第5話「生きるための選択」
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 気がつけば、窓の外は墨のように黒くなっていた。サフィギシルは暗がりと化した家の中を、そろそろと進んでいく。慎重に歩まなければいけないが、心中は不安に急かされていた。約束に遅れるわけにはいかない。入り慣れた作業室のドアをくぐり、照明のある室内を足早に抜けようとしたところで、何かを踏んだ。室内履きの底でガラスが割れる感触がして、見てみると、壊れた空瓶らしきものの残骸が散らばっている。ラベルつきのかけらを拾い、記された文字を読む。グ、ロー、ダ、ラ、ス、ター、ジ。どこかで聞いた名前だと思いながらも、彼はそれを放り投げて奥の部屋へと急いだ。しかし、今日はいっそう散らかってるな。そんなことを考えながら。
 知識があれば彼にも察知できただろう。それがどんな薬品か、なぜ部屋が荒れていたのかも。けれど何も知らない彼は、不安を抱えることもなく約束の部屋へと向かう。
 作業場の奥の小部屋は、ビジスの寝室となっている。サフィギシルはノックをした。返事はない。もとより鍵は備えられていないので、中に入ることにする。
 木のドアが開くと同時、空気がぶれたような気がした。
 まばたきをするが、目に見える異常はない。そこにはただ薄暗い個室があるだけだ。だが、サフィギシルはそれ以上動くことができなかった。彼の中の深い部分が近寄ることを拒絶している。
 この狭い部屋の中は、何か違うもので満たされている。サフィギシルはそう感じた。透明なそれは空気ではない。水であるはずがない。だが、触れるものを絡めとってしまいそうなほどに濃厚な気配が、ドア枠を挟んだ向こうに、詰まっている。
「……爺さん?」
 ベッドの上で、ビジスは体を起こしていた。どんな顔をしているのだろう。サフィギシルは目を凝らしたがわからない。作業室を照らす明かりは、ドア枠を境界にして切り取られたように失せていた。
 ビジスが口を開いた、らしい。見えはしないがそれは音で伝えられた。紡がれたのは、サフィギシルの知らない国の言葉だった。朗々と続くそれは唄のようにも聞こえる。馴染みのない音階が、サフィギシルの首筋をなでていく。耳の中に入り込み、脳へと伝わっていく。
 ――おいで。
 そう呼ばれた気がした。サフィギシルはふらりと足を踏み出す。
 ドア枠の向こう、揺るぎなく存在する「空気ではない何か」に触れた途端、それは全身を包んだ。体のあらゆる隙間から透明な「何か」が入り込む。呼吸すら失わせて、カタカタと体の中で不気味な音を立てていく。悲鳴を上げようとするが声にはならない。
 部屋を満たすそれは、ビジスの魔力だった。透明な力は年老いた体から解放されて、部屋の中を埋めている。この部屋は既にビジスの体の一部と化していた。だがサフィギシルがそれを知ることはなく、彼はただ苦しみと拒絶感に硬直するだけ。
 目がくらむ。サフィギシルはよろめきながら、細い呼吸を繰り返した。吸っては吐くそれはもはや大気ではなく魔力であり、サフィギシルの体は隙間なく彼の力に満たされている。
「いいものをやろうか」
 ぐわん、と耳元で魔力が鳴った。視界に広がる景色すべてがビジスの声に合わせて震え、ぴりぴりと肌をじらす。サフィギシルは息の代わりに魔力をのむ。喉の奥で見えない力がざわめいた。
「……もらってあげてもいいけど」
 簡単に従えば身体を失う予感がした。肌に触れるビジスの気配は笑っている。不気味なそれに負けないよう、精一杯に声を出した。わあわあと無闇に叫べば反響して景色が揺れる。壁が家具が自分の体が輪郭を溶かしていく。
 もう声など関係なかった。すべてがたわみ、すべてが揺らぐ。足元すらぐにゃぐにゃと躍り始めてどうして立っていられるのかわからない。何一つ理解できない。
「いいものってなんだよ、爺さん」
 混乱のまま声を張る。もう元の形すらわからないほどにぶれ、ぼやけ、融けあって色を絡める景色の中で、ビジスだけが輪郭をたもち他のものに混ざらない。自分自身も部屋の一部に加わりながら、サフィギシルは戸惑いのままに叫んだ。
「なんなんだよ爺さん!」

 ビジスが腕を突き出した。途端に景色は元に戻る。
 まっすぐに伸びた腕はサフィギシルに向けられている。彼の、心臓のある場所に。
 ビジスの口が笑みに歪んだ。
「世界だ」

