第5話「生きるための選択」
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 一瞬、何を言われたのかわからなかった。ぽかんとして見つめる先で、カリアラは嬉しそうに笑っている。大きな謎を解けたことが嬉しいのだという笑顔。
「だって群れはすごくいいものだ。いいもので、心配もいらなくて、怖いものがない。嫌なことも考えなくていいし、ずっと欲しかったものだ。ほら、これ全部群れのことだろ?」
 サフィギシルは呆然と、話を一度を聞き流す。だが後から後から遅ればせにそれぞれの言葉が繋がって、彼が言っている意味に気づいて息を止めた。
 すごくいいもの。心配もいらなくて、怖いものなんてなくて、ずっと欲しかったもの。
「群れはすごくいいものなんだ。すごくすごくいいものなんだ」
 カリアラの望むもの。
 カリアラカルスの本能が、彼に群れを夢見せる。
「おれ、ずっと群れになりたかったんだ」
 遂げられることのない大望を。
 サフィギシルはこみあがる感情を抑えるために、ゆっくりと息を吸った。吐き出すと、そのまま力を抜きすぎてしまいそうになる。ますます弱くなったようで、どうしていいかわからないままうつろに目を泳がせた。一瞬でもカリアラを疑った自分自身が嫌だった。何か言わなくてはと強く思った。
 だが続いたカリアラの言葉に、開きかけた口を止める。
「おれは群れになれなかったから。おれは、生きろって言われたから」
 知らずと、尋ねる目で彼を見つめた。忘れかけていた謎に触れられ、求める気持ちは答えに向かう。
「全部言おうか」
 カリアラはそれを受けとめて言った。サフィギシルの目をまっすぐに見つめながら。
「おれ、お前には言い忘れてた。言わなきゃいけないことだったのに、忘れてたから、だから言った方がいいかもしれない」
「……何を?」
 訊くと言葉は一度途切れる。カリアラは逡巡し、おもむろに口を開いた。
「おれは、みんなを喰った」
 落ち着いた声だった。
「全部、喰ったんだ」
 空気が冷えたような気がした。
 サフィギシルは息を呑んだ。不穏なものが体に入り、胸の内をざわめかせる。
「どうやって」
 尋ねる声はかすかに震えた。嘘だ、そんな馬鹿なと心のどこかで声が上がる。自分でも驚くほどに否定の言葉を望んでいた。カリアラは口を結び、しばし悩む様子を見せる。どう言うべきかと続ける言葉を探るような、思案の面持ち。サフィギシルは続きを待った。呼吸すらもどかしく、じっとカリアラを見つめた。
 話し方を見つけたのだろうか。カリアラは過去語りの口を切る。
「最初に、おれたちの群れは半分食われた。すごく強い敵にやられた」
 サフィギシルはまるで文字をたどるように、本の中身を思い出す。“三人の研究者たちはまずカリアラカルスの半数を捕まえ殺した” 金を求め欲に溺れた愚かな人間たちの狩り。
「おれはまだ子どもだったから、あんまり言葉を知らなかった。だから、なんでそんなことをするのかわからなかった。どうしてなのかわからなかった」
 まるで自分が責められているような気がして、サフィギシルは居たたまれず目をそらす。
 だがカリアラは静かに続けた。
「どうしてみんなが殺しあい始めたのか、その時はわからなかった」
 舞い戻った彼への視線はまた問いに満ちていたのだろう。カリアラは疑問を受けとめ、サフィギシルをじっと見返す。その目にも、顔色にも、感情は読みとれなかった。憤りも悲しみも浮かばない、落ち着いた動物の顔。
「ずっと後で、シラが全部教えてくれた。強い敵はおれたちの “声”のところにやってくる。だからみんなは殺しあったんだって。みんなは声を止めるためにそれぞれを食いあった。その声は敵を呼ぶから。この声がある限り、何度でも敵は来るから。だからみんなは声を止めた。敵は強くてかなわない。だからみんなそうしたんだ」
 カリアラは、淡々と彼らの滅びの事実を告げた。
「おれはまだ“おれたちの声”を使えなかった。おれはまだ子どもで、他の声しか出せなかった。だからおれは殺されなかった。おれはまだ群れにも入れなかったから」
 呆然と聞きながら、サフィギシルは気がついた。カリアラカルスの種族の声は群れを固めるためにある。互いに呼び合う音波を使い、統率をより高めるのが彼らの群れということか。
