第4話「孤独な王様」
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 崩壊音と震動が、まるで獣の咆哮のように城内の空気を揺るがす。続くのは人の悲鳴。その音をかいくぐり、消え入るような呻き声があちこちからもれていた。道の隅に折り重なるのは屍ではない。かろうじてみな息をしている。だが大半は急所への攻撃を受け、意識をとうに手放していた。
 一人の男がうつ伏せたまま、呆然とその光景を見る。さっきまでは静粛だった城の内部。広く高く頑丈な石の並び、独特の枠を持った縦長の窓、長く伸びた上等な赤絨毯。それらすべてが原形を思い出せないほどにたわみ、歪み、膨張し、狂ったように暴れていた。……恐ろしく巨大な猛獣の形を取って。
「あの虎はガルーシから。これはザゴウ。知っているか? 砂漠に生きる危険指定付きの獣だ。共に肉食。まァどれもそうだがな」
 石積みの壁から床から現れたのは獣の体。怒りに歪んだ顔が持つのは、凶悪な牙の並ぶ口。飛び出した多様な猛獣は、訓練された兵士たちを蟻のようにもてあそぶ。あらゆる場所が獣と化して逃げ場などなくなっていた。悶え、転がる人々の中、ただ中央で杖を操る白髪の青年だけが、平然と立っていた。彼は小さな筒を次々と取り出しては、動物たちの魂を城内に見境なく移植する。埋められた先のものは既に無機物などではない。呼吸すら再現された、精巧な作り物だ。生き物に一番近い魔術技師の生み出す『作品』。剣は大蛇の魂を受け、刃を帯びたまま持ち主に襲いかかる。鎧には鳥や獣。翼を持ち手足をとって、好き勝手に兵士たちを浮かしては引きずった。無防備な彼らの体は壁の獣に踏みしめられる。もしくは、見事に立ち回る若き術者の杖に倒れた。
 全員がその顔を知っている。王城にも出入りしていた死んだはずの魔術技師。けれどその行動と口ぶりは、明らかに半年前この世を去った……。
「聞いておるか総隊長。あァ? まさかこの程度で気絶したんじゃなかろうな」
 剣よりも硬く重い、漆黒の杖が頭を小突く。うながされて上げた顔には驚愕すら通り越した畏れ。鼻先の杖を見る目には、もはや普段兵士たちを束ねている強い光などない。ただうつろに暗い両目が白髪の青年を見上げる。青ざめた顔に部下を動かす威厳はなく、権威をあらわす朱入り模様の甲冑は、粉々に噛み砕かれてより赤い血を乗せていた。
 老人じみた青年は、無様な彼を鼻で笑う。
「わしがあれほど技師対策を練っておけと言っただろうに」
「あなたは」
 痛みを思い出したように、顔をしかめて傷を見た。獣に噛まれ、大きく裂けた腕の傷。言葉をつらく濁しながら、それでも声を振りしぼる。
「サフィギシル……なのか。それとも、ビジ」
「無駄な質問は受けないと、何度も言っていたはずだ。じゃあ逆に訊こうか。『鎧や武器に魂を埋め込まれないための方法は?』」
 腕を取られ、そのまま上を向かされると大きな獅子と目が合った。まるで彼を狙うように低く身構えている。先ほどまでは壁だったはずの獣は石製の牙を剥き、唸った。
 杖が鋭く床を叩く。
「さて、最終試験だラックルート。お前は答えられるだろう?」
「……『逃げるだけ』」
 虚しい解答。それは以前、この老人から聞き出した言葉だった。
 どんな理由か若い体の老技師は、大きな声を上げて笑う。快活な音が不気味に響きわたった。
「だから言っただろう、わしら術者と真正直に戦うなとな。変則に慣れないうちは逃げながら状況をうかがうべきだ。そこにいる、慣れすぎた男のようにな」
 ビジスはあごで後方を示す。ラックルートは怪訝な目でそちらを探った。見慣れた緑の長髪が、荒れたまま伏せている。
「しかし……あれは、捕まっているのでは」
「ま、逃げても相手が強い限り、どうにもならんということだ」
 加勢に来た国王陛下の教育係、兼、専属の魔術師であるペシフィロは、部屋の隅で大きな虎にのしかかられて気絶している。場に現れて声を上げかけた途端、ビジス自らが杖で殴り飛ばしたのだ。それからずっと、巨大な虎の前脚に背を押さえられている。
 言葉が止まると、空恐ろしい静寂が訪れた。人の体が隙間なく広がっている。誰一人微動だにせず、か細い声も絶えていた。獲物を失った獣が従順な目で主人をうかがう。
 ビジスは興味の引いた目で、ラックルートを見下ろした。
「お前ももう眠ってしまえ。……ヒューダ」
 名前を呼ばれ、獅子が動く。
 ラックルートは深く苦い眠りについた。


