第4話「孤独な王様」
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 足が痛い。肉と義足が仲違いをするかのように、ばらばらに存在を主張する。まるで人魚の肉と人の体が争っているようだった。心だけでなく、体までもが人の世界を拒んでいるのかと思う。
 シラは今しがた出たばかりの部屋を見た。扉の奥からは嫌というほど暖かい、なごやかな会話がもれ聞こえる。恐ろしい人魚を追い出したいつも通りの平和な場所で、助けられた幼い子どもは安らいでいるのだろう。
 はっと気づく。足を止めてカリアラを見た。彼はふと振り返る。
「子ども……」
 呟きながら、自分の顔がみるみると弱くなるのを感じてシラはつい目をそらす。カリアラはそれを不思議がるでもなく、責めるでもなく、ただまっすぐな目で見つめてきた。逃げ切れなくなったシラは、哀しいいろで彼を覗く。
「だから、止めたんですか?」
 王の部屋からシラを連れ出したのも、それからずっと腕を掴んだままなのも。広く高い廊下の隅で、二人は静かに見つめあう。カリアラが、困ったように眉を下げた。
「子どもじゃなくても」
 上手い言葉を探すように、視線を動かしながら言う。
「おれもシラも、もう人間でおんなじだ。だから、だめだ」
 迷うまなざしは、またまっすぐにシラの元へと戻ってきた。シラは、何か言わなければならないような、不安な気持ちに焦らされる。それなのに、どんなに言葉を探してもどれもうまく当てはまらない。
「……人間は嫌い」
 口にして、これは違うととっさに思う。今ここで言うべきなのは、もっと他の何かのはずだ。シラは別の言葉を模索した。何か言わなくてはいけない。何か、何か。
 カリアラは落ち着いた声で言う。
「おれは好きだ」
 シラがはっと見上げる先で、カリアラは、静かに、だがはっきりと何度目かの望みを告げた。
「おれは人間になりたい」
 相変わらず揺れもしないまなざしがやけに強く感じられて、それとは逆にシラの顔は弱くなる。最初からわかっていたのだ。どちらにしろ彼の想いに勝てるはずがないのだと。彼女がどんなに人間を嫌っていても、彼の願いの強さとは比べものにならないのだ。ならば、シラが意志を譲るしかない。
 人間は、彼がこれまでずっと切実に求めてきたものを持っている。カリアラカルスの本能は、ひたすらにそこへ向かうようにできているのだ。
 シラはそれでも素直に負けを認めるのが悔しくて、効果的な文句を探していたが、考えるほどに何をしても立ち向かえないと思い知る。
「……わかった」
 結局は、拗ねた声で呟いた。勝ち目のない戦いを挑んだことを後悔しつつ、不満を浮かべて元ピラニアを見つめ返す。視線は高く、ほんの少し見上げるようで、今までとは全く逆だ。
 カリアラはうなずくと、シラの手を引いて長い廊下を歩きだした。力強く連れて行く手も、広く見える背中も何も、今まではなかったもの。
「あんなに小さかったのに」
 シラは悔しさの奥に複雑な喜びが生まれるのを知る。それを意地で隠すように、不機嫌な言い方をした。
「もっとゆっくり歩いてください。足、痛いんだから」
「そうか」
 カリアラは速度をゆるめる。
「今回はやめましたけど、あの人がまた馬鹿なことをしたら、次は必ず狩りますからね」
「そうか」
 窓から差すやわらかい日差しを受けながら、彼はただゆっくりと歩いていく。シラは手を引かれながら、未消化の不満をもらす。
「何が孤独よ。何がひとりよ。人間って……」
「シラ」
 カリアラが足を止めた。シラはなぜかぎくりとする。カリアラは不思議そうな顔をして、ふとシラをかえりみた。
「こどくってなんだ?」
 先ほどと同じ怪訝な声。シラは安堵に息をつく。
「知らなくていいことですよ」
 彼の手を振り払い、傍に寄ってしっかりと手を繋いだ。カリアラは初めての格好に戸惑うのか、まじまじと握りあった手を見つめる。シラは彼の視線を揺らしたくて、わざと腕を大きく振った。
「さ、行きましょー」
 平然と言い、少し体を預けながら歩きだす。
「お、おう」
