第5話「生きるための選択」
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「シラ」
 カリアラはひょいと棚の裏を覗いた。居間からは目隠しになる、背の高い食器戸棚。シラはいかにも不機嫌な顔で床に座り込んでいる。立つと気づかれてしまうため、ずっとこうして隠れていたのだ。シラは口を尖らせると、抱えた鉢を抱きしめた。
「ねくらにんげーん」
 とろりととろける声と目つき。カリアラは彼女の前に座り、心配そうに赤らんだ顔を覗く。漂う酒気に顔をしかめながら訊いた。
「大丈夫か?」
「だいじょーぶー。ぜえーんぜん酔ってませーんよーん」
 歌うように言いながら、シラは転がる酒瓶を拾う。膝に抱えた大鉢に注ごうとしたが、中身は既に空だった。よろめく手で床に放り、カリアラに鉢を向ける。
「もっと」
「シラ、もうない」
 なだめるように押し戻すと、シラはつまらなさそうに言う。
「えええ〜。なんでえー」
 ぶうぶうと続く文句を流しながら鉢を取り、カリアラは困ったように見回した。木敷きの床には一、二、三と酒瓶が寝転がっている。どの瓶も一滴残らず飲み干され、狩られた後の死体のように影も薄く横たわっていた。大量の酒に酔った人魚は、杯としていた大きな鉢を取り返して頭に被る。
「でもいっか。お腹いっぱーい」
 シラは顔半分を器に隠して、ゆるみきった笑顔を見せた。ねー、と小首をかしげて言う。カリアラは、よくわからないまま同じしぐさをしてみせた。
 人魚は人を液体に変えて吸収する。その摂取法を逆にたどり、何か別のもので精力を養うことができないかと片っ端から試したところ、食糧庫に並ぶ酒が、人間には及ばずながら代用になると判明した。それから幾時間、ビジス製と思われる、手作りの薬用酒や動物酒から力を摂って、シラの具合は非常に良い。
「えい」
 と言って、カリアラの頭に鉢を被せるほどに元気である。カリアラは素直にそれを被りつつ、何気なくシラの手を取った。頭の鉢が落ちないようにしっかりと支えながら、じっと彼女の手を見つめる。白く柔らかな手のひらに、爪を立てた赤い痕。
 シラは気まずそうに下を向く。
「だって……全部言っちゃうんだもの」
 カリアラは赤みの残る手のひらを、いたわるように優しく包んだ。
「ごめんな」
 シラは泣きそうな顔で彼を見上げる。何事か言いたそうに口を開くが、言葉にはせずきつく結んだ。
 カリアラは、穏やかな声で続ける。
「でも、言った方がいいと思った。知らないと、サフィはまた困るから。ビジスに頼まれたこともある」
「……絶対わかってないわよあのひと。わかってないわよ、絶対」
 拗ねた声でそう言って、シラは彼の手を振りほどいた。
 カリアラの昔語りは、彼女にとってひどく長く感じられた。静かに続く言葉の先に、何があるかを知っているから余計に聞くのがつらかった。泣き出しそうな、声を上げてしまいそうな気持ちを、食いしばる歯と握る手に押さえつけた。
 カリアラの声が動揺を見せたあたりで飛び出しそうになっていた。駆け寄って、止めてしまいたいと思った。思い出さなくていい、無理に喋らなくていいと言いたかった。
 彼がすべてを語った意味に、サフィギシルは気づいただろうか。思い出すのもつらい過去を口にしてまで、伝えたかったことに。
「わかってないわよ……」
 シラは苦々しく呟く。カリアラは何も言わず鉢を下ろし、ゆっくりと食器戸棚にもたれかかった。



 あの日、カリアラカルスの最期の声がボウク川に広く響いた。
 最後の群れは人間の狩りをかわすため、互いの体を傷つけながら卵のある場所を離れた。彼らは死に行きながら、濃い力を流しながら強く叫ぶ。

 生きろ、生きろ、 生きろ、 生きろ、 生きろ、 生きろ。

 それは水を震わせ波を起こし、川中に広がった。あちこちで魚たちが恐怖におののき奥に隠れ、また別のものは混乱して跳ね上がる。人間はその異常な事態に気づいただろうか? その、力の限りに叫ぶ言葉をはたして理解していただろうか。
 彼らはただ生きろと叫んだ。死に行きながら、血を流し、内臓を散らしながら、口々にカリアラに向けて叫んだ。ただひとり生きることができる仲間に。ただひとり残る仲間に。

