第4話「孤独な王様」
←前へ  連載トップページ  次へ→


 平凡なドアを開けると、こもっていた空気と共にほこりの香りが漂った。ビジスは迷わず中に入り、閉じられていたカーテンを引く。封印の霧は消えていた。傾きはじめた午後の光が『あかずの間』の中を照らす。質素なベッドに布団はない。壁際には棚がいくつも並び、様々な厚さの本が詰まっている。入りきれなかったものが、床に平積みにされていた。並ぶのは本だけではない。木の箱に紙の箱、剥き出しになった魔石。そして見本のように飾られた、人型細工の足や手のひら。魔力の入っていないそれは、ただの木の模型に見えた。
 ビジスは限界まで窓を開き、新鮮な空気を入れる。光を背に振り向くと、入り口に立つ二人を呼んだ。
「遠慮せずに入ってこい。さて、ここが何かわかったか?」
 試すように笑う目は、明らかにシラに向けられている。カリアラが不思議そうに二人をうかがう。シラはつまらなさそうに部屋に入った。
「“前の”サフィギシルの部屋ですか」
「そうだ」
 ビジスの手が作業机の椅子を示す。シラは素直にそこに座り、修理を終えたばかりの足を、気にするようになでさする。ビジスはカリアラを手招いて、二人で空のベッドに座った。その軋む音が響くほどに部屋は静まっている。
 入ることを禁じられていた、二階の奥の二つの個室。もう一つの部屋については既に答えられていた。ビジスはあっさり「何もない」と言っただけ。本当かどうかわからないが、鍵をなくしてしまったそうだ。あっけない正体に、シラは退屈な顔をする。
「もっと大変な秘密の部屋かと思っていました」
「大変な秘密さ。サフィにとってはな。ま、あやつもしょっちゅう入り込んでいたようだが、それならそれで掃除ぐらいはしておいて欲しかったなァ」
 ビジスは窓枠のほこりを払う。堆積した無為の時間がふわりと舞った。カリアラは面白そうにそれを眺め、早速そこらを払い始める。細かなほこりが光に照らされ無音の部屋を霞ませた。何もかもをそのままにしてあるのだろう。失踪し、この世を去った息子の部屋は、数年前からその動きを止めたまま。
「そういえば」
 物思いにふけりかけた顔を上げ、シラはビジスに問いかける。
「あなたは、どうやってその体を直したんですか? 身動きが取れないように壊しておいたはずですが」
「簡単だ。わしは中から修理した」
 単純な答えに、シラは怪訝に眉を寄せる。
「中から?」
「中からも動かせるのさ。装置を切ったり入れなおしたり、神経を引っぱったり。上手くやれば痛覚も何も自分で制御できてしまう。ま、サフィは知らんだろうがな」
 そう言うと、ビジスは思い立ったようにカリアラの腕を取った。
「いい機会だ。カリアラ、やり方を教えてやろう。いつか役に立つかもしれん」
「え、なにがだ?」
 わかっていないカリアラを引き、ビジスは部屋の隅で何やら指導し始める。所々で「そうか」「いやそうじゃない」「そうか」「だから違う」などと妙な会話が繰り返されては、奇妙な音が空気を揺らした。かちゃかちゃと響くそれを聞きながら、シラはぼんやりと彼らを眺める。そのまま、何気なく机に目を移した。作業台も兼ねているのだろう。所々に傷の残る板に置かれているのは、模型のような人型細工の部品だけ。それらは黒い台に立てられて、一列に並んでいる。その列から離れた位置に、小さな模型がぽつんとひとつ置かれていた。木を彫って作られた、犬のような猫のような得体の知れない四足動物。その位置も、出来ばえも、他のものとは様子が違う。
「ピィスが作ったやつだよ」
 尋ねる前にビジスが答えた。もう指導は終わったのか、彼はまたベッドへと座りなおす。カリアラは部屋の隅で自習を続けているらしく、皺が寄るほどに固く目を閉じて、何やら集中しているようだ。
 シラは謎の動物模型を手に取った。裏返すと、確かにつたない文字で『ピィスレーン』と記されている。