 カリアラはまだ不思議そうに手のあたりを気にしつつ、同じ速さで並んで歩く。ひんやりとした彼の手は緊張にこわばっている。シラは気持ちがやわらぐのを感じながら、大きな手を握りしめた。彼が魚だったころは、直接に触れることすらまともにはできなかった。体温の低い彼の肌には、哺乳類である彼女の手はあまりに暖かすぎたのだ。だが今は、こうして、ふたりで。
 シラ、と、カリアラがいつも通りの声で呼ぶ。
「あのな。食べるやつの、うまいやつがあるだろ。あの赤いの。あれがいっぱいいたから、つかまえて持ってきてたんだ。でもさっきのやつらに殴られたり、いろいろされたから、走ってるうちに落としたりした」
 シラは彼の頭のくぼみを思いだす。攻撃を受けながら、必死に部屋まで走ってきたのだろう。
「腹減ってるなら、人間じゃなくてそっち食べればいいと思って。ちゃんといっぱい捕ったんだけどな」
「あの赤い魚? じゃあ、水槽の中に入ったんですか?」
 人魚を観賞するための、忌まわしい大水槽。彼女を飼うための施設。思い出せばまたむかむかと腹が立ってくる。なんとか堪えようとしていると、意外な言葉が降ってきた。
「うん、入ったんだ。そしたらな、壊れた」
「は?」
 当たり前のように言われ、不可解に見上げた先には平然としたいつもの表情。彼の肌にうろこが生えているのを、今更ながら妙に思った。答えはすぐに告げられる。
「魚食ったらなんか力みたいなのが出てきて、それが水の中でつながってるみたいだったから、動かしてみたんだ。そしたら全部壊れた。ほら、あのへんまで」
 示した先には大破したガラスの水路。まったく気づいてなかったが、振り向いて見てみると、今まで通った廊下のものも割れてはいないが水がない。王の部屋に繋がる穴は扉で閉じられていたため、彼女のいた室内では異変がわからなかったらしい。
 シラは改めてその残骸を見る。水浸しになった廊下。高級な赤絨毯には青草くさい水たまりが生まれ、ガラスの壁と熱帯魚が無惨にも散らばっている。
 忌々しい大水槽は、爽快なほどに思いきり壊されていた。
 シラは一瞬、ただぽかんとそれを見つめる。そしてふつふつと湧く感情を抑えきれず吹き出した。止まらなくなってしまい、けらけらと明るく笑う。カリアラがきょとんとしているのもおかしくて、ただひたすらに笑い続ける。裏もない策略もない、素直な彼女自身の笑顔。暖かさも慈愛もかけらすらない底抜けに明るい笑い。苦しそうに息を揺らし、涙を浮かべて腹を抱える。
 思う存分笑った後で、シラは余韻の残る呼吸をしつつ、涙を拭って彼を見上げた。
「ありがと。すっとした」
「そうか」
 カリアラはわけのわかっていない顔でそれを受ける。不思議そうに水槽とシラを何度も交互に眺めていた。
「あ、そうだ。さっき言ってた魚」
 ふと思い出したように、服のあちこちを探る。素顔のシラが見つめる前で、カリアラは服じゅうの収納場所から次々と魚を取り出した。ぼとぼとと、無造作に床へと落とす。服の中からポケットから、入るのならどんな場所でもと言わんばかりの隠し方。小さな魚の死体が床に低い山を作る。
 カリアラはそこから一つ拾いあげ、シラに突き出して言った。
「踏んだりしたから潰れてるけど、食うか?」
 半身が干物のように平たくなった魚を見て、シラはまた笑いだした。

※ ※ ※

「八人か。随分と辞めさせたものだなァ」
 ビジスは束にした書類を数えた。くせのある、老人じみたしぐさで一枚一枚めくっていく。記されているのは、国王によって免職処分を受けた者たちの詳細資料。
「子どもにとっては多すぎる数だろうな。八人。ペシフ、お前は子どもの時、八人もの人間を疎んじることができたか?」
「できましたよ。うちは七人兄弟だったので……それはともかく、そろそろ治療をですね」
 ペシフィロは遠くで兵士を並べている。まだ起こすなとビジスに言われているために、治癒の魔術をかけてやることはできない。その代わりにせめて応急手当でも、と姿勢を楽に直したり、緊急の手当てを要する者がいないか確認を続けている。
 それだけでも結構な手間を取るほどの被害。広がる兵士を死体と見れば、すべてが終わった戦場としか思えない。そんな景色をつまらなさそうに眺めつつ、ビジスは小さく息をついた。
「甘やかすのもほどほどにしなくてはな。クラスタ」
