第5話「生きるための選択」
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「大丈夫か?」
「……ええ」
 気遣う視線を受けて、シラはかすかに微笑んだ。淡い春を溶かしたような、見るものの胸にまで暖かさをもたらす笑顔。だがカリアラは眉を寄せた。微笑み続けるシラの頬に手を添えて、彼女の目をじっと見つめた。
「そうじゃない」
 透き通る、浅瀬の色をした瞳。それがふるりと揺れたかと思うと、まるで水が引いていくようにシラの顔から笑みが失せた。うっすらと曲線を見せていた頬は平らに広がり、目も、くちびるも、意志の力を失ってあるがままの形に戻る。感情を伝えてこない動物の顔。歪み一つ見せないそれは、整った顔立ちを恐ろしいほどに際立たせる。人間がそれを見れば畏れを感じてしまっただろう。だがカリアラは、嬉しそうに笑った。
「シラだ」
 甲高い魚の声が彼女の喉から放たれる。カリアラもまたキリキリと歯を鳴らしたところで、シラの口許は笑みにほころぶ。彼女は諸手を投げてカリアラの膝に飛び込むと、何もかもを壊すような声で言った。
「ああああ疲れたああああ〜」
 言葉じりは腹の空気をすべて吐き出すため息となり、シラは脱力した全身をカリアラに預ける。カリアラはびくりとしながらも、水揚げされた巨大魚のような彼女を抱きとめた。
「だ、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないわよー。ああ、もう駄目かもしれない。力が出ないのふらふらなの疲れてるの泣いたから。こんな状況でわめいたから無理が来てふらふらなのわかる? わかる? 私今すごく大変なのよなんでかわかる?」
「腹減ってるんだよな」
 カリアラはいつも通りの真顔で答えた。
「そう。そうすごくお腹すいてるの。それはもう天地も転がらんばかりに空腹なのよ聞いてくれる聞いてくれる? 媚薬全部出し切ったのよ? もうひとっつも残ってないのよなのに人間食べてないのーなんでーどうしてー。人間食べたーい」
 人魚は、『狩り』をすると大量の力を消費する。通常は獲物の養分で精力を取り戻すのだが、今回は未遂に終わってしまったために、消耗を補うことができなかった。おまけに二人は昨日からまともな食事を取っていない。サフィギシルはろくに部屋から出てこないし、いまだに残っている、おそろしげなビジス料理を口にする度胸もない。今の二人の胃の中には、果物など、調理なしでも食べられるものしか入っていなかった。
「絶対に嫌がらせよあの自称雑炊。おかしいわよ生物の食糧じゃないわよ絶対。ああ暗黒。ああ雑炊。第一なんで私が怒るのよおかしいじゃない、なんで言われてもない私の方がこんなに怒ってこんなに疲れてしまっているのああ暗黒。ああ雑炊〜」
 シラは大袈裟なしぐさで顔を覆うと、そのままベッドに倒れこむ。心配そうに見つめてくるカリアラに手を振った。
「だいじょーぶ、心配ない。ああ、久しぶりにまともに喋ったような気がする」
「うん、おれも久しぶりに見た」
 彼女を見るカリアラには、深い安堵が広がっている。
 川の中では、これがシラの平常だった。様々な言葉を交え、カリアラに向けてよく喋りよく愚痴を言う。ただの小さなピラニアだったカリアラは、そのため多くの言葉を覚えた。口にできる発音自体は少ないが、聞き取りうなずくことはできる。泡を一つ吐けば肯定、二つ吐けば小さな否定。口を挟みたくなった時は、水を揺らして魚の言葉を短く吐いた。
 人間の言葉ほど語彙はないが、それでも意思の疎通は図れる。何も知らない者が聞けば、人魚だけが一方的に喋っていると思っただろう。だが小さなピラニアも、彼女の話に言葉を返し、静かな会話を交わしていたのだ。それが彼らの日常だった。
「…………」
 キュイ、と甲高い音がした。カリアラは寝転ぶシラに顔を向ける。シラは照れくさく笑いながら体を起こした。カリアラの隣に座り、身を寄せて腕を絡める。慣れないしぐさに戸惑う彼に、極上の笑みを見せた。そのまま、ゆっくりともたれかかる。
 シラはさっき発した音を、愛しさをもって反芻する。短いそれは人魚の言葉などではない。魚たちの言語でも、ましてや人のそれでもない。
 これは二人だけの言葉だった。言語の異なる彼と彼女が最初に共有した合図。互いを呼ぶ、名前代わりの呼びかけだった。
 感傷じみていると思う。二人はもう人間の名前を持って、手足のある体を使い、人の言葉を喋るのだから。二人だけの言葉たちは、もう戻ることのできない世界に閉じ込められている。
