第5話「生きるための選択」
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 ――まだ降っているのか。
 遠くから耳を打つ雨音に、ビジスは気分を曇らせる。だがそれもすぐに失せた。体が、まったく動かないことに気づいたからだ。ビジスは愕然として腕を上げようとするが、指先すら反応はなく、震えを起こすこともできない。横たわる彼の全身は、まるで鉛と化したかのように重く沈み込んでいる。
 現実だと認識するまでに少々の時間がかかった。その間にも、雨音はやわらぐことなく響き続ける。もはや、霧の封印をする力すら失せているのだ。深く息を吸うと、咳に疲れた肺が軋むような痛みを起こす。吐く息はむせた。あきれるほどに続けた咳が、また彼の体を蝕んでいく。
 見える天井は寝室のものではなく、作業場の片隅のそれである。ビジスは自分が寝室に向かう途中で倒れたのだと理解した。雨に濡れたサフィギシルの修理を終え、彼を部屋から出したところで、我慢していたものがどっとあふれてしまったらしい。そのまま、気を失っていたのだ。投げ出された手の先には、共に倒してしまったらしき道具類が散らばっていた。そういったものから推測することはできたが、倒れた際の記憶はない。はさみで切り取られたかのようにきれいに失っている。
 床に触れる背から、地の底へと落とされていくようだった。目を閉じると二度と開くことができない気がして、ビジスは瞼をきつく開く。乱れる感情と同じく、吐く息は荒く、熱い。体温が脳を煮殺そうとしている。ビジスは霞む目で己の左腕を見た。無駄一つなく整えられていた筋肉は皺に隠れ、嘘のように色の失せたそれはまるで作り物のように横たわる。感覚がない。右腕も。足も。首も。呼吸すら思うようにいかずビジスは死の近さを知った。
 利き手が思うように動かなくなってから、もう二年になる。それだけではなく、足や指が痺れてきたのは脳に病を持ったからだ。ここ数ヶ月のうちに症状は酷くなり、今までのような生活はとてもできなくなっていた。
 八十年以上の間、綻びを持つことなく生きてきた。
 だが“彼”が死んでからは、それを埋め合わせるかのような不調と向き合っている。原因はわかっている。それを選んだのは自分自身だ。だからこそ、覚悟をして終わらせるための日々を過ごした。だが、まさかこんなにも早く断ち切られてしまうとは。
「違う」
 かすれた声で呟いた。針を飲んだかのような喉で、同じ言葉を繰り返す。違う、違う、そんなはずは。
 否定を繰り返しても解答は知れている。自分はもうすぐ死に至る。たとえこの闇を越えても体はもう元には戻らず、利き手である左手はろくに動かないだろう。下手をすれば、起きることすらできなくなる。今も体は意志に反して重く痺れているではないか。
 鼻の先を濃い闇にかすめとられたような気がした。自分が動けなくなってしまえば、作りかけの『作品』たちはどうなる? 自分以外に彼らを完成させられる者はいない。ビジスは絶望の中で悔いた。手を打つのが遅すぎたのだ。せめてあと半年早く動いていれば間に合っていただろう。そうすれば、心残りもなくすべてを終えることができた。彼の理想とする計画を完成させることが、できた。
 だがもはや残された時間はなく、彼の意図を知るものもいない。
 サフィギシルにしても、完成させるにはまだビジスの力が必要だった。木組みの器に、他で生きた魂を移すのなら誰にでもできる。だが、今のサフィギシルを最後まで完成させるのは、そう簡単なことではない。幼い彼の魂は、まだ完全な形にはなっていなかった。感情も感覚すらも大半が欠けている。体に慣らしていくと同時に、少しずつ魂を紡いでいかねば生も死もままならない。その身を百に裂かれても、百に分かれて生きるだけだ。寿命を迎えることもないまま、何十年も、何百年もあのままで生きつづける。それは避けなくてはいけない。せめて他の者に委ねられる段階までは、作り上げなくてはいけない。
