目が覚めると、椅子に座っていた。サフィギシルは自分に何が起こったのか理解できず、戸惑いの目をあたりに向ける。だが見えるのは夜を表す暗闇ばかり。無意識に手をかざし、魔術の明かりをつけ直すと、物の散らかる作業室が白々と浮かびあがった。 過ぎた時間の記憶がなかった。さっきまで入り口のドアにもたれていたはずなのに、どうして今は作業机に着いているのだろう。昼間だったはずなのに、いつ夜になったんだ? サフィギシルはまだ上手く回らない思考をよそに、何気なく、机に散らばる紙類をまとめていく。大きさを揃え種類をまとめ、折りたたまれた設計図を重ねては隅に置く。単調な作業を進めるうちに、ようやく頭が動き始めた。思い当たった一つの事実は確かな言葉に変化して、くっきりと意識に浮かぶ。 ビジスが起きていたのだ。 紙を持つ手が止まる。体が一気に冷えるのが、面白いほどによくわかった。また意識を奪われた。また、体を使われていた。昼から夜への長い時間、ビジスがこの体を動かしていたのだ。 (じゃあなんで何も言わないんだよ) あれから何度父に話しかけただろう。だが依然として反応はなく、ビジスの意図は読めないままだ。得体の知れない恐怖心がうっすらと渦を巻く。 だがそれは、心を揺るがす程ではない。それ以上に重く深い倦怠感が全身に満ち満ちて、動揺を鈍くしていた。どうでもいいと心で呟く。声に出す気にもなれない。 (爺さん) 呼びかけは自身の内に潜む父へ。 (なんで何も言わないんだよ。なんであんな薬飲んだんだよ) 問いかけは既に虚無へと向けられていて、答えを望む意思すらない。封印による魔力の消費によるものなのか、体を満たす無力感がそうさせるのか。サフィギシルは重い体を椅子にまかせ、木の硬さを感じながら問いを続ける。 (あれが毒だって知ってたくせに。飲んだら死ぬってわかってるのに、なんでそんな自殺みたいなこと) 自問にも似た無意味な問いを。 (……知ってるさ。わかってる、この体に入るためだ。俺のせいで生身の体がもうだめになったから、こっちに入り込んだんだ。この体で、もう一度生きるために) サフィギシルは手を広げ、また弱く握りしめる。傷も荒れも見つからない、何一つ知らない手。病を持たず、老いを知らず、自ら望めば永遠の命すら幻ではない木組みの器。世界中の技師たちが、何よりも強く求めるビジスの技の集大成だ。 (あげるよ) サフィギシルは居所の知れない父に言う。 (俺が病気にさせたんだ。俺のせいなんだ。だからいいよ。この体、爺さんに全部やるよ) 思い立つと、少し気が楽になった。そうするべきだと強く感じ、何もかも渡してしまおうとする。隅々の力を抜いて、より椅子の背に身を任せた。違和感のような鈍い痛みが背骨に響く。それにも構わず、ただ意識が遠のくようにと願いながら目をつむる。 (俺はもういいから) 二人分の魂が、一つの体を共有していくことはできない。今ビジスが中に潜んでいられるのは、サフィギシルの魂がまだ完成しきっていないからだ。このまま時間が進んでいけば、いずれ必ずどちらかが出て行かなければいけなくなる。 (俺が出て行く) 譲らなければ、追い出されるのは後から来たビジスの方だ。 (この体は爺さんが使ってくれよ。爺さんが生き続ける方がいいんだ。俺なんかが生きるより) 無知と、無力と、全身を這う無気力が何もかもを奪っていった。何も知らない、何もできない。前のサフィギシルとは比べ物にもならないほどの力なさ。ビジスを助けられなかった。それだけでは飽き足らず、その命を吹き消した。周囲には当りちらし、ただ傷つけることしかできない。何をしても上手くいかず、どうすればいいのかわからない。 足を踏み出すべき道がことごとく閉ざされている気分だった。目の前には何もなく、一歩も進むことができない。 (俺はもういいから) ため息すら出ない疲労に侵されたまま呟く。無力な自分を見つめながら。 (俺はもう、要らないから) そして、意識を手放そうと試みた。 けれど眠りは訪れず、待ってみても、願ってみても、覚醒は揺るぎもしない。感じるのはおそろしいほど確かな現実。決して夢などではない、変わりのない部屋の中。 (爺さん) 憤りのまま吐き出したのは呼びかけか独白か。サフィギシルはまぶたの皺を深くして、感情のまま拳を握る。 (なんで受け取らないんだよ。なんで何も言わないんだよ。何がしたいんだよ、わかんねえよ!) 叫びは相手を見つけることなくただ虚無に消えていく。 (俺はどうすればいいんだよ、あんたはどうするつもりなんだよ! 一体どうしたいんだよ!!) それでも彼は無闇に叫んだ。すべてを吐き出す悲鳴を上げた。 (わからないわからないわからない! もう嫌だ、もう嫌だ!!) (『知りたい』!) 頭の奥で何かが弾けた。 その途端、あふれるように大量の文字が視界を覆う。 クイヒニーにおける言霊の信仰は主に夜の祭祀に特化しており彼らは皆呪文のように望みばかりを口にするそれが夢でないのならば聖刻における現実の中に新たに生まれいずるものか火の中に現れるそれが 指先など先端部に麻痺が見られる場合はまず夾桃竺の根を集め火山花を燻したものと共に理氣水を少量混ぜ時間をかけて炊き上げたものを耳元に盛り魔力と共に癇言を唱え取り除き赤く残れば脳に繋がる神経の異常 まず肝要なのは静かな心冷静さと確かな目による判断と 思わず目を見開いても言葉の波は掻き消えず、読みとれない程の速度で頭の中を駆け巡る。