第6話「群れ」
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 ピィスは家を去ったようだ。サフィギシルはラーズイースの意識を使い、二人が外に出たことを知る。はりつめていた力を抜くと、足が崩れそうになった。倒れる動きで椅子に座り、色の失せた唇で息をつく。もう、限界が近い。だからこそ今はまだピィスと向き合うわけにはいかない。
 カリアラは、どういうわけかサフィギシルの考えを知っているようだった。サフィギシルはまっすぐに向かってくるピィスを受けとめることができない。そう指摘されてぎくりとしたのは、それが図星だったからだ。
 今朝のカリアラは、これがあの頭の悪いピラニアか、と訝しむほど聡明に見えた。水の流れだとか、群れになっていないとか、言っていることは相変わらずわけがわからないが、発言の深い部分は真実に繋がっているように思える。
 カリアラは、ピィスを一度別の場所に流すと言った。おれには手足があるからと。
 サフィギシルはその代わり、シラのことを任された。
(……どうしようかな)
 今、この家にはサフィギシルとシラふたりきりだ。シラはまだ二階の自室にいるのだろう。もしかすると一日中出ないつもりかもしれないが、今日だけは、そうはいかない。やらなければいけないことをカリアラから指示されているのだ。
(怖がらない、怖がらせない、逃げださない、逃がさない)
 長々と伝えられたことを自分なりに解釈すると、たった四語にまとまった。細かい事情を除いてみれば、やるべきことはあまりにも単純である。だが、言葉にすれば簡単だから、実行するのも気楽に行くとは限らなかった。
(で、あとは……)
 カリアラに言われたことをもう一度反芻する。サフィギシルはたどりつくべき目標を頭に浮かべ、改めて口にした。
「“喋らせる”」


「……で、『シラを頼む』ってどういうことだよ」
 カリアラが作業室にやってきたのは、朝も早くのことだった。サフィギシルは夢も見ずに眠っていたのをしつこいノックで起こされて、不機嫌なままそれに応じる。だがカリアラは、サフィギシルの不満をものともせず真剣な顔で言った。
「シラが大変なんだ」
 唐突な話にわけもわからずうながすと、カリアラはたどたどしく喋り始める。
 シラは人間を怖れていること。だから今、人間ばかりに囲まれて、精神的にかなり追い詰められていること。王城で初対面の人間たちと言葉を交わし、苦手なビジスと共にいたため、今までになく疲れていると彼は言った。
「でもな、シラはもう人魚には戻れないんだ」
 カリアラは心配そうに眉を下げる。
「これからはずっと人間として生きなきゃいけない。だから、このぐらいで弱ってたらだめなんだ」
 人魚の寿命はとても長い。シラはこれから百年以上も人として生きていかなければならない。だから、少しずつでも人に慣れる必要がある。カリアラは真顔で告げた。
「サフィ、シラとなかよくしてくれ」
 シラは本当は人間をひどく怖れているから。だから、少しでも安心して暮らせるように、身近なサフィギシルにだけでもいいから慣れてほしい。サフィギシルには、シラが気を許すことのできる貴重な一人になってほしい。カリアラはそういう意味のことを言った。そしてシラがサフィギシルを刺したことも、騙したことも、真剣に謝った。
 まっすぐな目で見つめられ、ごめんなさいと繰り返されて、改めてシラのことを頼まれる。そうまでされれば嫌だと言うこともできず、サフィギシルはなし崩しに願いを受け入れてしまう。渋りながらの了解に、カリアラはまばゆいほどの笑顔を見せた。
 その表情を見てよぎったのは、敗北感と羨みだった。自分は、どう足掻いてもカリアラのようにはなれない。そう薄々と感じていたものが実感として胸に落ちる。
 それでもサフィギシルは顔を上げた。不可能でもいい。だが、せめて少しでも彼の真剣さに近づきたい。もう、ふらふらと揺らぐ不確かな目で向き合うのは嫌だった。ピィスの追及から無様な形で逃れていくのは、これで終わりにしたいと思った。
 サフィギシルは、まっすぐなカリアラの目を遠巻きに眺める。
 真剣に、シラやカリアラのために何かができれば少しは強くなれるだろうか。そうすれば、このまなざしを同じように見返すことができるだろうか。


 天井裏から、二階を歩くかすかな足音が聞こえた。心臓が跳ねた気がして、サフィギシルは自嘲の笑みをもらす。人型細工に鼓動を伝える部品はない。これも全てビジスから受け渡された、“人間の感覚”という一種の錯覚なのだろう。中身が人と同じ動きをしていれば、外見もそれらしく見えるものだ。今の自分は、ビジスが体を捨てる前より人間らしく見えるだろう。複雑な表情も多く覚えた。そのほとんどは苦々しい系統のものばかりだが。
 シラは、どこで表情を手に入れたのだろう。サフィギシルはカリアラの言葉を思い出す。