 カリアラはさらに続ける。用意された道を行く、迷いのない確かな語り。
「声を出せないのはおれだけだった。みんなはどうしても声が出るから、敵を呼ぶから、だからみんな死んでいった。残れるのはおれだけだった。生きられるのはおれひとりしかいなかった」
 よどみなく流れる言葉は結論にたどりつく。
「だから、みんなはおれに“中身”を食べさせた」
 落ち着いた彼の声は、しんとした胸の中に沈む。身じろぎすらできないサフィギシルの目の前で、カリアラは戸惑う様子もなく、ゆっくりと語り続ける。
「みんなが食いあって、殺しあうと、水の中にみんなの中身がいっぱい出てきた。血と力がいっぱい出てきた。みんなはそれぞれ噛みあいながら、おれの方にそれを流した。おれにそれを喰えって言った。みんなが、生きろって言った」
 淡々と語りは続く。強弱のない平坦な声が染みこむように耳を打つ。
「お前は生きろって。生きろ、生きろ、生きろ、生きろ。何回も言った。何回も何回も言った。みんなが死にながら言った。お前は生きろって。『おれたちを生かせ』って」
 カリアラはどこかうつろに言う。
「おれはみんなの中身を喰った」
 言葉はただ静かに落ちた。
 サフィギシルの頭の中には、いつかの光景が広がっている。カリアラの持つ大きな力。傷を負って死にかけた時、それは後から後からあふれるように湧き出して、彼の命を繋ぎとめた。濃い魔力と生命力。仲間たちから託されたもの。
「みんなが全部おれの中に入ってきた。みんながおれにくれたんだ。――みんなが、おれに」
 カリアラの声が揺れた。張られた糸を弾いたように、ざわめきのような動揺がうっすらと浮かびあがる。サフィギシルを向く目が危うげにさまよいはじめた。
「敵に見つからないのはおれだけだったから。“守れる”のは、おれだけだったから」
 カリアラは息を呑む。どこか別の場所を見つめるように、繋がらない目のままに言った。
「おれは卵を任された」
 突然、言葉がたどたどしさに歪んでいく。
「最後の、卵だった。いっぱい、いた。みんながいると、敵が来て、卵をやられるから、だから、みんなは死んだ。みんなは、卵のために死んだ。おれは、卵を任された。……だから、おれは力をもらったんだ。卵を、守るようにって。おれたちを、終わらせないようにって」
 語りは各所で引っかかる。詰まり、止まり、途切れる度に、カリアラは懸命に言葉を探して続ける。
「みんなが死んで、おれひとりで、ずっとおれと卵だけで、おれは卵が孵るのを待ったんだ。おれはずっと卵といた。おれは、守らなくちゃいけなかったから」
 サフィギシルは思い出す。カリアラが怪我をした時、こちらにまで伝わってきた当時の記憶。水に揺れる赤い卵。混じるようにしてその間に潜むカリアラ。ゆらゆらと揺れる命の種。
「これが孵ればまた仲間がいっぱいになる。群れになれる。だからおれは待ったんだ。ずっとずっと待ったんだ。卵はいっぱいあったんだ。子どもが生まれて、仲間がいっぱいになると思ってた」
 表情にふと虚がよぎる。言葉はひどく弱く続いた。
「でも、何も生まれなかった」
 “絶滅前のカリアラカルスは繁殖機能に欠陥を持っていた”
 カリアラはこみあげてくる感情を抑えるように、口元をきつく結ぶ。目は泳ぎ、どうしていいかわからないように息を吸った。早口となり次々に言葉を紡ぐ。
「ずっと待ったんだ。ずっとずっと待ったんだ。でも何も生まれてこなかった。仲間は生まれてこなかった。ずっと待ったんだ。ずっとずっと待ったんだ。でも生まれてこなかった。おれはひとりのままだった」
 語りは行き場のない感情を抱えるように、同じ箇所を行き戻りしながら続く。
「待ったんだ。待っても待っても生まれなくて、何も出てこなくて、おれはひとりで、おれはずっとひとりのままで、食べるものもなくなって、それで、それですごく腹がへって、死にそうになって、腹がへってどうしようもなくて、ずっと待ったのに生まれてこなくて、卵は死んでて、だから、だからおれは、」
 言葉が詰まり声を止める。くちびるが震えていた。開いたまま、まったく言葉が出なくなる。カリアラは、絞りだすように言った。
「おれは、卵を、食った」
 声は痛ましく震えた。
「全部、食ったんだ」
