気づけば夜になっていた。窓の外の闇を見て、ピィスは重い頭を上げる。 サフィギシルに向かって怒鳴り、憤りのまま走って帰ると、彼女は泣きながら部屋中のものに当り散らした。そして散々暴れた後に、ベッドに寝転がったところで疲れて眠ってしまったようだ。転がるランプを手探りで拾い上げ、短い呪文で火を入れると荒れた部屋が明かりに浮かぶ。そのさんざんな状態をうんざりと見回しながら、ピィスは疲労に首を回した。 癇癪を起こしたのはあまりにも久しぶりで、まだそんな幼さが残っていたのかとさえ思う。苛立ちとやるせなさと理不尽さのままにあたり、荒らしたところで片付けるのは自分自身だ。虚しくてしかたがない。 父は用事で明日まで留守にしている。一人での片付けは考えただけで嫌になるが、吐き出した後のあれこれを詮索されるよりはましだろう。ピィスはとにかくペシフィロが戻るまでに異常さを薄めようと、ベッドから下りようとする。 だが紙を踏みつけて、ぎょっとして足を引いた。よく見てみると、床には色とりどりの封筒が広がっている。ピィスは慌ててかき集めると、ついてもいないほこりを払った。 それは前のサフィギシルからの手紙だった。家を出た旅先で、こっそりと送ってくれた近況報告。ピィスは感傷じみた想いで一つ一つを丁寧に開く。各地で買った、色も素材もばらばらの便箋に、丁寧な文字が並んでいた。 まったく同じ挨拶の言葉に始まり、現在地、その状況、旅先で見た面白いものや変わった話。風邪なんかひいていないか、またペシフィロを困らせているんじゃないか。そんな言葉も毎回のように綴られている。 そして、最後に必ずビジスのことを気にかける文があった。 『先生は相変わらず元気にしているだろうけど、もう若くはないんだから、できるだけ徹夜をしないように注意してくれないか。無茶をしていても、あの人はそれを人に悟られないよう隠すから』 ちゃんと食事を摂っているか、あまり暴れすぎていないか。半枚に至るほど心配ならこちらに戻ってくればいいのに。いつもそう思っていた。 涙がぽたりと手紙に落ちて、ピィスは慌てて袖で拭く。濡れた目元をこすりながら専用の箱を拾い、思い出の詰まる手紙たちを大切に中にしまった。 前のサフィギシルは、とても優しい人だった。気が利いて人当たりもよく、誰からも好かれていた。 今のサフィギシルは、わがままで周囲にきつく当り散らす。すぐに内へと閉じこもり、人の話を聞こうとしない。常に不遜な態度だし、いつだって優しくない。前のサフィギシルとはあまりにも違いすぎる。 「でもオレは、お前の方が……」 ピィスは歯を食いしばった。どうして上手くいかないのだろう。どうすればサフィギシルは元気になってくれるのだろう。このままでは彼までどこかに消えてしまいそうで、ピィスは不安でしかたがない。 また自分の知らない間に誰かがいなくなるんじゃないか。母やビジスや前のサフィギシルの時のように、また何もできないままに、二度と会えなくなるんじゃないか。そう思うとどうしようもなく恐ろしくなる。 (いやだ) ピィスは小さく体を縮めた。 (死んじゃいやだ、サフィ) 明日もあの家に行こうと思った。嫌われ、怒鳴られ、追い返されても何度でも行こうと決める。サフィギシルが元気になるまで、せめて彼がちゃんと外に出て行けるようになるまでは。 遠くから何か大きな音がして、ピィスはハッと顔を上げる。廊下ではない。どこか別の部屋からしたようだった。息を呑んで耳を澄ますが、続くものはなく、家の中は静かなまま。 今晩は自分以外誰もいないはずだった。ピィスはランプと近くにあった工具を持って、おそるおそる部屋を出る。廊下は無人、他からも響く気配はない。やや安堵に胸を下ろすが、一応は向かいの部屋も調べてみることにする。普段は滅多に立ち入らない、呪文書だらけの父の書庫。積み重なる本が崩れたのかもしれないと思ったのだ。 教わっていた合言葉を唱えると、ノブの根元で光が弾け、鍵の開く音が響く。ドアを開け、ランプを入れて中をうかがう。ほこりじみた匂いの漂う、やや広い横長の部屋。新旧大小多様な本が、きちんと棚に並べられて物言わず眠っている。 だが今は、本よりも目立つ物があちこちに置かれていた。 黒塗りの小さな木箱。ふたは粘着布でしっかりととめられていて、表面には銀の塗料で紋様が描かれている。魔術による封印が掛けられているという、わかりやすい表示だった。 コウエンの店で見せられたのと同じ物。それが、部屋のあちこちに積み上げられていた。数にして二十は越えるだろう。ふと床に目をやると、その一つが転がっていた。これが落ちて物音を立てたのか。 安堵と共に疑惑が浮かぶ。どうしてこれがこの家に? 転がる箱を拾ってみると、まだ紋様は描きかけで、封印はかかっていなかった。ピィスは一瞬ためらうが、好奇心に背中を押されて、貼りつけられた粘着布を慎重に剥がしていく。またつけ直せばばれないだろうと考えての行動だったが、木の表面に塗られた塗料が布と一緒に剥がれてしまい、悪巧みは沈没した。 (まあいいか、謝れば) 父親をなめきった考えで布をすべて剥がし終え、木のふたを開けてみる。箱の中は板で二つに区切られていた。