第5話「生きるための選択」
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 サフィギシルは彼女を見上げる姿勢のまま、微動だにできなかった。
「……絶滅種」
 それは今までに一度も音として聞いたことのない単語であったし、知識としては知っていたが、遠い世界の事象として捉えていたから、どうしても手元にある現実と結ぶことができなかったのだ。サフィギシルは自分でも気づかぬうちに口の中で繰り返した。絶滅種。もうこの世にいない生き物。
 群れが全滅して、ひとりだけ生き残って、最後の一匹として。
「本人から聞いてなかったのか」
 気まずげなピィスの声に、体は勝手にびくりと揺れた。見ると、彼女は同情めいた顔をしている。
「じゃあ、あいつが人間になりたい理由も知らなかったんだ」
「知るわけないだろ、そんなの!」
 口にしてすぐ後悔に蝕まれる。発言を取り消そうと考えるが、思いとは裏腹に声が出てくれなかった。ピィスに苛立ちが走る。
「じゃあ教えてやるよ。なんで人間になりたいのか聞いた時、あいつこう言ったんだ」
 彼女はサフィギシルの鼻先に指を突きつけた。
「『人間はいっぱいいるから』」
 ああ、と息がもれた。愕然とするサフィギシルの目はピィスの爪を見つめているが、頭にはいつかのカリアラの姿ばかりがある。木製の体に魂を移して、まだ何日もしない時のことだ。人語の発音を解した彼は、夜も眠らず馬鹿のようにその言葉を繰り返した。
「『外に出たい』って……ああ、だから。だからなのか」
 この家の中には少ししかいないから。外にはもっとたくさん人がいるはずだから。
「ああ、だから」
 納得のため息が言葉じりを溶かしていく。サフィギシルは顔を覆いながら、テーブルの足に寄りかかった。皺が寄るほどに固く目を閉じて、膝を握る。吐き捨てるようなピィスの言葉が、痛む頭をさらに叩いた。
「あいつ、街ですっげー喜んでた。人間がいっぱいいるって。『おれと同じやつがいっぱいいる』って。本当に嬉しそうに、ずっと人間ばっかり見てた」
 ずっと独りだった魚が、数えきれないほどの同種をどんな気持ちで見ただろう。自分と同じ生き物が大量に行き交う街は、彼にとってどれほどの喜びだっただろう。仲間を絶やした集団性の生き物が、何よりも望むもの。サフィギシルはきつく歯を食いしばる。――その魚に向かって、自分はさっき何と言った?
 じゃあ仲間の所へ戻れよ。
 貧弱ですぐに死ぬ駄目な種族だ。
 人間になるのなんかやめて、さっさと出て行け。
 ため息すら出てこなかった。頭が痛んで目眩までしそうだった。食いしばった歯をやわらげることができない。少しでも力を抜くと、二度と取り返しのつかない深い場所へ引きずり込まれる予感がした。
「……でも」
 押しつぶされそうな空気から逃れたくて、呟く。
「他の熱帯魚がいるじゃないか。似たようなものだろ? 熱帯島には、カリアラカルスじゃない他のピラニアだっているはずだ。そいつらも、あいつの仲間だ」
「カリアラカルスがただのピラニアなら、それもできたかもしれないけどさ」
 ピィスはやんわりと諭す口調で希望を絶った。
「言葉も合図も通じない。それどころか、少し気配を見せただけで逃げられる。言っただろ、カリアラカルスの群れは、王様呼ばわりされるぐらい強いって」
 ゆっくりと言い聞かせる喋りに覚えがある。これは、半年前と同じだ。無知な子どもにいろんなことを教えてやる、大人の態度だ。そう気づいた瞬間、サフィギシルの目つきが変わった。
