第5話「生きるための選択」
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 サフィギシルは広い庭に立ちつくし、ただ空を見上げていた。降りしきる雨粒はとめどなく彼を濡らし、髪を服をひたりと肌に貼りつける。
 口を開いて雨水を待ってみる。手のひらを突き出して、溜まるのを期待する。だが開いた口や手のひらに当たるのはまばらな粒で、雨は彼が思っていたよりも密には降りてこない。幼い彼は、また一つ新たな知識を得た。
 雨音は区切りのないざわめきとして彼を包んだ。どこまでも続く音色は幾重にも重なって同じ音を繰り返す。切れ目のない連続に変化を求めて声を上げると、それはいつもと違う響きでたちまちに掻き消えた。
 サフィギシルは、冷たい雨に打たれながら庭をさまよう。家屋にそって歩いていけば、いつの間にか玄関にたどりついていた。入り口に添えられた照明器具が、魔力を受けてほのかに灯る。体を引けばまた消える。サフィギシルはそれがなんだか楽しくて、離れては寄るを繰り返した。
 突然に視界が傾く。彼はぬかるみに足を取られて転んだ。初めての泥の匂いと感触。口に入れると不味かった。サフィギシルは汚れたまま立ち上がり、庭をどんどん進んでいく。荒れ果てた草地の奥には木々が見えた。なだらかな山に通じる、雑木林だ。
 近くから鮮やかな水音がした。見ると足元は水たまりだ。ビジスに作られた足も、どろに汚れた服の裾も、濁りの中に沈んでいる。足首まで侵される冷たさに、サフィギシルはぶるりと震えた。
 そしてようやく自分が全身水浸しになっていると気づく。服が重い。髪からしずくが流れていくが、それすらまぎれてしまうほどに肌は水にまみれていた。それでも雨は止まらない。容赦なく降りそそぐ。
 軽く空を蹴ってみると、足の中で水が躍った。隙間から体内にまで雨が進入していたのだ。試しに手も振ってみる。ちゃぷちゃぷと音がして手の内部で水が跳ねる。止めると水は指先に集まった。神経に染みて感覚を鈍くする。
「爺さん」
 見せようと振り向いた笑顔が凍りついた。家が消えている。先ほどまで窓の形に明かりを浮かべていたというのに、今はもう暗闇があるばかりで建物の形すら見えない。
 雨が、勢いを増した。大粒が肌を打つ。かゆいのか痛いのか判断のつかない感覚の中、サフィギシルはあたりを見て呆然とした。木々や土は降りしきる水に輪郭をぼかされて、存在を薄くしている。跳ね返る水や雨同士のぶつかり合いが細かな霧を生み出した。世界が霞む。何もかもが白く薄く、嘘のように静まっている。
 凝視するがやはり家はどこにもない。暗闇に同化してサフィギシルから隠れている。
 突然、世界を閉ざされたように感じた。サフィギシルは恐怖に心臓を掴まれる。この場所には誰もいない。みんな雨に取られてしまった。ただひとり、取り残された。
 恐ろしい妄想は未熟な思考を支配する。サフィギシルは見回した。どこかに行かなくては。別の、誰かがいる場所へ。だが見えるのは霞む暗い景色だけ。永遠にこの孤独が続く感覚に、サフィギシルは悲鳴を上げた。衝動のままに足を踏み出す。不安に急かされて駆け足となる。サフィギシルはすぐに敷地の端にたどりついた。
 突然、眩しいまでの光が彼を照らす。魔力感知式の外灯が輝いたのだ。呆然とするサフィギシルの前に現れたのは、荒れ果てた庭の出口だった。枯れ色の雑草が踏み倒されて一つの道となっている。外灯は門の代わりを務めているのだろうか。背はサフィギシルよりも随分と高く、足元には届け物を入れる箱や呼び鈴がある。重たげに首を垂れるランプの向こうには、山道が伸びていた。ピィスがやってくる道だ。サフィギシルはすぐに思い当たる。ここを進めばピィスのいるところに行ける。そう思うと道はますます明るく見えた。まぎれもない「外」へと続く道。
 ふらりと倒れこむように、「外」へ駆け出そうとした時。
「行くな!」
 悲痛な声がサフィギシルの足を止めた。振り向くと、ビジスが雨の中に立っている。彼は言葉を続ける間もなく咳き込んで体を折った。そのまま、泥に倒れる。
 その姿は雨にすら負けてしまいそうに見えた。サフィギシルは、彼が闇に押しつぶされて、地に埋もれてもおかしくないとさえ考えた。父の足が不安定にふらついていたためではない。咳にひどくやられていたせいでもない。
 皺だらけの顔に並ぶのが、うつろに霞む目だったからだ。
 サフィギシルは呆然とビジスを見つめた。別人のようだった。これは一体誰なのだろうと真剣に考えた。そこにいるのはまぎれもない自分の父だ。間違いを犯すことなどない、完全なる存在だ。だが、今の彼は。
 サフィギシルは生まれて初めて父の体を小さく感じた。
 呼ぼうとするが言葉にならない。サフィギシルは戸惑う目でビジスを見下ろす。泥に膝をついた父は、青ざめた顔に憤りと悲しみをちらつかせている。サフィギシルに向かう視線はまるで縋りつくようだった。
 ビジスはか細い声で言う。
「行くな、サフィ」
 サフィギシルは踵を返して駆け出した。雨を斜めに浴びながら、ぬかるむ地を踏みしめながら、懸命にそこから逃げた。向かうのは、なだらかな山に通じる雑木林。
 なぜ「外」に向かわなかったのか、サフィギシルにはわからない。ビジスから逃げた理由も、その時のサフィギシルには理解できていなかった。ただ、ここにいてはならないという衝動に彼は足を動かしていく。自分の中の大きなものが崩れていく感覚に、気を失いそうだった。処理しきれない謎の感情が、彼を責め立てている。
 時が経ち、落ち着きを取り戻せば、彼はそれが何なのか知ることができただろう。だが混乱するサフィギシルの頭には冷静な考察力など存在せず、ただ身を切るほどに苦しい事実があるばかり。
 気づかなければよかったのだ。だが彼は感じ取ってしまった。
 行くなという父の言葉が、自分ではなく、前のサフィギシルに向けられたものであるということに。
 サフィギシルは走った。そうするより他になかった。雨が降りしきる中、林の中へと逃げていく。ゆるやかな坂を駆け上がり土の音を聞いていく。それよりも強く響くのは、どうしてだろう、いつかのピィスの言葉だった。涙をはらむ彼女の声がサフィギシルの脳を叩く。