それぞれの場所に一つずつ、布に包まれた塊がある。その鮮やかな黄色の布を剥がしてみると、透明な石が姿を見せた。半月形の小さな石。透けてはいるが、全体はやや白く濁っている。石の中に浮くようにして、赤い粒が一つ二つ混じっていた。 研磨されたなめらかな曲線を断ち切るように、一面だけまっすぐに切断されている。もう片方を開いてみると、線対称な片割れの石が眠っていた。一つの丸い塊を、真っ二つに割ってあるのだ。 (吸入石、って言ってたよな) これがそうなのだろうか。きっかけを与えれば、魔力を吸い取り力を奪う人工の石。危険なため、製作も流通も禁じられている魔石である。それがどうしてこの家に。 (しかもこんなにいっぱい……) コウエンの鑑定を手伝って、家まで持ち帰ったのだろうか。 どちらにしろ物騒なものに違いはない。ピィスは今さらながらに怖れを感じ、石に直接触れないよう指先で布を戻し、ふたを閉じるとそのまま近くの机に置いた。生真面目な父の机はきれいに片付けられている。そんな場所に置いた小箱は、違和感を醸しだしていた。ピィスは一応まっすぐに角度を整え、やはり残る不自然さに小さくうなるが、諦めて部屋を出た。悪いことをした気分が彼女の足を速めていく。動揺していたために、鍵をかけ忘れたことにも気づかなかった。 その足音が消えたころ、書庫の奥で大きな影が立ち上がる。 誰にも見咎められることなく、それは静かに動き始めた。 |
転がる空の酒瓶を拾い、床にこぼれた酒を拭き、使った鉢を片付けると残りはシラだけになった。カリアラは眠る彼女を揺り起こし、二階に連れて行こうとする。
「歩けるか?」 「やーだー。運んでー」 シラはまだ半分眠った声で、だらりと体を投げ出してくる。カリアラの背にしがみつき、細い腕を首に回した。カリアラはどうするべきか考えた後に立ち上がる。慣れない動きで彼女を背負い、よろけながらも歩きだした。 「いいなー、こうやって運んでもらえるのって。大きな体があるってすてきー」 ぴたりと背にはりついて、シラは喜びがこぼれるような笑みを見せた。 「そうか」 カリアラも口許をゆるめる。そのまま喜びが広がっていき、にこにこと嬉しそうに笑い始めた。 「おれも、ずっとこうしたかったんだ」 小さな魚の体では、悲しむ彼女に何もしてやれなかった。彼にできるのは慰めの言葉を吐くことだけで、共に嘆くことすらできず、カリアラはただシラの様子をじっと見つめるだけだった。 今は違う。彼はもう、彼女が悲しみに嘆く時には支えられる体を持つ。抱きしめられる腕があり、優しく触れることもできる。嬉しいときには共に笑い、阻まれる壁の前では共に戦うことができる。彼女を守ることもできる。カリアラはそれが嬉しくてしかたがない。今までは、ただ守られるしかなかったのだ。 幼いころからずっと助けられてきた。今度は自分が彼女を守り、助ける番だ。彼はその喜びに笑った。 シラはまた深く眠りに入ったようだ。カリアラは起こさないよう、慎重に足を進める。 居間を出て、静かな廊下を進みながら、彼はこれからのことを考える。シラのこと、サフィギシルのこと、ピィスのこと。カリアラには、彼らがみな思うように動けなくて苦しんでいるように見えた。もっと上手くやりたいと思っているのに簡単にはいかなくて、焦燥にも似たもどかしさを抱えている。 みんな迷子になっているのだ。何かしたくて、でもどうすればいいのかわからなくて悩んでいる。ばらばらの方を向き、時に正面から無防備にぶつかりあって互いの身を傷つけあう。どこに行けばいいのかわからず、闇雲なまま不安に進む。本当はもっと上手くやりたいのに、その方法がつかめないまま。 シラの腕がだらりとたれて、体がずり落ちそうになる。カリアラはそれをとっさに支えて姿勢を直した。シラの寝息を確認する。大丈夫、起きていない。ちゃんと運ぶことができる。 そう思った瞬間、頭の奥にぱっと閃くものを感じた。 そうか、そうだ。おれにはもういろんなことができるんだ。カリアラは自分の手を見た。足を見た。体を眺め、動かして確かめた。 今ならおれにもいろんなことができる。今までは不可能だったことも。魚には到底無理だったことも。だって今は人間の体をもっているのだから。 カリアラは笑った。そうだ、そうすればよかったんだ。今ならそれができるのだから。喜びと共に大きな期待が湧き上がってくるのを感じる。 苦しみ、悲しみ、苛立ちながら不安に生きる、みんなを助ける一つの方法。自分が何より望むもの。 「“群れ”になればいいんだ」 カリアラは強く言った。静かに眠るシラに向けて。 群れになればいいんだ。シラも、サフィギシルも、ピィスも、自分も。みんなで群れになればいい。みんなが同じ方を向けば、きっとすべて上手くいく。 だって群れは何よりもいいものだから。 “しあわせ”なものなのだから。 カリアラは決意をかみしめながら言う。 「群れを作ろう。みんなで群れになろう」 彼の目に、小さな意志の光が宿った。自ら動くためのかけら。人間じみた感情のもと。 カリアラは確かな声で呟いた。 「みんなで、しあわせになろう」 嬉しそうに微笑みながら、彼はまたゆっくりと歩きはじめた。 |