 生きろ、 生きろ、 生きろ、 生きろ……『おれたちを生かせ』。

 水は彼らの言葉で揺らいだ。その音の振動に、景色すら淡く霞んだ。その波紋が一つ一つ姿を消して、仲間たちも流れていって、カリアラはただ呆然と彼らの消えた方を見ていた。状況を掴めないまま卵と共にひとり残され、ただぽつりと呟いた。

  いきる。

 その言葉は簡易な魚の声で響く。まだ成魚に達していない彼には種の声は使えない。彼らの最期の叫びとは異なる声で、カリアラは静かに続けた。

  いきる。 いきる。 いきる。 いきる。 いきる。

 魚の顔に表情などあるはずがない。声色などあるはずもない。彼はただ淡々と繰り返した。ひどく静かに何度も呟く。水が波紋を帯びるほどに。透明な川の底を、その言葉で満たすように。

  いきる。 いきる。 いきる。 いきる。 いきる。
  おれは、いきる。

 シラは遠くからそれを見ていた。伝わる言葉も合図もなく、ただ別の生物として、彼らの生のかたちを見つめた。傍観しかできない自分が歯がゆくて、悲しくて、しばらくそこを離れることができなかった。
 だから、他の魚が彼を襲いかけた時、とっさに彼を助けたのだ。
 その時、シラの心に決意が芽生えた。守ろう。この残されたひとを守り抜こう。せめて彼がもっと強くなるまで。
 そして彼女は卵と共に佇む彼に、そっと手を差し出した。


「ねえ」
 シラの呼びかけに、カリアラは閉じていた目を戻す。
 無言のまま見つめてくる彼に、シラは哀しげな瞳を見せた。
「卵のこと……食べなきゃよかったって思ってる?」
 食べなければ彼は飢えて死んでいた。カリアラカルスの卵には、濃い栄養が詰まっている。生まれてくる命のための力のもとを、シラは彼に食べさせた。
 それはいつまでたっても孵らなかった。卵は既に死んでいた。だがカリアラは産みつけられた卵をじっと見つめ、幾日も待ち続けた。何も食べられるものがなくても、空腹でどうしようもなくなっても、彼はただ待ち続けた。ここから仲間が生まれてくると信じるように、じっと卵を見つめ続けた。
 シラは彼に卵を食べさせようとする。だがカリアラはそれを口にしようとしない。空腹でどうしようもなくて、今にも死にそうなのにまったく食べようとしない。
 共食いどころか子食いすら当たり前の自然の中で、それは異端の行動だった。カリアラにしても別の状況で生まれていれば、簡単に口にしたのだろう。もしカリアラカルスが高い知能さえ持っていなければ、迷うこともなかっただろう。
 だが彼は、最後までためらった。
 ためらってためらって、本当に最後の最後、死んでしまう寸前になりようやくそれを口にする。
 食べ終わり、なんとか命を繋ぎとめ、彼は弱く呟いた。

  いきる。

 まだその音が残っているような気がして、シラはそっと耳を押さえる。カリアラは手を伸ばし、ゆっくりとそれをはがした。少し困った顔をして、言い聞かせるように言う。
「おれは、みんなを喰った。全部喰った。卵も何もかも食った。だから、おれは生きてる」
「うん」
 シラはうなずく。歳をとり、寿命を過ぎて、なお生き永らえていられるのは彼らの命を取り込んだからだ。今彼が生きているのは、“カリアラカルス”をすべて体に取り入れたため。
「だから、おれは生きる」
 カリアラに受け継がれた種のすべて。最期に告げられた言葉。

