第4話「孤独な王様」
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 動かない体をさざなみが舐めていく。肌の内側を這うそれは、音や光をきれぎれに織り交ぜたもので、まるでまばたきの向こう側のようだ。サフィギシルは寄せては返すそれらの気配を、おぼろな意識でとらえていた。
 遠くに、ほのかに明るい包みが見える。まるで世界をガーゼでくるんだような、淡くかすむ色と光と音とかたち。サフィギシルは手足を凍りつかせたまま、ぼんやりとそれを見ていた。

 ――封印を解こう。閉じた記憶を、もう一度お前のもとに。

 ビジスの声があたまを震わす。ガーゼの端に半透明の指がせまる。ゆっくりと結び目を解く。指先が、かすかな布を剥がしていく……。

  雨音があふれた。

 豪雨。その激しい音が何もかもをのみこんだ。景色が人が言葉が音が入り混じり押し寄せる。頭蓋の中を雨が打つ。水があふれる。隅々に水が溜まる。指先、肘、足の中。走るたびに大きく揺れて、ちゃぷちゃぷと体の中で音を立てる。
 たまらずとうとう膝をつく。関節から、たらりとぬるい水がもれた。倒れこむと泥にまみれる。口の中にも目の中にも水が泥が入り込む。

 彼は生まれて初めて土に触れた。



 部屋の中は緊張に包まれていた。張りつめた空気から読み取れるのは、ぴりぴりとした警戒心。サフィギシルは取り戻したばかりの意識で困惑する。何が起きているのだろう、と確かめるために目をあけた。そして「こいつをどうしようか」と心の底から考える。テーブルの上で揺れるランプの炎を警戒している元ピラニアは、いったい何の冗談か。
「サフィ」
 カリアラが、サフィギシルに気がついた。真剣に見つめていたランプから体を離し、今度は同じ視線をサフィギシルに向ける。サフィギシルは居心地の悪さに身じろぎをした。布団だけが肌によく馴染んでいる。いつも寝室として使っている、作業室の奥の小部屋だ。自分がこの世に生まれた部屋で、ビジスが息を引き取った場所。声はうまく出るだろうかと考えながら口を開く。
「何やってんだよ」
 カリアラは驚愕にこわばる顔でランプを指さす。
「これ危ないぞ、なんか痛いぞ。なんだこれ」
「火も知らないのかお前は」
 確かに、野生の魚が炎を知るはずもない。カリアラは首を遠ざけて、遠巻きに火を観察している。サフィギシルは醒めきらない頭を落とした。
「ああ、そうだ。ごめんわさい」
「は?」
 突然の発言に、面倒だが目を向ける。カリアラは真面目な顔で続けた。
「違ったか? じゃあええと、あれだ。ごめんやさい」
「……『ごめんなさい』、か?」
 試しに言うと、そのままの顔で納得された。カリアラは変わったことのない限り、いつも同じ真顔をしている。
「あ、それだ。ごめんなさい、だ。ごめんなさい」
「何がだよ」
 サフィギシルは疲れを感じて壁にもたれた。カリアラは、表情も声色も変わらないままに続ける。
「おれ、シラのこと、止められなかったから。それで『ごめん』がだめなら、それより強いごめんなさいならいいかと思った」
 彼の発言にサフィギシルの息が止まった。そういえば、とつい最近のことも思い出す。シラが自分の体を壊し、ビジスが、この中に居て……。
「サフィ?」
「爺さん」
 言葉は自然にこぼれ落ちた。気がつけば服のみぞおちのあたりを掴んでいる。
 カリアラが、顔を覗く。
「大丈夫か、顔青いぞ」
「爺さんはどこだ?」
 サフィギシル自身にも、青ざめているのがわかっていた。カリアラが不思議そうに指をさす。示されたのは、予備の魔石の据わる右胸。
「また中に戻るって言ってたぞ。晩めし作ってから。お前のもあるぞ、食うか?」
 カリアラは碗を差し出した。覗き込めば、その中にはてかてかと光る大量の黒い塊がある。つやのあるそれは一見すると液状にも見えるが、差された匙は直角に立っていた。サフィギシルはおそるおそる手に取るが、塊が固すぎて匙がなかなか動かない。それどころか抜けもしない。てこの原理でようやく上げると、中身が丸ごとずぽんと抜けた。
「……これは」
「暗黒雑炊って言ってたぞ」
 よく見れば刻まれた具のようなものも見える。だが一見には黒い半球体にしか見えない。サフィギシルは当然の質問をする。
「味はどうだった?」
「すごかった」
 カリアラは真剣な顔で答えた。
「いや、もっとこう……甘いとか辛いとか」
「すごかった」
 やはり真面目な顔で言う。サフィギシルは謎の料理をじっと見つめ、碗に戻した。
「食わないのか?」
「だってすごいんだろ。やろうか」
「すごいからいらねえ」
 この魚が拒否するとは、よほどのものなのだろう。サフィギシルはげんなりとして碗を置き、再びランプを見たところでようやく気づく。魔術の明かりが消えていた。ぼやけていた感覚を現実に戻してみれば、かすかに水の音がする。湿った空気。薄暗く落ちた色。
「雨」
「うん。さっきから降りだした。あんまり強くないな」
 ざあ、と強い音が耳に落ちた。雨の音だ。あの時の激しい雨。サフィギシルは首を振る。幻聴を払うように繰り返し頭を揺さぶる。だがそれでも耳についた水の音は離れない。悪夢のように意識を覆い恐怖の深みに引きずりこまれる。
「サフィ、大丈夫か? サフィ?」
 カリアラの手を打ち払い立ち上がる。重い体重い頭。重心がうまく取れず壁にぶつかる。触れた木壁は湿気ていた。びくりとして体を離す。
「駄目だ、閉じないと……閉じないと。ラーズイース! 封印だ!」
 部屋がうなる。同時に自分の魔力が消えていく。床に触れた足元から吸い取られては白い霧へと変化する。家を包み、外部との接点を絶つ封印。雨を払い人を払い、出て行けないようにする。
 カリアラに腕を掴まれた。彼は諭す顔で言う。
「サフィ、だめだ。ビジスが封印させるなって言ってた」
「お前には関係ない! あっちに行ってろ、邪魔だ!」
 落ち着いた目が癇に障り、力強く振り払う。カリアラは動じない。ただまっすぐにサフィギシルを見つめている。揺るぎのない平坦な目。苛立ちを道化に見せてしまう。
 カリアラは静かに言った。
「外は怖くないぞ」
 言い聞かせる風でもない、落ち着かせる意志も持たない、それが事実なのだと実直に伝える語調。サフィギシルはどうしていいかわからずに、ただそこにいる男を見る。目の前の彼は人の姿を取っているのに、魚を見ている気分だった。水槽を隔てた奥で淡々と暮らす魚。こちらには構いもせず、ただ別の世界で生きるもの。
 その表情が薄曇り、途端に人間らしくなる。
 カリアラは困ったように言った。
「お前、何も知らないんだな」
 ざあ、と雨の音がまた響く。こびりついた幻聴に覆われる。