 ――全然似てない! こんなのサフィギシルじゃねーよ!

 ピィスと、初めて会ったときのことだ。今までビジス以外の人間を知らなかったサフィギシルは、彼女にどう触れるべきか戸惑って、乱暴な態度を取った。するとピィスは泣きそうな顔で叫んだのだ。

 ――何考えてんだよ爺さん! こんな偽物作って面白いか!? バッカじゃねえの!?

 雨に濡れた頭の中で彼女の声が繰り返される。全身で否定する姿が目に焼きついている。
 サフィギシルはそれらを振り払うように走った。木々の間から雨が届く。枝から落ちる粒が目に入り、視界がぼやけた。体の中で水が跳ねる。それは部品にぶつかって奇妙な音を奏でていく。足の先で手の先で、水は冷たいままに躍る。現実から離れていくサフィギシルの思考では、過去の記憶が繰り返し再生されている。

 ピィスとの初めての対面の後、ビジスはどこかに出かけてしまった。家の中に二人きりで取り残されて、不機嫌なピィスはサフィギシルに当り散らす。サフィギシルもまた苛立ちのまま当たり返した。子ども二人の諍いは、あっという間に膨らんでいく。

 ――中身は全然似てないのに、見た目だけそっくりなのがむかつくんだよ。
 ――何も知らないくせに、偉そうなこと言うんじゃねーよ!
 ――オレは認めないからな、こんなのがサフィギシルだなんて!

 取っ組みあいの喧嘩になったが決着はつかなかった。延々と暴れ、罵り、最後には二人とも疲れきって諦めた。

 そこまで思い出したところで足が滑った。転ぶまいと手を伸ばしたために、樹皮で腕をこすってしまう。地についた膝にも痛みがあった。確認すると、人工皮に傷がついている。裂け目からは血の代わりに薄い煙が滲んでいた。
 サフィギシルは立ち上がり、また坂道を駆け上がる。木の根に転び、地に体を打ちつけた。土と水と枯葉の匂いが一気に体の中に入る。顔まで広く泥がつき、その白い髪も何もかもを汚してしまう。前の、人間だったサフィギシルと同じ姿を穢していく。
 言葉もなく体を起こし、また足を踏み出した。ふらつきながらも倒れるように前へと向かう。目的も理由もなく、ただ体の向かうがままに走る。

 ――なぁ、別の名前付けないか?