 『おれたちを生かせ』

 サフィギシルは、この話の真意に気づいただろうか。
「みんな、生きるためにそうしたんだ。だから、おれは生きる」
 カリアラは静かに言った。迷いも、揺らぎもないしっかりとした声だった。シラは泣きそうな顔で彼を見上げる。縋るようにその腕にもたれかかる。
「どうして、そんなに強いの」
 酔いは冷めているのだろうか。それともまだ、いつもとは違うゆるやかな波の中にいるのだろうか。体を包むように眠りが手を伸ばしてくる。思考がゆるくのびていく。
「私はまだ話せないのに。酔ってても、だめなのに……」
 少しでも人間に慣れるため、彼女はせめてサフィギシルとだけでも素顔で向かい合わなくてはいけない。そう頭ではわかっていても、猫を被り本心を隠してしまいそうになる。サフィギシルが居間に出てきて、酔った頭で今ならと思ってみても、足がすくんで出て行けない。一緒に行こうと差し出されたカリアラの手を掴めない。シラは一人自身と戦い、惨敗してここにいる。
「このままじゃ、だめなのに。こんな風に、いつも通りに、しなくちゃ……」
 ぼんやりとした闇が降りてきて、まぶたが閉じていることを知る。意識がゆっくりと遠のいていく。
 シラはそのまま深く眠りに落ちた。


 カリアラはずり落ちた彼女の体を支え、その疲れきった寝顔を見つめた。悩み、ためらい、自尊心と戦って、くたくたになったのだろう。無防備な表情に、幼さが薄く浮かぶ。
「ごめんな」
 優しいしぐさで背を叩き、起こさないようかすかな声で囁いた。
「ありがとう」
 シラの手が、彼の服をぎゅっと握った。

※ ※ ※

 作業室に戻ると、息詰まるような不思議な居心地悪さがあった。動きがにぶくなるような、思考が足を止めてしまいそうなほどの倦怠感。サフィギシルは息をつき、物をよけて奥へと向かう。
 疲れているのかもしれない。眠気に目をこすりながら思う。久しぶりに感情を動かしすぎた。哀しみから喜びまでこんなに一気に感じたのは、一体いつぶりだっただろう。
(……いつ?)
 サフィギシルは足を止めた。
 この間はいつ悲しんだ? ……いつ、笑った?
 背を走る寒気があった。そしてすぐにその悪寒すら違和感のもとになる。
 何も知らない人型細工が寒気を感じるはずはないのだ。
 寒気、眠気、喉の乾き。それはかつては知らないはずのものだった。人の話に同調し、哀しみを覚えることも、暖かみを感じることすら実感できないものだった。内から湧く感覚などは、元が人間ではない細工物には、不完全にしか習得できないと言われている。本能や生理現象などの生まれ持つ性質は、教わって身につくものではないためだ。
 だが今は、存在しないはずだった“人間の感覚”が内から自然に備わっている。これは、この感覚の元になっているのは……。
(爺さんの、記憶……)
 ビジスの持つ感覚を、記憶と共にそのまますべて渡されたのだ。だから今、サフィギシルは人間と変わりない内面に近づきつつある。抱える事実の大きさに、思わず震えを感じるほどに。
 動きの鈍る頭の奥で、カリアラの話が甦る。仲間の中身を渡された。それらを体の中に入れ、力をすべて受け入れた。みんなを受け渡された。

『あれは生きるためなんだ。みんなは生きるためにそうしたんだ』
 生きるため。その言葉が強く響く。生きるためにそうしたんだ。
「……爺さん?」
 彼が潜む右胸に手をやる。だがビジスは依然として動かない。
 サフィギシルは何かを理解できたような、まだわかりきっていないような、複雑な気持ちで一人たたずむ。
 どうすればいいのだろうと思った。これから何をすればいいのかわからない。
 それでも何か動かなければいけないような気がしていた。
 サフィギシルはカリアラに言われたことを思い出す。何かから隠れるように、耳打ちで告げた言葉。

 ――シラを、頼む。

 たったそれだけの台詞。説明も後づけもない、意図の読めない謎の依頼。手がかりになるのは、口の動きで伝えられた言葉だけ。
『明日、話す』
 サフィギシルは静かに息を吸って吐き、また奥の部屋へと歩きだした。今考えても仕方がない。ひとまずは休息をとってしまおう。迫り来る眠気の中で思いつつ、奥の小部屋のドアを開けた。
「明日だ」
 確かな声で呟いて、眠りの場所へと入り込む。
 彼の中で、何かが動き始めていた。


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