 過去に浸ってしまうほどに追いつめられていたと気づき、シラは自嘲の笑みを浮かべる。弱気に責め立てられていたのは、あまりにすべてがうまく行かなかったためだろうか。油断と不運が災いし、狩りを仕損じた挙句に掴まった。すぐにこの国の使者に買われ、研究所に持ち込まれる。脱出に失敗したばかりか尾を斬られて瀕死に至り、助かってみれば人の姿にされていた。足は慣れず激しく痛み、焦りからまた狩りに失敗する。香りの毒を使いきって残ったのは、やるせない濃い疲労だけ。
 シラはカリアラの腕を抱く。深く寄り添い、彼の体温を感じながら目を閉じた。久しぶりの心地よさに体も心もすべて委ねる。暖かい毛布に包まれているようで、このまま眠ってしまおうかと考えた。
 だが、先ほどの出来事がくつろぎの心を乱した。シラは下の部屋でのことを思い出して、後悔と嫌悪に胸がざわめくのを感じる。殴るつもりはなかったのに、気がつけば衝動的に手を出していた。その失態が、彼女の自尊心を傷つけて苛立ちを起こしている。
 人間の前で感情を剥き出しにしてしまった。それは彼女にとって許せないことだった。
「なんで私が怒らなきゃいけないのよ」
 呟くと、カリアラの手がなだめる動きで背を叩く。シラはそれをかわして彼の胸に身を寄せた。こうして、とカリアラの腕を背に回す。カリアラは指示に応じてシラの体を抱きしめた。
「あーいいなー大きな体があるってー。やっぱり抱きごこちが違うもの〜。大好きー」
 シラもぎゅうと抱きしめかえし、脱力した声で言う。だが抜け目なく忠告を後に続けた。
「でもね、他の人はこういうことをされると嫌がるの。だから他の人にはしちゃだめよ」
「そうか」
 わかった? と念を押され、カリアラは素直にうなずく。シラは満足そうに頬を寄せ、くすくすと笑った。カリアラはされるがままの格好で訊く。
「シラは嬉しいのか?」
 どうして彼女がそうしたいのかわからないという顔をしている。シラはとろける笑みを見せた。
「うん、私はすっごく嬉しい」
「そうか」
 カリアラは口許をゆるませた。じわじわと笑みがふくらみ、彼はこらえきれないほどに嬉しそうな顔になる。あふれだす喜びのままに、強く彼女を抱きしめた。シラはわけがわからない。
「どうしたの?」
 カリアラはにこにこと笑いながら言った。
「シラが嬉しいから、おれも嬉しいんだ」
 ぴたりとシラの動きが止まる。彼の内側に伸ばしかけていた手を、少しずつ撤退させた。彼女はひどく遠くを見つめる。
「私はいつからこんなに汚れてしまったのかしらね……」
 カリアラは首をかしげる。シラは一線を越えようとした手を、諌めるように握りしめた。
「ど、どうした?」
「ちょっとした自主規制を」
 漂った妙な凄みにカリアラが怯えるのも楽しくて、シラは明るくなった気分でこれからのことを思う。今ならすべてが上手く行きそうな気がした。そうだ、たった一度の失敗で駄目になるはずがない。
 シラはまたつくり笑顔を浮かべる。穏やかで優しくて大人しく物静か。ぼろが出てしまわないよう言葉を丁寧語で覆い、その微笑みにすべてを隠す。そうすれば、人を騙して生きていける。
 サフィギシルがまた動けるようになったのは、最大の誤算だった。彼は必要な時だけ使えばいいと思っていたのだ。だからこそ、本性を見せた後も生かし続けることにした。だが彼はビジスの修理によって、今までと変わらない生活を続けている。シラは、何よりもそれが気になってしかたがない。
 でも、と彼女は思い直す。さっきの様子なら、心配はいらないかもしれない。サフィギシルと目が合った時、シラはとっさに微笑んだ。それを見てサフィギシルはあからさまに怯えたのだ。彼はまだ自分を恐れている。それならばきっと、これからもやっていける。サフィギシルを脅しながら生きていけばいいだけだ。
 シラはこぼれそうになる喜びを内に抑え、偽の微笑みを続けた。それを見るカリアラの顔は不満げに曇っている。
「シラ、それ、やめないか?」
「あら、どうしてですか?」
 穏やかに。優しく。やわらかく。シラは頭で反復する。そうすれば顔を彩る仮面はびくりともしなかった。また元に戻ったシラの姿に、カリアラが戸惑っている。
 彼は何と答えるのだろう。シラは微笑みながら考えた。「それは慣れないからいやだ」? まさか。彼がそんなことを言うはずはない。「サフィをいじめるのはだめだ」? 「人間を騙すのはよくない」?