 ビジスは誰一人動いていないことを確認すると、組み伏せられたペシフィロの方へと歩いていく。兵士たちを慈悲もなく踏みつけながら、静かな声で呪文を紡いだ。
「トリラ、サズカ、ナゴク、レスト、ミツカ……『解放』」
 杖の先で、床の小さな隙間を叩く。途端に周囲の猛獣たちから魂が抜け出した。使役を解かれた生命は、仄かな光を振りまきながら空気に姿を消していく。残されたのはただ平らな壁や床。場所を空けて重なる兵士と大きく流れた絨毯だけが、狼藉を色濃く残す。ビジスは獣が消えた床にうつ伏せているペシフィロの前に立ち、息をついた。
「お前は今年で何歳になる?」
「……三十、六ですけど。確かに娘もいるんですけど!」
 いつの間にか目覚めていた若き友は、声を詰まらせながら言う。とても情けない顔をしている。
「じゃあ泣くな。そんなことだから、いつまで経ってもピィスに甘く見られるんだ」
「仕方ないじゃないですか、私はこういう人間なんですからっ」
 ビジスは薄く笑いながら、その隣に腰掛けた。役目の終わった杖を抱えて疲れたように首を回す。ペシフィロは身を起こしてもまだしばらく泣いていたが、ため息とともに涙を拭う。もういいか、とビジスが問うた。ペシフィロがうなずくと、二人は実に半年ぶりにその顔を見合わせる。
「先に礼を言っておこう。サフィの面倒、葬式や事後の隠蔽その他諸々。助かった。ありがとう」
「いえ」
 珍しく真摯な声に戸惑って、ペシフィロはビジスの顔を覗きこむ。死したはずの老人は、滅多に見せない罪悪感を顔に浮かべた。
「それと、謝罪だな。疑われて王に嫌われ、怪しまれては協会に付け狙われた。……すまなかった」
「知っていたんですか」
「いいや。多分そうだろうなというだけさ。簡単な予測だよ。ああ、お前はずっと変わらんな。もっと若僧だった頃からそうだ、あまりにも人が善すぎる」
 暖かみを帯びた声。ペシフィロは堪えきれなくなったように、また涙を滲ませる。
「そんな優しいことを言わないで下さい……あなたらしくもない」
「まぁな。人間誰しも死に臨めば善人にもなるさ」
 ペシフィロはふと思い出したように問いかける。
「ところで、さっき手加減なしに殴ったことについての謝罪は」
「そりゃ単にお前が弱すぎただけだ。わしは別に倒すつもりはなかったよ。全力で戦おうとしただけだ」
 平然と言い切るビジスに、ペシフィロの顔は薄暗く引きつった。
「それは私にとっては死と同義語なんですが」
「手加減をすればまた疑われるかもしれん。お前がわしと手を組んで、ここを襲撃させたと思われたら大変だろう? だから泣く泣く攻撃したのさ」
「顔が笑ってましたよ」
「すまんな、わしは戦うのが大好きなんだ」
 そう笑う彼があまりにも楽しそうなので、ペシフィロは口許をゆるめてしまう。
「……いいですけどね」
「そうそう。年寄りには好き勝手させておくのが一番だ」
 ビジスは呑気に伸びをする。彼はごみのように広がる兵士を眺め、面倒そうに言い捨てた。
「後始末をせんとなァ。治癒に回復、ついでに記憶の抹消作業。それはお前がやってくれ。わしがやると何もかも消しかねん」
「本当に。でも、まず説明してくれませんか? あなたが何故そんな姿で残っているのか、サフィギシルはどうなったのか。そもそも、どうしてこんな騒動に?」
「今更な話だなァ。お前は相変わらずぬけた奴だよ」
 抗議しそうな友の言葉を封じるように、ビジスはにやりと笑って答える。
「人魚姫を迎えに来たのさ。仲間の元ピラニアを連れてな」
 ペシフィロは驚いて背を浮かすが、ビジスは涼しい顔のまま。
「じゃあ、シラさん……カリアラ君もここに?」
「ああ。先に行かせたよ。そうだな、あやつもそろそろ……」
 国を建てた往年の名参謀は、計略じみた声で言った。
「死に目に遭っているころかな」

