第5話「生きるための選択」
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 カリアラが、そこにいた。
 食卓の上に丸い果実を置き、それを手のひらですっぽりと覆い、残りの手で包丁を掲げて今にも振り下ろさんとしていた。
「わー!?」
 サフィギシルの叫びもむなしく、きらめく出刃包丁はカリアラの手の甲を突き刺した。
「ば、ばば馬鹿! なにやってんだ、見せろ!」
 混乱と衝撃に震えながら彼に飛びつき、刃を受けた左手を取る。サフィギシルはその姿勢のまま固まった。まじまじと、見開いた目を瞬かせた。
 引き寄せたカリアラの手には、傷ひとつなかったのだ。サフィギシルは幻を見た気分で、カリアラの肌を触ったり、つまんだりと確かめるが、やはり異常はみつからない。ただ人間と同じようなやわらかな感触があるだけだ。呆然とするしかないサフィギシルを、カリアラが覗き込んだ。
「どうした?」
「どうしたってお前、今、包丁……刺したよな。刺したよなあ!?」
「うん。でもちゃんとりんごも割れたぞ」
 あまりにもわけがわからなくて、顔がねじまがっていくような気がする。だがカリアラはいつも通りの平然とした表情で、転がっていたものを拾った。
「りんご。お前も食うか?」
 それは確かに腐りかけたりんごであり、先ほど彼が言ったように、粉々に砕けている。言葉がなければ、それが何の果実かすぐにはわからなかっただろう。細かく割れた白い実には、ところどころに黒ずんだ赤色の皮や茶色の種がこびりついていた。
 このりんごは衝撃を受けて割れたのだ。カリアラの振り下ろした包丁によって。
「……手に、当たった、よな」
「うん。当たった」
「だよな。だって思いっきり手で包んで……お前、なんでそんなことしたんだ」
「あのな、りんごは丸いからな、持ってないと転がるんだ。何回やっても当たらないからな、だから押さえた。そしたらちゃんと当たったぞ。どうだ、すごいか?」
「いやある意味すごいけどな。ある意味とんでもなくすごいけどな! でも痛かっただろ!?」
「すごく痛かった。でもがまんした」
「そこは我慢するべきところじゃないだろ! 痛みがあるってことは当たったってことで、じゃあ傷がついてないのは……傷?」
 ふわふわと浮遊していくような頭の隅に、思いあたる知識があった。サフィギシルは捨て置かれていた包丁を取り、その刃先をカリアラの肌に向ける。先ほどと同じ左手の甲。きょとんとするカリアラに罪悪感を感じながら、針で布をつつくように表面を刃先で突いた。
 すると途端に肌は硬質となり、鉄のごとくに刃先を弾く。傷はない。次は指でなぞってみると、やわらかな皮膚の感触。
「不透織布だ。もともとは魔力を透過させない布で、人型細工の魔力使用が外部からの影響を受けないように貼る人工皮。でも布の組み方や塗料と術の組み合わせで、魔力だけでなく様々な衝撃にも強く耐えられるようになる。硬度はほぼ鉄と同等。その代わり全身の触感が人間離れした硬さになるため、触る者の感覚を術で惑わす必要があり……」
 ぽかんとしたカリアラを見て、サフィギシルは我に返った。
「まあ、そういうことだ」
 言っても無駄なことをべらべらと続けた自分が恥ずかしくて、早口に言い捨てる。そのあとで「いつのまに」と呟くが、答えは訊くまでもなかった。
「爺さんがやったのか」
「うん。ビジスが修理の時にこれにしたんだ。うろこが出ても自分で中から直せるように、外からのへいきょんを受けないようにして練習しろって。でもな、練習しようとしたんだけどな、うろこの出し方がわかんなかった」
「俺はまずどうして『影響』が『へいきょん』にすりかわるのかそのあたりを聞きたいよ」
 脳がねじれそうな説明を反芻しながら口にすると、カリアラは不可解げに眉を寄せる。
「えいきょん?」
「いい。喋るなもう」
 深く関わるのがとてつもなく面倒になって、サフィギシルは果物かごからまだ無事なりんごを取る。よく見ると、出刃包丁だけでなくさまざまな刃物がある。台所にあるものをすべて持ってきたのだろうか。呆れながら、果物ナイフで皮をむいてやることにした。カリアラの潰したりんごは、食べるにはあまりにも不向きな状態だったので。