 言い終えると、力を溶かしてしまったように、ゆっくりと視線を降ろす。伏せた目が弱く歪んだ。
「守れなかったんだ。おれは、そのために生かされたのに」
 消え入る声で繰り返す。
「おれは、そのために生かされたのに」
 誰かに聞かせる風ではない、内へと返る自責の言葉。
 サフィギシルは何も言えず、ただ力なく彼を見つめた。苦しさが重みとなって直に伝わる。空気からカリアラの様子からじわじわと染みわたり、言葉も動きも奪ってしまう。
 すごくいいもの。心配もいらなくて、怖いものなんてなくて、ずっと欲しかったもの。ずっとずっと待っていたもの。無残についえた希望の塊。
 気がつけば顔はまたうつむきかけていて、サフィギシルは手で頭を支えると、そのまま静かに沈みこむ。影が落ちる視界の奥で、カリアラが口を開いた。
「でもな。おれ、子ども、守れたんだ」
 声は落ち着きを取り戻していた。彼は穏やかに語り始める。
「街でおれ、子どもが落ちそうになってるの助けたんだ。危なかったのを、死ぬかもしれなかったのを助けたんだ。……おれ、子ども守れたんだ」
 暖かい声だった。サフィギシルはそれに気づいてはっとする。今まではただ平坦に響いていた彼の言葉が、確かな熱をもっていたのだ。サフィギシルは顔を上げる。
「おれが子どもを守れたんだ。おれにも子ども守れたんだ。おれは、人間になったから」
 カリアラは笑っていた。悲しみをほどくように。人間になれたことを心から喜んで。
「守れたんだ。おれにも」
 サフィギシルは、自分の顔がみるみると弱くなるのを感じる。
 こんなにも人を喜ぶ相手に向かい、どうしてあの時出て行けと叫んでしまったのだろう。
 どうして彼らを弱いと馬鹿にしたのだろう。
 どうして、仲間の所に帰れなどと言ったのだろう。
「人間はいいな。いっぱいいる。子どもがいっぱい生まれてくる。大人がいて、みんな元気で。すごいな。人間っていいな」
 カリアラは喜びをかみしめるように語る。サフィギシルは、その笑顔を直視できずにうつむいた。どうしようもなく沈みながら、これでは駄目だと強く思う。このままではまた後悔を繰り返す。また、何もできない不甲斐なさに苦しめられる。せめて謝らなければと、サフィギシルは焦るように口を開いた。
 だがその言葉はカリアラにさえぎられる。
「サフィ、ありがとう」
 暖かな声。サフィギシルが呆然と見つめる先で、カリアラは嬉しそうに笑った。
「おれ、人間になれてよかった。ありがとう。お前のおかげだ」



 全部、忘れた。
 言葉も呼吸もまばたきも、後ろめたさも罪悪感もすべて忘れた。頭が真っ白になって何も考えられなくなって、その後で、一つ一つの意味が繋がり急に胸が熱くなった。
 続いた言葉に泣きそうになり、口を押さえて必死に止める。
「言ってなかったよな。忘れてたんだ、言わなくちゃいけなかったのに」
 頭の隅で、ここで泣いたら心配をかけてしまうと思った。こみ上げるものを必死に堪えた。
 言い忘れていたこと。言わなくちゃいけなかったこと。それは罪悪感を募らせるための話ではなく、こんなにも簡単な、当たり前のような言葉。何よりも心に響く言葉。
 何もできないわけではないと思い出させてくれる言葉。
「どうした?」
 カリアラが心配そうに覗き込む。サフィギシルは顔を上げた。だが眉は引力に引かれるように、力なく下がっていく。それなのに暖かいものがふつふつと湧いてきて、口の端が上がっていく。
 サフィギシルは泣きそうな顔で笑った。弱々しく喜びを顔に浮かべた。
 口を開くが何も言えない。それでも何か伝えたくて、言葉を探しているのに上手くいかない。喉の奥に、いろんなものがぎゅうぎゅうと詰められているようだった。口が上手く動かせない。まったく言葉が出てこない。
「サフィ、大丈夫か? どうしたんだ?」
 カリアラが不安そうに見つめてくる。裏もなく、企みもなく、ただまっすぐに向かってくる目。
 それを見ていると、焦燥はほぐれるように消えていった。心が楽になっていくのを感じる。
「何ができる」
 それはするりと口をついた。
「俺は、お前のために、何ができる?」
 何か何かこいつのためにできることは。自分にできることは、力になれることは。とにかく何かしたかった。この馬鹿みたいに純粋な男の力になりたいと思った。