「狙われたらおしまいだから、他の魚はカリアラカルスを恐れるよう本能に組み込まれてる。オオカミとヒツジが仲良く暮らしていけないように、カリアラカルスと他の魚は一緒にはなれないんだ。捕食の関係。それぐらいわかるだろ?」
 彼女の視線は憐れみに湿っている。その対象がカリアラではなく自分なのだと理解して、サフィギシルは視界が揺らぐのを感じる。無知を責められている気がした。お前は何も知らないのだと、見下されたのだと思った。
「……なんだよ。結局何が言いたいんだよ」
 吐き捨てる言葉が荒れる。どうでもよく聞こえるそれに、ピィスの顔が険しくなった。それにつられてサフィギシルの感情も煽られる。
「『オレはそれだけ知ってます』って自慢でもしたいのか? ああ結構な知識だよ、べらべらと聞いてもないのに教えてくれてありがとうございました!」
 突然の怒声にピィスは驚いて言いよどみ、ぱくぱくと口を動かした。
「ああ俺は何も知らないよ。呆れるぐらい馬鹿だからな、覚えの悪い物知らずな子どもだからな」
「お前、何言って」
「“前の”サフィギシルなら何でも知ってたんだろう?」
 卑屈に笑う。違うこれは関係ない。そう脳裏で叫んでいるのに言葉ばかりが勝手に進み、感情も坂道を転がるように昂ぶるのを止められない。怒鳴り声に変わっていく。
「悪かったな俺は何にも知らなくて。悪かったな“大好きなサフィギシル”とは大違いで!」
 ピィスの顔がかっと赤らむ。それを見て余計に怒りが増した。
「“本物の”サフィギシルは優しくて気が利いて、頭が良くて物知りで! どうせ俺は優しくもないし何一つできない半人前だ!」
 溜まっていたものが次々とあふれる。激情に動かされるままあたり散らす。
「顔だけ同じで悪かったな。見た目は一緒なのに俺の方は出来損ないの失敗作。どうせ俺は作り物のサフィギシルだよ、どうせ俺は偽物だよ!」
「サフィギシル!!」
 胸倉を掴まれ、壁に体を押しつけられた。至近距離に、怒りに凄むピィスの顔。息すら感じるほどに近くで、彼女は低く強く告げた。
「お前はサフィギシルだ」
 体は勝手にびくりと震える。ピィスの顔に複雑なものがよぎり、それを見て、サフィギシルは自分の顔が情けなく弱まっているのを知る。ピィスはやや距離を開けるが、それでも睨む眼差しは、まっすぐにサフィギシルの弱気を射抜く。
「お前がどんな奴になっても、オレはお前をサフィギシルって呼ぶからな。どんな極悪人になっても、どんな駄目な奴になっても、ずっとサフィギシルって呼ぶからな。それがお前の名前なんだ」
 握られたピィスの拳がみぞおちに重く響く。言葉と同じように、心臓を震わせていく。
「オレが決めた名前なんだ。前に同じ名前の奴がいても関係ねえよ。お前の名前はサフィギシルだ。それがお前の名前なんだ」
 言い終わると、ふと力が抜けたようにその顔に弱みが差した。掴んだ拳の力も抜ける。
「前のサフィは関係ないだろ……いつまで引きずってんだよ」
 自覚している箇所を突かれ、痛さから顔が歪んだ。サフィギシルは、もう言わないでくれと言いたくなる。それでもピィスは続けていく。
「これはお前の失敗だ。カリアラに言ったことも、シラを怒らせたことも、お前自身がやったことだ。人のせいにするんじゃねえ。これはお前の問題なんだ」
 わかっていると叫びたくなる。だが声に出すことができない。彼女の言葉は事実ばかりで逃げることもできなくなる。胸元が、締めつけられるように重い。まだピィスの手に押さえられているようだった。
