第5話「生きるための選択」
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 彼の記憶は半年前に遡る。ビジスがまだ生きていて、サフィギシルがようやく人間の言葉を身につけてきたころのことだ。空気はぬるく湿っているが、芯には寒さが残っている。先日薪を抜いたばかりのストーブが、もう使われないのだろうかと尋ねているように見える、そんな春の一日だった。
「なあ、書けた。ピィス、終わった」
 サフィギシルが肩を叩くと、時計を見ていたピィスが振り向く。
「あ、はいはい。なんか最近早くなったな」
 そんなことを言われても、サフィギシルには「はやい」というものが何なのかいまいちよくわからない。だが、尋ねればピィスはまたふんぞり返る勢いで解説を始めてしまう。にたりと笑う顔までが目に見えたので、サフィギシルはわかっているふりをした。
「そうだよ。俺はえらいからはやいんだ」
「へぇー。一丁前にそんなことを言うようになりましたかボクちんは」
 精一杯回避したつもりだったのに、ピィスはにたりと笑みを浮かべて弟分の顔を眺める。馬鹿にされているのを肌で感じて、サフィギシルは口を結んだ。心外だと考える。もう、そんな目で見られるほどわからないことばかりではないのだ。
 「はやい」については知らないが、サフィギシルは今がどんな時間なのかは理解している。先ほどのようにピィスが時計を気にしていたら、「ゆうがた」だ。彼女は「ひる」にこの家に来て食事をする。その後は、頼みもしないのにサフィギシルの世話を焼き、字の書き取りや言葉を教えて「ゆうがた」まで居座るのだ。まだ人間になったばかりのサフィギシルには、時間というものが何なのかは理解できていなかったが、ピィスが訪れたときが昼、彼女が帰っていくのが夕方、その後が夜だということは頭に刻み込まれていた。封印の霧に囲まれて日差しを見せないこの家では、毎日通い続けるピィスだけが唯一の時となっている。
 ピィスはサフィギシルに渡された紙を見て、うなずく。
「よしよし、ちゃんと全部埋めてるな」
「そうだろ。ちゃんと全部うめてるだろ」
 サフィギシルもまた満足な顔でうなずいた。ピィス手製の書き取り用紙には、彼女が指示した文字列がびっしりと並んでいる。鮮やかなインクに染まるそれを折り、ピィスは新たな紙を出した。
「んじゃ、あと三回ずつ書きましょうねー」
「はあ!? もういっぱい書いたじゃねーか!」
 夕方になったから、これでもう面倒な作業からは解放されると思っていたのに。サフィギシルは勉強机代わりの食卓を憤りのままに叩く。ピィスはまたにまりと笑った。
「だーめー。少なくとも自分の名前ぐらいは書けるようにならなきゃ、オレは認めてやれないな。いやオレだって、よくできましたとかエライねえとか言ってやりたいよ? でもなあ、こんな出来じゃなあ」
 掲げてみせた先ほどの紙には、判読も難しい稚拙な文字が並んでいる。お手本として記されたピィスの字と比べるまでもなく、技量の差は歴然だった。返せと伸ばすサフィギシルの手から逃げつつ、ピィスは背後のビジスに問う。
「ビジス・ガートンの最新作がこんなんじゃ、街のやつらに笑われるよなー?」
 ビジスは興味のない様子でひらひらと手を振った。いつも通りの光景だ。ソファに腰かけたビジスは、子どもたちに背を向けたまま本のページをめくっている。二人の会話に口をはさむことはないが、部屋を移りもしなかった。
 天才とも狂人とも呼ばれる老人は、昔からすれば嘘のように毒のない顔で座っている。その様子を見るピィスの目には不安が覗いているが、サフィギシルはそれに気づかない。ましてや原因が彼自身にあるなどとは考えもしていなかった。
 前の、人間だったサフィギシルの葬式から、ひと月も待たなかった。喪も明けないそのうちに、天才技師は死んだ息子と同じ姿の『作品』を作り始める。木や鉄くずや多くの魔石で構成された、この世で一番人間に近い作り物。