「前のサフィにやったやつだ。誕生日祝いだったか。あやつは“前の”に随分懐いていたからな」
 シラは改めて机を見た。表面にも模型たちにもほこりが厚く積もっている。だがピィスの模型はそれがきれいに拭われていた。よく確かめると、出来のいい部品模型の並びにはぽっかりと空きがある。これは元々そこに置かれていたらしい。ほこりの上に台の跡が残っていた。
「今のサフィさんも、よくここに?」
「ああ。何故か足が向くらしい。前々から、入り込んではただぼーっとしておったよ」
 そうですか、と言った声は上の空。シラはピィスの模型を正式な場所に置く。“今の”サフィギシルが戻し忘れた、亡き人への贈り物を。
 突如、物音がしてシラは顔色を変える。カリアラの体から、部品が崩れたかのような不吉な音が響いたのだ。ビジスが手を振り、腰を上げた彼女を止める。
「大丈夫、別にたいしたことじゃない。……それより、一つ訊いておきたいことがある」
「でも」
 カリアラは動かない。硬直したまま床に転がる。まるでただの作り物になってしまったようだ。ビジスがシラの傍に寄る。
「自分で直せないのなら、わしが後でなんとかするさ。それより今のうちに言っておこう。……わしの腕ならお前を人魚に戻してやれる」
 シラの動きが止まった。そろりと、確かめるようにビジスを見る。その目を強く見つめ返し、ビジスは静かに言い直す。
「お前が望むなら、また人魚として生きていくことができる。熱帯島にも送らせよう。もちろんカリアラも同じだ。前の体はちゃんと保存してあるからな、今まで通りに戻してやれる」
 シラの顔に動揺が走る。見開いた目でビジスを見つめる。
「大嫌いな人間として生きていくことはない。お前が望むのなら、何もかも元通りにできるんだ。……どうする? 人魚に戻してやろうか?」
 言葉は優しく、甘く響く。シラは思わずカリアラに目を向けかけた。だがそれは止められる。
「わしはお前に訊いておるんだ。お前自身にな」
 ビジスの手がシラのあごを引いた。逃げ場を失ったシラの目には、もうビジスしか映せない。互いの姿しか認められない距離と密度。彼女の瞳は水ぎわのように揺らめいている。
 もう一度、今までと同じ体で、ふたりで一緒に……。
 その目から動揺が消えた。代わりに強い意思が浮かぶ。
「お断りします」
「ほう」
 ビジスの口元がゆるむ。続くのは、彼女の想いを愉しむ声。
「後悔せんか?」
「しますよきっと。一生後悔し続けます。自然にも反するでしょう、選ぶべき道でもないでしょう。でも関係ない。彼は人として生きる。私は彼についていく」
 ビジスを見返す彼女の視線は、もはや睨みとなっている。シラは凄みすら浮かぶ目で、はっきりと言い切った。
「私も、人間になります」
 沈黙が降りた。一瞬後、張りつめた空気をビジスの笑い声が破る。朗々と張る彼の笑いを聞きながら、シラは苛立たしげに髪をかきあげた。
「知っているんでしょう? 彼は、魚に戻るわけにはいかないって。悪趣味じゃありませんか」
「そうかもな。いや、おかしな人魚もいたものだ。そこまでカリアラカルスに入れ込むとは。一匹の魚のために“食べ物”になり下がる、か。面白い女だ。……だがな、その想いは人魚の持つものではない」
 顔つきには笑みが残るが、声色は冷静だった。シラの目に動揺が色濃く浮かぶ。
「お前こそわかっておるのだろう? ただの人魚がピラニアなどを育てるものか。異種族と暮らし愛情を注ぐなど、野生の人魚の行動ではない。ましてや、そいつのために自ら嫌いな生き物になるなどな。そもそも人間を毛嫌いすること自体がおかしい」
 ビジスは苦く口端を上げた。
「人間を憎むのは人間だけだ。そうだろう?」
 真顔で彼女を見つめると、シラは同じ視線を返せず気まずげにそらしてしまう。ビジスはまたかすかに笑った。
「お前は既に人間なのかもしれないな」
 彼女の様子を楽しむ声。彼はあっけらかんと空気を変える。