 落ち着いた声は静かな場所によく響く。呼ばれた男は責められるのを怖れるように、不安な目をビジスに向けた。光の薄れた力のない目。肌は青く、少ない髪にはつやもない。気分がよろしくなさそうなのは、かつての偉人を目の前にして、というだけではないようだ。頬はこけ、目の下には深いくまが据えられている。体の線もどこか茫洋としていて彼自身の印象すら薄くしていた。身に纏った上等の服だけが浮いて生きているようだ。国を動かす大臣の威厳などはどこにもない。
「あなたは……何故、こんなことを。なにもここまで……」
 か細い声すら憔悴を伝えてくる。ビジスは憐れみの目を向けた。
「しばらく見ないうちに、大臣様は随分とお疲れのようだ」
 ビジスが死した半年前から国は大きくひずみを見せた。元々、ビジスは深く政治に関わっていたわけではない。彼が才を揮ったのは独立前後の数年だけだ。特に、隠居を始めてからは、城内にもあまり出入りしなくなった。来たら来たで兵士を相手に唐突な訓練を始めるので、城としても迷惑な客と思っていたぐらいなのだ。
 だが現実に、その老人が死しただけで国は揺れた。何か、見えない礎のようなものがすっぽりと抜け落ちたかのように。操られていた見えない糸を絶たれでもしたかのように。
 大臣たちの意見がことごとく食い違うようになった。首都で事件が頻発した。また、謎の残るビジスの死が不穏な空気を呼び寄せた。どこからか集まってくる技師たちは、ビジスの遺した家を探す。あるかどうかもわからない遺産を求め、墓を暴いては死体を掘り返そうとする。それだけではなく、ビジスが生前関わった場所はことごとく探索の手に荒らされた。
 伝わる空気に毒されたのか、城の中には緊張感が絶えなくなった。人々は皆気を張りつめて日々を過ごす。ちょっとしたことでも不安になり、気遣いが失われた。そして苛立ちから諍いが起き、些細なことで人が退職させられる。その危うさが伝染したかのように、首都の雰囲気もまた重く翳る。
 国に住む誰もが皆、突きつけられた現実を怖れていた。
 もう、何があっても、偉大な男が助けてくれることはない。
 国王も民たちも、失って初めて思い知ったのだ。今までは、心のどこかでビジスに頼っていたことを。何があっても彼さえいれば、すべてがうまくいくのだと安心しきっていたことを。
 最も高い権力を持ち、同時に皆の苛立ちの矛先にもされた大臣、クラスタ・ジャスカはうな垂れる。皆をまとめなければいけない義務が、沈む肩にのしかかっているようだった。ビジスはからかうように笑う。
「わしには、お前は生け贄のように見えるがね」
 たった一人で現場に座る大臣は、半端な愛想笑いをした。ビジスはそれを見ようとせず、あらぬ方を向いてしまう。
「わしはつくづく子育てが下手なようだ。一人目は喧嘩別れで死んでしまう、二人目はほとんど教えきれないままに、わしの方が死んでしまう。片手間に育ててきた王国は、いつまで経っても親離れせん」
 眺める先ではペシフィロが手当てを続けている。クラスタも、ぼんやりとそれを見つめた。
「……ひとつ、尋ねてもよろしいでしょうか」
 うつろに言う。ビジスは短く許可を告げた。クラスタは頼りのない声で語る。
「私は最近になって思うのです。あなたがこの国を作ったのは、すべて、ただの趣味だったのではないかと」
 ビジスは口を挟まない。クラスタは更に続ける。
「長い時間をかけて、街を広く整備した。気がつけば、この国はあなたの描いた地図の通りになっている。土地も、建物も、政治も、人も。あなたはただ、それを試してみたかっただけなのではないかと思うのですよ。行く先にあるのは地位でも富でもなんでもない。国民の喜びでもない。ただ、遊び道具を試すように動かしていただけ。そうではありませんか?」
 人の転がる静かな部屋に、ぼそぼそと咎めるような声が響く。ビジスは振り返ろうとしない。ただ悠々と、自分の倒した男たちを眺めるだけ。戦い終わってひととき休む、掴みどころの見えない支配者。彼は質問には答えず、ペシフィロに指示を出す。
「総隊長がその辺に転がっているだろう。ラックルートだ。起こすならそいつからだ」
「……ああ、なるほど」