「ったく、無茶するなよ。刃物なんてろくに持ったことないくせに。なんでそこまでして食べようとしたんだよ」
 熟しすぎた実をするすると回せば、皮は音もなく剥がれていく。サフィギシルは円を描くそれを眺めながら待つが、カリアラの返答はなかった。見ると、彼は口を真横に結んで沈黙を守っている。
「喋っていい」
「腹がへったから食おうとしたけど雑炊とそれしかなかったから」
「ああはいはいそうですか」
 律儀に言いつけを守り通したカリアラは、ふう、と満足な息をついた。見ない見ない見ない、とサフィギシルは心で唱える。感情の深い部分が、カリアラに関わることを拒んでいた。だがカリアラは皮むき作業が珍しいのか、丸い目を近づけてくる。手元にまとわりつく顔がうっとうしくて、サフィギシルはカリアラの鼻先で、パン、と手を叩いた。カリアラは面白いほどびくりとして、素早く体を後ろに引く。水槽を小突かれた魚そのままの動き。見開いた目できょときょとと見返されて、サフィギシルは本の言葉を思い出した。“彼らも他のピラニアたちと同様、非常に臆病な生き物である”
 複雑な思いと共に、剥き終えた実に刃を入れた。
(弱い)
 果肉は抵抗なく割れる。サフィギシルは、にわかにカリアラに抱いた思いが掻き消えているのを知った。何を心配していたのだろう、と馬鹿らしく感じてしまう。こんな悪意のかけらも見えない男が、まさか仲間を皆殺しにしたのではと疑うなんて。
(そうだ、それに)
 シラがカリアラと初めて会った時、カリアラはまだ小さな子どもだったのだ。シラだって言っていたじゃないか、カリアラカルスは強い魚だが、稚魚のころにはその力はまだないと。そんな小さなカリアラが、凶行に及べるはずがない。
 ほっとするのと同時にりんごを切り終え、カリアラに手渡した。
「ほら、食えよ」
「うん。お前も食うか?」
「いや、それよりも水……濃水まだあっただろ」
 汲み置きを探るように台所へと視線をやる。もっとも、背の高い棚が邪魔になって直接見えはしないのだが。
「じゃあ、おれ持ってくる。待ってろ」
 カリアラは席を立つと、振り向きもせずに言う。待つというほどの距離もないが、素直に従うことにした。棚の奥に消えるカリアラを見送って、サフィギシルはただぼんやりとその場を眺める。
 丁寧に皮を剥いたりんごは、手をつけられることもなく食卓に転がっている。それを見て、もう丸一日も料理をしていないことに気づいた。カリアラも、シラも、その間食料に困っていたのだろう。こんな、腹を壊しそうな果物に手を出さなければならないほどに。
(何でもいいから作っておけばよかったか)
 憂鬱のまま部屋に閉じこもっていた。さらにはビジスに体を乗っ取られ、気づけば深夜になっている。しかも、食事の用意を忘れていただけではない。あまりにも酷いことを言ってしまった。カリアラにも、ピィスにも。
 自分がしてしまったことを思い出し、サフィギシルは心臓が締めつけられるのを感じる。息苦しさにうつむくと、頭を上げられなくなった。首のあたりを黒い手に掴まれているような気がする。お前は前を向いてはいけないと言われているように思えた。
 カリアラが戻ってくる気配を感じて、サフィギシルは逃げたくなる。だが自制した。それではいけない、このままではいつまでも同じだと考える。カリアラに謝らなければ。あんなにも酷いことを言って済まなかったと、そう口にしなければ。
 カリアラが近づいた。サフィギシルは意を決して顔を上げる。
 だがその目の前に巨大な陶器の鉢を置かれた。両手で抱えなければ運べないほどの器。もしかしてと思った瞬間、カリアラは持ち上げた水差しを鉢の上でぐるりと返した。汲み置きの濃水は滝のごとくに落下して、大量のしぶきを散らす。サフィギシルの顔面は、雨に打たれたかのようにびしょぬれとなった。
「…………」
 濃水は目に染みる。
「…………」