 目に見えない大きな力が手のひらから放たれる。
 サフィギシルの胸がそれを受けた。体内で空気が爆ぜたようだった。サフィギシルはのけぞって床に倒れる。胸が重い。左ではない、心臓部ではない。右だ、右の奥。そこにある予備の魔石の中で、おそろしく強い力が暴れている。
 石がうなる。体中の神経がびりびりと音を立てる。体が焼かれるように熱い。そして何より重く苦しい。
 わけもわけらず混乱のままに絶叫する。その異常な声に、サフィギシル自身が驚いた。目に映るのはいつも通りの静かな個室と、平穏な見慣れた家具たち。腹立たしいほど変わりのない景色の端で、ビジスがベッドにうつ伏せるのが見えた。
(あの薬は反応が残らない)
 頭の中に、突然言葉が閃いた。音はない、文字でもない。これは意識なのだと悟る。
(死因は不明か。技師どもにまた何を言われるか……まァ、せいぜい面白がるがいいさ)
 これはビジスの放つ意志だ。父の思考そのままだ。
(あの体ももう終わり。この体はどうなるだろう)
 サフィギシルは気がついた。その身をもって何もかも理解した。

 ビジスは自分の中に居る。

(なァ、サフィギシル?)
 その言葉には、いつもの笑みが張りついているような気がした。


 彼の意識はそこで途絶える。次に目を覚ますのは、ビジスの葬儀の終わった後。
 そしてこの二夜の記憶は、半年間、彼の手の届かない場所に隠されることになる。

※ ※ ※

 雨はまだ降っているのだろうか。サフィギシルはふと考えるが、すぐに無意味なことだと悟る。どちらにしろ関係ないのだ。天候が封印を越えることはないのだから。外で何があろうとも、室内に響くことはない。彼の世界は心地よい状態のまま時を止める。
 ――止めてくれる、はずだった。サフィギシルはうずくまる。
 何もかもを思い出して一晩が経過した。サフィギシルは記憶を取り戻して以来、まともに暮らすことができていない。甦ったあの日の記憶が邪魔をして、何一つ手につかないのだ。眠りすらも邪魔される。まるで彼が穏やかに過ごすことを許しはしないというように、あの夜の光景が何度でも繰り返し再生された。サフィギシルは、その度に大声でわめきながら暴れ出したい気分になる。
 あの時は何も知らなかった。人が病気になることも、それがどんなことなのかも。
 頭を抱えるサフィギシルの指には、握り潰しかねないほどの力が込められている。彼は幾度となく繰り返した悔いをまた巡らせた。ビジスの病が悪化したのは自分のせいだ。雨の中逃げ出して、長時間水を被せたのがいけなかった。
(……爺さん)
 その後も、知識があれば看病をすることができた。そうすれば、きっと少しでも状態を軽くすることができただろう。それなのに、自分は倒れたビジスを冷える床に放置した。毛布一つ掛けないまま、彼を気にすることもなかった。
(爺さん。なあ、何か言えよ。ここにいるんだろ? この中にいるんだろ?)
 倒れながらどこかに向かうビジスを笑った。彼の動きの真似をして、嘔吐物を口に押し込んで、彼がまた吐くのを見て笑った。心配することも疑問に思うこともなく、心から楽しんで。
(何か言えよ。なあ、なんで何も言わないんだよ。なんでずっと黙ってんだよ、なあ)
 サフィギシルは自身の無知を心の底から憎く思った。
(……怒ってくれよ)
 ビジスはあれから何も喋らない。恨みも怒りも伝えてこない。
(責めてくれよ。なあ、何か言ってくれよ、爺さん!)
 心の中で叫んでも、部屋に動くものはなかった。影を生まない平坦な明かりに照らされた、あの日から静止したままの場所。
「ごめん……」
 耐えきれずに呟いた。だがすぐに不足と感じる。これだけでは、全然足りない。
「ごめんなさい」
 うつむいたまま囁くが、それでもまだ事足りはしなかった。
 できるのならば、半年前に戻りたかった。あの時の自分を殴り飛ばしてしまいたい。不可能を望みながら、彼は頭を壁につけ、そのままぐっと強く押した。