 喪った人間を作品として再現する技師は、珍しくない。むしろ、それを目的として魔術技師を目指す者がこの世界にはあふれているし、技師たちの間でも黙認されている。だがビジスはそうではなかった。彼は決して亡くなった人物を模さず、外部からの依頼であっても断ってきたのだ。自分がどれだけ特殊な位置に立たされ、周囲の謎と不安を高めているのか知りもせず、サフィギシルは不満げに身を乗り出した。
「爺さんっ、そんなことないよな! 俺はバカじゃないもんな!」
「まァ馬鹿ではあるな」
 サフィギシルは衝撃に殴られた顔でへたりこむ。その肌をなでるように、くつくつと笑う声。
「なァに、そんなに急ぐこともない。字もそのうちに覚えるさ」
「ほーら。どうだ、まいったか」
 サフィギシルは父の笑みに導かれて顔を上げた。外見は完全に大人のかたちをしているのに、そこに浮かぶ表情は幼児のものと変わりない。自慢げに笑う彼を見て、ピィスは呆れ顔をする。
「現状はまったく褒められてないぞ。急ぐなって言ってもさー、あまりにも物覚えが悪いんだもん。生まれてもう二年だろ? いまだに右と左の判断もつかないし、ペンの持ち方も悪いし。どっか部品でも入れ忘れたんじゃねーの」
「最初の一年半は、体だけの製作期間だからな。思考がまともになってからはまだそんなに経っていない。これぐらい頭が悪くても、まァ上等だろう」
「ほーら。どうだ、まいったか」
「サフィ君。キミは遠まわしにバカにされているのですよ」
 なんだよそんなことないよな爺さん。と、必死の目で縋ればビジスもまたにやりと笑い、ああそうだと受け止める。サフィギシルは隠された真実に気づくことなく、安堵に体の力を抜いた。
「ほーら。バカにされてないだろ」
「騙されてる。騙されてるよこの子。こんなに素直だなんて、お姉ちゃんは行く先が心配ですよ」
「誰がお姉ちゃんだ。俺よりずっとちいさいくせに!」
「あれあれー? 背の高さだけで大人気取りだなんて、おこちゃまの証拠ですよー? 外見の程度より中身が大人かどうかなんだよ。ま、お前みたいな赤ちゃんにはわからないかもしれないけどぉ」
「なんだよバカ! もう帰れよ!」
「バカって言うやつがバカなんですー。だからお前こそがバカ」
 突きつけられた指に怯みながらも、サフィギシルは食いかかる。
「お、お前だって今バカって言って、だからお前もバカで、あっまたバカって言ったから俺も、いやでも、あれ? あれえ?」
 だが、途中からは絡まった言葉に首をひねることになる。ピィスは声を立てて笑った。
「あーあ。ちびっこをからかうと楽しいねえ」
「うるさいな! もう帰れ!」
 真っ赤になるサフィギシルを軽々とあしらって、ピィスは帰り支度を始める。
「はいはい。まあちょうどいい時間だし。爺さん、今日はメシは?」
「ああ。適当に食べるよ」
「そう」
 呟きには怯みが見えた。ピィスは手を止めて、ビジスの背に向き直る。
「あのさ、親父がここに来たがってるんだ。なんか、心配しちゃってて。だから、ほら、今度またみんなで一緒に集まろうよ。その方がこいつのためにもなるだろうし。ね?」
 こいつってなんだよとサフィギシルが文句を言うが、ピィスの目は動きのない老人の背中にのみ向けられていた。落ち着かせるように組まれた指が、震えている。
「そうだな」
 ビジスは見えないはずのそれを知っているかのような声で、ただ一言そう答えた。サフィギシルが不思議そうにピィスを見上げる。ピィスは取り繕うように笑いながら、椅子に押しつける勢いで彼の頭をなでた。言葉にもならない抗議を無視して窓を向く。
「もしかして、外は雨かな」
 そこに景色はなく、薄白い霧ばかりが不安げに漂っている。ビジスは窓すら見ずに答えた。
「まだ降ってはいないよ。だがじきに酷くなる」
「えー。じゃあ明日は雨なんだ」