 暗い思いも罪悪感も吹き飛んだ顔で見上げると、カリアラは水差しをひっくり返した格好のまま、真顔で器を確認している。
「よし、入った」
 お前これわざとだろう仕返しだろう純粋ぶるなこのピラニアが。程度の罵倒はよぎったが、本当に真剣にやったことに思われたので、サフィギシルは口をつぐんだ。カリアラはサフィギシルの睨みを見もせずに席につく。
「そういえばピィス、怒って帰ったんだろ」
「いやそうじゃないだろ!」
 カリアラはわかっていない表情で、きょとんと丸い目を向けた。
「なにがだ?」
「水! 多!!」
「あ、もう一杯いるのか?」
 サフィギシルの熱に反して、カリアラはあくまでも動じない。サフィギシルは脱力しそうになるのをこらえて、懸命に抗議した。
「そうじゃなくて、こんなに飲めるわけないだろ!? あっ、しかもお前自分だけそんなカップで」
 カリアラはごく普通のカップを持っている。彼は当たり前の顔で答えた。
「だっておれ、そんなに飲めねえし」
「俺だってこんなにいっぱいいらねーよ!」
 身を乗りだすほどに怒鳴るが、カリアラはきょとんとするだけ。
「だってお前、もっと飲んだ方がいいぞ。顔色悪いし、何も食ってないし、部屋から全然出てこないし。危ないぞ。敵が来たらやられるぞ」
「どこに敵がいるよ……」
 サフィギシルは不毛を知って頭を抱えた。だが続いた言葉に息を止める。
「ピィスがずっと心配してたぞ。お前が部屋から出てこないから。引きずり出そうかとか、何か食い物もって行った方がいいとか何回も言ってた。あいつ、お前が心配だからこの家に来てるんだ」
 途端に、忘れかけていた体の重みがぶり返した。肺を押さえられているようで、サフィギシルは上手く呼吸ができなくなる。思い出すのは、部屋を出て一番に見た、嬉しそうなピィスの笑顔。そしてその後の怒りの顔と、重い怒声。
 カリアラはさらに続ける。
「ひとりだと危ないだろ。敵が来たら食われるぞ、殺されるぞ」
 いつも通りの表情と声。だがその言葉は特別な意味を持って聞こえた。ひとりだと、と反芻し、サフィギシルはカリアラを見ることができなくなる。その目を見てしまった瞬間何かが壊れてしまうようで、おそろしくて下を向いた。鉢の水に映った顔があまりにも情けなくて、思わず呟く。
「いいんだよ、俺なんか」
 言葉はするりと口をついた。
「別に、死んでもさ」
 その声は気まずい音で部屋に落ちた。後を引き、いつまでも空気に残っているように感じられてサフィギシルは机を見る。それでも視界の端でカリアラの反応を待っていた。
「そうか」
 カリアラは、静かに言うと水差しを傾けた。カップに注ごうとするがもう残っていないのだろう、振っても数滴が落ちる程度である。諦めてテーブルに置き、そこでようやく声を上げた。
「えっ」
「遅!」
 気まずさを忘れて思わず見ると、カリアラもまた驚いた顔で見つめてくる。
「死んでもいいのか!? 死にたいのか!?」
 飛びかかりかねないそれに咎める色はなく、浮かぶのはただ純粋な驚愕ばかり。まるで不思議な生き物を発見したかのような、信じられない顔をしている。あまりに意外な反応に、サフィギシルは口ごもった。
「いや……うん、まあ」
「なんでだ? なんで死んでもいいんだ?」
「あー……なんというか、えー……」
 なんでだろう、とサフィギシルは自分でもわからなくなっていた。必死に答えを探しながら、どうしてこうなったんだと首を傾げたくなる。予想外の状況に暗がりも吹き飛んでしまったようだ。見つめてくるカリアラの目はただひたすらにまっすぐで、そこには想像していたような、咎めたり、止めたりという気配はない。彼はただ純粋に不思議がっているのだ。どうして死を願うのか。
 サフィギシルは気がついた。死にたいなんて考えは、野生動物には存在しないものなのだ。
「まあ、そういうこともあるんだよ。人間には」
 はぐらかす答えを口にすると、カリアラはパチパチとまばたきをした。
「そうか……」