様々な言葉が文字となり意識となってとめどなく押し寄せる。目を耳を頭を脳を休みなく働かせる。 「――――!!」 叫ぼうとした言葉すら文字の並びに掻き消され、悲鳴は音にもならなかった。サフィギシルはわけもわからず席を立ち、混乱のまま無様に転ぶ。受身もない無防備な姿勢で倒れ、床板に触れた途端その素材の名前が頭に浮かぶ。 シィカと呼ばれ主にジクローダから輸入される大木だがこの家にはアーレル東部のものを使っている切り取った林業者はバスカノーズ交渉はセタ歴八八四年六月………… 言葉は狭い脳から押し出されるようにして、実際に見る視界にまで現れる。黒い文字が服を流れ肌を伝い腕を覆い、指先から床に向かってとめどなく流れていく。やや黒ずんだ板に乗ると文字は白く変化して、壁に向かい洪水のようにあふれ、流れる。部屋の隅にたどりつくと休む間もなく壁を昇り、天井まで覆っていく。 サフィギシルは混乱と恐怖のまま部屋中を見回すが、その目が向かう先には必ず文字の羅列が躍る。隙間なく言葉が並び、走り、渦を巻き、視界のどこにも平穏はない。頭を景色を黒い文字が空白なく覆いつくす。 それは本の中身と誰かの記憶。広く深くこの世のすべてを網羅する、おそろしく仔細な知識。 「世界」 サフィギシルは呟いた。 「いい、もの?」 言葉を契機にまた新たな知識があふれ、目の前の机の引き出し上を滝のように落ちていった。床を行き交う細かな文字に混じっていく。素早く走る、虫の群れのようにも見えた。床に開いた小さな穴に指を添えれば、まるで水が湧き出すように、その穴ができた理由が文字によって語られる。転がる本に視線をやれば、その内容が表紙から噴き出した。 サフィギシルは呆然とした思考のままに、ゆっくりと横になる。力なく伸ばした手足が何かにぶつかり、その度に当たっているのはいつどこで手に入れた、どんなものかが新たに視界に混じっていった。ぼんやりと口を開いたままだと気づくと、それはどのような生理現象によるものなのか、また人型細工でそれをどうやって再現させるのかなどが同時に蠢く。 サフィギシルは呟いた。 「……もういい」 文字が、ぴたりと動きを止めた。 「『戻れ』」 静かな声。それは力を帯びて、不思議な調子で部屋に響いた。 文字は消える。言葉はすべて跡形もなく姿を消した。残されたのは、いつもと同じ作業室。 サフィギシルは重い体を横たえたまま、ぼんやりとあたりを見回す。文字も言葉も躍らない。ただ、見慣れた家具が、散らかる本が、雑に置かれた作業道具や部品たちが並ぶだけ。 それを確かめると安堵して、手足を広げて脱力した。疲労のままに目を閉じる。 (呪文か) 知りたい、と心の中で強く叫んだ。それが知識を呼び起こしたのだ。ビジスがあの時魂と共に送りこんだ、底知れない深さの知力。世界のすべてを掌握したと言われる天才のそれが、今、確かに自分の中にある。 (だから、作業が進んだんだ) ビジスの死後、戯れに、作りかけで転がっていた部品をいじろうとした。すると人型細工に関する細かな知識や作業手順が自然に頭のうちに浮かび、完成させた部品は、ビジスのものと比べても遜色がないほどの出来だった。あの時も、同じように心の中で呟いたのだ。部品を開いてみたものの、その後の手順がわからず「次はどうすればいいのか『知りたい』」と。 心の底から素直に望む意志が、知識を開く鍵だったのだ。 ようやく、ため息をつく元気が戻る。体は重くけだるいが、大きな謎が音を立てて開いていく喜びがあった。未知なるものへの恐怖心が一つ減り、彼はまた安堵によるため息をつく。『世界』が一体何なのか、渡されたものが何なのか。それが理解できただけでも心が幾分軽くなった。 「でも」 口をつく声は弱い。 「爺さんは、わからない」 もう一度望んでみようかとも思ったが、またあの状況を呼び起こすのは嫌だった。流れる文字に頭を乱されて、酔ったように気分が悪い。今はとにかく何もない景色だけを見つめていたかった。ただの古びた木の天井、同材の壁に、貼られた図面や並ぶ家具。大小各種の引き出しを持つ棚に、積み上げられた箱や本たち。生まれてからずっと変化の少ない光景。 それらを一つ一つ疲れた目に映していくと、ふと、机の上に見慣れない本を見つけた。倒れた時に、知らずと机上を散らかしてしまったのだろう。本はその余波を受けて、斜めに体を見せている。ともすると落下してきそうに思え、サフィギシルはのろのろと体を起こしてその紺色の本を取った。あまり厚いものではない。表紙に書かれた題名は『森の中で』、著者は覚えのない名前。題を染める金色も、中の紙にも年代は感じられない。まだ比較的新しいもののようだった。 どう考えても見覚えがなく、サフィギシルは怪訝な目で本を見回す。少なくとも、今朝まではここになかったはずの物。 サフィギシルはぴたりと目をとめた。付箋が本の中から飛び出している。その端には見覚えのある筆跡で、人魚、とただ一言。 ややくせのある尖った文字は、ビジスによるものだった。 白く作りたての付箋、まだ色鮮やかな青いインク。父の残した動きの跡は、明らかにまだ新しい。サフィギシルは焦りのために震える手で本を開く。見開きの隅に貼りついている付箋の先には、細い矢印が記されている。突先は段落頭を示していた。サフィギシルはその小見出しを口にする。 「愚者により絶やされたピラニア、カリアラカルス」 うわついた声をよそに、目は本文をたどりはじめた。 |