 シラは嫉妬の蠢きを止めることができない。カリアラは、人間を大事にしようとしているのだ。下手をすると自分よりも人間の方が好きかもしれない。そう思うとシラは絶望的な思いがした。どうせ私は人間に有害な人魚ですよと言いたくなる。あなたの大好きな人間を脅そうとしている恐ろしい生き物ですよ、と。カリアラは、その計画を止めるつもりに違いないと考える。
 だがカリアラは、まっすぐにシラを見つめて言った。
「シラ、人間は怖くない」
 落ちついた声だった。真摯な目で見つめられ、シラは微笑みを強張らせる。カリアラは、ひとつずつ言い聞かせるように語った。
「人間は、もうおれたちを捕まえない。おれたちもおんなじだから。人間だから。人間は人間を狩らないから、だから、もう怖くない。そんな風に警戒しなくてもいいんだ」
 シラの顔から作り笑顔が引いていく。知らずうちに溜め込んでいた濁りが溶けていくようだった。体を固めていたものがほろほろと剥がれ落ちる。彼を見るシラの表情は、呆けたようにゆるんでいく。
「だから、もう大丈夫だ。そんな風にしなくても、人間はおれたちを狩らないから」
 何年もの間抱えていた重みが抜け落ちていくようだった。カリアラは懸命に言葉を重ねる。シラはどこまでも澄んだ彼の目を見つめていたが、湧き上がる感情を抑えきれず、うつむいた。
「シラ?」
 涙は音もなく流れた。シラは垂れた頭を彼の体に押しつけて、泣きじゃくる。
「いや。いや……こわい」
 彼女は初めてその感情を口にした。ぐずるように、弱々しく首を振る。
「人間は、私たちを裏切るもの」
 言葉は涙と共にこぼれた。カリアラは優しく背を叩いて言う。
「シラ、大丈夫だから。サフィは悪い奴じゃない、だから仕返しなんかもしない。ピィスも悪い奴じゃない。だから大丈夫、安心してもいいんだ」
 カリアラは一生懸命に繰り返す。
「シラ、すごくつらそうだ。だから、いつもどこでも、さっきみたいにいっぱい喋った方がいい。ずっと警戒してるの大変だろ? 大丈夫だから。人間はもうおれたちを狩らないから」
 彼の言葉がゆっくりとからだの中に染みていく。胸の内に溶けたそれは、次々に涙をうながした。嗚咽を止めることができなくて、シラは彼の服を握る。
 ずっと命を賭けてきた。何度も危険な目にあった。それはこちらからの狩りの場合だけではない。いつ現れるともしれない人の手を警戒し、住処を替えては水を読む。危険な動物たちを避け、変化する環境に負けないよう気をつけた。そうやって、ずっと自分と彼を護ってきた。
 それでも滅多に人の来ない熱帯島は、まだ暮らしやすかった。でも、この人間だらけの陸の上では。笑いながら人魚を斬る者たちのいる場所では。
「もう大丈夫だ。心配しなくてもいい。おれ、今は大きくなった」
 カリアラは得意そうに言う。自信に満ちた声で強く語りかけてくる。
「おれはもう手もあるし足もある。噛む力も強くなった。だから、もう怖がらなくてもいいんだ」
 ずっと小さかった彼が。初めて出会ったころは弱々しくて、ひとりで餌をとることもできなくて、夜には怯えて彼女の髪から離れようとしなかったカリアラが、今はシラの手を握り、まっすぐな目で語りかけてくる。
「おれは強くなったから。もうシラは何もしなくていい。敵がいたら、今度はおれが倒すから」
 呆然と上げられたシラの顔を見つめ、カリアラは力強く言った。
「これからはおれがシラを守る」
 シラの目からは涙があふれて次々と頬をつたう。カリアラはおろおろと心配そうにそれを見つめ、ふと思い出したように、そっと彼女を抱きしめた。
「シラ、シラ、これでいいか? これで嬉しいか?」