 どれくらい経っただろう。遠くから聞こえるピィスの声がうるさくて、サフィギシルは苛立ちながら居間へと向かう。誰もいない廊下を歩けば、あの時のことを思い出して罪悪感に苛まれる。こんなにも苦しんでいるというのにピィスの声は明るくて、サフィギシルは憎しみを強くした。
「あ、サフィ。ちょうどよかった」
 ドアを開けると笑いかけられる。サフィギシルは気まずさと怒りをもってピィスから目をそらすが、その先にはシラがいて思わずぎくりと固まった。シラは、あの時の凶行は幻だったのではと感じるほどに、穏やかな微笑みを浮かべている。
「サフィ。おい、聞いてんのか?」
 肩を叩かれて我に返る。一瞬、どこを見るべきかわからなくて迷うと、カリアラが心配な顔をしているのが見えた。サフィギシルは、カリアラについて考えることすら嫌で、背を向ける。
「聞こえてるよ」
「じゃあ返事ぐらいしろよ。常識がなってないぞお坊ちゃまー」
 たわいないからかいですら弱る気を逆なでた。だがそれを知らないピィスは、さらに明るい調子で続ける。
「あのさ、ここに友だち呼んでいい? 魚好きの五つ子兄妹。いい奴なんだ」
「は? 何考えてんだよ」
 不機嫌が声に出る。部外者、しかも五人。考えただけで気分が悪くなりそうだった。ピィスを睨むと彼女はそれでも食い下がる。
「だって、カリアラを街に出すのはまだ不安だし。せめてこっちに何人か呼ぼうと思って。オレたちだけじゃさみしいだろ。お前はずっと奥の部屋にこもってるしさ」
「お前とかシラがいるだろ。それでさみしい? 何言ってんだ」
 ちらりと見たが、カリアラの表情に悲しげな色はない。だがピィスは声を張る。
「少なすぎる。多ければ多いほどいいんだ。その方が近くなる」
「近く?」
 ピィスは教える口調で言った。
「群れにだよ。知らねーの? ピラニアは群れる生き物なんだ」
 目の前の空気が不快に濁る。サフィギシルは全身が反発心に震えるのを感じた。知らないのかと言われることは、今の彼にとっては何よりも耐えがたい。だがピィスは気づかない。
「一匹だけだと生きていけないから、集団になりたがるんだって。そういう本能なんだよ。特にカリアラカルスは頭がいいから、その群れは王様呼ばわりされるぐらいに強いんだ。覚えとけよー」
 上から言い聞かせる態度が、サフィギシルの口を乱した。
「何が群れだ。単に弱いだけじゃねーか」
 吐き捨てると、気分はさらにすさんでいく。自分でも驚くほどに意地の悪い声が出た。
「魚の価値観をこっちにまで持ってくるなよ。群れになりたい? じゃあ仲間の所へ戻れよ。全員弱い群れたがりの集団なんだろ? そうでもしなきゃ生きていけない、どうでもいい生き物なんだ」
「サフィ!」
 ピィスに制止されるが、切り上げるつもりはない。嘲笑う先でカリアラはぽかんと目を丸くしている。馬鹿正直に相手を見つめ返す視線。その姿が過去の自分と重なって、サフィギシルは目の前の彼を打ちのめさなければ気が済まなくなる。
「いいか、何度でも言うぞ。お前たちは弱い。貧弱ですぐに死ぬ駄目な種族だ。ここはさみしい? 一匹じゃ生きていけない? じゃあ陸に来なきゃよかったんだ。わざわざ、こんな仲間もいない場所で暮らさなくても、川に戻ればいいじゃねーか」
 言いながらそうだと思う。何もわざわざ陸にあがることはないし、こんな風に自分に関わらなくてもいい。サフィギシルはカリアラがこの場にいることが何よりも腹立たしく思えて、きょとんとする彼に怒鳴った。
「不満なら川に戻れ。こっちは迷惑してるんだ、今すぐ魚に戻してやるよ。弱っちい仲間の所に帰ればいい。人間になるのなんかやめて、さっさとここを出て行けよ!」
 言い終わるのと同時、耳元で音が弾けた。
 サフィギシルは勢いあまって椅子にぶつかり崩れ落ちる。床にへたり込んだ途端、遅まきながら熱と痛みが頬を照らした。
「シラ!」
 カリアラが叫ばなければ二発目が飛んでいた。サフィギシルは強く打たれた頬を押さえ、呆然とシラを見上げる。
 今までにない憎悪の目がそこにあった。シラは震える口で何事か言おうとしたが、言葉にならずくちびるをきつく結ぶ。ほろりと涙がこぼれ落ちた。一粒では足りず、透明な水がみるみるうちに彼女の肌に川を生んだ。驚きの目に耐えられなくなったのだろう。彼女は顔を屈辱に歪めると、背を向けて走り去る。
「シラ!」
 カリアラが後を追う。彼は部屋を出る直前に、ピィスの肩を軽く叩いた。その後は振り向きもせず廊下を走っていく。階段を上がる音が、二人分遠く響いた。
 彼らの消えた方を見つめ、サフィギシルはただ呆然と頬を押さえるだけ。
「……何?」
 床に足を投げ出したままの呟きは、あまりに間抜けな音だった。頭上から深いため息。
「知らなかったのか」
 見上げるとピィスがいた。なぜだかひどく青ざめている。
「なんだよ、そりゃちょっと……いや、結構言いすぎたかもしれないけどさ。でも」
「違う。そうじゃない。そうじゃなくて……」
 ピィスは首を振る。彼女は時間が経つほどに弱っていくようだった。サフィギシルは言いようのない不安に襲われるが、縋る目で見上げても彼女は構おうとしない。沈鬱な表情で、ただ床ばかりを見ている。恐怖心から逃れるように、サフィギシルは怒鳴った。
「なんだよ、何が違うんだよ!」
「最後の一匹だったんだ」
 ピィスは呟くように言った。うつむいたまま、気の進まない声で続ける。
「あいつがいたの、最後の群れだったんだって。それなのに、小さいころにそれが全滅したんだって。生き残ったのはあいつだけだったんだって」
 彼女が何を言っているのか、とっさにはわからなかった。働かない頭に説明が流れていく。
「だからもう、帰る場所はないんだ。仲間は誰もいないんだから」
 サフィギシルは、呆然とする頭でようやく意味を理解した。
 一体何が起こったのか。自分が彼に何を言ってしまったのか。
 それを肯定するように、ピィスは静かな声で告げた。
「カリアラカルスは、絶滅種なんだよ」


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