 至近距離で向けられる彼女の目は、サフィギシルの体を串刺しにして動けなくしてしまう。鋭いそれに間違いはなく、言葉と同じ正しさが彼女に力を与えている。今のサフィギシルには、それが、何よりも痛い。大きな緑色の瞳には、床にへたり込む惨めな自分が映っている。サフィギシルは顔をそむけて立つ。
「逃げんのかよ」
 また、びくりと震える。ピィスの声はおそろしく冷たかった。
「いつまでこんなこと続けるつもりなんだよ。一生か? ずっとこのまま生きていくのか?」
 足が震えそうだった。なんとか表に出さないように、虚勢を張って歩き出す。背に責めるまなざしを感じる。サフィギシルは歯を食いしばった。振り返ると負けだ、終わりだ。
 その足を止めるように、ピィスは低い声で言った。
「爺さんはそんなこと望んでないんじゃねーのか」
 一瞬、心臓が止まったように感じた。サフィギシルは揺らいでいく床の上を早足に進む。静かな廊下に足を踏み入れ、奥の作業室へと向かう。ピィスは憤りもあらわに怒鳴った。
「そこにはもう何もねぇよ!」
 サフィギシルは堰を切ったように走り出す。何もない、時間の止まった部屋に飛び込む。
「逃げんな! ばかやろー!!」
 涙混じりの叫び声を打ち消すようにドアを閉めた。
 足元からするすると力が抜けていき、サフィギシルは崩れる体をドアに預ける。耳の奥ではピィスがまだ叫んでいた。同じ言葉が繰り返されて、その度に体中がどうしようもなく苦しかった。
 目を閉じて、ドアに頭を押しつける。あちこちから弱みが漏れていくようだった。何もかもが溶け出してしまいそうで、サフィギシルはまたきつく歯噛みする。
 泣くものか。彼はそう強く思った。絶対に、泣いたりなんかするものか。一つ涙をこぼした瞬間、体中がばらばらになってしまいそうで恐かった。
 部屋の空気がかすかに震え、ピィスが去ったことを伝える。
 うずくまった姿勢のまま、サフィギシルはかすかに呻いた。

   ※ ※ ※

「もういや―――っ!!」
 階下に伝わらないよう口に布団を押し当てて、シラは声を殺して叫んだ。ぼろぼろと涙がこぼれてシーツを濡らす。憤りは熱となって整った顔を照らし、叫びと共に布も熱く湿らせた。
「もういやもういや人間なんて大っきらい! 何よ何よ何よあれ! もういやっ、もういやああ!!」
 細い手が激情のまま座り込んだベッドを叩く。鈍く響く音に合わせてほこりが舞った。それでも彼女は布団を叩き割らんばかりに、ひたすら怒りをぶつけ続ける。
「どうしてこんなことになるの! どうしてあんな……っ」
 言葉の代わりに嗚咽が続き、次々とあふれる涙が顔を濡らした。
 カリアラは部屋の中に立ちつくし、おろおろと目を泳がせている。なんとかしようと意味もなく両手を出したまま、どう触れようか悩むように角度を変えては首をひねった。
 布団に消えるシラの叫びは次第に人語を離れていき、人魚の言葉や魚の言葉を多く交えて罵倒を彩る。だがそれもすぐに意味を消してただのわめきの連続となり、わあわあとがむしゃらに吐き出した。
 押さえていたものが、一気に爆発したようだった。堰を切られた激情に、シラは耳まで熱く染まりながらひたすらに泣く。嫌悪感が苦しいほどに募っていってどうにもならない。何もかもが嫌でたまらず悲しくて、それ以上にどうしようもなく悔しかった。今のシラは前後も左右もわからないまま、ただ全身を包む感情に翻弄されている。
 ベッドが揺らぐのを感じて顔を上げると、カリアラが座っていた。ごく近くから見つめてくる彼の顔は、心配そうに曇っている。シラは罪悪感に胸が絞られるのを感じた。駄目だ、笑わなくちゃ。そう思うが、もはや表情を制御するだけの平静は遠ざかり、嗚咽を止めることすらできない。そんな状況もまた嫌で嫌でしかたがなくて、シラはもりあがる涙と声を布団に押しつけようとする。