 シラは答えることができず、ただしがみついて泣く。抱きしめられた彼の体は暖かくて優しくて、そして確かな揺るぎのない場所だった。弱い姿もさらけ出せる大きなぬくもり。
 彼女は生まれて初めて心の底から安心できる場所を得た。
 その代わり、現実に立ち向かっていかなくてはならない。人間への恐怖を捨てて、自らのすべてを無防備にさらけ出さなくては。微笑みという自衛の盾は重すぎて、もう支えきれないのだから。
「いや……人間はきらい。人間になんかなりたくない。いや、いやよ……」
 だが彼女はだだをこねた。泣きじゃくりながら彼に縋った。あたたかくて居心地のいいここにずっとこもっていたい。人間になるのなんてやめて、彼とふたりだけで思うがままの暮らしをしたい。それは実現することのない、ないものねだりだと知っている。それなのにわがままを止められなかった。いやだとわめいて彼を困らせた。
 シラは自分自身の幼さを思い知った。涙の残る声で言う。
「なんで、私はいつまでたっても子どもなの?」
 カリアラは、強く彼女を抱きしめる。シラは彼にしがみつき、あふれる涙のままに言った。
「どうして、あなたは大人になっちゃうの……?」
 水の中で、毎晩のように嘆いていた台詞だった。
 彼女は三十六年を生きた。それでも人魚の尺度で言うと、まだ幼い少女にすぎない。彼女たちは長い長い三百年を生きていく。
 だがカリアラカルスは生きて十年。十二、三まで生き永らえれば稀な長寿とされる方だ。カリアラはもう二十年近く生きた。その時は彼にとってはおそろしく長いものだが、彼女にとっては悲しいほどに短い時間でしかない。シラがふと気づいた時には、彼は大人になっていた。そしてみるみる歳を重ね、彼女はいつ訪れるかわからない別れの時に怯えながら生きてきた。寿命は越えた。彼の体はいつ死を迎えても不思議ではなかったのだ。シラはそれが恐ろしかった。永遠の別れが、後に続く長い長い孤独な時が怖かった。
「シラ」
 顔を上げると、カリアラは笑っていた。彼は嬉しそうに言う。
「人間は八十とか九十まで生きられるんだ。ビジスが言ってた。それに、この体は歳を取らないから、がんばればもっと生きられるだろうって。おれ、まだまだいっぱい生きられるんだ」
 彼は優しく背を叩く。にこにこと嬉しそうに言う。
「おれたち、ずっといっしょにいられるんだ」
 シラはまた静かに泣いた。震える声で、かすかに囁く。
「私を置いていかないで」
「うん」
 カリアラはうなずいた。シラは彼の腕を握る。
「ずっとずっと一緒にいて」
「うん。いっしょにいる。できるようになったんだ、おれは人間になったから」
 カリアラは嬉しそうに笑っている。それが、ふと何かを思い出すように止まった。
「それに、おれ、子ども守れたんだ」
 シラは哀しげな目で彼を見上げる。カリアラは、見つめ返すこともなく続ける。
「おれが、子ども、守れたんだ」
「知ってる。何回も聞いたもの」
「守れたんだ、子ども。おれが、子どもを」
 彼はどこか別の場所を見つめているようだった。シラは涙を拭い、うなずく。
「うん、そうね」
「うん。人間っていいな」
 ようやくこちらに戻ってきた視線を受けて、シラは疲れたように笑った。
「あー、じゃあもうしょうがないか。私も人間になっちゃおう」
 暗さをどこかに脱ぎ捨てた、弱々しくも明るい笑い。カリアラもまた安堵したように笑う。
「そうか」
「そうよ。すごくいやだけどしょうがない、慣れてみせるわ。でもね、でもね一つだけ聞いてくれる?」
「なんだ?」
 カリアラの膝にのしかかり、シラはため息のままに言う。
「おなかすいた」
 すねた甘い声を受けて、カリアラは小さくうなった。


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