「ま、どちらにしろさっきのは大嘘だ。人魚の体は用意できるが、水の中には戻れない。技師作品は防水が不完全だからな。わしが研究すればいつかなんとかなるだろうが、それでも何年もかかってしまう……そんなに睨むな。ただの意志の再確認さ」
 忌々しげに睨まれても、余裕で笑い返してしまう。ビジスは確かな声で告げた。
「大切なのはな、シラ。お前自身の『なりたい気持ち』だ」
「……そんな、子どもだましみたいなことを」
 シラは信じられないように言う。だが、ビジスの顔に冗談は浮かばない。
「それは自虐か? わしは本気だよ。いいか、別の生き物になるということはそう簡単なものではない。常に本能が邪魔をする。生まれた姿に戻ろうとする帰力、生まれた性質のままに動く食欲・性欲・睡眠欲。本当はな、ピラニアが人間になるにはもっと多くの時間がかかる。それこそ、何十年とだ」
 横目でカリアラを見ながら言う。彼はまだ身動きが取れないようで、転がったまま動かない。
「だがあいつは違う。普通ならば何十倍もかかることをあっさりとこなす。それだけ人間になろうとする意志が強いのだろう。切実な願いは何よりも有効になる」
 シラの表情が複雑に曇る。ビジスは構わず話を続ける。
「魔術技師というものはな、そんな想いの手助けをする仕事だ。歩きたい奴に足を付ける。動きたい奴に体を与える。人間になりたい奴を人間にする。自然に逆らう願いだろうが、そんなことは関係ない。理に背くのがわしらの仕事だ。不自然は自然に変える。不可能を可能にしてみせる」
 声も言葉も喋る姿も、引き込まれるほどに力強い。揺るぎのない確かな基盤が彼の根元にあるようだった。サフィギシルにはないものだ。体は同じものなのに、まったく違う姿に見える。
「だがな。願わない姿に変えるなんざ、いくらわしでも出来やしない。倫理がどうとかいう話じゃない。外見だけ変えてもな、中身がそれを拒否してしまえば何もかもが崩れるんだ。……お前も崩れたくなければ、少しは歩み寄ってみることだ。いつまでも人間を嫌っていては、何一つ解決せんよ」
 かたん、とかすかな音がした。二人は同時にそちらを向く。カリアラが疲れたように立ち上がり、手足の調子を整えていた。内側から、自力で故障を直したのだ。
「あれも、他の奴なら何ヶ月もかかっただろうな」
 ビジスは、面白がる顔でカリアラに訊く。
「お前は人間になりたいか?」
「なりたい。おれは人間になりたい」
 カリアラは間を空けず即答する。いつも通り強い意志の浮かぶ目で、しっかりとビジスを見つめた。ビジスは穏やかに笑う。
「なれるさ。お前がそれを望む限り」
「そうか」
 きょとんとして言う。カリアラは素直にそのまま問いを返した。
「ビジスは何になりたいんだ?」
 ビジスの目がわずかに揺れた。カリアラはまっすぐに彼を見つめる。裏のない、疑いもない、透明な動物の目。ビジスは視線をそらしてしまう。
「わしはわしのままで十分さ。……だが、望むものはある。あと一つだけな」
 背を向けて、ドアに向かって歩きだす。彼は沈んだ空気を変えるように言った。
「さて、そろそろサフィを起こさねばな。あまりにも占領しすぎてしまった。まァ晩メシぐらいは作ってやるさ」
 その音は違和感をもって部屋に落ちる。カリアラもシラも何も言わず、静かに彼の背を見つめた。
 ビジスは立ち止まり、振り向かず口を開く。
「……人間はひどく複雑で、時に自ら誤った道を行く。時にひねくれ想いを歪め、その両目を濁らせる。お前もいつか、そうなってしまうんだろうな」
 かすかな息はただの息継ぎだったのか、それともため息だったのか。ビジスは静かな声で言った。
「それが、人になるということだ」
 何か言おうとシラが薄く口を開く。だがそれを止めるように、老人は振り向いた。
 強い意志の浮かぶ表情。戸惑うシラと、透明な目を向けるカリアラとを見つめ、彼は真摯な声で言った。
「頼みたいことがある」


←前へ  連載トップページ  次へ→

第4話「孤独な王様」