 だがその動きはカリアラの腕に止められた。肩を強く引き寄せられて、シラはよろめきのままに倒れる。濡れた頬がシャツに触れた。受け止められた場所が彼の胸だと気づいた瞬間、暖かさが腕の形でシラを包んだ。ぎゅう、と抱きしめられる。力の失せた彼女の体を、代わりに支えていくように。
 シラは涙も忘れてカリアラを見た。だが彼は、シラを抱きとめたままあらぬ方を向いている。ひどく真面目な表情で、何事かを思うように。大きな手が不器用にシラの頭をなでた。だがすぐに、ためらうように止められる。
「違う」
 呟きは顔つきと同じように重く響いた。シラは戸惑い、カリアラの腕に触れるがそれは払われてしまう。
 カリアラは、腕を天井に向けて高く上げる。
 そして間近に寄せたシラの背を、ぽん、と優しく叩いた。
 ぽん、とまた叩いた。ぽんぽんと続けて叩いた。ぽんぽんぽんと繰り返し叩いた。ぽんぽんぽんぽんぽんと繰り返し繰り返し叩いた。ぽんぽんぽんぽんぽんぽんぽんと繰り返し繰り返し繰り返し叩いた。ぽんぽんぽんぽんぽんぽんぽんぽんぽんと
「あの」
 彼の動きはぴたりと止まる。シラは尋ねようとするが、それはカリアラの声に消された。
「あっ!」
 いきなりの大声に、シラは思わず体を引く。だがカリアラは構いもせずに顔を寄せ、まじまじと彼女を見つめた。真剣な表情でなぜだかごくりと息を呑んで、慎重に、服の袖をそっとシラの目元に当てる。そこに残っていた涙は彼の袖に消え、腕を引けばもう彼女の顔に水気はない。きょとんとして彼を見る水色の瞳にも、潤みはなかった。
 カリアラはそれを確認すると、顔つきを安堵にゆるめる。そして嬉しそうに笑った。
「よかった……水、止まったな!」
 心からほっとした笑顔。シラの見てきたカリアラの表情の中で、一番嬉しそうな顔。
 あまりにも突然に、熱すら伝わる至近距離でそんな笑顔を見せられたものだから、シラはただぽかんとしてカリアラを見るしかない。カリアラは、にこにこと嬉しそうに彼女を見返す。安堵からかそれとも歓喜のせいだろうか。笑う彼の頬にはうっすらと赤が差した。シラはもっと赤くなる。みるみるうちに、泣き顔の何倍も赤く赤く映えていく。
「シラ、どうした?」
 震える手がシーツを握る。ぐっと下くちびるを上げる。涙が大きくこみあげる。
 シラはその涙がこぼれるのと同時にカリアラに飛びついた。
「大好き――!!」
 驚く彼をベッドに押し倒す。投げ出された腕を枕元にひねりあげ、暴れる足を踏みつけて彼の体を完全に組み伏せる。奪うように服を脱がして肌をなでさすったところで、シラはあからさまにハッとした。たちまちに我に返り、頬に手を当てて言う。
「ご、ごめんなさい。私としたことが、つい」
「く、喰われるかと思った……」
 カリアラは蒼白な顔で壁へと逃げた。シラは鼓動を静めるように、胸に手を当てて呟く。
「落ちついて落ちついて落ちついて落ちついて落ちついて」
 カリアラは不思議そうに自身の腕の匂いを嗅いだ。
「おれ、うまそうだったか?」
「別の意味で」
 凄みをおびた声に、カリアラはわけもわからずびくりと震えた。シラは頭を抱えている。
「すみません、少し待って下さい。平常心が見つかるまで」
「お、おう」
 カリアラが戸惑う傍で、シラは強く目を閉じた。
「がんばれわたし」
 その言葉の意味がわからず、カリアラは首をかしげた。


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