※ ※ ※

 不器用な足音が石の廊下を叩いていく。まばらなそれを打ち消すのは兵士たちの怒鳴り声。
「待てえ!」
 それらを否定するように、カリアラはおろおろと首を振りながら走っていた。だが所詮は魚の足である。幾度となく転んでは目を回して壁にぶつかり、またよろよろと前に向かって床を踏む。混乱した彼の目には、もはや正常な景色など映ってはいなかった。
 ビジスには水槽に沿っていけと言われたが、その水槽とやらは城内のほぼすべてを網羅した、川のように長いものだ。カリアラは走れども走れども終着地点が見えなくて、シラの気配も読みとれないままひたすらに逃げている。
 ビジスの魔手を逃れた兵士は振り返るたびに増えていた。カリアラが具体的に何かしたわけではないからだろう、向けられる敵意は薄い。だが駆け比べが長引くほどに苛立ちが募っていく。
 制止を求める言葉が罵倒に変わりはじめたころ、カリアラにさらなる不運が訪れる。建物全体が揺れだしたのだ。地震めいた震動に、誰もが一度足を止めた。そして知らせがやってくる。
「侵入者が暴れて……全滅に近い! 加勢を! 少しでも多く!!」
 追っ手たちがカリアラを見た。視線を受けた元ピラニアは、びくりとして青ざめる。兵士の一人が駆けつけた男に叫ぶ。
「こいつも仲間だ! 半分送る、後はこのまま捕まえろ!」
 カリアラはまた一目散に逃げ出した。背後では兵士たちが二手に分かれる。引き続きカリアラを追う者たちは、さきほどよりもいっそう強い捕縛の意志を見せている。不器用なカリアラのものとは違う、本気の足音が後から後から重なりあって波のように押し寄せた。その合間からする嫌な響きがカリアラの背筋をなでる。
 剣を抜くわずかな音。
 カリアラは瞬間的に振り向いて追っ手を探る。見えたのは手に取られた大きな刃物。鋭い光が目に差し込む。本能が危機をとらえる。ごぽ、と耳の奥で水が鳴った。兵士たちが一斉に立ち止まる。だがその姿も壁も景色もあふれた水に隠された。かすかな悲鳴がぼやけた音で耳に入る。具現化した水の魔力がカリアラの全身を包んだのだ。それだけではない。うろこ、と誰かが言った。またしても半魚と化したカリアラは弾かれたように周囲を見回す。
 ――どこか、逃げる場所は。
 カリアラは水槽に飛び込んだ。突然の乱入者に水は高く波打つ。なまぬるい水がカリアラの体を包んだ。去った魚を優しく迎え入れるように、恐ろしいほど心地よく。
 ぎり、と歯を鳴らす。人体には存在しない、喉の奥に生える牙。魚の声は沫をはらんで水の中に重く響く。
 先住の魚たちが一斉に逃げた。恐慌を起こしたように暴れながら奥へ奥へと泳ぎ去る。同郷の魚たちは本能で知っているのだ。自分たちを食い殺す、ボウク川の狂魚のことを。カリアラは魚の泳ぎで水中を行く。それは人の足より早く、体格の差だけ魚たちよりも早かった。廊下に走る水の道を誰よりも先に縫っていく。
 彼は空腹を満たすため、見慣れた魚に食いついた。暴れる魚体を前歯で捕らえ、一気に口の奥まで入れる。そして喉に並ぶ歯で、骨ごと強く噛み潰した。鮮血が水に溶ける。魚たちの危機を煽る成分が一斉にあたりを包む。咀嚼の音は低く水を震わせた。
(餌だ)
 血の味に魚の味に理性が吹き飛ぶ。カリアラの全身からさらに水の魔力があふれた。うろこが銀の輝きを帯び、視界は魚眼に、肺は水の呼吸を求める。大量の濃い魔力は本物の水と同じ触感を得て、水かさを何倍にも膨らせてごぽりとふたを持ち上げた。
 世界の異常と天敵の気配に熱帯魚たちが暴れだす。魚たちの頭にはもはや恐怖しか存在しない。逃げることも戦うことも選択から消えうせて、ひたすらに水を掻く。
 水槽中の魚たちが狂乱に躍っていた。
 異常な事態をもたらすのは、銀のうろこを纏う男。カリアラは水槽の中で丸い目を見開いて、朱に染まるあごを動かす。腹から顔面にかけて走るそれは鮮やかな血の色に似ていて、兵士たちはただ息を呑んでガラス越しに見るしかない。青ざめる者。攻撃しようと構えるが、手出しできずに戸惑う者。不吉な兆候なのだと感じて不安げに周囲を見回す者もいる。彼らが足を凍らせる中、カリアラは一匹、また一匹と魚を食い殺していく。“今の体”は生まれ持ったものよりも大きく、強い。彼は餌の骨や肉を潰しては水に撒く。魚たちはそれを嗅いでますます恐怖のままに暴れた。
 カリアラカルスが狂魚と呼ばれる確かな由来がここにある。
 異様な光景に、人間たちは本能を揺さぶられて目をそらすことすらできない。ただうろこを纏う魚のような人のような奇怪な男を凝視する。
 カリアラの顔がそちらを向いた。光を浴びる静かな銀と、燃えるような赤のうろこ。人外のそれに包まれた丸い眼が彼らを見る。魚、と誰かが言った。確かにそれは魚だった。敵意を持たず感情もぶつけない、思惑の見えない目。言葉どころか意思ですら通じない根底から違う生き物。水槽の中のカリアラは、もはや人の五体に似ただけの、ただの大きな魚だった。
 だがその目にふと理性が戻る。まるで目を覚ましたように表情がやわらいだ。見つめる兵士が息を抜く中、カリアラはきょときょとと水の中を見回している。なぜだか小さくうなずくと、両手を水槽の底につけた。そのしぐさに今までのような魚めいたものはなく、ただ人間が水底で遊んでいるだけのようで、彼を見る誰もが軽い安堵を覚えた。
 ゆるみはじめた視線の中で、カリアラはそっとうつむく。
 ぎり、と歯が鳴った。続いたのは原始的な魚の言葉。