 だが、それだけの時間も力も残されてはいなかった。もう自分は何もできなくなってしまう。そう思うと愕然とした。片付けなくてはならないことが、次々と脳裏を流れる。危険なものも多くあった。他の誰かに見つけられ、悪用されれば世界が揺るぐものもあった。このまま死ぬわけにはいかない。だが終わりは既に半身を掴んでいる。
「駄目だ」
 ビジスは苦しみの末に立った。彼の残りうる力を振り絞り、前へと進んだ。考えはない。計画も思索も存在しない彼を突き動かすのは、切実な強い意志だけ。何か何か一つだけでも手を加えてしまわなければ、わずかにでもいい、完成に近づけなければ。そればかりに支配されて、彼はただ歩き出す。
 だが足は不意に崩れた。ビジスは受身も取れないまま無様に体を打ちつける。痛みが心をかき乱し、苦しみの声をもらす。
 馬鹿な、と心の中で呟いた。そんなはずはない。こんなにも呆気なく終わってしまうはずは。だが喉は枯れ、戸惑いは声にもならない。強いめまいに脳がねじられていく。
 ビジスはよろけながらも起き上がる。これは何かの間違いだ。こんなにも唐突に、自分が終わりを迎えてしまうはずはない。
 だがその想いを嘲るように、体は勝手に重心を外して本の山へと倒れ込む。崩れた本の中で咳き込むと、体中が音を立てて軋んだ。見開いた目に焦りが貼りつく。奇妙に潰れた呼吸音が、せわしなく喉を行き交う。
 そんなはずはない。このまま死んでしまうだと? そんな、馬鹿なことがあるか。多くを取り残し、無念のままにすべてを閉ざしてしまうのか。そんな、そんな馬鹿な。
 ビジスは足を踏み出した。左腕をだらりと垂らし、感覚の戻ってきた右手で求めるように空を掻く。少しでも仕事を進めてしまわなければ。何か、ひとつだけでもやり切ってしまわなければ。焦りに思考を支配され、冷静さを失ったまま作業室を徘徊する。目を片手をさまよわせ、不安定な足取りであちこちの戸棚に向かい、意味もなく引き出しを開けては閉める。何をするべきなのかさえ頭にない。わけもわからずとりつかれたように工具を探る。
 そして何もできないままに転倒し、体を床に叩きつけた。それでも彼は立ち上がる。無駄な足掻きを繰り返す。
 物と人の倒れる音が薄暗い部屋に響く。静かな雨の音に混じる。

※ ※ ※

 絵を眺めるのにも飽きて、サフィギシルはソファの上に画集を放る。雨のせいで家の中は薄暗いが、誰にも見られることのない時計の針は、正午を少し越えていた。今日はピィスが来ないので、サフィギシルは正確な時間を知ることができない。だが、それでもビジスに修理をされてから、随分と経ったことはわかる。ビジスはいつまで眠っているのかと、サフィギシルは首をひねった。
 ここのところ、ビジスの作業はやけに遅くなっていた。何をしても時間がかかるし、妙なところで休憩をとる。しかし、それにしても昨日の修理はあまりにも長すぎた。雨に濡れた木組みの体を直すのは、そこまで手間がかかってしまうことなのだろうか。サフィギシルは手や足を動かしてみるが、異常はない。時間こそかかったが、ビジスは完璧にサフィギシルを直している。
 その作業が完了したのは早朝のことだった。部屋に戻れと言うのと同時、ビジスは唐突に床に倒れた。サフィギシルは驚いて顔を覗き込んだが、老いた父はぴくりとも動かない。
 なんだ、眠ったのか。そう素直に考えた。修理作業がこたえたのだと納得し、眠る父を冷えた床に放置したまま居間に戻った。起こしたら悪いだろうと考えて、毛布をかけることもなかった。