 あめ、とサフィギシルの口が動く。声にまで至らないそれは、あめとは一体なんなのだろうと理解したがるかたちをしていた。それには気づかないまま、ピィスはうんざりと鞄を背負う。
「あーやだなあ。木も紙も湿気るし、体まで重くなるしさ。土砂降りだったら明日は来ないよ」
「晴れてても来なくていい」
「やだねー。サフィ、宿題やっとけよ。センセイからの命令です」
 サフィギシルは文句を叫びそうになるが、ピィスに机を叩かれてしぶしぶ本にしるしをつける。やるべき箇所は、言葉の書き取り数ページ。ピィスはそれを確認すると、しなやかなのびをした。
「あーあ、今日もサフィの勉強だけで終わっちゃったよ。じゃーねお坊ちゃま。今度からオレのことは『お姉さま』って呼べよー」
「ぜったい呼ばない!」
 けらけらと笑いながらピィスが部屋の扉を開ける。廊下から、ひやりとした空気が湿り気と共に流れ込んだ。ビジスがかすかなくしゃみをする。それはすぐにしわがれた咳となり、むせるような音を交えながら彼は背を屈めていく。一瞬、呆けてそれを見ていたピィスがたちまちに青ざめた。
「え、なに。爺さん? ねえ、どうしたの」
 駆け寄ろうとする前に、ビジスが体を元に戻す。歪みなく伸ばされた姿勢に弱さはない。
「たかが咳でどうしたもないだろう。何だ、死にそうな顔をして」
「だって……爺さんが咳とかするの、はじめてだし。だ、大丈夫?」
「咳一つで偉業のように言われるとは、わしも偉くなったものだなァ」
 朗々と張られる声が、彼女の震えをもみ消していく。ビジスはにやりと笑みを見せた。
「まったく、これぐらいで何を言うか。少々風邪気味なのかもしれん。お前も明日は来ないというし、のんびりと休養するか」
「そっか。ちゃんとゆっくり休まなきゃだめだよ」
 いつも通りの彼の様子に、立ちつくすピィスのこわばりはゆるゆるとほぐれていく。自然と浮かぶ微笑みのまま、別れを告げた。
「じゃ、また晴れた日に」
「ああ、またな」
「ああ、またな」
 ビジスが言えば、サフィギシルもまた同じ言葉を繰り返す。よく似た声に送られて、ピィスはそっと扉を閉めた。歩く彼女の足音と、封印を抜ける気配が響けば、その後はただ静寂があるばかり。音のない部屋の中で、サフィギシルは口を動かす。あめ。せき。それらが何なのか知りたがる顔をビジスに向ければ、父は床に伏せていた。
「爺さん?」
 咳が彼の体を揺する。その度に、腕が引き攣れた動きで床に敷く布を乱した。ビジスは堪えていたものを吐くように咳を続け、全身をその衝動にゆだねている。
「爺さん、それ、『せき』?」
「ああ」
 濁る声。サフィギシルは見上げてくるビジスに問うた。
「爺さん、『せき』ってどんな気持ち?」
「とても心地いいよ。笑うほどに楽しいものだ」
「楽しい」
 呟く前でビジスはまた咳に屈む。喉すら千切り落とすほどに甲高い音を立てる。
 サフィギシルは透き通る目で問いを重ねた。
「じゃあ、爺さんはいま、楽しい?」
「ああ。楽しいよ」
「よかった」
 こぼれるような笑みを浮かべる。それじゃ俺もと口にして、咳の真似事を始める。不器用なそれの影で背を揺らすビジスの顔は、霜のように白かった。だがサフィギシルは気づかない。彼は咳の練習に飽きると、嫌々ながらも宿題に手をつける。
 ビジスはうつろに窓を見た。先ほどまでは、封印の霧に包まれて白く霞んでいた場所。それが術者の弱りを受けて少しずつ薄れてきている。淡い壁に透ける外の景色は、重い濁りを含んでいた。
 雨が近づいている。
 ビジスは力なく目を細めた。

※ ※ ※

 今夜は珍しくビジスが席を外している。サフィギシルは彼の不在に心細さを感じていたが、そんな思いも書き取りに熱中しているうちに忘れてしまった。彼は父のいない居間で、ひたすらにペンを動かす。目に映るのは黄ばんだ紙と綴られていく文字ばかり。なぜ、ビジスが早くから寝室に戻ったのかなど考えもしなかった。