「人魚は、本当は笑わないんだ」
 シラについて話す途中のことだった。カリアラは彼女を解説するために、遠くへと話題を飛ばす。
「シラ以外の人魚はあんまり喋らないし、怒らないし、怖くて泣いたりとかもしないと思う。おれ、一回だけ見たことあるんだ、他の人魚。川に紛れ込んできて、すぐにどこかに行ったけど、あれはシラとは全然違う生き物だった。ただの魚みたいだった。他の魚とおんなじように、ちょっとしか喋らないし、食べることと寝ることしかしない。表情も変わらない」
 この間まで表情筋を持たなかった元ピラニアは、あまり多くを語らない、魚のような真顔で言う。
「それが、本当の人魚なんだ」
 じゃあ、シラはどうして。サフィギシルは彼女の微笑みを思い出しながら訊いた。カリアラはどこかずれた言葉を返す。
「シラもピィスみたいに笑えるんだ」
 要領を得ない答えに眉を寄せる。走っても走っても目的地にたどりつかないもどかしさを抱えているのだろう。カリアラは意味のない手振りを加えながら、つたない言葉を続けていく。
「ほほえむ、じゃなくて、ピィスみたいに本気で笑うこともできる。あはははって、声に出しておもいっきり笑うこともできる。でもそれは、おれにしか見せないんだ。おれの前でしか笑えないから、多分、すごくつらいんだ」
 彼の話は気を長くして聞かなければいけないのだと、このあたりでようやく悟った。カリアラは迂回だらけの道を終え、結論にたどりつく。
「だからおれは、シラがお前の前でもおもいっきり笑えるようになったらいいと思う」
「……そうだな」
 思わずそう呟いていた。サフィギシルは驚いて口を押さえる。だが感情に嘘はつけない。純粋に、見てみたいと思ったのだ。嘘で塗り固めた偽りの微笑みなどではなく、本当に、心から楽しくて笑うシラを。カリアラの話を聞くうちに、そう考えていた。
 疑問はひとつも晴れていないと気づいたのはその後だ。
「……で、シラはなんで他の人魚と違うんだよ」
 カリアラは「あっ」という顔をして、そのまましばらく悩んでしまう。困り果ててしまったように、ええと、と切り出した。
「それは、シラから聞いた方がいい。おれがいま喋ったら、シラが嫌がる」
 言うべきか言わざるべきか、まだ悩んでいる顔だった。彼はいいわけのように続ける。
「でもな、多分、シラがそれを喋るのは、すごくいいことだと思う。シラは本当はいつもいつも色んなことを喋りたいから。何もかも喋らないよう押し込めて、ずっとにこにこしてるのは、本当は大変なんだ。だから、シラが全部喋ることはすごくいい」
「じゃあ、俺にシラからいろんなことを聞き出せと」
「そうだ」
 カリアラは迷いもなくうなずいた。
「全部、喋らせるんだ」
 途方もない難関に、サフィギシルは息を吐く。
「俺が、シラと」
「なかよくなる」
「あんなに人間を嫌ってるのに? ……それなのに、仲良く?」
 疲労のまま目を閉じる。眠気を誘う闇の中、カリアラの声が響いた。
「大丈夫、できる」
 水面のように静かな音。カリアラは感情の読めない声で言った。
「シラも、昔は人間になりたかったんだから」


 天井から響く足音が、シラの動きを教えてくれる。短い二階の廊下を終えて、階段に差しかかったのだろう。ひとつひとつ踏みしめて下りているのは、まだ義足に慣れていないためだろうか。それとも、ためらっているからか。
 サフィギシルは、聞いているだけで心臓に悪いそれと同じ動きでドアに向かう。
(怖がらない、怖がらせない、逃げださない、逃げさせない)
 頭の中は、今までに見たシラの姿でいっぱいになっている。優しい微笑み、隠していた妖艶な笑み、淡々と凶事を働く冷静な顔……。カリアラの言葉がそれらを追って混じっていく。人間を怖れている。憎んでいる。怖い、つらい、苦しい。だから本当に笑うことができない。
 本当の、嘘のない彼女の笑顔。
 見たい、と強く思った。今までの顔がすべて偽りならば、本当のシラと向き合ってみたい。
 そして、カリアラの言葉の意味を彼女の口から聞きたかった。

 ――シラも、昔は人間になりたかったんだ。

(全部、喋らせる)
 足音が近くなる。ないはずの鼓動がますます早まる。階段を降りきる気配がすると同時、サフィギシルはドアを開けた。目に映るのは仄暗い廊下と振り向いたシラ。整った顔が、やわらかい微笑みの形をとる。何もかも包み込む暖かく優しい表情。
 サフィギシルは手のひらを握りしめ、怯みかけた自分を支える。
 そして穏やかな微笑みの裏を探るように、逸らした目を彼女に戻した。


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