背筋に刃物を添えられているようで、サフィギシルは自分の命が彼女の手に乗せられていると感じた。
 薄く開いたくちびるから、ひそめた息が吐き出される。
「あなたに何がわかるの」
 憎しみを奥に秘めた、低く、空恐ろしく響く声。瞬間的に身体の芯が凍りつく。だがサフィギシルは彼女を睨んだ。震える手を握りしめて腹の底から声を出す。
「わからないよ」
 ここで怯めば二度と立ち上がることができない気がした。
「わかるわけないだろ、何も聞いてないんだから」
 憎悪に染まる彼女の目をしっかりと見据えて言う。一歩でも下がれば負けだ。少しでも弱みを見せれば途端にすべて崩れ落ちる。サフィギシルは声を張った。
「わかるわけがないんだ。俺はあんたに何があったか聞いたこともないんだから。何がわかるのなんて喋ってから言う台詞だろ。事情の一つも話さないで知らないことを責めるのか? それじゃ何も動かない」
 語りもしない思い出が人に伝わるはずはない。伝えもしない憎しみが理解されることもない。
「言ってみろよ。なんで人間が怖いのか」
 全部喋らせる。その言葉が幾度となく頭を巡った。喋らせる、喋らせる、喋らせる。優しく聞きだすことなどできない。平伏して頼み込むこともできない。ただ自分にできることは、気を逆なでて挑発すること。怒りのままに吐かせること。
「言えないのか? 結局話せないままか」
 彼女の怒りを煽るようにわざと薄い笑みを浮かべた。
「じゃあ、たいしたことはないんだな」
 シラの顔が気色ばむのがありありと見て取れた。仮面がはがれていくのがわかる。壁が崩れていく音が聞こえる。微笑みが消えて残されたのは隠れていた憎悪の表情。ソファの背を掴む手が震えている。歯噛みしているのが見える。サフィギシルは手ごたえによる高揚のままに笑った。
「そんなくだらないことで怖がるなんて、ただの臆病者なんだ」
 ふわ、と胸に熱が灯った。
 サフィギシルは息を忘れて彼女を見つめる。突然のことに思考すら飛んでいた。
 シラが微笑んだのだ。先ほどの冷ややかなものとは真逆の穏やかなそれ。サフィギシルはまばゆさに耐えきれず執拗に目を瞬かせる。華やかさは彼女をとりまく色さえ変えた。唐突にふりわいた夢まぼろしのような華。
 白い手がサフィギシルに伸びる。シラはソファの背に乗りかかるようにして、彼に顔を近づけた。サフィギシルは身動きも忘れて見つめる。シラの指が彼の頬をそっとなぞる。
「くだらない?」
 シラは畏れすら感じさせる笑顔で言った。
「そう、くだらないかもしれません。あなたたち人間にとってはすぐに忘れてしまうような、ただの作業の一つだったのかもしれない。でもね、私はとても悲しかったの」
 囁くように語りながらゆっくりと爪を立てていく。言葉と共に力を込める。
「私はとてもおそろしかったの。あの人たちに騙されたのが、裏切られてしまったのが!」
 青ざめた彼の頬にさっと紅い痕が走った。
 霞みかけたサフィギシルの目が澄んでいく。それは途端に睨みとなる。
「言えよ」
 シラはびくりと身を引いた。サフィギシルの手がそれを止める。
「言ってみろよ。全部ここで喋ってみろ。人間はあんたに何をした、一体どう裏切ったんだ」
 逃げない。逃げさせない。もう一歩も引けはしない。
 シラはみるみると青ざめていく。
「あなたに喋って何になるの」
「変わるだろ、あんた自身が。俺も知りたい。知らなきゃ一つも進めない」
 どうして人を怖れるのか。彼女の深い闇の中には一体何が潜むのか。シラに対する知識の中で、そこだけがぽっかりと空いている。途絶えた道を埋めなければそれ以上は近づけない。理解することなどできない。
 彼は真剣な目で彼女を見つめた。
「全部聞くよ。……教えてくれ」
 握る彼女の手首が弱々しく垂れていく。向かい合うシラの目は複雑に揺れていた。逃れるようにうつむいた彼女があまりにも儚くて、サフィギシルは掴んでいた手を離す。シラは倒れるしぐさでソファに戻った。サフィギシルに背を向けて、膝を握る。
 しばらくの間、言葉もない時間が流れる。サフィギシルは彼女を信じて待った。
 そして口は開かれる。
「私は」
 シラは震える声で言った。
「私は、人間に育てられました」


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