 ペシフィロはすぐに男を見つけだし、傷の具合を確認した。割れた鎧を手早く外して治癒の呪文を唱えていく。最後まで起きていた、全部隊の指揮を取る男。クラスタが理解を呟くと、ビジスは薄い笑みを浮かべた。
「お前も立場を考えるなら、そんな顔を見せてはいかんはずだがなァ」
 一人の男の名誉を守った老人は、からかうように喉を鳴らす。だがその目はおそろしく静かに大臣を眺めていた。クラスタは顔を赤らめ、今更ながらに表情を引き締める。
 かすかな呻き声。やや遠い廊下の奥で、一人分の影が起きた。
「ああ、リドー。気が」
 ペシフィロが言い切る前に、街の子どもの隊長はビジスの投げた鞘に倒れる。
「お前はもう少し寝ておけ」
「……ビジス」
 ペシフィロが諦め混じりに諌めても、ビジスが気にするはずもない。
「寝ておけ、と言っておる」
 また身を起こしかけたリドーから、焼きつくような敵意が飛んでも構わない。脅すように黒い杖で床を叩いた。
「誰も失神しろとは言っておらん。動物でももっと上手くやるだろうよ」
「…………」
 憎らしそうに舌打ちをして、リドーはまた床に伏せた。そのまま息を潜めてしまう。長年の付き合いがそうさせるのか、ビジスの言わんとしているところをあっさりと受け入れたのだ。彼は静かに眠りを装う。
 ラックルートが目を覚ました。彼はペシフィロの支えを受けて苦しそうに体を起こす。惨状を見回すと、顔に更なる疲労が浮かんだ。諦めと無念の混じる息をつく。
「さて総隊長。訊いておきたいことがある」
 ビジスは改まって言った。
「どうするか迷っておるのだよ。わしはここにいる奴らの記憶を消すつもりだ。どいつもこいつも弱すぎる。ろくな戦も知らん奴らだ。この敗北で、しばらくは恐怖に悩まされるかもしれんしな」
 倒れる彼らは大半がまだ若い。ラックルートは苦々しく顔をしかめた。ビジスはそれを楽しむ口で言う。
「お前はどうする? 忘れるか、忘れないか」
「……忘れるつもりはありません」
 魔術師の杖を持つペシフィロを警戒しながら告げる。ビジスを睨むまなざしに、襲撃に破れた時のような茫洋とした色はない。立ち向かう強い光。視線を逸らさないまま静かに続ける。
「部下たちもです。全員の記憶を残しておいて頂きたい」
「ほう」
 ビジスの顔が喜色にゆるむ。ラックルートは視線とは逆に、丁寧に言葉をつむいだ。
「このまま何もなかったことにするわけにはいきません。今回の反省をふまえて、より心身の強化を進め、次の非常事態に備えるつもりです」
「対抗する策もなく、次があるかもわからんのにか?」
「策は今から練っていきます。起こるかどうかは問題ではない。それが我々の仕事だ。……初めから忘れさせるつもりはなかったのでしょう? いつもと同じだ。これは、あなたなりの唐突な訓練だと思っていますが?」
「さァな。しかし、軟弱者が何人も辞めていくかもしれないなァ」
「この程度でやめる者は、この国には必要ない」
 ラックルートは迷いもなく言いきった。ビジスは声を上げて笑う。快活な音が響く中、ラックルートは厳しい顔を崩すことなく真剣な目を向けていた。ビジスは楽しそうに言う。
「せいぜい策を練るがいい。期待するよ、ラックルート」
 毒のない素直な笑顔を向けられて、ラックルートも思わず顔をゆるめかける。彼はそれを隠すように、堅苦しく頭を下げた。ビジスはペシフィロに許可を出す。
「さ、もう治していいぞ」
「結局は私が全部やるんですね」
「わしもやるさ。足りないなら医者を呼んでくればいい。リドー、ちょっと探して来い。奥の部屋にいるはずだ。ああ、きっと怖れて出てこないのだろうよ。ちゃんと事情を説明して……なんだその顔は。あァ? 相変わらず融通の聞かん奴だな。ほら、さっさと行かんか」
 リドーは何か言いたそうにしていたが、結局は医者を探して駆けていった。
 あちらこちらで兵士の声がしはじめる。ビジスはどこか面倒そうに、彼らの手当てにとりかかった。
 だが、目覚めた者はことごとく彼の治療を拒絶したため、結局はのんびりと見守ることになるのだが。


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