 そこまで思い出していると、廊下の奥から何か大きな音がした。サフィギシルはびくりと背を伸ばし、おそるおそる窺うが、扉の向こうにはただ明かりのない廊下があるだけ。音は、その奥にある作業室からしているようだ。
 サフィギシルは廊下を進み、作業室の前に立つ。板一枚を隔てた向こうで何かがドアにぶつかっている。震動と大きな音が執拗にドアを叩き、その後に倒れる気配が続いた。連続する不気味な振動。サフィギシルは音がやんだ隙を狙い、勢いよくノブを引く。
 ビジスが中から飛び出した。
 サフィギシルがとっさに避けるとビジスはそのまま壁にぶつかる。奇妙な姿勢でずるりと床に崩れ落ちた。
「爺さん?」
 サフィギシルはきょとんとして父を見た。ビジスは床にうつ伏せたまま、激しく咳き込んでいる。震える手が壁を這う。ビジスは両腕を懸命に伸ばして、なんとか立ち上がろうとした。
「なに? どうしたの?」
 サフィギシルが不思議に見下ろす先で、ビジスはようやく体を起こすが片足は立たなかった。それでも彼は、骨が外れたかのように垂れた足を引きずって、廊下を進む。サフィギシルは何度も呼んだが、ビジスは顔を向けるどころか気づいてもいないようだ。今にも崩れそうな動きで、独り、別の世界をさまよう。
 がくりと膝が力を失い、ビジスはまた床に倒れた。大きな音と震動がしんとした廊下に響く。荒い呼吸と咳の音が後を追った。
 薄暗さに包まれる中、ビジスはまたふらりと立つ。熱に浮かされるように、ひたすらにどこかへ向かおうとする。今にも壊れてしまいそうな体を引いて、求めるように右手を空に泳がせて。
 彼は廊下の分岐を曲りきれず、階段の角で転んだ。ぶらさげた左腕が舞い、弱る体は回転して床に倒れる。頭を打ち、彼は動かなくなった。サフィギシルは不自然な格好で横たわる父を見て、顔を崩す。
 そしてこらえきれなくなったように、思いきり吹きだした。
 けたけたと声を立てて笑う。倒れるビジスを指さしておかしそうに体を揺らす。
 ビジスがぴくりと反応した。途切れていた意識が戻ったのだろうか、起き上がろうと頭をもたげる。震える腕で体を支えようとするのだが、力が入らず、音を立てて床に潰れた。サフィギシルはますます笑う。場違いな明るい声が廊下に響く。
 サフィギシルは、ビジスの動きが面白くて笑いを止めることができない。彼は、ビジスがふざけて遊んでいるのだと思っている。サフィギシルを笑わせるために、愉快な動きを繰り返しているのだと。
 雨音が強さを増す。屋根に当たり、土地を打ち、家を包み込むように切れ目のないざわめきを響かせる。サフィギシルはそれにも負けない大きな声で父を笑った。目の前でビジスはまた体を起こし、歩こうとしては転ぶを繰り返す。
 サフィギシルはそれを見てさらに笑った。息を引きつらせながら、腹を抱えて笑い転げた。きゃあきゃあと歓声を上げ、わざと音を立てて床に伏せる。ビジスの隣で同じしぐさをし、震える彼を真似て笑う。
 ビジスはそれにも構わない。別の場所を見つめるような焦点のぶれた目で、憑かれたようにただどこかへ向かおうとする。まだ歩けると信じるように。体の不調を気のせいだとでも言うように。
 サフィギシルは彼を笑った。邪気のない表情で、ただひたすら純粋に。ビジスがどんな目をしているのか見ることもなく、彼の動きを真似て遊ぶ。
 ビジスは苦しみのまま体を丸めると、嘔吐した。胃の中身が床に流れる。声を立てて咳き込むと、また吐いた。サフィギシルは、初めて見る現象に驚いて目を丸くする。彼の口から出されたものと、ビジスの体を見比べた。嘔吐は終わり、ビジスは床に伏して荒い呼吸を続けている。