 カリアラはしばらくの間悩むと、ためらうように顔を寄せた。耳元で、短く囁く。サフィギシルは言葉の真意を掴みかねて見返すが、カリアラは声を出さず口の動きだけで言った。
 ――明日、話す。
 そしてそのまま何事もなかったかのように言う。
「ごめんな、長くなった。水飲まないのか?」
「……ああ、もういらないような気がしてきた」
 サフィギシルは戸惑いながらも答える。カリアラはあえて別の話をした、ようだった。
「多分ピィス、明日も来るぞ。お前は出てこないのか?」
 これはさっきの頼みごととは違うものだととっさにわかる。
「……さあ」
 どうしようかと悩んだ。部屋から出てきて、ピィスに会って、どんな顔をすればいいのだろうか。カリアラはさらりと言った。
「心配してるぞ」
 返事も自然に口をつく。
「わかってる」
 わかっているから悩んでしまうのだと思った。ピィスの気持ちはあまりにもわかりやすいから。だから、上手く対応できない自分に嫌な思いをするのだ。嫉妬にも似た劣等感を感じてしまう。
 カリアラが心配そうにこちらを見ていた。悩みが顔にあらわれていたのだろう。
「明日、その時に考える」
 そう切り上げて席を立った。ふと、大鉢に注がれたままの濃水を見る。ためらいの後、サフィギシルはそれを持ち上げて飲んだ。とろりとした甘い味が溶け込むように体に染みる。音を立ててテーブルに置き、カリアラに背を向ける。
「ぬるい。あと重い」
 なんだかやけに恥ずかしくなり、やらなければよかったと後悔しながら廊下に向かった。
「じゃあな」
「おう」
 カリアラはいつも通りの返事をする。サフィギシルはふと振り向いた。
「シラは」
 また後悔しかけたが、それ以上の探求心に背を押される。
「シラは、お前を狩りに来た人間を、殺したことがあるのか?」
 熱帯島に飛び込んだまま帰らなかった、三人の学者たち。愚かな彼らはどうなったのか。
 カリアラは、思い出しながらのように言った。
「多分、三人いた。すごく昔だ。シラが、この人たちが群れを殺したんだって言ってた。その時に、声のことを教えてくれた」
 サフィギシルは息をのむ。そうだ、彼らに会いでもしなければ、シラが人の狩りの手法を知るはずがない。脅したか操ったかして聞き出したのだ。
「シラが殺したのか」
「おれも、溶け残ったところを食った」
 熱のない表情は、水槽の中の魚に見えた。
 それが、ふと複雑な色を持つ。カリアラは人間じみた顔で言う。
「まずかった」
 その声もまた読みきれない色をしていた。
 緊張による居たたまれなさに苛まれ、サフィギシルはゆっくりと呼吸する。どうしても、聞いておきたいことがあった。
「お前は、人間を恨んでないのか?」
 群れを狩られ、種族を滅ぼされたこと。たったひとりにされたこと。怒りをあらわにしたシラのように、カリアラもまた心のうちに思いを隠しているのではないだろうか。サフィギシルは疑いの目でカリアラを見る。
 だが彼は不思議そうに聞き返した。
「うらむってなんだ?」
 純粋に、わかっていない顔だった。サフィギシルは何故だか気まずい思いがして、言わなければよかったことを言ってしまったような気がして言葉を詰める。
「いや、いいんだ。なんでもない」
「そうか」
「そうだ。じゃあな」
 サフィギシルは焦る手でノブを握った。
「サフィ」
 ぎくりとして振り返る。カリアラは真面目な顔をしていた。
「もう一つ忘れてた。さっき、みんなが中身をくれたって言ったよな。おれに喰わせたんだって」
 戸惑いながらもうなずくと、カリアラは確かな声で言った。
「あれは生きるためなんだ。みんなは、生きるためにそうしたんだ」
 聞いた途端、心の中ではああそうかと受け入れる。だがすぐに違和感を覚えた。この理解は少し違うような気がする。言葉の意味が食い違っているような。
 サフィギシルは曖昧な返事をした。いかにも意味のわかっていない、力ない声だった。
「そうか」
 カリアラはじっとこちらを見つめて言う。
「じゃあ、また明日な」
「……ああ」
 サフィギシルは消化できないものを抱え、複雑な思いで部屋を出た。


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