「よし!」
 ようやく課題を終えたところで顔を上げるが、いつもならば完成品を見てくれるビジスの姿はどこにもない。サフィギシルは部屋の中を見回して、ふと、窓の異変に気づいた。正確には、窓の外の変化に。
 居間のガラス窓は横庭への出入り口を兼ねていて、人の背丈と変わらないほどの高さと幅を持っていた。横庭にはささやかな薬草園があり、煉瓦に囲まれた中では枯れ草が地にたれている。いつもならば、その奥にはただ白い霧があるばかりだった。だが今は、薬草園の背後に果てのない闇がある。それは雲に覆われた夜空なのだが、サフィギシルにはわからない。吸い込まれるように窓へと近づいていく。
 平坦な明かりに照らされた室内とは違う空気を抱え、窓は一枚の絵のように壁に佇んでいる。暗がり色の巨大なキャンバス。
 ちらちらと、闇を揺らすものがある。目を凝らせばそれは上から落ちていた。
「あめ?」
 サフィギシルは窓に額をつける。あれは、ピィスが言っていた「あめ」というものなのだろうか。
 あめ、あめ、とサフィギシルは繰り返した。他に音のない部屋の中に、幼い声が響いていく。サフィギシルは初めて見た外の景色に目を引き寄せられたまま、ガラス窓をむやみに叩く。
 手がすべり、窓が動いた。
 途端に冷たく濡れた空気が雨の音が水の匂いがサフィギシルの体をなめる。彼はびくりと立ちつくした。ざわざわと全身を叩く気配。今までにない騒がしさが神経を震わせていく。おそろしさが先に立った。だが、しばらくのうちに好奇心が畏れを奥に寄せていく。
 サフィギシルは外を知らない。生まれてから一度も家を出たことはなく、彼の中には快適な部屋の中と、ビジスと、ごくわずかな客人しか存在していなかった。
 だが彼は今、初めて『外』というものに興味を持っている。彼は鼻先を窓の隙間に入れた。汐が引き寄せられるように、そのまま、庭に足を下ろした。
 激しい雨が彼を包む。
 サフィギシルは悲鳴を上げた。

※ ※ ※

 突然の叫び声に、ビジスは眠りから引き戻される。身を起こしてみると部屋の色が変わっていた。明かりが消えている。完全に意識を失って、術が途切れてしまったのだ。では、今の悲鳴は、暗闇に驚いたサフィギシルのものかと考える。
「ラーズイース」
 この家に棲む従順な意識体に、サフィギシルの居場所を問う。回答はビジスの目を見開かせた。
 彼は急いでベッドを降りようとして、転ぶ。床に倒れた姿勢のまま呆然と息を忘れた。そんなはずはないともう一度床を踏む。だが足は思うように動かなかった。腕にも痺れが走っている。汗ばんだ手を握ろうとするが、動かない。
 吐く息が震えた。心臓が早駆ける。血の気の失せる四肢とは逆に、顔には熱が集まっていた。体温の上昇にめまいを起こす。崩れる体を支えるために毛布を握るが、そのままにすべり落ちて彼は床にうずくまった。息が荒い。感情はそれよりも乱れている。愕然とする彼を、雨音が包んでいく。
 激しい雨だ。地に落ちた粒がまた高く跳ね上がるほどの。
 前のサフィギシルが去った日も、このような雨の日だった。
 出て行く彼を追おうともしなかった。勝手にしろと呟いた。背を向ける父に何も言わないまま、息子は独り雨の中に消えていった。その光景は目の奥に染みついていて、今でもまだ雨音や湿り気のある匂いと共にビジスの中で甦る。繰り返し、過去を責め立てるように。それは彼のあやまちだった。今でも時を戻せるならと馬鹿なことを願うほどに。
「……サフィ」
 ビジスは立った。思うように動かない体を引きずっていく。
 二人目の息子が消えた家の外へ。一人目の時のように、取り返しのつかないことにはならないように。
「サフィギシル」
 か細い声はうつろに響く。雨の音に押しつぶれて消えていく。


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