 サフィギシルは開かれたままのビジスの口に、吐瀉物を押し戻した。一息に詰めて無理やり口を閉じさせる。ビジスは中身を噴き出した。吐瀉物は噴水のようにあたりに飛び散る。サフィギシルはまた声を立てて笑った。楽しくてしかたがなくて、同じことを繰り返す。ビジスはさらに嘔吐を続けた。サフィギシルは、息も苦しいほどに笑う。
「……サフィ」
 霞んでいたビジスの眼が、澄んでいく。現実に戻された彼は笑う息子を見た。
「爺さん! 『せき』は楽しいな! すごく面白い!!」
 サフィギシルはその白い髪や肌を吐瀉物まみれにして、これ以上ないほどの笑顔を見せている。ビジスは遠くを見る目で彼を眺めた。同じ顔立ちの奥に、今は亡き者を見た。
 ビジスは乾いた口を動かす。
「サフィ、楽しいか」
「うん!」
 サフィギシルは弾けるように笑い、こぼれた胃液を叩いて遊んだ。ビジスが薄く見つめる先で、サフィギシルは手にこびりついた液体に興味を持つ。鼻を近づけてすえた臭いをかいで、これは一体何なのだろう、人間の体の中にはこれが詰まっているのかと探る顔で、じっと両手のひらを見つめた。
 ビジスはその手首を掴む。握りつぶすほどの力で、彼の腕を引き寄せる。
「爺さん?」
 サフィギシルは不安な顔をした。しわがれた笑い声がその肌をなでていく。
「なァ。楽しいか、サフィ」
「う、うん。たの、しい」
「そうか」
 ふと浮かんだ微笑みは、老人の表情を淡く霞めた。
「それなら、いい」
「爺さん、どうしたの? なにがいいの?」
 首をかしげるサフィギシルに、ビジスは優しい笑みを見せる。
「いいや。お前が気にすることはないよ」
 そして、ぱちぱちとまばたきをするサフィギシルの頭をなでながら言った。
「わしはもう少し眠ることにしよう。窓の外が今よりも暗くなったら、作業室の奥の部屋に来てくれ」
「わかった。じゃあ、それまで二階にいるよ」
「ああ。忘れるな、夜までに来い。遅れては意味がない」
 サフィギシルは深々とうなずいて立ち上がる。ビジスは彼が進む方向に、また笑みを強くした。サフィギシルは振り向きもせず、二階へと上っていく。
 ビジスは高らかに声を上げて笑った。
 そして、そのまま、床に四肢を投げ出した。

※ ※ ※

 言うことを聞かない体を引きずるように這い進み、作業室に戻ったころには、ビジスはもう完全に正気を取り戻していた。眠りからようやく覚めたようだった。もう恐怖はかけらもなく、よどみなく流れていく冷静な思考だけが、彼を動かしている。激情は遠くで灰のように燻っている。手を伸ばす気にもなれない。
 彼は、望みを叶える方法を思いついた。不完全を完全に変え、何もかもを繋げる選択を。
 部屋の隅、崩れた物の山を漁る。右手を叩きつけるようにしていらないものを飛ばしていくと、すぐに目当ての小瓶が見つかった。引き抜いて、貼られたラベルを確認し、ビジスはそれを握りしめる。瓶の中では液体が揺れている。泥色のそれは魔術技師が仕事に使う薬だった。移植を望む者に与える、魂を剥離する薬。水に薄め、香のように焚いて使う、人を仮死へと導く劇薬。
 ビジスはこらえきれず笑った。もう体に縛られることはない。望む通りに命を続けることができる。
 彼の目には進むべき道が見えている。それを選べば、すべてを作りきることができる。サフィギシルを人間にすることも可能だ。もはや他に方法はない。
「まだ死なんよ。わしはまだ死にはせん」
 蓋を飛ばすと中身を一気にぐいと呷り、ためらいもなく致死量を飲み干した。薬瓶を投げ捨てる。空のそれは床で割れる。
「思う存分、生き抜いてやろうじゃないか」
 口許を拭い、ビジスは静かな笑みを浮かべた。


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