   暴れろ。

 水槽を占めた彼の魔力が激しくうねる。それは水に混じり魚たちの体内にも既に忍び込んでいた。魚が水が高く跳ねる。本来の水も絡めとってガラスの壁を強く揺るがす。
 兵士たちが後ろに下がるよりも早く、水槽は大破した。



 水浸しの赤絨毯に、ガラスの板が散らばっている。細かく割れたものもあるが、多くはそのまま兵士たちを押し倒した。水圧に耐えるため、ガラスの壁は厚く重くなっている。
 恐怖が残っているのだろう、気絶した人間もうわ言をもらしていた。まだ起きている者も戦闘不能の有様だ。ガラス片によって負った傷に身動きを封じられ、混乱のまま泡を食う。
 カリアラはゆっくりと立ち上がり、疲れたように顔をしかめた。手のひらを握り、開く。水掻きが生まれていたが、思い通りに動いてくれた。腕を回し、足を振り、全身の確認をする。
「あ、あ、あ。あー」
 声も順調。外見こそ変化したが、なんとか人は離れていない。カリアラはほっと息をついた。
 そこら中で跳ねている、熱帯魚を一匹掴む。
「ごめんな。これ、うまいぞ。食え」
 そして怯える兵士の顔面に、ぴたりとつけた。兵士は糸が切れたように気を失う。カリアラは首をかしげて悩んだあげく、だらしなく開いたままの彼の口に鮮やかな色の魚を押し込んだ。
 よし。と呟くとまた一匹掴まえて、別の兵士の方を見る。
「い、いらねぇ! いらねぇって!!」
 本気で嫌がる屈強な警備兵。全身をうろこに包んだカリアラは、不可解に眉をひそめて仕方なく自分で食べた。咀嚼して、魚を拒否した兵士に尋ねる。
「王様ってどこにいるんだ?」
 ガラスの板が音を立てた。急に動こうとした兵士の顔には敵意が戻っている。
「何をするつもりだ!」
 彼は起きようともがくのだがあまりにもガラスが重く、暴れても逃れられない。カリアラは、うんうんとうなりながら忘れた言葉を探り出す。
「えーと、なんだっけな、ええと」
 そしてようやく思い出した。
「話し合い、だ。うん。話し合いするんだ、おれ」
「はな?」
「話し合い。シラがそこにいるはずなんだ。人魚のシラ」
「……あの人魚の仲間なのか」
 兵士の顔から熱が引いた。同情すら浮かぶ目で、静かに問う。
「王に、害を加えるつもりは?」
「ない。それはないぞ。おれは止めに来たんだから」
 兵士はカリアラの目を探る。魚の消えた彼の瞳は、うろここそあれ人間と同じもの。まっすぐに見つめ返す視線を受けて、兵士はか弱い声で言った。
「止めてくれるのか」



 水槽は連結が災いし、どこまで行っても壊れていた。カリアラは兵士から聞いた道を走る。進むほどにシラの匂いがあたりに濃く漂いはじめ、焦りはどんどん強くなった。人魚の放つ毒の香り。シラが人を狩る匂いだ。
 兵士が喋っていた内容は、カリアラには難しくて理解できなかった。だが彼は自分のやるべきことだけは見失っていない。シラを止める。それだけだ。カリアラは足を無理に速める。匂いと気配が見る間に近くなっていく。
 それに気を取られすぎていたのだろうか。それとも人に近くなって、読みを忘れていたのだろうか。カリアラは“それら”がごく近くに来るまで気づかずに走っていた。
 振り向いたのは足元に影が落ちたため。次の瞬間なにかとてつもなく硬い物が、カリアラの頭を殴る。
 鉄の音が響く中、カリアラは床に崩れ落ちた。


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