 子どもじみた喧嘩が終わり、漂う空気が穏やかになったころ。ピィスは今までの言葉すべてを取り消した。サフィギシルに何度も謝り、彼もまたそれを受け入れて静寂が訪れたあと。彼女は唐突に呟いた。別の名前にした方がいいんじゃないのか。

 ――お前だって嫌じゃないか? そんなふざけた体で、同じ顔で同じ名前つけられて。嫌じゃないか? そんなの。

 憤りを捨てた彼女の問いかけ。だがサフィギシルは答えることができなかった。嫌なのかなんてわからないし、考えたこともない。まだ、使いづらい体の動きに慣れるだけで精一杯だったのだ。その時は、自分が誰かの代わりだなんて、実感できていなかった。
 だから任せた。お前が勝手につければいいだろ。そう言って彼女に名前を預けた。
 ピィスはサフィギシルを見回すと、悩んだ末に結論を出す。

 ――じゃあ、お前は今日から……。

「サフィ!」
 突然に腕を引かれて現在に引き戻される。サフィギシルは足を滑らせた。そのまま、へたりこんでしまう。
「……爺さん」
 ビジスがサフィギシルの腕を掴み、荒い呼吸を続けている。彼は咳き込みそうになるのをこらえ、鋭い目で息子を射抜いた。
「サフィギシル」
 相手の息を奪う視線。サフィギシルは恐ろしさに支配されながらも、同時に深い安堵を覚える。いつも通りのビジスが、そこにいる。ただそれだけで全身は崩れ落ちてしまいそうだった。先ほどの姿はやはり幻だったのだと考えざるを得ないほど、目の前のビジスには生きる力がみなぎっている。触れる手が熱かった。その指先の一本一本にまで彼の力が及んでいた。こちらが全力でぶつかっても揺るぐことさえない体。その足は大地に根付くかのように、不安なく立っている。
「帰るぞ」
 ビジスが腕を引き上げる。無駄のない動き。土にへばりついていたサフィギシルの体は、すんなりと立たされていた。木組みの内部で水が揺れる。サフィギシルは、自分が今気を失いそうなほどに疲れていることを知った
「まったく、そう勝手に行動するな。体もまだ不全なんだ。……ほら、帰るぞ。乾かさないと腐ってしまう」
 体が急に重くなり、足が震えて歩きづらくなったのは、安堵のせいだったのだろう。だがわからないサフィギシルは、どうしてだろうと呆けた頭で考えながら、ビジスに引かれるがままに歩いた。不安定な自分の体を引いていく、力強い腕だけを見た。
 ぼんやりと霞みだした頭の中に、ピィスの言葉が甦る。

 ――だめだ、やっぱり変えられねーや。

 あの時、彼女はそう言った。全然似てないのにな、なんでだろうな。と不思議そうに首をかしげ、厚い紙にさらさらと文字を綴る。付けた名前は書いて飾るものだと言った。

 やっぱりな、サフィギシルしかないんだよ。不思議だよな、全然別の奴なのに、お前の名前はサフィギシルしかないような気がするんだよ。
 そう言いながら、書きあげた命名用紙を大袈裟に飾りつける。壁に貼り、満足そうに見上げると、ピィスは笑って振り向いた。

「お前も、サフィギシルだ」

 ハッと見上げる。だが呟いたビジスは背を向けたまま。
 サフィギシルは問うように父の背を見つめるが、続くのは沈黙ばかり。ビジスは振り向くこともなく、無言のまま家路を辿る。サフィギシルは彼に引かれながら、今のは幻聴なのかと考えた。あの時ピィスが言ったのと同じ言葉。だが聞き間違いなどではないと、不思議と確信もしていた。
 会話もなく、夜の道を歩いていく。あるべき場所へと戻される。
「爺さん」
 何を言おうとしたのだろうか。口を切ってはみたものの、言葉が続かず呼びかけだけが宙に浮いた。続きを待つ気まずい沈黙。しばらくの後、ビジスが呟く。
「幻を見ていた」
 落ち着いた声だった。
「熱に浮かされていた。らしくもない。雨の音に惑わされた」
 後悔する響きはない。自身を恥じる風でもない。ただ、事実を告げただけ。
 見てはいけないものを目にしてしまったような気がして、サフィギシルは不安になる。あれは触れてはいけないものだったのだ。ビジスが隠してきた、深い穴。果てのないそこを覗いたところで、首根を掴んで引き戻された。そんな気分になっていた。
「ほら、着くぞ。帰ったらすぐに修理だ」
「うん」
 サフィギシルは、見なかったことにしようとした。忘れてしまえば、今まで通りの平和な日々を送れるのだと考えた。だが雨の中、消え入りそうな父の姿はサフィギシルの目に焼きついて、どうしても消えてくれない。まるで頭の中に棲みついてしまったように、どこまでも追いかけてくる。
 今までにない複雑な想いを持てあましつつ、サフィギシルは家の中へと戻っていく。ビジスが何度か咳をしたが、それに気づくことはなかった。
 雨は止まない。ますます強さを増していく。


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