 何か叫んだような気がする。怒りの言葉だったのか、それすらもわからない。カリアラの背を強く押して部屋から出した覚えはある。あの魚は一体どんな反応をしただろうか。かけらすら思い出せない。
 お前、何も知らないんだな。言葉だけが何度でも耳の奥に蘇る。
 心のどこかで嘲笑う自分がいる。苛立っている自分がいる。お前がそれを言うのか。火も知らなかったくせに、謝罪の言葉も知らないくせに。だがそれよりも強く心を占めるのは、図星をつかれた嫌悪感。サフィギシルは入り混じる感情にどうしていいかわからなくなる。
 おそろしく混乱していた。いろんなことが一気に頭を埋めつくす。鉄ばさみを持ったシラ、自分の中にいたビジス、だが今もまだいるはずなのに、近くにいるのに感じられない。戻った記憶、半年前のあの日、雨、雨の中。
 そう、何もかもあの日のことを思い出したのが原因なのだ。
 ようやく冷静さが戻ってきた。雨の音も漂う湿気も封印に阻まれて、部屋の中には一定の静かな空気だけがある。壁を照らすのは、闇を生み出さない魔術の明かり。安定に包まれて、サフィギシルは壁にもたれた。木製のそれは既に乾いている。
 落ち着いて考えてみることにする。恐怖をなんとか俯瞰で見つめ、冷静な目で思い出す。あの日何があったのか。確かに目にした記憶の中の光景が、感情を伴わないまま流れていく。
 それがすべて過ぎ去って、残ったのは一つの疑問。ビジスは何故死んだのか。おかしい。記憶の中の彼は、確かに少し風邪の様子を見せてはいたが、死に至るほどのものとは思えなかった。サフィギシルはもう一度考える。何か、忘れていることがある。
 雨音がまた耳を打った。唐突な幻聴に、サフィギシルは思わず上を仰ぎ見る。目に映るのはただの天井。だが、その姿勢のまま呆然とする。
「――俺が、殺した?」
 悪寒が走る。そうだ、自分があの時。
 だが釈然としないものがある。まだすべてを思い出せたわけではない。複雑な箱の隅に闇が潜んでいるように、何かが明るみに出ていない。
 違和感に動かされて両手を見る。ただの白い手のひらに、取れない何かがこびりついているような錯覚。

 その手を強く掴まれた。

 はっ。と顔を上げるが誰もいない。気配すら存在しない。だが彼は呆然と何もない場所を見つめた。開いたままの両手のひらを、膝に落とす。閉じ忘れた口の奥で、思い出した、と呟いた。
 記憶はもう完全に戻っていた。箱は全て開かれた。恐怖感はどこかに消えて、ただ呆然と浮かび上がった事実を転がす。間違いのない、ただ一つの事実を。ビジス・ガートンが死んだ理由を。

 あれは自殺だったのだ。


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第5話「生きるための選択」に続く。