 カリアラはまだしかめた顔で悩んでいるが、これでもう解決したとサフィギシルは決めつける。重荷がどっとおりた気がして息をつきそうになり、違和感に包まれた。確か俺はこんなことを言おうとしたわけではなくて。
 ひきつれた記憶の糸をたぐれば、ようやくそれに思い当たる。そうだ、謝ろうとしていたんだ。こいつに謝らなければいけなくて、なのに俺は
「ああ!」
 戻りかけた暗い思いはカリアラの声で吹き飛んだ。見ると、カリアラは謎が解けたといわんばかりの嬉しそうな顔をしている。彼は満足そうに言った。
「そうか。じゃあお前は“しあわせ”なんだな」
 寸断されたサフィギシルの思考はさらに迷子になってしまう。遠くに飛ばされた思いでただぽかんとしていると、カリアラはその理屈を述べた。
「ピィスが前言ってたんだ。人間は死んでもいいって思うことがあるんだって。そういうのをしあわせって言うんだって教えてくれた。それなんだな、お前」
 ばらばらだった話の欠片がぴたりと合い、呆然と口を開く。
「違う」
 言葉は途端に力を持って、感情を走らせた。焦りが口をまわしていく。
「違う、それは違う。そうじゃない」
 何を言いたいのかわからなかった。ただ、否定しなければいけなかった。サフィギシルは焦燥のまま工夫のない言葉を連ねる。
「違うんだ。そうじゃない、違うんだ。違うんだ」
「そうなのか? じゃあ、どういうのが“しあわせ”なんだ?」
 きょとんとしたカリアラの目に言葉が止まる。
 じゃあ、どういうのが。
「それは」
 知らずうちに強く望んでしまったのか、頭の奥に次々と言葉がひらめく。幸せとはすなわち幸運幸福巡り合わせに恵まれること人間に訪れる感情の一つであり
(違う。違う、そうじゃない。そうじゃなくて、知りたいのはそんなことじゃなくて)
 困惑しながらも彼は答えを知っていた。今自分に言えることは。今、ここで口にできる回答は。
「……わからない」
 ただ、それだけ。どれだけ考えても答えることなどできはしない。サフィギシルは弱々しい声で続けた。
「わからない」
 だって自分は幸せなど感じたことがないのだから。
「でも、違うんだ。これは幸せなんかじゃないんだ」
 サフィギシルは降りかけた闇を払いたくて言葉を連ねる。だが、話すほどに暗がりは増すばかりだった。
「幸せっていうのは、多分、すごくいいもので、何の心配もいらなくて」
 ずっと不安で心配だった。どうして自分はいつまでたっても何もできないままなのか。どうしてこんなに力ないままなのか。
「……怖いものが何もなくて、嫌なことを考えることもなくて」
 前の、人間のサフィギシルが怖かった。いつか『外』から帰ってくるんじゃないだろうかと、心のどこかで思っていた。思いがけず鏡を見ると、映っているのが前のサフィギシルに見えて、いつの間にか乗っ取られてしまったようで怖かった。
 誰かに名前を呼ばれる度に、本当に自分のことを言っているのか心配でしかたがなかった。
「ずっと欲しかったものが手に入るとか……そういうのが、多分」
 自分はここにいてもいいのかずっとずっと不安だった。
「そういうのが、幸せ、なんだ」
 言葉は途切れ途切れになった。なんで俺は何もできないんだろう、なんで役に立てないんだろう。そうやって悩むこともないのが幸せなのだ。こんな風に、いつも落ち込んでしまうような、後悔ばかりの状態で幸せなはずがない。こんなのは幸せじゃない。
 空気の重みに耐えきれず、サフィギシルはうつむいた。密度の濃い暗闇が頭の上にのしかかっているようだった。指一つ動かすことができない。呼吸すら、か細く儚い。
 少しの間、そのままに時間が過ぎた。サフィギシルは物事について考えることすらできなくて、ひたすらにつらく時を過ごす。終わらせて欲しいと願った。これを、この重みをなんとか。
 願い、目を閉じた時、カリアラがいつもの声で言った。
「そうか。わかった」
 サフィギシルは思わず上目に彼を見つめる。カリアラは、何一つ変わらない調子で続けた。
「しあわせって、“群れ”のことなんだな」


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